第21話:眼鏡を外した作家の低音
東の空が乳白色から淡いシトロンイエローへと染まり変わる頃、私は一〇二号室の重いドアを音を立てずに閉め、ようやく冷え切った共用廊下へと滑り出た。
張り詰めていた糸がプツリと切れたように、両膝ががくがくと震えている。
結局、昨夜は一睡もできなかった。
四十度近い高熱に魘され、「俺の言葉を返せ」とうわ言で泣き叫んでいた深見怜の手を握り続け、氷嚢を取り替え、汗を拭い、脱水症状を起こさないようスプーンで水分を流し込み続けた夜。
夜明け前、彼の熱がようやく三十六度台の平熱まで下がり、寝息が深く穏やかなものに変わったのを確認した時、私の全身の骨という骨が軋むような脱力感に襲われたのだった。
「……ふうぅっ。生きてる心地がしなかったわ……」
管理人室の小さな洗面台で冷たい水を顔に叩きつける。
鏡に映った自分の顔は、目の下にうっすらと青い隈が浮き彫りになり、髪はボサボサだった。十年前のブラック企業時代を彷彿とさせる徹夜明けのやつれっぷりだ。けれど、胸の奥底にある感情は、あの頃の泥水のような疲労感とはまったく違っていた。
温かい。そして、痛々しいほどに切ない。
(あの人……あんな重たい傷を、たった一人で抱え込んでたんだ……)
部屋の床に散らばっていた、三年前の文芸誌の切り抜きやネットニュースの残骸。
天才と持て囃された直後に突き落とされた、根も葉もない「盗作疑惑」の冤罪。手のひらを返した世間からの激しいバッシングと、言葉を奪われた絶望。
潔白が証明された後も、一度引き裂かれた作家の魂は簡単には塞がらなかったのだ。
だから彼は、カーテンを閉め切った暗闇の中で酒に溺れ、他人に決して本心を見せず、毒舌と皮肉という名の分厚い鎧を着込んで、世間から息を潜めるようにこのアパートに引きこもっていた。
「……でも、お腹は空くものね。病み上がりなら、なおさら」
時計の針は午前七時を回っていた。
私は自室で二時間ほど泥のように仮眠を取ったあと、重い身体を奮い立たせて共用キッチンへと向かった。
熱が下がったとはいえ、胃腸は完全に空っぽで荒れ果てているはずだ。いきなり固形物は食べられない。
私は冷蔵庫から、昨日のうちに二〇二号室の柴崎さんが作り置きしてくれていた一番出汁のポットを取り出した。昆布と鰹節の澄んだ黄金色の出汁。それを小さな鍋で温め、ほんの少しの薄口醤油とみりんで味を調える。
冷凍の讃岐うどんをクタクタになるまで柔らかく煮込み、胃壁を保護するための温泉卵と、細かく刻んだ小ネギ、そして消化を助けるすりおろし生姜をたっぷり添えた「生姜たまごあんかけうどん」。
鍋ごとラップをかけ、保温ポットには熱い白湯をなみなみと注いだ。
それらをトレイに乗せ、一〇二号室のドアノブにそっと掛けようかとも思ったが、もし目覚めた時にまだ動けなかったら困る。
私は再び合鍵を使ってそっと部屋へ忍び込み、眠り続ける深見の枕元の小さなサイドテーブルに、湯気を立てる白湯のマグカップを置いた。
そして、傍らに一枚のメモを滑り込ませた。
『熱は下がりましたが、まだ油断は禁物です。
まずはこの白湯を飲んでください。
共用キッチンの冷蔵庫に、温めるだけで食べられる生姜うどんがあります。
絶対に無理して起き上がらないでくださいね。 ――大家より』
寝息を立てる深見の額にそっと触れると、汗は引いており、皮膚は心地よい人肌の温もりを保っていた。
私は安堵の溜め息を一つ残し、音を立てずに部屋を抜け出した。
午前九時半。
十一月の柔らかな日差しが、一階の共用ダイニングとキッチンに燦々と降り注いでいた。
日曜日ということもあり、アパートは静まり返っている。一〇一号室の宮原くんは朝早くからスーツを着込んでクライアントの緊急対応へ出勤していき、二〇一号室の創くんは美大のコンクール搬入を間近に控えてアトリエへ直行。柴崎さんは夜のディナーの仕込みのために店へ向かっていた。
「さてと……晴れてるうちに、昨夜の洗濯物を一気に片付けちゃいましょ」
私は鼻歌を交えながら、共用キッチンの中央にあるアイランドカウンターの前に立っていた。
深見の看病で使った大量のフェイスタオルやシーツ、そして自分の着替えを洗濯機で洗い終え、巨大なランドリーバスケットから取り出して、一枚ずつ手際よく畳んでいた。
カサ、カサと小気味よい布の擦れる音。
天日干しにしたタオルの、太陽と柔軟剤の香りがキッチンいっぱいに広がっていく。
平和だ。昨日までのあの地獄のような嵐と悪夢が嘘のように、穏やかな時間が流れている。
――その時だった。
スッ……。
音もなく、背後の空気の密度が不意に変わった。
気配を完全に消した何者かが、私の真後ろ、わずか数センチの距離へと滑り込んできたような――ぞわりとするような皮膚の粟立ち。
男の影が、私の足元に長く落ちる。
「……え?」
「大家」
鼓膜のすぐ真横で、低く、しゃがれたハスキーボイスが落ちてきた。
煙草の微かな苦い匂いと、洗い立ての石鹸の香り、そして――大人の男の生々しい熱を帯びた呼気。
「ひゃっ……!?」
心臓が跳ね上がり、私が弾かれたように振り返ろうとした――その刹那だった。
――ガシィッ。
「……っ!?」
振り返りかけた私の右手首が、冷たくて長い、骨張った指先によって正確無比に捕らえられた。
逃げ場のない、圧倒的なホールド力。
驚愕して見上げた私の視界に飛び込んできたのは、息を呑むほどに現実味のない、一人の男の姿だった。
「ふ、深見……さん……?」
声が震えた。
目の前に立っていたのは、確かに一〇二号室の住人・深見怜だった。
黒いスタンドカラーのシャツの襟元を大きく寛げ、袖を肘まで無造作に捲り上げている。
寝起きでシャワーを浴びてきたのか、濡れた黒髪は乱暴にオールバックにかき上げられ、濡れそぼった毛先から雫が一滴、鎖骨の深い窪みへと滑り落ちていた。
そして――何より。
彼の顔から、いつもの黒縁の丸眼鏡が、完全に消え去っていた。
「……っ……」
言葉を失った。
眼鏡というフィルターを剥ぎ取られた彼の素顔は、普段の気怠げで自堕落な「偏屈作家」の風貌とは、あまりにも、あまりにもかけ離れていた。
彫刻刀で削り出したかのように鋭く高い鼻梁。
涼しげで、けれど濡れたように妖しい色気を放つ、切れ長の深い瞳。
顎のラインにはうっすらと青い無精髭が残っているのに、それが不潔に見えるどころか、危険な大人の男の野性と毒を極限まで引き立てていた。
至近距離で浴びせられる、圧倒的な美貌の暴力。
三十二年間生きてきて、これほどまでに「息を呑むような大人の色気」を放つ男の素顔を、私は見たことがなかった。
「……なんだよ。幽霊でも見るような目で見て」
深見の薄い唇が、皮肉げに歪んだ。
手首を掴んだままの長い指に、じわりと熱がこもる。
平熱に戻ったはずの彼の体温が、手首の脈拍を通じて、私の心臓へとダイレクトに流れ込んでくる。
「あ、あの……熱は、もう大丈夫なんですか……? フラフラしてませんか……?」
動揺を隠そうと必死に大家としてのビジネスボイスを絞り出そうとしたが、声は上擦るばかりだった。
深見は私の問いかけには答えず、ただ切れ長の瞳を細め、射抜くような眼光で私の目をじっと見つめ返してきた。
「……白湯、全部飲んだぞ。身体に染み渡りすぎて、頭が痛くなるくらいにな」
「そ、それは良かったです……! じゃあ、手首を離していただいて……私、まだ洗濯物を畳む仕事が――」
「逃げるな」
低く、耳の奥を直接揺さぶるようなバリトンボイス。
深見は私の手首を掴んだまま、一歩、間合いを詰めてきた。
大柄な長身が影を落とし、私の視界が彼の広い胸板で塞がれる。
後退りしようとした私の背中は、あっけなくキッチンのアイランドカウンターの硬い縁へとコツンとぶつかった。
逃げ場が消えた。
その瞬間――。
ドンッ。
ドンッ。
私の両脇のカウンタートップに、深見の長い両腕が突き立てられた。
完全なる、至近距離の「壁ドン」。
カウンターと男の肉体の間に、私の身体がすっぽりと閉じ込められる。
鼻先が触れそうな距離。
深見の濡れた前髪から零れた水滴が、私の鎖骨の上へとポツリと落ちて、熱い肌を冷たく濡らした。
「ひゃぅ……っ」
「……部屋の切り抜き、見ただろ」
静かに、けれど芯の通った冷徹な声が降ってきた。
心臓が凍りついた。
昨夜、床に散乱していた三年前の週刊誌の束。プロット盗作疑惑の冤罪と、世間からの激しいバッシングの記録。
「あ……ご、ごめんなさい! 決して覗き見しようとしたわけじゃなくて……! 深見さんが倒れてて、足元に散らばってたから、片付けようとしてつい目に入っちゃって……!」
私は真っ赤になって必死に弁解した。
他人のもっとも触れられたくない過去の傷口を、勝手に暴いてしまったのだ。怒られて当然だ。軽蔑されても仕方がない。
身を縮め、罵倒を覚悟してぎゅっと目を瞑った私に――。
ふっ、と。
頭の上から、小さく息を漏らすような笑い声が降ってきた。
「……馬鹿」
「え……?」
恐る恐る目を開けた瞬間、冷たくて骨張った指先が、私の顎先をクイと持ち上げた。
至近距離で交錯する視線。
眼鏡を外した深見の瞳は、怒りなど微塵も宿していなかった。
そこにあったのは、すべてを曝け出した男の、酷く切なく、そして狂おしいほどに熱い光だった。
「怒ってねえよ。……いいよ、知られたって」
「深見、さん……」
「あんたになら、知られたって構わねえんだよ。……むしろ、知られて清々したくらいだ」
深見は私の顎に添えた指先を、ゆっくりと頬へと滑らせた。
親指の腹が、私の火照った頬骨を、愛おしそうにそっとなぞる。
皮膚を撫でる指の感触に、背筋を甘い痺れが駆け抜けていく。
「三年間……ずっと、人を信じるのが怖かった。何を書いても嘘八百に見えて、誰の言葉を聞いても裏切りにしか思えなくて……言葉を紡ぐこと自体が、反吐が出るほど怖かったんだよ」
自嘲気味に呟く深見の吐息が、私の唇を熱く撫でていく。
「でもな……昨夜、熱に浮かされながら、ずっと感じてたよ。……あんたの手のひらの熱。冷たい氷嚢を替えてくれて、汗を拭いてくれて……『行かないよ、ここにいるよ』って、泣きそうな声で俺の手を握りしめ続けてた、あんたの体温」
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね上がった。
(お、覚えて……たの……!?)
うわ言で、意識を失っていたはずなのに。
あの暗闇の中で交わした私の言葉も、触れていた手のひらの温もりも、この男はすべて、その肌と魂に刻み込んでいたのだ。
「……あんたの、そのお人好しで、無駄に真面目で、世間知らずで普通の感覚が」
深見の顔が、さらに数センチ近づいた。
額が触れ合う。
お互いの睫毛が交差するような、極限の至近距離。
深見の唇が、私の耳たぶのすぐ数ミリ手前へと滑り込んできた。
「俺を、現実に繋ぎ止めてるんだよ」
鼓膜を直接震わせる、低く掠れたハスキーボイス。
首筋に吹きかかる熱い息。
その響きのあまりの艶めかしさと重さに、私の腰からすうっと力が抜け、立っていられなくなりそうになる。
「深見……さん……っ、近すぎ……ます……」
「離さねえよ」
カウンターを突いていた深見の左手が、私の腰の後ろへと音もなく回り込んだ。
エプロン越しに、ぐっと引き寄せられる腰骨。
逃げ場を完全に奪われた私の下半身が、深見の長い脚と腰に、隙間なく密着させられる。
「他の奴に構ってないで、俺の世話だけしてろ」
耳元で落とされたのは、傲慢で、けれどたまらなく甘い独占欲の塊だった。
「陸の甘えた泣き言も、創のピュアな彫刻ごっこも、柴崎のあざとい飯も……全部どうでもいいだろ。……あんたが最初に拾い上げたのは、俺だ」
「そ、そんなの……大家として当然の……!」
「大家の枠に逃げるな」
深見の唇が、私の耳たぶを掠める寸前の距離で動く。
耳の奥がジンジンと熱く痺れていく。
「あんたが俺を暗闇から引きずり出したんだ。……責任取れよ。俺が次の傑作を書き上げるまで、俺の隣で、俺の言葉だけ見てろ」
「っ……!」
「他の男に飯食わせたり、頭撫でさせたりしてみろ。……その男の目の前で、あんたを部屋に連れ込んで、二度と出てこられないようにしてやるからな」
低く囁かれた、甘い脅迫。
第一話の時、万年床で手首を掴まれたあのファーストコンタクトから、第四話の深夜二時のぬるいビールを経て――。
偏屈で気怠げな作家は、完全にその仮面を脱ぎ捨てていた。
目の前にいるのは、一人の女に救われ、その女を絶対に誰にも渡さないと決意した、底知れぬ色気と執着を纏った「大人の男」だった。
(なんなの……なんなのよ、この人……っ!)
眼鏡を外しただけで、どうしてここまで空気が変わってしまうのか。
冷徹で、理知的で、けれど剥き出しの情熱を孕んだその瞳に見つめられているだけで、私の三十代の錆びついた心臓は、跡形もなく溶かされてしまいそうだった。
触れ合いそうな唇。
深見の整った顔が、私の唇を奪うために、ゆっくりと角度を変えた――その時だった。
――トントン。
キッチンの入り口の引き戸の枠を、乾いた指先が軽く叩く音が響いた。
「……失礼しますよ。お取り込み中ですか?」
「……っ!?」
凍りつくような冷ややかな声に、私が弾かれたように身を強張らせた。
深見が舌打ちを一つ落とし、ゆっくりと顔を上げる。
キッチンの入り口。
買い出し用の大きなエコバッグを小脇に抱えた柴崎晴人が、エプロン姿で静かに佇んでいた。
その口元には、いつもの完璧な笑みが張り付いている。
けれど――その瞳の奥は、先週の矢吹先生の時と同じように、光を完全に失った絶対零度の闇が渦巻いていた。
「柴崎……」
深見が忌々しそうに眉を寄せるが、私の腰を抱く腕は、すぐには離そうとしない。
「深見先生、熱が下がったようで何よりですね」
柴崎さんはエコバッグをテーブルの上にコトリと置くと、足音もなくカウンターへと歩み寄ってきた。
そして、深見の手が添えられている私の腰を、射抜くような視線で見据える。
「でも、病み上がりの体でうちの大家さんにちょっかいを出すのは、感心しませんね。……栞さん、お昼の仕込みを手伝っていただく約束でしたよね? 行きましょうか」
柴崎さんの手が、私の空いていた左手をそっと包み込み、深見の腕の中から引き抜くように優しく引き寄せた。
二人の男の間で、目に見えるほどの火花がバチバチと散る。
深見は鼻を鳴らし、名残惜しそうに私の手首を解放すると、指先で乱れた前髪をかき上げた。
「……チッ。邪魔の入りやすいアパートだ」
深見は眼鏡をかけていない、剥き出しの美しい瞳のまま、私を見つめて口角を吊り上げた。
「うどん、後で食ってやるよ。……冷めてたら、温め直させに行くからな、大家」
それだけ言い残すと、深見は気怠げにポケットに手を突っ込み、一〇二号室へと戻っていった。
静まり返る共用キッチン。
取り残された私の手首には、まだ深見の指の熱さが生々しく残り、腰には彼に抱き寄せられた感覚が焼き付いていた。
「……栞さん」
隣で私の手を握る柴崎さんの声が、甘く、けれどぞっとするほど低く響いた。
「ずいぶん、先生と仲良くお話しされていましたね?」
振り返ると、柴崎さんは極上の、そして逃げ場のない笑顔を浮かべて私を見つめていた。
嵐の夜を越え、男たちの事情が開示されるたびに、私を取り囲む包囲網は、加速度的にその熱量と密度を増していた。
大家と店子の境界線など、もうどこを探しても見当たらない。
私の心と胃袋は、今日もまた、極上の男たちの甘い執着の中に、深く呑み込まれ続けていたのだった。




