第20話:深見の暗闇、書けない夜
十一月に入ると、目黒の住宅街を吹き抜ける風はいよいよ冬の刃を研ぎ澄まし始めていた。
木造アパート「メゾン・サクラ」の中庭では、あれほど青々と茂っていた山桜の葉がすっかり落ち尽くし、乾いた小枝が寒空に向かって骨のように細く伸びている。縁側に置かれたサンダルは朝の冷気で凍りついたように冷たく、息を吐けば白く濁って宙に溶けた。
「……やっぱり、おかしい」
日曜日の午前十時。
エントランスの内側に備え付けられた木製の集合郵便受けの前で、私は足を止めて眉をひそめた。
一〇一号室の宮原くんのポストは綺麗に整理され、二〇一号室の創くんのポストには美大の課題通知が几帳面に抜き取られ、二〇二号室の柴崎さんのポストには仕入れ業者の明細が整然と収まっている。
だが――一〇二号室、深見怜の郵便受けだけが、異様な状態を晒していた。
朝刊と夕刊が折り重なって入り口から溢れ返り、近所のスーパーのチラシや宅配ピザのメニューが隙間から雪崩を起こしかけている。
それだけではない。
中庭に面した一〇二号室の雨戸は、木曜日の朝から丸三日間、一度たりとも開け放たれた気配がなかった。隙間から漏れるはずの明かりもなく、夜になってもあのカタカタと響くキーボードの打鍵音や、微かな煙草の煙の匂いすら漂ってこない。
「深見さん、また締め切り前で籠もってるのかと思ったけど……」
胸の奥に、ざわりと冷たい嫌な予感が広がった。
第九話の時は、締め切り直前で鬼気迫る形相をしながらも、担当編集の小野寺さんを廊下に締め出して猛烈な勢いでタイピングを続けていた。部屋の中から生きている人間の凄まじい熱気と圧が漏れ出していたのだ。
けれど今、一〇二号室の分厚い木製ドアの前に立っても、中からは何の気配もしない。
物音ひとつ、衣擦れの音ひとつ聞こえない、完全なる死の静寂。
「……深見さん?」
ドアを三回、強くノックした。
トントン、トン。
返事はない。
ドアノブに手をかける。カチャリと音がして、鍵がしっかりと掛けられていることが分かった。内鍵もチェーンも掛かっている気配。
(祖母の管理ノート……『一〇二号室は締め切り前によく忘れる。遠慮なく踏み込んでよし』……)
第一話の時、私は合鍵を使って部屋に入り、万年床で脱水症状寸前になっていた彼を発見した。あの時は寝ぼけて手首を掴まれ、布団の上に引きずり倒されて散々からかわれたものだった。
けれど、今回はあの時と空気の重さが明らかに違っていた。
何かが決定的に壊れて、暗闇の中に沈み込んでいるような、重苦しい沈黙。
「大家の権限で、入りますよ……!」
私は管理人室へ走り、キーボックスから「一〇二」と刻印された真鍮の合鍵を引っ張り出してきた。
鍵穴に差し込み、左へ回す。
カチャリ、と重たい金属音が響き、ドアノブを押し下げた。
ギイィィ……。
建具の軋む音とともにドアが開いた瞬間、私の鼻腔を突いたのは、むせ返るような強烈な異臭だった。
古い煙草のヤニの匂い。
そして――何日も放置された安酒の酸っぱいアルコール臭と、重く淀んだ部屋の熱気。
「うっ……!?」
思わず袖口で口元を覆った。
遮光カーテンが隙間なく閉め切られた部屋の中は、昼間だというのに深夜のように真っ暗だった。目が慣れるまで数秒。廊下から差し込む細い光が照らし出した室内の光景に、私は息を呑んだ。
荒廃。
第一話の散らかり方など、まだ可愛いものだったのだと思わされるほどの、壮絶な荒れ果て方だった。
床一面には、飲み干されたウイスキーのボトルや焼酎の紙パックが何本も転がり、ガラスの破片のように散乱している。灰皿からは吸い殻が雪崩を起こして畳の上にこぼれ落ち、机の上にあったはずのノートパソコンは画面を閉じたまま床に叩きつけられるように倒れていた。
そして――部屋の最奥。
万年床の上に、毛布を頭からすっぽりと被った長身の影が、小さく丸まるようにして横たわっていた。
「深見さんっ!」
私は散乱する酒瓶を足で避けながら、駆け寄った。
布団の脇に膝をつき、毛布の端を恐る恐る引き下ろす。
現れた顔を見て、私の心臓が凍りついた。
「……っ、嘘でしょ……!?」
深見怜の顔は、土気色を通り越して浅黒く煤け、頬はげっそりと削げていた。
唇はひび割れて血が滲み、黒縁の丸眼鏡は外されて床に転がっている。
目にかかる黒髪は汗でぐっしょりと額に張り付き、荒い、細切れの呼吸が喉の奥でヒューヒューと笛のように鳴っていた。
「深見さん! しっかりして! 深見さん!」
肩を揺すり、額にそっと手を伸ばした瞬間――。
「あっつ……っ!?」
手のひらを引っ込めるほどの熱さだった。
三十八度どころではない。三十九度、下手をすれば四十度に届いているのではないかというほどの、煮えたぎるような高熱。
深見は意識を失っているのか、私の呼びかけにも目を開けない。
ただ、苦しげに眉間を激しく寄せ、全身の筋肉を硬直させながら、激しく身悶えていた。
「……っ、あ……ぅ……」
毛布を握りしめる、骨張った指先。
その指が白くなるほどシーツを掻きむしりながら、ひび割れた唇から、うわ言のような悲痛な掠れ声が漏れ出していた。
「……俺じゃない……あれは……俺が書いたんだ……」
「え……?」
「盗んでなんか……いない……! 俺の言葉だ……誰にも、渡さねえ……っ、返せよ……俺の言葉を……返せよ……!!」
喉を切り裂くような、絶望に満ちた叫び。
目尻から、大粒の汗とともに、透明な涙が一筋、耳元へとつうっと流れ落ちていく。
あの大人の余裕に満ちて、いつでも皮肉めいた笑みを浮かべ、他人を小馬鹿にするように見下ろしていたベストセラー作家が――まるで暗闇の中で袋叩きにされている幼子のように、怯え、震え、泣き叫んでいた。
(……何があったの? どうして、こんな……)
胸を鷲掴みにされたような痛みに耐えながら、私はふと、布団の脇に散乱していた紙の束に目を留めた。
原稿用紙ではない。
机の上から乱暴に引き裂かれ、床にぶちまけられた雑誌の切り抜きや、ネットニュースのプリントアウトだった。
私は震える手で、その一枚を拾い上げた。
『大型新人賞作家・深見怜氏にプロット盗作疑惑浮上か? 文壇のホープを襲う黒い噂』
『「すべて私のアイデアを盗用された」――被害を訴える無名作家の告発手記』
『文芸界隈からバッシングの嵐。「天才の化けの皮が剥がれた」「言葉の泥棒」SNSで大炎上』
日付は、三年前。
記事には、深見の顔写真が週刊誌特有の悪意あるアングルで掲載され、周囲の人間関係や読者からの容赦のない誹謗中傷の言葉が赤ペンで殴り書きされていた。
さらに別の束をめくると、半年後に小さく掲載された「訂正とお詫び」の紙片があった。
『――深見怜氏に対する盗作疑惑について、告発者側の虚偽および狂言であったことが警察の捜査により判明。深見氏の完全なる潔白が証明されました』
潔白は証明されたのだ。
完全なる言いがかりであり、濡れ衣であり、冤罪だった。
けれど――。
(……遅すぎる……)
私の指先が、怒りでわなわなと震えた。
一度火がつき、面白おかしく拡散された悪意は、たった数行の訂正記事などで消え去りはしない。
信じていた担当者や、手のひらを返して罵倒してきた同業者、ネットの匿名の群衆。
どれほど自分の言葉を尽くして無実を訴えても、誰一人として耳を傾けてくれず、すべての言葉を「盗作の言い訳」として嘲笑された日々の地獄。
深見怜が、なぜ昼夜逆転の生活を送り、他人に決して本心を見せず、煙草と珈琲の煙の奥に閉じこもり、冷笑という名の分厚い鎧を着込んで生きてきたのか。
そのすべての理由が、この薄暗い部屋の床に、血を流して転がっていた。
(この人も……傷ついてたんだ)
私と同じだ。
前のブラック企業で、工藤部長から「お前は無能だ」「代わりのいくらでもいる給料泥棒だ」と言われ続け、誰も助けてくれないオフィスの片隅で、自分の存在意義を否定されて擦り切れていった私と、まったく同じ痛みを抱えていた。
第四話の深夜、換気扇の下でぬるい缶ビールをくれた時の、深見の言葉が蘇る。
――『役に立つとか立たないとか、誰の基準だ? 前の会社が節穴だっただけだろ』。
あの時、彼はただ私の傷を肯定してくれただけではなかったのだ。
理不尽に踏み躙られた痛みを誰よりも知っているからこそ、彼は私の痛みを秒で見抜き、救い出してくれたのだ。
そして、第九話。
彼がスランプの中で、私をモデルにして小説を書き進めていたあの時間。
あれは単なる気まぐれでも、面白半分でもなかった。
人を信じることを恐れ、言葉を紡ぐことすら恐怖になっていた傷だらけの作家が、もう一度言葉を取り戻すための――命懸けのリハビリであり、救済だったのだ。
「……深見さん」
涙が、私の目からポロポロとこぼれ落ちた。
けれど、泣いている場合じゃない。
今、この人は熱に浮かされ、過去の悪夢の底で一人で溺れている。
救わなきゃいけない。この冷たい暗闇から、引きずり出してあげなきゃいけない。
あの夜、彼が私を救ってくれたように。
「よしっ……!」
私はフリースの上着の袖を乱暴にまくり上げると、立ち上がった。
まずは、部屋の空気を変える。
遮光カーテンの端を少しだけ開け、窓の鍵を緩めて細く隙間を作った。
スーッと、淀んだアルコールの空気が外へ吸い出され、冷たく澄んだ十一月の新鮮な風が流れ込んでくる。
次に、散乱した危険物の撤去だ。
転がるウイスキーのボトルや焼酎パックを手早くビニール袋へまとめ、倒れていたノートパソコンを机の上へと避難させる。吸い殻の山を片付け、床の新聞紙や切り抜きを一箇所に重ねて布を被せた。
わずか十分で、足の踏み場もなかった部屋は、最低限の清潔さを取り戻した。
続いて、台所へ走る。
洗面器に冷水を張り、冷蔵庫の冷凍室にあった製氷皿の氷をすべてジッパー付きのポリ袋に放り込んで、二重のタオルで包んで即席の氷嚢を作った。
洗面器に清潔なフェイスタオルを三枚浮かべ、ポカリスエットのペットボトルと、小さなストローをトレイに乗せる。
「深見さん、冷やしますよ。動かないでね」
布団の脇に戻り、私は深見の汗に濡れた前髪を、指先で優しくかき分けた。
張り付いた黒髪を払うと、苦痛に歪んだ端正な顔立ちが露わになる。
冷たい氷嚢を、熱い額の上へとそっと乗せた。
「……っ……ん……」
深見の喉から、微かな吐息が漏れた。
冷気に驚いたようにビクッと身体を震わせたが、やがてその冷たさが心地いいのか、険しかった眉間の皺がわずかに緩む。
私は固く絞った濡れタオルで、汗で濡れそぼった深見の首筋や、鎖骨の周り、そして耳の後ろを丁寧に拭い取っていった。
皮膚をなぞるたびに、大人の男の熱い体温がタオル越しに伝わってくる。
「……さむ……い……」
「寒気配するよね。大丈夫、毛布もう一枚持ってくるから」
私は管理人室へ駆け戻り、清潔な羽毛布団を一枚持ってきて、深見の身体の上にふわりと重ねた。
そして、脱水症状を防ぐため、ストローを刺したペットボトルを口元へと運ぶ。
「深見さん、お水飲んで。一口だけでいいから、吸って」
ストローを唇の隙間に差し込むと、深見は朦朧としながらも、本能のようにちびちびと水分を吸い上げた。
ゴクリ、と喉仏が上下する。
「えらい、よく飲めたね……」
まるで熱を出した子どもをあやすように、私は深見の乱れた髪をそっと撫でた。
その瞬間だった。
――ガシィッ。
「……っ!?」
布団から伸びてきた骨張った大きな手が、私の右手首を、すがるような力で強く掴み上げた。
第一話の時のように引きずり倒す力ではない。
暗闇の中で溺れる人間が、目の前に差し出された一本の藁を必死に掴み取るような、痛々しいほどの弱さと切実さに満ちた握り方。
「……行くな……」
掠れた、震える声が、布団の中から零れ落ちた。
「置いていくな……。誰も……信じられねえんだよ……。消えるな……」
うわ言だと分かっていた。
熱で意識が朦朧として、相手が誰かも分からずに口にしている言葉だ。
けれど、その手のひらの熱さと、弱音の重みが、私の胸の奥深くまで突き刺さって抜けなくなった。
「行かないよ」
私は掴まれた右手の上に、自分の左手をそっと重ねた。
両手で、深見の熱い手を包み込む。
「どこにも行かない。ここにいるよ、深見さん。……あなたの言葉は、誰も奪えない。あなたが書いた物語は、ちゃんとみんなに届いてるよ」
言葉が通じたのかどうかは分からない。
けれど、私の声を聞いた深見の強張っていた指先から、ふっと力が抜けた。
私の手を握りしめたまま、深見の呼吸は少しずつ、深く、穏やかなリズムへと変わっていった。
一時間。二時間。
時計の針が午後を回り、夕暮れが訪れ、やがて夜の帳が降りる。
私は一度も部屋を離れなかった。
氷嚢が温くなれば新しい氷に取り替え、汗をかけばタオルで拭き、少しでも深見が苦しそうに呻けば、その大きな手を両手で握り直して声をかけ続けた。
外の寒風が、古い雨戸を時折ガタガタと鳴らす。
けれど、この暗い六畳の部屋の中だけは、静謐な祈りのような空気が満ちていた。
傷つき、心を閉ざし、言葉の檻に閉じこもっていた一人の作家と、その痛みに寄り添い続ける一人の女。
そして――深夜を過ぎ、やがて東の空が白み始めた頃。
スー、スー……。
規則正しく、穏やかな寝息が部屋に響いていた。
深見の額にそっと手を当てる。
熱は、完全に下がっていた。
平熱に近い、ほんのりとした心地よい温もり。
青白かった頬には自然な血色が戻り、ひび割れていた唇も潤いを取り戻している。
「……よかった……下がったんだ……」
私はその場にペタリと座り込み、安堵のあまり深い溜め息を吐いた。
カーテンの隙間から、青白い夜明けの光が、一本の矢のように部屋の中へと差し込んでくる。
その光が、ベッドの上で眠る深見怜の顔を、静かに照らし出していた。
眼鏡を外し、前髪を乱した無防備な寝顔。
普段の皮肉めいた笑みも、冷徹な作家の凄みも綺麗に削ぎ落とされたその顔は、驚くほど整っていて、息を呑むほどに純粋で、美しかった。
私の右手を握りしめたままの、彼の大きな手のひら。
その温もりが、朝の光の中で、優しく脈打っている。
「……お疲れ様、深見さん」
私は空いた左手で、彼の額にかかる前髪を、そっと優しく払い除けた。
暗闇と孤独の夜は、ようやく明けたのだ。
けれど、この夜明けの光の中で、熱から覚めた彼がどんな瞳で私を見つめることになるのか――その時の私は、まだ知る由もなかったのだった。




