第22話:柴崎の過去と、開かないドア
十一月中旬の水曜日。正午を回ったばかりの住宅街には、湿り気を帯びた冬枯れの風が低く吹き抜けていた。
路地裏のアスファルトには銀杏の黄色い絨毯が薄く敷き詰められ、頭上を見上げれば、雲ひとつない寒空が抜けるように高い。日差しだけは柔らかく降り注いでいるというのに、吐き出す息はうっすらと白く濁り、首元に巻いたウールのストールを思わずきゅっと引き寄せてしまう。
「……うう、寒い。今日の夜は絶対、根菜をたっぷり入れた粕汁か鍋にしよ……」
両手に大きなエコバッグをぶら下げた私――佐伯栞(三十二歳)は、かじかむ指先を温めるようにポケットの中で丸めながら、駅前商店街の坂道を下っていた。
先週の日曜日の朝、一〇二号室の深見さんの部屋で起きたあの激動の看病劇。
四十度近い熱を出して「言葉を奪われた」と悪夢に魘されていた深見さんを徹夜で介抱し、熱が下がった翌朝――眼鏡を外した彼の素顔にキッチンで壁ドンされ、「あんたの普通の感覚が、俺を現実に繋ぎ止めてる」「他の奴に構ってないで、俺の世話だけしてろ」と低音で囁かれた、あの狂おしいほどの密室の記憶。
そして、その現場を買い出し帰りの柴崎晴人さんに完璧に目撃され、氷点下の笑顔で睨みつけられたあの瞬間の戦慄。
(あれ以来……晴人さんの笑顔が、なんというか、輪をかけて完璧すぎて逆に怖いのよね……)
思い出して背筋がぞくりと震える。
朝食のフレンチトーストをサーブしてくれる時も、ゴミ出しですれ違う時も、柴崎さんはいつも通りの柔らかな菩薩のような微笑みを崩さない。けれど、その瞳の奥底には、絶対に感情を読み取らせない冷たい膜が一枚張り巡らされているような、底知れぬ威圧感が潜んでいたのだ。
日頃から胃袋を完全に掌握されている身としては、彼を怒らせることほど恐ろしい事態はない。せめて今夜くらいは、柴崎さんの手を煩わせずに自炊で済ませようと、スーパーと八百屋で白菜や大根、豚肉を買い込んできたところだった。
その時だった。
「うわっ、ととと……っ!? あぶねえっ!」
商店街の青果店の角を曲がったところで、前方から慌てふためいた若い男の悲鳴が響いた。
見れば、両腕いっぱいに巨大な発泡スチロール箱二つと、段ボール箱をピラミッドのように積み上げて抱え込んだ青年が、ぐらぐらとバランスを崩してよろめいていたのだ。一番上の段ボール箱が斜めに滑り落ち、歩道のアスファルトへ叩きつけられそうになる。
「危ないっ!」
私は反射的に駆け寄り、落下しかけた段ボール箱の底を下から両手で力いっぱい受け止めた。
「ぐっ……お、重い……っ!」
「うわっ、すみません! 助かりまし――って、あれ!? 大家さん!?」
発泡スチロールの隙間からひょっこり顔を覗かせたのは、見覚えがありすぎる人懐っこい垂れ目だった。
黒いコックコートの上に厚手のダウンベストを羽織り、前髪をラフにセンターパートで分けた二十代前半の青年。
柴崎さんのビストロ「シェ・シバ」で厨房見習いとして修行している後輩、真壁悠(まかべゆう・二十三歳)だった。
「真壁くん!? こんなところで何してるの?」
「何してるのって、仕入れですよ仕入れ! 今夜予約入ってる特注コースの魚と鴨肉を駅前の卸から運んでるんすけど、台車の車輪が途中で外れちゃって……。いやー、マジで助かりました! これ落としてたら、シェフに生きたまま皮を剥がれて出汁にされるところでしたよ……!」
真壁くんは額の汗を袖で拭いながら、大袈裟に首をすくめてみせた。
相変わらず調子のいい、軽快なワンコ系男子だ。日曜日の夜に親友の朋世と店を訪れた際、裏メニューをこっそり教えてくれたあの愛嬌がそのまま顔に出ている。
「出汁って……柴崎さん、そんな無茶なこと言わないでしょ」
「言いますよ! 大家さんはあの人の『裏の顔』を知らないからそんな呑気なこと言えるんすよ! 厨房でのシェフは鬼軍曹なんですから!」
「あはは……まあ、日曜日に見た時は確かに目つきが鋭かったけど……」
私が抱えた段ボール箱を持ち直すと、中からはフレッシュハーブと根セロリの芳醇な土の香りが漂ってきた。ずっしりと重たいが、女性の腕でもなんとか運べない重さではない。
「真壁くん、この段ボール、私がアパートまで持ってあげるよ。アパートの勝手口から店の厨房、すぐ裏手だし、その方が安全でしょ?」
「えっ、マジっすか!? 大家さんにそんな力仕事させたら、それこそシェフにミンチにされそうだけど……でも背に腹は代えられない! 甘えちゃっていいすか!?」
「いいよいいよ、元社畜で荷物運びは慣れてるから。はい、落とさないように歩きましょ」
「あざーっす! 大家さん、マジで女神っすわ!」
真壁くんは満面の笑みを浮かべ、発泡スチロールの箱を抱え直すと、私の歩調に合わせて並んで歩き始めた。
駅前の喧騒を抜け、閑静な住宅街の路地へと入ると、急激に周囲が静まり返った。
乾いた落ち葉を踏みしめるサクサクという足音と、段ボールの擦れる音。
真壁くんは息を整えながら、ふと私の横顔をチラリと盗み見てきた。
「……ねえ、大家さん」
「ん? なぁに?」
「大家さんってさ、柴崎さんのこと……どんな人だと思ってます?」
唐突な質問に、私は小首を傾げた。
「どんな人って……そりゃあ、料理の腕は超一流だし、いつも穏やかで、誰に対しても気配り上手で……アパートでもみんなの食事や体調を気遣ってくれる、優しい完璧な人、じゃない?」
「優しい、完璧な人……ねえ」
真壁くんは鼻の頭を指先で擦り、どこか苦いような、それでいて深い諦念の滲んだ薄笑いを浮かべた。
「やっぱりそう見えてますよね。世間一般の客も、商店街のオバちゃんたちも、みんなそう思ってますよ。『シェ・シバの柴崎シェフは物腰が柔らかくて紳士的で素敵』って。……でもね、大家さん。あの人の『優しさ』って、言ってみれば最高級の防弾チョッキなんですよ」
「防弾チョッキ……?」
不穏な例えに、私の足が微かに緩む。
真壁くんは前を見据えたまま、重たい発泡スチロールを抱え直して言葉を続けた。
「あの人、誰に対しても絶対に隙を見せないでしょう? 怒鳴り散らしたり、感情的に取り乱したり、自分の弱音を他人にぶつけたりするところ、見たことあります?」
「……ない、かも。いつもニコニコしてて、聞き役に回ってばかりで……」
「そうなんですよ。完璧な笑顔で相手を包み込んで、相手の懐にはスッと入り込むくせに、自分の心の奥底のドアだけは、絶対に分厚い鍵を何重にもかけて誰にも開けさせない。……裏切られるのが、死ぬほど怖いからですよ」
――裏切られるのが、死ぬほど怖い。
その言葉の重みに、私の喉が小さく詰まった。
風が吹き抜け、真壁くんの黒いコックコートの裾をパタパタと揺らす。
「柴崎さん、昔……何かあったの?」
私が恐る恐る尋ねると、真壁くんは周囲に誰もいないことを確かめるように路地を見回し、声をワントーン落とした。
「……三年前の話です。俺がまだ専門学校を出て、別のホテルで皿洗いしてた頃なんですけど」
「うん」
「柴崎さん、某有名ホテルのメインダイニングで最年少スーシェフ(副料理長)まで上り詰めた人なんですよ。でも、派閥争いや古臭い年功序列に嫌気がさして、自分の城を持つために独立を決意したんです。その時、ホテル時代から十年間苦楽を共にしてきた、親友のソムリエがいたんですよ」
「親友の、ソムリエ……」
「ええ。二人で会社を立ち上げて、一緒に店を出そうって誓い合って。柴崎さんは自分の貯金を全部叩き込んで、さらに銀行からも数千万円の融資を引っ張って、物件の内装工事まで発注したんです。……なのに、開店のわずか一週間前でした」
真壁くんの横顔から、少年のような人懐っこさが完全に消え去っていた。
「その親友が、店の開業資金と運転資金の口座から、全額、文字通り一円残らず引き出して、夜逃げしたんですよ。海外に高跳びしちゃって、警察も手が出せなかった」
「……っ!?」
息が止まった。
段ボールを抱える私の指先が、寒さとは違う理由でガタガタと小刻みに震え始める。
「残されたのは、開店すらできないスケルトンの店舗と、数千万円の莫大な借金だけ。信用していた親友には裏切られ、業者からは毎日のように怒号の督促電話がかかってきて……。当時の柴崎さん、完全に心が壊れてましたよ。水も飲めなくなって、激痩せして、いつ線路に飛び込んでもおかしくない状態だったって、当時の先輩から聞きました」
想像するだけで、胃の腑を冷たい鉄の棒で抉られるような激痛が走る。
私が前の会社で工藤部長からモラハラを受け、過労で倒れたことなど、比較にすらならないほどの地獄。信じていた唯一の相棒に背中から刺され、夢も金も将来もすべて奪い去られた絶望。
「……じゃあ、どうして今の『シェ・シバ』が……?」
「文さんですよ」
「え……おばあちゃん?」
真壁くんは静かに頷いた。
「大家さんのお祖母ちゃん……佐伯文さんです。文さん、昔から商店街の顔役で、顔が広かったでしょう? 行き倒れかけてた柴崎さんの話を聞きつけて、弁護士を連れて乗り込んできて、悪質な取り立てを法的に全部ブロックしてくれたんです。それだけじゃない。文さんが個人で連帯保証人になってくれて、銀行との返済リスケジュールをまとめて……『腕があるなら、私の目の届くところで一からやり直しなさい』って、このアパートの二〇二号室を格安で貸し出してくれたんです」
胸の奥で、カチリとパズルのピースが音を立てて嵌まった。
柴崎晴人が、なぜ目黒の一等地にあるこのアパートに、月六万五千円という破格の家賃で住み続けているのか。
なぜ、多忙を極めるオーナーシェフでありながら、日曜日の夕食会で全員分の料理を嬉々として仕込み、共用キッチンの掃除やゴミ出しを誰よりも完璧にこなしているのか。
すべては――亡き祖母・文への、途方もない恩義と忠誠心だったのだ。
「柴崎さんはね、死ぬ気で働きましたよ。昼は仕込み、夜は営業、深夜はケータリングの仕込みをして、わずか三年で借金をほぼ完済して、今のビストロを軌道に乗せたんです。文さんがいなかったら、今の柴崎晴人はこの世に存在してません。だからあの人にとって、このアパートはただの住居じゃないんです。二度と失っちゃいけない、自分の『命の港』なんですよ」
真壁くんの言葉が、冷たい風に乗って私の心臓のど真ん中を貫く。
アパートを守りたいという柴崎さんの想いの根底にあった、血のにじむような過去。
けれど――真壁くんの話は、そこで美談としては終わらなかった。
角を曲がると、前方にメゾン・サクラの黒い板塀と、中庭の枯れ木が見えてきた。
アパートの門の手前で、真壁くんが不意に足を止め、私の方へと真剣な眼差しを向けてきたのだ。
「……だからね、大家さん」
「……え?」
「ここからが本題なんすけど」
真壁くんは声をひそめ、私の耳元に顔を寄せるようにして言った。
「あの人、一度『自分の居場所』とか『自分のもの』って決めた相手に対する執着、半端じゃないっすよ」
「し、執着……?」
「裏切られるのが何よりも怖いからこそ……絶対に自分を裏切らないように、逃げ道を外側から全部綺麗に塞いでから、自分の檻の中に囲い込むタイプなんです」
――ドクン。
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がった。
「大家さん、最近、胃袋完全に掴まれてません? 朝ごはん作ってもらったり、体調崩した時にお粥食べさせてもらったり、休日に店の特等席で裏メニュー出されたりしてません?」
「うっ……そ、それは……」
「ほら、やっぱり!」
真壁くんは頭を抱え、痛ましそうに息を吐き出した。
「あれ、全部計算ですよ! あの人はね、暴力や強引な言葉で人を縛ったりしません。極上の料理と、完璧な気配りと、逃げ場のない優しさで相手を骨抜きにして……『柴崎晴人がいないと生きていけない身体』に仕立て上げてから、囲い込むんです。……あの笑顔の裏側にはね、底なし沼みたいな独占欲が潜んでるんすよ」
――僕の料理を、舌に覚えさせてくださいね。
――僕以外の味なんて、思い出せなくしてあげますよ。
――僕がいるのに、一人で倒れるなんて許しませんよ。
これまで柴崎さんから耳元で囁かれてきた、甘くて重い言葉の数々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
あれは――単なるスパダリの親切心などではなかった。
二度と大切なものを失わないための、逃げ道をすべて塗りつぶす「完全包囲網」だったのだ。
「大家さん、気をつけてくださいね。あの人が本気配で誰かを欲しがった時、そのドアは二度と内側からは開きませんから――」
真壁くんがそう言い終えた、まさにその瞬間だった。
――カラン、コロン……。
アパートの勝手口の引き戸が、静かに、何の音の前触れもなく開いた。
「ひゃっ……!?」
思わず肩を跳ね上がらせた私の視界の先に。
メゾン・サクラの勝手口から続く、共用ダイニングの薄暗がりが広がっていた。
ダイニングの中央、ステンレスのアイランドキッチン。
そこに――一人の男が立っていた。
「…………」
柴崎晴人だった。
仕込み用だろうか、清潔な麻の白シャツの上に、黒いソムリエエプロンを胸元まできっちりと締めている。
しかし、その手元にあったのは、フライパンでも鍋でもなかった。
濡れタオルの上に据えられた、目の細かい長方形の砥石。
その上に、鏡のように磨き抜かれた特大の牛刀が一本、刃先を鈍く光らせて横たわっていた。
――シャッ……シャッ……シャリッ……。
静まり返るアパートに、金属と砥石が擦れ合う、冷徹で規則正しい摩擦音だけが響いている。
一定のリズム。狂気的なまでの集中力。
柴崎さんは刃先を指の腹でそっと撫で、切れ味を確かめると、音もなく視線を上げた。
目が合った。
「……っ……」
私の足が、コンクリートの土間に縫い止められたように動かなくなった。
隣の真壁くんの呼吸が、ヒュッと喉の奥で引き攣れるのが聞こえる。
柴崎さんの口元には、いつもの完璧な笑みが浮かんでいた。
目尻は柔らかく下がり、唇は上品な弧を描いている。
けれど――。
その切れ長の瞳の奥には、光が一切宿っていなかった。
深淵の底のように淀んだ漆黒の闇。
笑顔という名の完璧な仮面の下から、漏れ出しているのは――獲物を横取りされかけた猛獣が放つような、ぞっとするほど冷たく、鋭利な殺気だった。
「……おかえりなさい、栞さん」
滑らかで、耳障りのいいバリトンボイス。
けれどその声の温度は、零下四十度のブリザードのように冷え切っていた。
柴崎さんは手元の牛刀を白い清潔な布巾で、ゆっくりと、撫でるように拭い上げた。
銀色の刃が、冬の日差しを反射してギラリと妖しく光る。
そして、私の隣に立つ真壁くんへと、ゆっくりと視線をスライドさせた。
「真壁」
「ひ、ひぃっ……! は、はいっシェフ……!」
真壁くんが直立不動になり、抱えていた発泡スチロールをガタガタと震わせる。
「ずいぶん楽しそうにお散歩でしたね。……仕入れの荷物を女性に持たせるなんて、僕の厨房ではいつからそんな不作法を教えていましたっけ?」
「め、滅相もございません! 台車が壊れてしまって、たまたま大家さんが通りかかって――」
「言い訳は要りませんよ」
柴崎さんは包丁をまな板の上にコトリと置いた。
その乾いた音が、まるで死刑宣告の木槌のようにダイニングに響く。
「荷物を厨房の冷蔵庫に入れたら、奥のパントリーの玉ねぎ五十キロ、全部アッシェ(みじん切り)にしておいてください。……芯まで綺麗に、涙を流さずにね」
「ご、五十キロ……!? ひぃぃぃっ、承知いたしましたァァッ!」
真壁くんは青ざめた顔で発泡スチロールを抱え直し、私から段ボールをひったくるように奪い取ると、脱兎の如き勢いで裏手のビストロの通用口へと逃走していった。
バタン! と乱暴にドアが閉まる音。
助け舟は、消え去った。
勝手口の土間に残されたのは――買い出しのエコバッグを握りしめた私と。
そして、キッチンカウンターの向こうで、静かにエプロンの紐を解き始めた柴崎晴人の、二人だけだった。
「……あ、あの、晴人さん……?」
私が恐る恐る声をかけると、柴崎さんはふわりと目を細め、音もなく土間へと歩み寄ってきた。
磨き抜かれた革のスリッパが、床板を静かに踏みしめる。
逃げ場のない距離。
私の鼻腔を掠めたのは、バニラとスパイスの甘い香りと――研ぎ澄まされた刃物の、微かな鉄の匂いだった。
「寒かったでしょう、栞さん。……手、こんなに冷たくなっている」
柴崎さんの温かい手が、私のエコバッグを持つ右手を、そっと上から包み込んだ。
優しく、柔らかく、けれど絶対に振りほどけない強さで。
耳元に落ちてくる、低く甘い吐息。
「他の男の話なんて、聞く必要はありませんよ。……僕のことは、僕の口から、僕の料理からだけで……知ってくれればいいんですから」
背筋を駆け抜ける、甘美な戦慄。
真壁くんの警告が、頭の中で警鐘のように鳴り響く。
一度閉じられたそのドアは――もう二度と、開くことはないのだと。




