第23話:味見という名の牽制
勝手口の土間に落ちる冬の影は、針のように鋭く、そして冷え切っていた。
裏手のビストロの通用口へ向かって脱兎の如く逃げていった見習いの真壁くんの足音が遠ざかり、完全に静まり返ったメゾン・サクラの一階。
私の右手首には、いまだに柴崎晴人さんの温かい手のひらが、まるで誂えた革の手錠のように隙間なく巻き付けられていた。
「……あ、あの、晴人さん? 手が……」
恐る恐る見上げると、柴崎さんはふわりと目尻を下げ、いつもの菩薩のような柔らかな笑みを浮かべた。
けれど、その瞳の奥には、真壁くんから聞かされた「裏切りを恐れるあまり、逃げ道をすべて塗りつぶす男」の、底知れぬ静かな闇が確かに揺らめいていた。
「おや、すみません。あまりにも栞さんの手が冷たかったものだから、温めてあげたくなってしまって」
するりと指が解かれる。
解放されたはずの手首に、じわりと柴崎さんの体温の輪っかが焼き付いて離れない。
柴崎さんは私の両手から、重そうに膨らんだスーパーのエコバッグをひょいと持ち上げた。まるで羽毛のクッションでも扱うような、手慣れた料理人の身のこなし。
「重かったでしょう。……中身は何ですか? 白菜に、長ネギ、大根……豚バラ肉。今夜はご自分で鍋でも作るおつもりでしたか?」
「え、あ……はい。急に冷え込んできたので、温かい粕汁か豚しゃぶにでもしようかな、と……」
「ふふ、感心ですね。でも――」
柴崎さんはエコバッグをキッチンカウンターの端にコトリと置くと、私の逃げ道を塞ぐように、すっと半歩だけ間合いを詰めてきた。
バニラとスパイスの甘い香りが、冬の冷気を押し退けて私の鼻腔を包み込む。
「僕という料理人が同じ屋根の下に住んでいるのに、わざわざ一人で台所に立たせるなんて、僕のプライドが許しませんよ。食材は野菜室にしまっておきますから、今夜は僕に任せてください。……それとも栞さんは、僕の料理じゃ不満ですか?」
「そ、そんなわけないです! 世界一美味しいと思ってます!」
「なら、決まりですね」
有無を言わさない、完璧なスパダリの微笑み。
元社畜として「他人の好意を断りきれない」私の弱点を、この男は最初から百パーセント把握して手玉に取っているのだ。
「それに、ちょうどいいところに来てくれました。実は今、裏の厨房から共用キッチンへ戻って、来週からの冬の新作パスタのソースを試作していたところなんです。……栞さん、味見をお願いできませんか?」
「新作パスタの……試作?」
「ええ。お客様にお出しする前に、僕が一番信頼している舌に確かめてもらいたくて」
一番信頼している舌――その響きのあまりの熱っぽさに、私の喉が小さくトクンと鳴った。
柴崎さんは私の背中にそっと手を添え、まるで高級レストランのVIP席へエスコートするかのように、アイランドキッチンのコンロの前へと私を導いた。
ガスコンロの上。
中火にかけられた深型の銅製フライパンの中で、黄金色と象牙色が混ざり合った濃厚なソースが、フツフツと心地よい音を立てて煮詰められていた。
「……わぁ……っ!」
思わず歓声が漏れた。
立ち上る湯気とともに、キッチン全体を満たしたのは、暴力的なまでに芳醇で官能的な香りだった。
乾燥ポルチーニ茸を濃縮ブイヨンで戻した特有の、深く湿った大地の薫香。そこに、粗挽きの豚肉にフェンネルや黒胡椒を練り込んで香ばしく炒め上げた自家製サルシッチャの肉汁と、焦がしバターのナッツのような甘い香りが溶け合っている。仕上げに加えられた乳脂肪分の高い生クリームが全体を乳化させ、シルクのように滑らかな光沢を放ちながら、とろりと気泡を弾けさせていた。
「自家製サルシッチャと、乾燥ポルチーニ茸、そして三種の秋キノコを使った濃厚クリームソースです。白ワインで酸味を立たせて、最後にパルミジャーノ・レッジャーノを削り落としてコクをまとめました」
柴崎さんは木べらでソースの粘度を確かめながら、誇らしげに目を細めた。
空腹の胃袋が、ぎゅるりと情けない音を立てそうになる。
真壁くんから聞いた過去の重苦しい話も、柴崎さんの底知れぬ独占欲への警戒心も、この立ち上る極上のシズル感の前に、あっけなく霧散していきそうだった。
「す、ごく美味しそうです……! 香りを嗅いでるだけで、ワインが一本空いちゃいそう……!」
「ふふ、栞さんならそう言ってくれると思っていましたよ。……さあ、味を見てください」
「あ、はい! 小皿とスプーン、食器棚から持ってきますね!」
私が慌てて身を翻し、キッチンの奥の吊り戸棚へと向かおうとした、その瞬間だった。
――スッ。
「……っ!?」
私の左手首が、温かい指先によってふわりと制された。
力任せではない。けれど、絶対にその場から一歩も動かせないような、的確で柔らかな拘束。
振り返ると、柴崎さんは火を極小のとろ火に落とし、フライパンの横に立ったまま、静かに首を横に振っていた。
「お皿は要りませんよ」
「え……? でも、スプーンがないと熱いソースがすくえませんし……」
「冷めてしまっては、本当の輪郭が分かりませんからね。……シェフが味の最終チェックをする時は、こうするんです」
柴崎さんは木べらを置き、フライパンの縁に溜まった純白の湯気の中へと、自分の右手をすっと差し入れた。
そして――。
人差し指の腹で、煮詰まったばかりの熱く濃厚なポルチーニクリームソースを、たっぷりとすくい上げたのだ。
「え……っ!?」
私の呼吸が止まった。
柴崎さんの長くしなやかな人差し指の先端に、艶やかなクリームソースが、まるで熟れた果実の雫のようにぽってりと乗っている。
湯気が、指先からふわりと立ち上る。
柴崎さんは私の手首を掴んだまま、ゆっくりと、私との距離を詰めてきた。
一歩。
アイランドキッチンのステンレス天板に、私の腰がコツンと当たる。
退路が断たれた。
至近距離に迫る、端正な顔立ち。
柴崎さんの栗色の前髪がハラリと額にかかり、その切れ長の瞳は、獲物をじっくりと味わい尽くす獣のように、熱く濁った光を湛えて私を捉えていた。
「は、晴人さん……? な、何を……」
「冷めないうちにどうぞ。……シェフの特権ですから」
耳元に落ちてくる、低く甘い囁き。
柴崎さんの右手が、私の目の前へと持ち上げられた。
ソースを纏った彼の人差し指が、私の唇のわずか数ミリ手前へと迫る。
「ちょ……っ、待って、晴人さん! 指から直接なんて、そんなの恥ずかしすぎ――」
「栞さん」
拒絶の言葉を遮るように、柴崎さんの左手が私の手首から離れ、私の後頭部へとそっと回り込んだ。
逃げられないように、後頭部の髪をふわりと引き寄せる大きな手のひら。
心臓が、肋骨を内側から激しく叩き壊しそうなほど暴れ始める。
「口を、開けてください」
抗う隙など、最初から一ミリも残されていなかった。
柴崎さんの人差し指が、躊躇なく私の唇の隙間へと押し込まれた。
「……んっ……!?」
温かいソースの熱気とともに、滑り込んできた硬い指の感触。
唇が押し開かれ、ソースをたっぷり纏った指先が、私の舌先の真ん中へと、じわりと押し当てられた。
――ッッッ!!
頭の奥底で、何かが激しく弾け飛んだ。
舌の上に触れた瞬間、爆発するように広がる暴力的な旨味。
ポルチーニ茸の凝縮された野山の大地の滋味と、自家製サルシッチャから溢れ出すハーブと豚肉の野性的な肉汁。それが、濃厚な生クリームとチーズのコクによって完璧にまとめ上げられ、舌の上の味蕾という味蕾を、電撃のように痺れさせていく。
熱い。滑らか。そして、途方もなく美味い。
けれど――それ以上に私の理性を狂わせたのは、舌の上に横たわる、柴崎晴人の指そのものの存在だった。
料理人特有の、包丁を握り続けることで引き締まった硬い皮膚の質感。
ソースの向こうから微かに伝わってくる、大人の男の生々しい体温と、かすかな塩気。
他人の指を、こんな風に口の中に含み、舌で味わわされているという背徳感。
全身の毛穴がキュッと引き締まり、背筋を甘美な悪寒が駆け抜けていく。
「……ん、ぅ……っ」
息が漏れる。
目を開けると、至近距離に柴崎さんの顔があった。
柴崎さんは、自分の指を咥えさせられている私の赤く染まった顔を、瞬きもせずに見つめていた。
その瞳の奥に宿る暗い炎。
飢えと、征服欲と、そして狂おしいほどの悦び。
柴崎さんの喉仏が、ゴクリと大きく上下した。
「……いい子だ。ちゃんと、味わってくれていますね」
耳元を撫でる、熱い吐息。
柴崎さんはゆっくりと、私の舌の上から人差し指を引き抜いた。
名残惜しそうに唇を割り、離れていく指先。
ぷつりと切れるソースの糸。
その瞬間――柴崎さんの空いた親指が、すっと私の下唇へと添えられた。
そして、私の唇の端にわずかに残っていたソースを、指の腹でじわりと弄ぶように、優しく、けれど抗えない力で拭い去ったのだ。
「ひゃぅ……っ」
唇を撫でる親指の熱さに、情けない声が漏れる。
柴崎さんは自分の親指についたソースを見つめると、私の目の前で、何気ない動作のように自分の唇へと運び、ペロリと舌先で舐め取ってみせた。
「……っ!?」
血の気が引くほどの羞恥と衝撃。
私の唇に触れていたソースを、目の前で、この男は平然と口に含んだのだ。
間接キスどころの話ではない。まるで、私の存在そのものを咀嚼し、体内に取り込んでいるかのような、あからさまで生々しい求愛の儀式。
「……うん。塩気も、乳化の具合も完璧だ」
柴崎さんは目を細めて満足そうに笑うと、私の腰の後ろ――アイランドキッチンの天板へと両手をドンと突いた。
逃げ場を完全に塞ぐ、至近距離の囲い込み。
前屈みになった柴崎さんの胸板が、私の薄手のニットに触れそうな距離まで迫る。
バニラとスパイスの香りが、逃げ場のない檻のように私を閉じ込める。
「……どうですか、栞さん。美味しいでしょう?」
耳元に落ちてくる、低く艶めいた囁き。
鼓膜を直撃するその声は、真壁くんの言っていた通り、外側からは決して開かない分厚い扉の鍵の音そのものだった。
「ひ、美味……しいです……すごく、美味しい……けれど……」
「僕の味、ちゃんと舌に覚えさせてくださいね」
柴崎さんの顔が、さらに数センチ近づく。
触れ合いそうな距離で交錯する視線。
柴崎さんの右手の人差し指が、今度は私の顎のラインへとそっと伸び、顎先をクイと優しく持ち上げた。
「……他の誰の料理も、食べられなくなるくらいに」
背筋を凍りつかせるような、甘い独占欲。
「陸くんが外で買ってくるような高級な菓子も、深見先生の淹れる苦い珈琲も、創くんの持ってくる田舎のリンゴも……全部、必要ありませんよ。栞さんの身体を満たすのは、僕の作ったものだけでいい。……僕の手から差し出されるものだけを、こうして無防備に受け取っていればいいんです」
「は、晴人……さん……っ」
「僕以外の味なんて、二度と思い出せなくしてあげますから」
逃げられない。
胃袋だけじゃない。生活も、呼吸も、心臓のリズムすらも、この男の完璧な包囲網の中に、じわじわと、確実に呑み込まれていく。
真壁くんの過去の話が頭をよぎる。
二度と大切なものを失わないために。二度と裏切られないために。
この男は、こうして私の逃げ道をすべて甘い味覚で塗りつぶし、自分の城の最深部へと閉じ込めようとしているのだ。
恐ろしいはずなのに。
至近距離で見つめてくる柴崎晴人の瞳のあまりの切実さと、狂おしいほどの愛の深さに、私の身体は金縛りに遭ったように動けなくなっていた。
唇に残るソースの温もりと、舌の上に焼き付いた圧倒的な旨味が、私の理性を芯から痺れさせていく。
「……栞さん」
柴崎さんの唇が、私の唇へと吸い寄せられるように、ゆっくりと距離をゼロへと縮めていく。
ポルチーニの香りと、混ざり合う熱い呼気。
重なる寸前――お互いの唇の輪郭が微かに触れかけた、まさにその刹那だった。
――ガラガラガラッッッ!
静寂を破り、エントランスの木製引き戸が開け放たれる音が響いた。
「ただいま戻りましたー! ……あれ、いい匂いがしますね? 柴崎さん、何か作ってるんですか?」
響き渡る、宮原陸の爽やかで明瞭な声。
靴を脱ぐパタパタという足音。
「……っ!?」
ハッと我に返った私が、柴崎さんの胸板を両手で力任せに押し返した。
柴崎さんは舌打ちこそしなかったものの、ふっと微かに眉をひそめ、名残惜しそうに私の顎から指を離して半歩後退した。
カチャリ、とコンロの火を止める柴崎さん。
その横顔には、わずか二秒で、いつもの完璧な「優しいお母さんシェフ」の笑顔が張り直されていた。
「おかえりなさい、陸くん。ちょうど新作パスタのソースの試作が終わったところですよ。……大家さんに、毒味をしてもらったところです」
ダイニングに入ってきたスーツ姿の陸が、キッチンの前に立つ私と柴崎さんを交互に見つめ、わずかに目を細めた。
私の真っ赤になった顔と、乱れた呼吸。
陸の瞳の奥に、スッと冷たい光が宿る。
「……へえ。毒味、ですか。ずいぶん熱心な毒味だったようですね」
男たちの間で、目に見えない火花がパチリと散る。
私はその場から逃げ出すように、カウンターのエコバッグをひったくると、ペコペコと頭を下げた。
「お、お疲れ様です宮原くん! 私、ちょっと管理人室で帳簿の確認をしてきますね!」
脱兎の如くキッチンを飛び出し、自室へと駆け込んで引き戸を閉めた。
バタン! カチャリ!
鍵を二重にかけ、冷たい畳の上にペタリとへたり込む。
「はぁっ……はぁっ……!」
乱れた呼吸のまま、私は両手で自分の唇を覆った。
指先で触れる唇の端は、まだ熱くジンジンと痺れている。
そして――舌の奥底には、あの濃厚で芳醇なポルチーニクリームソースの味が、消えない刻印のように残り続けていた。
「……覚えさせてあげる、って……」
指から直接与えられた、逃げ場のない味覚の罠。
大家と店子の境界線は、またしても一枚、甘く残酷に塗りつぶされてしまっていたのだった。




