第17話:ネクタイを引っ張られた日
大衆中華『三宝軒』のガラス引き戸を開けて路地裏へ出た瞬間、ひんやりとした十月の夕暮れの風が、油と熱気で火照った頬を心地よく撫でていった。
「……ふうぅっ! 食べた、食べたぁ……! 完全に胃袋の容量オーバーだわ」
私はパンパンに膨らんだ自分のお腹を手のひらで押さえ、思わず天を仰いだ。
大盛りの五目チャーハンに、肉汁滴る焼き餃子二人前、そして昼下がりの瓶ビール。炭水化物と脂質の暴力的な旨味に溺れた身体は、心地よい満腹感と微かなアルコールのせいで、指先までぽかぽかと温かい。
「栞さん、本当に幸せそうに食べますよね。見ているこっちまで、満腹中枢が麻痺しそうでしたよ」
隣を歩く宮原陸が、くすくすと喉を鳴らして笑った。
その口調は、店に入る前のあの凍りついたような冷徹さとは別人のように柔らかく、表情には憑き物が落ちたような穏やかさが宿っている。
ふと見ると、陸の白のハイゲージニットの首元から、紺とエンジのレジメンタルタイの結び目が覗いていた。
「……そういえば宮原くん、今日お休みのはずなのに、なんでニットの下にネクタイ締めてたの? さっき店で上着脱いだ時、ちょっと気になってたんだけど」
私の問いかけに、陸は歩みを止めず、苦笑交じりに首元のタイを指先で軽く弾いた。
「ああ、これですか。……午前中、実家の一族が集まるオンラインの親族会議があったんです。月に一度、従兄弟たちや親族が顔を揃えて、それぞれの仕事の進捗や昇進の状況を父に報告する……まあ、品評会みたいなものですね。自室から繋ぐだけでも、ネクタイを締めていないと母から烈火の如く怒られますから」
「日曜日なのに親族会議……しかも品評会って……」
「終わった後、ネクタイを完全に外す気力すら湧かなくて、結び目を緩めたまま上にニットを引っ掛けて中庭に出ちゃったんです。……みっともないですね、休日にまでこんな首輪を引きずって歩いてるなんて」
自嘲気味に呟く陸の横顔に、秋の西日が淡い影を落としていた。
目黒の住宅街へと続く、緩やかな上り坂。
普段の陸なら、長い足をすいすいと前へ運び、あっという間に私の二、三歩先を歩いているはずだった。外資系コンサルタント特有の、無駄を削ぎ落とした合理的な歩調。
けれど今、陸は歩幅を半分ほどに狭め、私のちまちまとした歩みにぴったりと速度を合わせて並んで歩いてくれていた。
肩と肩が、触れ合いそうで触れ合わない、絶妙な距離。
住宅街の家々からは夕飯の支度をする包丁のトントンという音や、お風呂を沸かすガスの匂いが漂ってきて、街全体が温かい黄昏色に沈み始めている。
「……僕の家って、異常なんです」
静寂を破るように、陸がぽつりと口を開いた。
前を見据えたまま、風に吹かれる木立を眺めるような、淡々とした声音。
「祖父も父も叔父も、全員が東大法学部を出て、財務省か警察庁の官僚か、大手渉外弁護士事務所のパートナーなんです。従兄弟たちもみんな開成や桜蔭から東大ストレート。物心ついた時から、リビングには全国模試の成績表が張り出されて、二番以下は『存在していないのと同じ』と教え込まれて育ちました」
「二番以下は、存在していないのと同じ……?」
「ええ。『宮原家の人間が一番を取るのは呼吸と同じ。努力したなどと口にするのは無能の証拠だ』って、父には一度も褒められたことがありません。小学校のテストで九十八点を取って帰った日、二点引かれた理由を三時間正座で問い詰められて……それ以来、満点以外を取る夢を見るたびに過呼吸で飛び起きるようになりました」
陸の指先が、ポケットの中で小さく強張るのが見えた。
「常に一番であれ。誰よりも優秀であれ。失敗は許されない、弱音は吐いてはいけない……。少しでも減点されれば、家族の輪から弾き出されて、人間としての価値をすべて剥奪される。……失敗することが、死ぬことよりも死ぬほど怖かったんです」
淡々と紡がれる告白。
けれどその一言一言には、二十五年間、張り巡らされた針の筵の上を裸足で歩き続けてきた青年の、血を吐くような孤独と恐怖が凝縮されていた。
同期最速でプロジェクトリーダーに昇進し、社内で「氷のプリンス」と持て囃され、誰もが羨むエリート街道の頂点を走りながら――この男の子は、いつ崩れ落ちるか分からない足場の上で、たった一人で震えていたのだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
ブラック企業で「代わりのいくらでもいる使い捨ての歯車」として扱われ、自尊心を削り取られて倒れた私とは、置かれた環境は正反対かもしれない。
けれど、「完璧でなければ愛されない」「誰かの期待に応え続けなければ生きている価値がない」という呪いに縛られ、呼吸の仕方を忘れてしまったその苦しみは、痛いほど、泣きたくなるほどによく分かった。
「……宮原くん」
坂道を登りきったところで、私は足を止めた。
陸が不思議そうに振り返り、足を止める。
茜色の夕陽が、二人の間に長い影を落としていた。
「私ね、前の会社で十年間、営業事務をやってたの」
私は手元を見つめ、自分の少し荒れた指先をぎゅっと組んだ。
「営業マンたちが取ってきた契約書のミスを探して、深夜まで修正して、怒鳴られて、罵倒されて……。『お前は代わりがいくらでもいる給料泥棒だ』って言われ続けて、最後は朝のエントランスで倒れて運ばれたのよ。あの時、私、本当に思ったの。『ああ、私は誰の期待にも応えられない、無価値な人間なんだ』って」
陸の瞳が、かすかに揺れた。
「でもね、会社を辞めて、祖母からあのアパートを継いで……みんなとご飯を食べて、廊下を掃除して、こうやって宮原くんとチャーハンを食べてみて、ようやく分かったの」
私は顔を上げ、陸の瞳をまっすぐに見つめた。
夕暮れの冷たい秋風が、私の後れ毛をふわりと揺らす。
「一番じゃなくたって、満点じゃなくたって、宮原くんは宮原くんだよ」
「……え?」
「東大卒の肩書がなくても、外資コンサルの役職がなくても、宮原家の看板がなくても……宮原陸っていう人間が、ここにちゃんと生きてるじゃない。誰かの期待に応えるために、自分の心を殺してまで戦い続ける必要なんて、どこにもないよ」
私は一歩、陸に歩み寄り、柔らかく微笑みかけた。
「少なくとも、メゾン・サクラにいる間はさ。……ただの『一〇一号室の陸くん』でいいんじゃない? 失敗したって怒る人なんて誰もいないし、弱音を吐いたって誰も軽蔑しない。チャーハンを口の周りにくっつけて笑ってる、普通の二十五歳の男の子でいていいんだよ」
――ただの、一〇一号室の陸くんでいい。
その言葉が落ちた瞬間、陸の動きが完全に止まった。
見開かれた切れ長の瞳。
夕陽の光を浴びたその瞳の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちていくのが見えた。
二十五年もの間、彼を縛り付け、窒息させ続けてきた分厚い氷の鎧が、私のたった一言の体温によって、融解していくように。
「……栞、さん……」
掠れた声が、風に溶けた。
陸は唇を震わせ、何かを言おうとして――けれど言葉が見つからないように、ただじっと私を見つめ返していた。
「さ、帰ろ! 夜には冷え込んでくるし、アパートで温かいお茶でも淹れ直すわよ」
気恥ずかしくなった私が踵を返し、坂道を下ってメゾン・サクラの黒い板塀へと歩き出した。
背後から、少し遅れてついてくる靴音。
角を曲がり、アパートの門をくぐる。
中庭の山桜の木が、夕陽の残光を浴びて赤黒いシルエットを描いていた。
築四十五年のモルタル壁、木製の引き戸のエントランス。
ガラガラと鍵を開けようと、私が玄関の土間に足を踏み入れた――まさにその瞬間だった。
――ギュッ。
「……っ!?」
背後から伸びてきた熱い掌が、私の右手を、逃げ場のない力加減でキュッと握りしめた。
冷え切っていた私の指先を、丸ごと包み込むような、熱い体温。
「み、宮原くん……?」
驚いて振り返り、見上げた私の呼吸が、喉の奥で凍りついた。
玄関の土間。
西の空から差し込む強烈な夕陽が、エントランスのガラス戸越しに陸の背中を照らし出し、巨大な逆光を作っていた。
光の中に浮かび上がる、百八十センチを超える長身のシルエット。
影になって表情は見えない。けれど、その双眸だけが、夕暮れの茜色と、燃え盛るような強烈な光を宿して、私を逃さず射抜いていた。
陸は無言のまま、私の右手を握った腕に力を込めた。
そして、私の手を――自分の胸元へと、ゆっくりと引き上げたのだ。
「え……っ? ちょっ、宮原くん、何――」
抗おうとした私の指先が導かれたのは。
白のハイゲージニットの首元から覗く、レジメンタルタイの――緩んだ結び目の真上だった。
「……っ!?」
絹の滑らかな手触りと、そのすぐ奥にある、ドクンドクンと狂ったように脈打つ陸の喉仏の振動。
私の手のひらが、ネクタイの結び目をすっぽりと包み込む形になる。
陸の大きな手が、私の手の上からさらに重ねられ、指をぎゅっと食い込ませるようにしてネクタイを握らせた。
そして――。
グイッッッ。
「ひゃっ……!?」
強烈な力で、手首ごと引き寄せられた。
足元の重心を完全に奪われ、私の身体は前へのめり込んだ。
ドンッ、と鈍い衝撃とともに、私の胸元が陸の硬く引き締まった胸板へと、隙間なくぶつかる。
鼻先が、陸の鎖骨のあたりに埋まる。
二人の距離が、ゼロになった。
シトラスの香水の匂いと、中華料理の残滓、そして何より――剥き出しになった大人の男の、生々しい熱と匂いが、私の全身の感覚を暴力的に支配した。
「み、宮原……っ」
「……陸、です」
耳元すれすれの距離で、低く、艶を帯びた声が降ってきた。
鼓膜を直撃するバリトンボイス。
吐息が私の耳たぶを熱く撫でるたびに、背筋を甘い電流が突き抜け、腰から力が抜けそうになる。
「栞さん」
陸が、握らせたネクタイをさらにグッと手繰り寄せた。
私の顔が持ち上げられ、夕陽の逆光の中で、陸の顔がすぐ数センチの距離まで迫る。
近い。近すぎる。
睫毛の長さまで数えられそうな距離。
陸の瞳には、夕暮れの茜色の空と――赤く染まり、狼狽えて瞳を揺らす私の姿だけが、鏡のように鮮明に映り込んでいた。
「……ずるいですよ、あなたって人は」
苦しげに歪む、陸の端正な口元。
額が触れそうな距離で、陸の熱い呼気が私の唇を何度も掠めていく。
「そんな風に……僕の全部を肯定して、抱きしめるようなこと言われたら……もう、二度とあなたから離れられなくなるじゃないですか」
「あ……宮原、くん……違う、私はただ、あなたが苦しそうだったから……」
「違わない」
遮られた。
ネクタイを握る私の手に、陸の指がさらに強く絡みつく。
骨が軋むほどの力。
その力加減は、先ほど坂道で見せた「傷ついた少年」の甘えではなかった。
狙った獲物を絶対に逃がさないと決めた、獰猛な雄の執着。
「……栞さんの前でだけ、息ができるんです」
耳元に落ちてくる、切実で、けれど逃げ場のない掠れた囁き。
「外の世界でどれだけ完璧を演じても、この場所に帰ってくれば……あなたの前にいれば、僕は僕でいられる。……栞さん、僕にとって、ここはもうただのアパートじゃないんです。あなたが、僕の呼吸そのものなんです」
トクン、トクン、トクン。
陸の胸板を通して伝わってくる心音と、私の心臓の早鐘が、狂ったように共鳴し合う。
「だから……」
スウッと、陸の瞳が一段と暗く、深く沈み込んだ。
冷徹な独占欲の炎が、その底でギラリと牙を剥く。
「他の奴に、僕の居場所を取らせないでください」
「っ……!」
「柴崎さんにも、創にも、深見先生にも……絶対に渡さない。……僕だけを見てください、栞さん」
懇願でありながら、それは完璧な脅迫だった。
年下の男の子が見せる、脆さと、傲慢なまでの愛の重さ。
そのギャップの破壊力に、私の思考回路は完全に焼き切れて、指先一本すら動かせなくなっていた。
引き寄せられたネクタイを握ったまま、至近距離で見つめ合う二人。
夕陽の最後の光が、エントランスの土間を真っ赤に染め上げていく。
触れ合いそうな唇。
陸の顔が、さらに数ミリ、私の唇へと吸い寄せられるように傾いた――その時だった。
――ギシッ。
二階へと続く木製の階段の踊り場から、小さく、けれど鋭い床鳴りの音が響いた。
「……っ!?」
ハッと我に返った私が、咄嗟に陸の胸板を力任せに押し返した。
陸の身体がわずかに後退し、ネクタイを握っていた私の手が、弾かれたように胸元へと戻る。
見上げると、階段の薄暗い影の向こうから、誰かの視線が落ちてきていたような――そんな冷たい気配だけが、夕暮れの廊下に微かに残っていた。
「……はぁっ……はぁっ……!」
乱れた呼吸のまま、私は真っ赤になった顔を両手で覆い、玄関の壁に背中を預けてへたり込んだ。
心臓が痛い。
全身の血液が沸騰して、身体中が熱くてたまらない。
陸は緩んだネクタイを指先でそっと撫で、乱れた息を整えながら、私を見下ろしていた。
その口元には――獲物を確実に追い詰めたことを確信したような、妖しく、不敵な笑みが浮かんでいた。
「……ごちそうさまでした、栞さん。チャーハンも、言葉も」
陸はスニーカーを脱ぎ、上がり框に綺麗に揃えると、私の横を通り過ぎざまに、耳元へ甘い毒を落としていった。
「僕の居場所……絶対に、守り抜いてみせますから」
カチャリ、と一〇一号室のドアが閉まる音。
薄暗くなったエントランスに、一人残された私。
握りしめていた右手のひらには、まだ陸のネクタイの感触と、首筋の狂おしいほどの熱が、消えない焼き印のように残り続けていたのだった。




