第18話:野村の彫刻刀と傷だらけの指先
十月も下旬に差しかかると、東京の夜風には明確な冬の気配が混ざり始める。
先日の日曜日、大衆中華からの帰り道の玄関先で、宮原陸にネクタイごと引き寄せられ、額が触れそうな距離で「僕の居場所を取らせないでください」と囁かれたあの熱い記憶は、数日経った今も私の心臓を不規則に締め付け続けていた。
だが、私を悩ませていたのは、年下エリートの甘く危険な求愛だけではなかった。
――トントン、トントン……カンッ、カンッ……!
夜の十時を回った静まり返るアパートの裏手から、規則正しく、けれど狂気じみた切迫感を孕んだ木槌の音が、重く地響きのように響いていた。
「……創くん、今日も戻ってきてない……」
管理人室の台所で、私は大きな両手鍋の火加減を調節しながら、裏庭の方角を見つめて眉をひそめた。
音の発生源は、メゾン・サクラの敷地の最奥、母屋から中庭を挟んで裏手に建つ古い木造の納屋だ。
祖母が生きていた頃は庭仕事の農具や古い家具を詰め込む物置小屋だった場所だが、二年前、造形美大に入学した創くんが入居する際、祖母が「大きな音や粉塵が出るなら、ここをアトリエにして使いなさい」と、アパートの部屋代に含める形で格安で貸し出した専用の作業場だった。壁には祖母の手によって遮音シートが貼り巡らされ、換気扇も増設されている。
だからこそ、創くんは夜間でも周囲の住宅地に迷惑をかけることなく、鉄を叩き、木を削る作業没頭できるのだ。
けれど――限度というものがある。
国内最高峰の現代立体造形コンクールまで、残りあと二週間。
長野の実家の父親から「入選しなければ美大を辞めて地元へ戻れ」「鉄クズを作って何になる」と理不尽に否定され、退路を断たれた創くんは、ここ三日間、母屋の自室へ寝に帰ることすらなく、あの納屋に完全に籠もりきりになっていた。
「日曜の夕食会にも顔を出さなかったし……柴崎さんが届けてくれた差し入れのサンドイッチも、昨日の朝の分が手つかずで納屋の前に置かれてたって言ってたわ……」
元社畜として、限界を超えて作業に没頭する人間の危うさは痛いほどよく分かる。
睡眠を削り、食事を忘れ、精神をすり減らしてひとつの物に向き合っている時、人間は自分が餓死寸前であることすら自覚できなくなるのだ。あのコインランドリーで「創くんの作るものが好きだよ」と言った手前、彼が命を削って倒れるのを黙って見過ごすことなど、大家としても、一人の人間としても絶対にできなかった。
「よし……出汁も完璧、お味噌も溶けた!」
土鍋の蓋を開けると、もうもうと立ち上る湯気とともに、香ばしい根菜と豚肉の甘い香りが台所いっぱいに広がった。
今夜私が作ったのは、身体の芯から温まる具沢山の特製豚汁だ。
ごま油でじっくり炒めた豚バラ肉に、乱切りの大根、人参、ゴボウ、里芋、板こんにゃく。仕上げにたっぷりの長ネギと、すりおろした生姜をひと匙。冷え切った身体に染み渡るよう、信州の赤味噌を少し濃いめに仕立ててある。
さらに、握りたての大きなおにぎりを二段の重箱に詰めた。具材は創くんが好きそうなおかかチーズと、ピリ辛の高菜明太。
「冷めないうちに持って行かなきゃ」
私は二段重と保温スープジャーを風呂敷でしっかりと包み、もう片方の手には管理人室の棚から引っ張り出してきた救急箱を抱えた。
上着に厚手のフリースを羽織り、勝手口から裏庭へと出る。
外気は息が白くなるほど冷え込んでいた。
砂利を踏みしめて中庭の奥へ進むと、暗闇の中にぼんやりと黄色い光を漏らす納屋が浮かび上がっていた。
近づくにつれて、木を削る「シュッ、シュッ」という鋭い刃物の音と、荒い呼気がはっきりと聞こえてくる。
「……創くん?」
引き戸の前に立ち、声をかけたが返事はない。
私は意を決して、重たい木製の引き戸に手をかけ、ガラガラと横へ開けた。
「創くん、夜遅くに失礼します、差し入れを持ってき――」
言葉の続きは、私の喉の奥でピタリと凍りついた。
「…………っ、はあ…………っ、ふぅ…………っ!」
納屋の中に入った瞬間、鼻腔を突いたのは、むせ返るような強烈な木の香りだった。
清涼感と微かな苦味を併せ持つ、楠特有の芳香。
天井からぶら下がった裸電球が一つ、振り子のように小さく揺れ、空気中を無数の細かな木屑が金色の粉のように舞い踊っている。
そして――部屋の中央。
床一面に敷き詰められた分厚い木屑の絨毯の上に、野村創がいた。
十月の深夜だというのに、着ているのは黒のタンクトップ一枚。
肩から胸元、そして逞しい背中にかけて、びっしりと汗が吹き出し、ランプの光を浴びて濡れたように光っている。
大人の背丈ほどもある、巨大な楠の丸太。
樹皮を剥がされ、荒削りされた巨大な木塊に向き合い、創は大型の平ノミと木槌を握りしめていた。
カンッ! ザシュッ!
凄まじい気迫だった。
普段の照れ屋で無口な美大生の姿はどこにもない。
獲物を屠る獣のように研ぎ澄まされた鋭い三白眼、ギリギリと軋む奥歯、そして丸太へ刃物を打ち込むたびに、彫刻刀の軌道に合わせて波打つ上腕二頭筋と背筋の筋。
その神聖ですらある狂気的な美しさに、私は息をすることすら忘れ、ただ立ち尽くしていた。
しかし――。
グラッ。
「……あ」
木槌を振り上げた創の大きな身体が、不意に、糸の切れた操り人形のように横へと傾いた。
足元の木屑に足を取られたのではない。明らかな脱力と、極度の貧血によるよろめき。
カラン、コロン……!
握りしめられていた平ノミと木槌が、創の手から力なく滑り落ち、硬い床の上を虚しく転がった。
「創くんっ!?」
私は持っていた重箱を床に放り出し、なりふり構わず駆け寄った。
膝から崩れ落ちそうになった創の脇の下へ滑り込み、全体重をかけてその巨躯を受け止めようとする。
ドスン、と重たい衝撃。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした大柄な身体は、熱病にかかったように熱く、そして焼けるような汗の匂いと木の香りに満ちていた。
「っ……誰だ……」
荒い息を吐きながら、創がかすれた声で呻いた。
焦点の定まらない瞳が、私の顔を捉える。
「……大家、さん……? なんで……入るなって、言ったろ……」
「入るなって言われても入るわよ! こんなになるまで飲まず食わずで作業して……倒れたらどうするの!?」
私が必死に肩を支えながら怒鳴ると、創は抗う力も残っていないのか、私の肩に額をこてんと預けたまま、小さく息を吐き出した。
力尽きた巨木が倒れ込むような、あまりにも無防備な重み。
首筋にかかる創の荒い吐息が、私の肌をじりじりと焼いていく。
「創くん、座って! 床に座りなさい!」
私は木屑を足で払い、作業台の脇の丸太の切れ端に創をゆっくりと腰掛けさせた。
荒い呼吸を繰り返しながら、肩で息をする創。
その時、私の視界に、創の両手が飛び込んできた。
「……っ!?」
息を呑んだ。
両膝の上に力なく投げ出された、創の大きな手のひら。
それは――直視するのが辛いほどに、痛々しく荒れ果てていた。
硬い楠の木と格闘し続けた掌は、豆が潰れて赤くただれ、指先には無数の細かな切り傷が刻まれていた。
数日前に貼ったであろう絆創膏は木屑と汗でボロボロに剥がれ落ち、親指の付け根と人差し指の腹からは、新しい血が滲み出して赤黒く乾きかけている。
指先全体が、熱を持ってジンジンと腫れ上がっていた。
「創くん……手、血が出てるじゃない……!」
「……これくらい、いつものことだ。……ノミが滑っただけだ」
創は顔を背け、手を後ろに隠そうとした。
けれど、その強がりが私の胸を激しく締め付けた。
父親に認めてもらいたい一心で。自分の信じた芸術を「鉄クズ」と呼ばせないために。この子は、自分の手を血だらけにしながら、たった一人でこの冷たい納屋の中で戦い続けていたのだ。
「隠さないで!」
私は救急箱をパチンと開けると、消毒液と滅菌ガーゼ、そして新しい医療用テープを取り出した。
そして、隠されようとした創の大きな右手を、迷いなく両手でギュッと掴み寄せた。
ビクッ! と創の身体が硬直する。
「お、おい……触るなって……汚ねえだろ、木屑と血がついてる……」
「汚くなんかない! 痛いのは我慢しなさい、しみるからね!」
私は創の言い分を力ずくで遮ると、消毒液を染み込ませたガーゼを、血の滲む親指の傷口へとそっと押し当てた。
「っ……ぅ……!」
創が低く奥歯を噛み締める。
傷口を丁寧に清拭し、消毒を終えると、私は持参していた高濃度の抗生剤入り軟膏を指先に取った。
赤く腫れ上がった創の指の腹、豆の潰れた手のひら、ささくれ立った爪の生え際。
ひとつひとつ、丁寧に、熱を帯びた皮膚を優しく撫でるようにして、軟膏を塗り広げていく。
「……っ」
創の呼吸が、再び止まった。
私の両の手のひらの中に収まる、創のゴツゴツとした逞しい右手。
大人の男の、骨太で、筋張っていて、無骨で力強い手。
それに対して、私の手は小さく、頼りないほど柔らかい。
触れ合う皮膚と皮膚。
荒れた男の手を、女の両手が優しく包み込み、温もりを分け与えるような濃密なコントラスト。
ふと見上げると、創は唇をぎゅっと真一文字に結び、顔を真っ赤にして私を見つめていた。
荒い息遣い。
胸板が激しく上下し、タンクトップの首元から鎖骨にかけて、じわりと新しい汗が滲んでいる。
切れ長の三白眼が、濡れたように潤み、熱っぽい光を帯びて私の手元を凝視していた。
「……あんた、ほんと……」
掠れた、震える声が落ちてきた。
「無防備すぎるって、言っただろ……。男の部屋に入ってきて……こんな風に手ぇ握られたら……俺が、どんな気持ちになるか……」
「怪我人を手当てしてるだけよ。大家の義務です」
「……義務で、こんな優しく触るなよ」
創の指先が、ビクビクと小さく痙攣した。
振り払おうと思えば、私のような女の力など一瞬で弾き飛ばせる腕力があるはずなのに。
創は少しも力を入れず、まるで壊れやすいガラス細工を預けるかのように、自分の傷だらけの手を私の両手に預けっぱなしにしていた。
私は新しい絆創膏を取り出し、切り傷の上に一枚ずつ、丁寧に貼っていった。
指先を包むたび、創の体温が私の指先へとじんわりと伝わってくる。
トクン、トクン、と異常なスピードで脈打つ、創の手首の動脈。
その鼓動の激しさに、私の胸の奥もまた、熱い波に呑まれるようにトクンと跳ね上がった。
「……はい、右手はおしまい。次は左手出して」
「……もういい。左手は大したことねえ」
「ダメ。見せて」
私が左手も引っ張り出すと、創は諦めたように深く息を吐き、されるがままになった。
両手の手当てが終わる頃には、私の額にもうっすらと汗が滲んでいた。
「よし、これで化膿は防げるわ。……それと、これ!」
私は床に置いていた風呂敷包みを解き、重箱の蓋を開けた。
中から現れた丸々としたおにぎりと、保温ジャーの蓋を開けて立ち上った豚汁の湯気に、創の喉がゴクリと大きく鳴った。
「豚汁とおにぎり作ってきたの。生姜たっぷり入れたから、身体温まるよ。……食べられる?」
「…………」
創は返事をする代わりに、重箱からおかかチーズのおにぎりを無言で掴み取った。
そして、大きな口を開けて、半分ほどを一気に頬張った。
「むぐ……っ」
咀嚼する音が静かな納屋に響く。
続いて、渡された木のスプーンで熱々の豚汁をすくい、夢中で口に流し込む創。
ハフハフと熱そうに息を吐き出しながら、二口、三口。
あっという間におにぎり一つを平らげ、二つ目に手を伸ばすその勢いに、私は思わず目を細めた。
「……うまい」
ポツリと、短い一言が零れ落ちた。
「豚汁……具が、すげえ入ってる。……大根、味染みてる……」
「よかった。三日間もまともに食べてなかったんでしょ? まだまだおかわりあるから、全部食べてね」
「……ん」
創はがっつくように豚汁を飲み干し、おにぎりを最後の一粒まで綺麗に平らげた。
食べ終えた創は、両手で空になったジャーを抱えたまま、深く、深く息を吐き出した。
血の気の引いていた頬に、ほんのりと赤みが戻っている。
胃袋に温かいものが入ったことで、張り詰めていた限界の糸が、ようやく緩んだようだった。
「……ふう。生き返った……」
「お粗末様でした。……少しは休む気になった?」
「……ああ。今夜は、もう道具持てねえよ。手がふやけて力が入んねえ」
創は自分の両手に貼られた白い絆創膏を見つめ、どこか照れくさそうに指を曲げ伸ばしした。
その横顔には、さっきまでの鬼気迫る狂気は消え、等身大の二十一歳の少年の素顔が戻っていた。
「……あのさ、創くん」
「ん?」
「何を作ってるのか……見てもいい?」
私の問いかけに、創の肩がピクリと跳ねた。
視線を泳がせ、気まずそうに唇を尖らせる創。
けれど、少しの沈黙の後、創はそっぽを向いたまま小さく顎をしゃくった。
「……勝手に見ろよ。まだ削り出しの途中だけどな」
「ありがとう!」
私は立ち上がり、納屋の中央に据えられた巨大な楠の丸太の前に立った。
削り屑の積もった作業台。
裸電球の光を浴びるその木塊に、一歩近づいた瞬間――。
「……っ!」
私の息が、止まった。
高さ一メートルを超える、重厚な楠の木。
ノミの荒々しい削り跡が無数に刻まれたその丸太から、浮かび上がりつつあった輪郭。
それは――「手」だった。
巨大な木塊から削り出されていたのは、二つの手が重なり合い、何かを優しく包み込もうとしている、神秘的な立体彫刻だった。
一つは、骨太で無骨な、逞しい男の手。
そして、その男の手に優しく重ねられ、包み込まれているもう一つの手は――。
細く、しなやかで、指先が丸みを帯びた、大人の女性の手の形をしていた。
「これ……」
胸が、ドクンと激しく音を立てた。
まだ荒削りで、細部のやすりがけもされていない状態だ。
けれど、その女性の手の甲の柔らかな膨らみ、少し短めの親指の形、そして全体を包み込むような温かい曲線。
(……これ、私の……手……?)
頭の中に、一昨日の記憶が蘇る。
第五話で水漏れの配管を直してくれた時、私が思わず両手で握りしめた、創の手。
第十話のコインランドリーで、「創くんの手が好きだよ」と言いながら、私が目の前に差し出した、自分の手。
そして、今夜――消毒液と軟膏を塗りながら、創の傷だらけの手を包み込んでいた、私の両の手のひら。
創は、ずっと見ていたのだ。
私の手を。私の指先を。私の手のひらの温もりを。
父親から「鉄クズ」と否定され、追い詰められた暗闇の中で、彼がすがりつくように彫り続けていた命のモチーフは――他でもない、私の手だったのだ。
「……創、くん……」
震える声で振り返ると、丸太の切れ端に腰掛けていた創は、両手で顔を覆い隠し、膝の間に頭を深く埋め込んでいた。
隠しきれない、真っ赤に染まった首筋と、耳の先。
指の隙間から、消え入りそうな掠れた声が漏れ出す。
「……見るなって、言えばよかった……」
「創くん、これ……」
「……まだ、途中だ。……完成するまで、何も言うな」
創の声は、震えていた。
けれど、その震えの奥には、どんな言葉の告白よりも重く、生々しい熱情が宿っていた。
言葉で器用に愛を囁くことのできない男の子が、自らの指先を血だらけにしながら、全身全霊で木の中に刻み込んだ、私への想いのかたち。
納屋の中に、沈黙が満ちていく。
楠の木の芳醇な香りと、二人の荒い呼吸音。
削り出された木の手と、私の胸の奥底で狂ったように脈打つ心音だけが、夜の静寂を甘く揺らし続けていたのだった。




