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家賃は愛嬌じゃ払えません! 〜訳ありイケメンだらけのレトロアパート、今夜も大家(32)の胃袋と心が奪われそうです〜  作者: タカノ


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第19話:赤い耳と、夜風のベランダ

深夜零時を回ると、古い木造の建物は昼間とはまったく違う顔を見せる。

日中にたっぷりと秋の陽光を吸い込んだ柱や梁が、夜露に冷やされて「ピキッ」と小さく軋み、どこか遠くを走る環状七号線の大型トラックの微かな重低音が、地面を通じてかすかに震えとして届く。

一階の共用キッチンも、エントランスも、すでに灯りは落とされていた。

一〇一号室の宮原くんの部屋の隙間からはパソコンの青白い光が漏れていて、きっと今夜も昇進したプロジェクトの資料作りに追われているのだろう。一〇二号室の深見さんの部屋からは、規則正しいキーボードの打鍵音がカタカタと微かに響いており、新連載の締め切りと格闘している気配が伝わってくる。


「……ふう。さすがに目が冴えちゃったな」


管理人室の小さな事務机で、翌月の定期清掃スケジュールと修繕積立金の試算表をまとめ終えた私は、軽く伸びをして凝り固まった肩を回した。

マグカップの白湯を飲み干し、薄手のニットカーディガンを羽織る。

寝付けない理由は、カフェインを摂ったからでも、事務作業で頭が昂ぶっていたからでもない。


(あの手……本当に、私の手だったのかな……)


目を閉じると、数日前のあの夜の光景が、網膜の裏側に鮮明に焼き付いて離れなかった。

アパート裏手の納屋。薄暗い裸電球の下で、汗に濡れた創くんが巨大な楠の丸太から削り出していた、神秘的な二つの手。

男の逞しい手に包み込まれるように重なっていた、丸みを帯びた大人の女性の手のひら。

あの時、顔を真っ赤にして両手で顔を覆い、「完成するまで何も言うな」と震える声で叫んでいた創くんの姿。

あれ以来、朝のゴミ出しや廊下の掃除ですれ違うたびに、創くんはあからさまに私から視線を逸らし、脱兎の如く逃げ去ってしまうのだ。声をかけようにも、「……創くん、手荒れの軟膏塗ってる?」と聞くのが精一杯で、創くんは「塗ってる」と一言だけ吐き捨てて階段を駆け上がっていく。


「ちょっと、夜風でも浴びて頭を冷まそう」


私はスリッパを音の立たないフェルト底のものに履き替え、忍び足で一階の廊下を歩き、ギシギシと鳴る階段をそっと上がった。


メゾン・サクラの二階には、突き当たりの廊下の奥に、住人が布団や大物のシーツを干すための共用ベランダが設置されている。

アルミサッシの重い引き戸を静かに横へスライドさせると、ひんやりとした夜気が、火照った私の頬を一気に撫で下ろしていった。


「寒っ……! でも、気持ちいい……」


思わず身震いしながら、ベランダのモルタル製の手すりに両手を預けた。

見上げる東京の夜空には、秋の澄んだ空気を映し出すように、真ん丸に近い銀色の月が冴え冴えと輝いていた。

街灯の明かりに照らされた住宅街の屋根瓦が銀色に光り、中庭の山桜の木が、葉を落とし始めた枝先をカサカサと夜風に揺らしている。

冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥まで澄み渡り、ぐるぐると空回りしていた頭の中の熱が少しずつ引いていくのが分かった。


――その時だった。


ガララッ。


すぐ真横から、金属が擦れ合う小気味よい音が響いた。

ベランダに隣接している二〇一号室――野村創の部屋の掃き出し窓が、勢いよく開け放たれたのだ。


「ひゃっ……!?」


驚いて肩を跳ね上がらせた私の視界に、部屋の中から身を乗り出してきた人影が飛び込んできた。


「……おい」


黒のゆったりとしたスウェットパンツに、色褪せたチャコールグレーの長袖Tシャツ。

短く刈り上げられた黒髪を無造作に掻きむしりながら、百八十五センチを超える筋骨隆々とした長身の男が、窓枠を跨ぐようにしてベランダへと足を踏み出してきた。

野村創だった。


「そ、創くん……!? 起きてたの?」


「……ベランダのドアが開く音がしたから。……こんな時間に誰かと思えば、あんたかよ」


創は不機嫌そうに眉をひそめ、鋭い三白眼で私を上からジロリと見下ろしてきた。

相変わらずの威圧感。だが、その声には敵意はなく、むしろ真夜中に一人で外に出ている年上の大家に対する、苛立ち混じりの心配が滲んでいた。


「ご、ごめんね、物音立てちゃって。ちょっと頭が冴えちゃって、風に当たろうと思っただけなの」


「……寒波が来てるってニュースで言ってただろ。上着もろくに着ねえで、風邪引いたらどうすんだ。先週熱出したばっかりのくせに」


「うぐっ……ちゃんとカーディガン着てるもん」


「そんなペラペラの一枚で防げるわけねえだろ。……ほら」


創はぶっきらぼうに言葉を遮ると、背中に隠していた右手を、私の目の前へと無造作に差し出してきた。

その大きな手の中に握られていたものを見て、私は目を丸くした。


「あ……これって」


それは、数日前の夜、私が豚汁とおにぎりを入れて納屋へ持って行った、あの二段重ねの漆塗りの重箱だった。

風呂敷は綺麗に畳まれて重箱の天板に挟まれ、隅々までピカピカに洗われて水滴ひとつ残っていない。

そして――ずっしりと重たかった。


「……これ、返す。……洗ったから」


「あ、ありがとう! わざわざ部屋まで持って帰って洗ってくれたんだ」


「当たり前だろ。食い逃げする気はねえよ」


創はそっぽを向いたまま、重箱を私の両手へと押し付けてきた。

受け取った瞬間、重箱の隙間から、ふわっと甘酸っぱく芳醇な果実の香りが鼻腔をくすぐった。

空っぽのはずの重箱が、明らかに重い。


「……あれ? 創くん、これ、中に何か入ってる……?」


「……開けて見りゃ分かんだろ」


言われるがままに、ベランダの手すりの上で風呂敷を解き、重箱の上の段の蓋をそっと持ち上げた。

月明かりの下、漆黒の重箱の中に収まっていたのは――。


「わあ……っ! リンゴ……!?」


大人の両手でも余るほど巨大な、見事な真紅のリンゴが二つ、綺麗に並んで鎮座していた。

ワックスなど塗られていない自然な果皮は、秋の月光を浴びて深紅の宝石のように艶やかに輝いている。軸の付け根には青々とした葉が一枚添えられ、甘く瑞々しい香りが夜風に乗ってふわりと広がった。


「長野の実家から、送ってきたやつだ。……親父の知り合いの果樹園の、シナノスイート。一番いい等級のやつ」


創は手すりに両肘をつき、夜空を睨みつけるようにしながら、ぼそぼそと呟いた。


「……コンクールのことで散々怒鳴り散らしてきたくせに、こういうのだけは毎年送りつけてきやがる。……俺一人じゃ食いきれねえし、腐らせるのも勿体ねえから。あんたにやる」


「創くん……」


胸の奥が、じんわりと温かい熱で満たされていく。

第十話のコインランドリーで、「鉄クズこねくり回して何になる」と父親に否定された悔しさを涙ながらに吐露していた創くん。

その父親から送られてきた、不器用な故郷の味。

それを、彼は私に分けてくれたのだ。


「……ごちそうさま。……豚汁、うまかった」


夜風にかき消されそうなほど小さな声で、けれどはっきりと落とされた感謝の言葉。

そっぽを向く創の横顔を見つめながら、私の唇から、たまらず柔らかな笑みがこぼれ落ちた。


「ふふっ……よかった! 夜遅くに押し掛けちゃったから、迷惑だったかなってちょっと気にしてたの。美味しく食べてもらえて安心した」


「……迷惑なわけねえだろ。死にかけだったんだから」


「あはは、確かにあの夜の創くん、幽霊みたいに青白い顔してたもんね」


「笑うな」


創が鋭い目で睨みつけてきたが、その表情には刺々しさは微塵もなかった。

私は重箱の蓋をそっと閉じ、創の隣――手すりの空いているスペースへと並ぶようにして体を寄せた。

肩と肩の距離が、三十センチほどに縮まる。

創のスウェットの生地越しに、大柄な男の身体特有の、暖炉のような強い体温が夜風を遮るように伝わってくる。


「……創くん。手の怪我、治りはどう?」


「あ?」


「ほら、あの日、ノミで傷だらけになってたでしょ? 毎日ちゃんと軟膏塗ってる?」


私が尋ねると、創は鬱陶しそうに顔をしかめた。

そして、手すりの上に置いていた自分の両手を、私の目の前へと突き出してみせた。


「……あんたが毎日毎日、すれ違うたびに『塗った? 化膿してない?』ってうるさく聞いてくるから。……言われた通りに塗って、とっくに治ったよ」


「本当だ……! よかったぁ……!」


月明かりの下、差し出された創の両手。

数日前に赤く腫れ上がり、血が滲んでいた指先の傷口は、綺麗に新しい皮膚が張って塞がっていた。

豆の潰れた痕跡や、古傷の筋は無数に残っているけれど、炎症はすっかり引いている。


私は安堵のあまり、まじまじとその手を覗き込んだ。

爪の形は四角く整えられ、皮膚は厚く、骨組みは驚くほど頑丈だ。

長年、重い鉄や石を叩き、硬い楠の木と格闘し続けてきた人間だけが持つ、鍛え上げられた職人の手。

宮原くんの滑らかな指先とも、深見さんの煙草の染みついた骨張った指とも、柴崎さんの洗練された料理人の手とも違う――圧倒的な質量と、誠実な労働の匂いを纏った手。


「すごいなあ……やっぱり、創くんの手って、すごくかっこいいよ」


私は心からの感嘆を込めて、夜風の中でぽつりと呟いた。


「え……?」


「ゴツゴツしてて、節くれ立ってて……まるで本物の職人さんみたい。創くんがこれまでどれだけ真剣に作品に向き合ってきたかが、その手を見るだけで分かるよ。私、創くんのその逞しい手、すごく素敵だと思うな」


下心なんて、本当に一ミリもなかった。

ただ、父親に「鉄クズ」と否定され、自分の才能に不安を抱えていた年下の男の子を、少しでも元気づけたかった。

素直に感じた敬意と称賛を、そのまま言葉にして伝えただけだったのだ。


――しかし。


ピタリ、と。

夜風が止まったかのように、二人の間の空気が完全に凍りついた。


「…………」


「……創くん?」


返事がない。

不思議に思って顔を上げた私は、息を呑んだ。


手すりに手をついたまま、創の身体が、まるで彫刻のように完全に硬直していた。

見開かれた黒い瞳。

息を吸うことすら忘れたように、ぽかんと半開きになった唇。

そして――。


カアァァァッッッ……!


月明かりの下、肉眼ではっきりと視認できるほどの凄まじい勢いで、創の顔面に真っ赤な血が沸騰するように駆け巡った。


「そ、創くん……!?」


驚いて声を上げた私の視界の中で、創はガタッと音を立てて手すりから両手を引っ込めた。

そして、激しい勢いで私から顔を背けたのだ。


「……っ、ぁ…………!」


声にならない、喉の奥から絞り出されたような呼気。

見上げた創の横顔は、完全に限界を突破していた。

短く刈り上げられた襟足から、太い首筋、頬のライン、そして――剥き出しになった耳の先までが。

夜の冷気などものともせず、熟れきったリンゴよりも、燃え盛る炎よりも鮮烈に、真っ赤に、真っ赤に染まり上がっていた。

その赤さは、月光の青白い光の中にあって、恐ろしいほどの熱量を放って浮かび上がっていた。


「……あんた、ほんと……っ」


創の手が、手すりのモルタルをギリギリと音を立てて握りしめる。

太い前腕の血管がボコボコと浮き上がり、肩が激しく上下している。


「……ほんとに、いい加減にしろよ……っ!」


「えっ……!? わ、私、また何か変なこと言っちゃった……!?」


「変なことしか言ってねえだろ!!」


怒鳴り声のような、けれど泣き出しそうなほど切羽詰まった叫びが、深夜のベランダに木霊した。

創は顔を背けたまま、左手で自分の真っ赤に燃え上がる耳を乱暴に覆い隠した。

隠そうとしても隠しきれない、指の隙間から覗く熱い肌の赤。

肩が小刻みに震えている。


「かっこいいとか……素敵だとか……っ! そういうこと、簡単に言うなって、コインランドリーでも言っただろ……!」


「だ、だって、本当にそう思ったから……嘘ついたわけじゃないし……」


「それが一番タチ悪いんだよ!!」


創は耐えきれなくなったように、手すりをバンッと叩いた。

そして、ゆっくりと――本当にゆっくりと、私の方へと顔を向けた。


「っ……」


月明かりの下で目が合った。

その瞬間、私の喉がヒュッと鳴った。


創の三白眼は、潤んだように濡れ、怒りと、羞恥と、そして狂おしいほどの情熱でギラギラと燃え盛っていた。

耳まで真っ赤にしたまま、荒い呼気を吐き出す大柄な青年。

普段の「無愛想な店子」の殻など、跡形もなく消え去っていた。

目の前にいるのは、一人の女の無自覚な言葉によって理性を限界まで狂わされ、手も足も出なくなっている、剥き出しの「男」だった。


「……あんたさ」


掠れた、低く震える声が、夜風を切り裂いて落ちてきた。


「俺が……どんな顔して、納屋であれ彫ってたと思ってんだよ」


――あの日、納屋で削り出されていた、私の手の彫刻。

その言葉が出た瞬間、私の心臓がトクンと大きく跳ね上がった。


「指先血だらけにして……寝る間も惜しんで……頭の中、あんたのことでいっぱいにしながら、木ぃ削ってんだよ。……それなのに、あんたは……」


創の大きな手が、空中で彷徨うように一度小さく宙を掴み、そして諦めたようにぎゅっと拳を握りしめた。

触れたいのに、触れられない。

壊してしまいそうで、触れることすら恐れているような、痛々しいまでの自制。


「……あんたの、そういう無防備な顔見せられるたびに……俺がどれだけ必死に我慢してるか、これっぽっちも分かってねえくせに……」


「創、くん……」


言葉が出なかった。

冷たい夜風が二人の間を吹き抜けていく。

けれど、創の身体から立ち上る熱気は、ベランダの空気全体を狂おしいほど甘く、重く加熱していた。


創は深く、深く息を吸い込んだ。

そして、真っ赤になった顔のまま、私の瞳を射抜くように見つめ、唇を震わせながら――ポツリと呟いたのだ。


「……あんたの笑った顔、悪くないと思う」


――え?


静寂。

あまりにも消え入りそうで、あまりにも不器用で、けれど魂の底から絞り出された、精一杯の言葉。


「……創くん……今、なんて――」


聞き返そうとした、まさにその刹那だった。


ガバッッッ!!


「……っクソッ!」


創は乱暴に頭を掻きむしると、脱兎の如き勢いで二〇一号室の窓枠を跨ぎ、部屋の中へと飛び込んだ。

そして――。


ピシャァァァンッッッ!!!!

ガチャリッ、ガチャリッッッ!!


鼓膜を劈くような凄まじい音を立てて窓が閉ざされ、内鍵が二重にカチカチと掛けられた。

カーテンがシャーッと音を立てて勢いよく引かれ、二〇一号室の灯りは一瞬にしてプツンと消滅した。


「…………」


静まり返る、深夜の共用ベランダ。


吹き抜ける冷たい秋風。

頭上には、澄み渡る銀色の月。

私の腕の中には、ずっしりと重たい重箱と、二つの真っ赤な高級リンゴ。


そして――。


ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!


「……っ……あ……」


遅れてやってきた衝撃に、私の膝からすうっと力が抜けた。

私はその場にへたり込みそうになるのを必死で堪え、手すりにしがみつきながら、自分の胸元をぎゅっと強く押さえつけた。


激しい動悸。

耳の奥で、自分の心臓が早鐘を打ち鳴らす音が、暴力的なまでに大きく響いている。


(悪くないと、思う……って……)


あの子が。

無口で、不器用で、感情を言葉にするのが何よりも苦手な創くんが。

耳の先から首筋までを真っ赤に染め上げて、必死に絞り出した――あの一言。


『あんたの笑った顔、悪くないと思う』


宮原くんの流暢で完璧なエスコートとも、深見さんの艶やかな言葉の罠とも、柴崎さんの逃げ場のない甘い囁きとも違う。

不器用で、拙くて、けれど嘘偽りのない、少年の純情そのものの告白。


「……なんなのよ、もう……っ!」


私は重箱を抱きしめたまま、両手で火照った頬を覆い隠してしゃがみ込んだ。

手の中のリンゴから漂う、甘酸っぱい香り。

そして、目を閉じれば今も鮮明に浮かび上がる、月明かりの下で耳まで真っ赤にして私を見つめていた、あの熱い三白眼。


夜風はこんなにも冷たいのに。

私の心臓は、まるで真夏の太陽を飲み込んでしまったかのように、いつまでも激しく熱狂し続けていたのだった。

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