第16話:宮原の仮面と、母からの着信
台風一過から数日が過ぎ、十月の風は急速に秋の深まりを告げていた。
木造アパートの廊下というのは、季節の変わり目に実に素直だ。裸足でスリッパを履いていると、板張りの隙間から上がってくるひんやりとした冷気が足首をかすめ、かすかに軋む床の音が秋の静けさを際立たせる。
「よいしょ、っと……」
日曜日の午後一時半。
私は膝に古タオルを当て、バケツに張ったぬるま湯で固く絞った雑巾を手に、一階の共用廊下を端から端へと拭き上げていた。
先週の台風で巻き上げられた細かな砂埃はあらかた片付いたものの、木造の廊下はこまめに水拭きと乾拭きを繰り返すことで、飴色の艶が深まる。祖母の管理日誌にも『サクラの床は女の肌と同じ。手をかけた分だけ裏切らない』と太字で書かれていた。
(それに……こうやって体を動かして無心になってないと、色々と考えすぎちゃうのよね……)
雑巾を滑らせながら、思わずため息が漏れる。
先週木曜の嵐の夜、停電したダイニングでロウソクを囲んだあの異様な時間。そして翌朝、中庭の縁側で男たち四人から浴びせられた、甘やかしと独占欲が剥き出しになった言葉の数々。
あれ以来、アパート内の空気は明らかに一段ギアが上がっていた。
柴崎さんは朝食のたびに「栞さんのために」と焼きたてのクロワッサンや特製スープを過保護なまでに運んでくるし、深見さんは共用キッチンですれ違うたびに私の手首を掴んで「珈琲淹れろ、原稿のモチベーションだ」と低音で迫ってくる。創くんに至っては、目が合うたびに耳の先まで真っ赤にしてそっぽを向くくせに、私が重いゴミ袋を持とうとするとどこからともなく現れて無言で奪い取っていくのだ。
そして――一〇一号室の宮原陸。
金曜の夜、昇進の祝杯にかこつけてソファで私を押し倒し、唇が触れ合う寸前まで迫ってきたあの年下エリート。
普段は人懐っこい大型犬の顔をして甘えてくるくせに、ふとした瞬間に覗かせる、男としての底知れぬ飢えと強烈な独占欲。あのギャップを思い出すたび、私の心臓はいまだに不規則な警報を鳴らしてしまう。
「いけないいけない! 私は大家! 三十代の現実主義者! イケメンたちの過剰な糖度に惑わされてる場合じゃないの!」
両手で自分の頬をパチンと叩き、気合いを入れ直して雑巾を水で濯ごうとした、その時だった。
中庭に面した縁側のガラス戸の向こうから、低く硬質な話し声が風に乗って耳に届いた。
「……え?」
普段のメゾン・サクラなら、誰かが中庭にいる時は気配で分かる。
けれど、その声はいつものダイニングで交わされる穏やかな談笑とは、まるで別世界のものだった。
感情の起伏が完全に削ぎ落とされた、氷のように冷たく、機械的なトーン。
『――はい。今期の評価も、全社で最上位のAでした。……はい。担当したグローバルプロジェクトの採択に伴うものです』
私は思わず雑巾を止め、廊下の影から中庭の様子をそっと伺った。
秋の日差しが降り注ぐ中庭のベンチ。
山桜の木陰に腰掛けていたのは、宮原陸だった。
いつもの高級スーツではなく、休日のラフな白のハイゲージニットに濃紺のチノパン姿。
けれど、その背筋は定規を当てたようにピンと張り詰め、スマホを耳に当てた右手の指先は、白くなるほど強く端末を握りしめられていた。
表情が見えない。ただ、風に揺れる前髪の隙間から覗く横顔は、社内で「氷のプリンス」と呼ばれているという噂を裏付けるように、一切の体温を感じさせない冷徹な仮面そのものだった。
『……はい。ニューヨーク本社からの打診は、先日の通り辞退いたしました。代わりに、国内ファームの共同代表枠での昇格人事が内定しています。……父の顔に泥を塗るような結果にはなっていないはずです』
相手の声は聞こえない。
けれど、通話口の向こうから、一方的で、逃げ場のない冷徹な要求が投げかけられていることだけは、陸の強張った喉仏の動きから痛いほど伝わってきた。
『……はい。母さんの仰る通りです。宮原家の名に恥じぬよう、次のクオーターでも結果を出します。……ええ。次の異動でも、本社の意向に従います。……父さんにも、そうお伝えください。……失礼いたします』
ツ、ツ、ツ……と通話が切れる無機質な電子音が、静まり返った中庭に小さく響いた。
通話を終えた陸は、スマホを太ももの上に置くと、両手で顔を覆い、そのまま深く、深く項垂れた。
百八十センチを超える大柄な背中が、まるで凍える小動物のように小さく丸まっている。
指の隙間から漏れ聞こえてきたのは、絞り出すような、重苦しい吐息だった。
「…………っ、はあ…………」
その姿を見た瞬間、私の胸の奥に、鋭い痛みが走った。
(あ……これ、私と同じだ……)
知っている。痛いほど、よく知っている姿だ。
かつて前のブラック企業で、工藤部長から電話で罵倒され、クライアントからの理不尽な要求をすべて押し付けられ、オフィスの非常階段の踊り場で一人、誰にも見られないようにしゃがみ込んで息を詰まらせていた、あの頃の私の姿そのものだった。
宮原陸の実家が、代々東大卒の高級官僚や法曹関係者を輩出してきた超名門の一族であることは、以前、酔った彼から断片的に聞いていた。
物心ついた時から「常に一番であれ」「宮原家の人間として恥ずかしくない成果を出せ」と刷り込まれ、成果を出さなければ存在意義すら否定される世界。
外資系コンサルティングファームで同期最速の昇進を果たし、年収も社会的地位も同年代の遥か上を走っているはずの彼が、今なおその見えない呪縛に首を絞められ、息絶え絶えになっている。
「……宮原くん」
考えるよりも先に、足が動いていた。
私は雑巾をバケツの縁に置き、縁側のサンダルを突っかけて、中庭の砂利を踏みしめて歩み寄った。
砂利の擦れるジャリッという音に、陸の肩がビクッと跳ね上がった。
顔を上げた陸は、私の姿を認めた瞬間――信じられない速度で、いつもの「完璧な笑顔」を顔の上に張り直してみせたのだ。
「あ……栞さん! こんにちは。お掃除中でしたか?」
声のトーンは明るく、目尻は柔らかく下げられ、口元には爽やかなカーブが描かれている。
けれど――その笑顔は、痛々しいほどに引きつっていた。
瞳の奥は光を失って濁り、唇は微かに血の気を失って震えている。心の中で激しく血を流しているのに、「僕は平気です、完璧です」と周囲を安心させるためだけに作られた、悲しすぎるビジネススマイル。
「すみません、みっともないところをお見せしてしまって。実家の母から、ちょっと仕事の確認の電話があっただけですから。……何でもありませんよ」
何でもないわけがない。
その痛々しい笑顔が、かつて限界を迎えて倒れる直前の自分と完璧に重なって、私の胸の奥で何かがブチリと音を立てた。
他人のプライベートに過剰に踏み込んではいけない。大家と店子の境界線を守らなければならない。
そんな理屈は、全部吹き飛んだ。
「宮原くん」
「はい? 何かお手伝いできることが――」
――ガシッ。
私は迷うことなく手を伸ばし、ベンチの上に置かれていた陸の逞しい右手首を、両手で力任せに掴み上げた。
「……っ!? 栞、さん……?」
驚いて目を丸くする陸。
手首から伝わってくる彼の体温は、十月の昼下がりだというのに、氷のように冷え切っていた。
私は陸の切れ長の瞳を、逃げ場のない至近距離からまっすぐに見据えた。
「宮原くん。靴、履いて」
「え……? 靴って、スニーカーならそこにありますけど……どこか行かれるんですか?」
「行くの。今すぐ」
私は掴んだ手首をぐいと引き、立ち上がらせた。
「たまにはさ、意識の高いオーガニックカフェとか、予約の取れない高級フレンチとかじゃなくて――身体にめちゃくちゃ悪いもの、食べに行かない?」
「……は?」
ポカンと口を開けるエリート男子の手を引き、私は一切の反論を許さない勢いで、中庭からエントランスへと引っ張っていった。
メゾン・サクラを出て、目黒の閑静な住宅街を抜け、駅前商店街の路地裏へ。
日曜日で賑わうメインストリートから一本外れた、昭和の面影を色濃く残す飲み屋街の一角に、目指す店はあった。
黄色いテント生地の看板に、赤ペンキで殴り書きされた店名。
『中華料理 三宝軒』
油煙で薄汚れた換気扇からは、ラードとニンニク、焦がし醤油の暴力的なまでに食欲をそそる匂いがもうもうと吐き出されている。ガラス扉には手書きの短冊メニューがびっしりと貼られ、店内からは中華鍋をガコンガコンと激しく振る重金属音と、威勢のいい店主の怒号のような挨拶が響いていた。
「……し、栞さん。ここ、ですか……?」
店の前に立ち尽くした陸は、引きつった顔で看板を見上げていた。
普段、丸の内や六本木のハイエンドなレストランでクライアントと会食している二十五歳のエリートにとって、この昭和レトロを通り越して「文化遺産」のような大衆中華は、未知の秘境そのものだったらしい。
「そうよ、ここ! 私の前職時代の命の恩人なんだから。入るわよ!」
ガラガラッ、と引き戸を開けると、店内に充満する熱気と油の香りが顔面を直撃した。
床は長年の油で微かにペタペタと鳴り、壁のポスターはビール会社の水着キャンペーンガール(平成初期)。中央には、真っ赤なベニヤ天板の丸テーブルと、パイプ椅子が並んでいる。
「いらっしゃい! 二人ね! 奥の丸テーブル座って!」
白髪交じりの店主が、ねじり鉢巻に油染みのエプロン姿で中華鍋を煽りながら叫ぶ。
私たちは促されるまま、一番奥の赤い丸テーブルに腰を下ろした。
陸は居心地悪そうに周囲を見回し、テーブルの上に置かれた使い捨ての割り箸立てや、油の跳ねたメニュー表をおずおずと指先で触れている。
「栞さん……ここ、本当に大丈夫なんですか? カロリーとか、塩分とか、衛生管理基準が色々と凄まじいことになっていそうですが……」
「いいの! 今のアナタに必要なのは、カロリー計算でも栄養バランスでもないの!」
私はお冷のプラスチックコップをテーブルにドンと置き、メニューも見ずにカウンターへ向かって大声で注文を飛ばした。
「マスター! 五目チャーハン大盛りと、焼き餃子二人前! あと、瓶ビール一本ください!」
「あいよっ! チャーハン大盛り、餃子二枚、ビールね!」
即座に返ってくる威勢のいい声。
陸は目を丸くして私を見つめていた。
「栞さん、お昼からビール飲むんですか……?」
「飲むわよ! 日曜日なんだから! 宮原くんも飲むでしょ?」
「あ……いえ、僕は午後から資料の手直しをしようかと……」
「仕事のことは今すぐ頭のゴミ箱に捨てなさい! 今日は強制休戦日!」
私がキッパリと言い放つと、陸は呆気に取られたように瞬きをし、やがてふっと小さく苦笑いを漏らした。
「……手厳しいですね、大家さん」
「手厳しくもなるわよ。あんな、魂が抜け殻になったみたいな顔して電話受けてるの見せられたら」
私の言葉に、陸の笑顔がピクリと動きを止めた。
視線を落とし、テーブルの木目をじっと見つめる陸。
そこへ、店主の奥さんが栓を抜いた大瓶のキリンラガービールと、厚手のガラスコップを二つ、ドンと運んできた。
「はい、ビールね! 餃子すぐ焼けるから待っててね!」
「ありがとうございます!」
私は手慣れた手つきでコップにビールを注いだ。
黄金色の液体の上に、きめ細かい白い泡が盛り上がる。
コップを一つ、陸の目の前へと押しやった。
「はい。乾杯」
「……乾杯、ですか」
「そう。何でもいいの。『今日も生き延びた記念』で乾杯!」
私がコップを差し出すと、陸は迷うように視線を泳がせた後、観念したように自分のコップを手に取った。
カチン、とガラスのぶつかる鈍い音が店内の喧騒に混ざる。
ゴクリ、と喉を鳴らして飲むビール。
苦味の利いた熱いアルコールが、乾いた喉を刺激的に潤していく。
陸もまた、喉仏を大きく上下させて一口あおると、ふう、と深く息を吐き出した。
先ほどまでの強張っていた肩の線が、わずかに緩む。
「……お待たせ! 五目チャーハン大盛りと、焼き餃子ね!」
ドスン、と置かれた大皿を見て、陸の息が止まった。
真っ赤な丸テーブルの上に現れたのは、巨大な山だった。
お玉二杯分はあろうかという、黄金色のチャーハンのドーム。
ラードの艶やかなコーティングを纏った米粒の一粒一粒が、香ばしい煙をもうもうと立ち上らせている。刻まれた自家製チャーシューの赤、卵の黄色、ネギの緑、そして頂点に鎮座するプリプリのエビ。
その隣には、パリッとした見事な羽根をつけた、大ぶりの焼き餃子が十個。焦げ目のついた皮からは肉汁の香りが弾け、酢醤油とラー油の小皿が湯気を吸い込んでいる。
「な……なんですか、この量は……!? 三人前くらいありませんか……!?」
「これが『三宝軒』の標準サイズよ! はい、割り箸!」
私がパチンと音を立てて割り箸を割り、陸の手元へと突きつける。
「文句言わずに食べる! 炭水化物と脂の暴力に身を委ねなさい!」
「暴論すぎますよ……!」
陸は困惑しながらも、割り箸を受け取ると、恐る恐るチャーハンの山にレンゲを差し入れた。
サクッ、と崩れる米の山。
立ち上る焦がしラードの濃厚な香りに、陸の喉が小さくゴクリと鳴る。
そして、意を決したように、山盛りのチャーハンを口の中へと放り込んだ。
「…………っ」
咀嚼を始めた瞬間、陸の動きが完全に静止した。
見開かれる切れ長の瞳。
パラパラと口の中でほどける米粒。そこに絡みつく濃厚なラードのコクと、塩コショウのパンチ、そして噛むほどに溢れ出す甘辛いチャーシューの旨味。
化学調味料を恐れない、直球ど真ん中のジャンクな美味さが、陸の脳天を直撃していた。
「……ど、どう? 美味しいでしょ?」
私が尋ねると、陸は返事をする代わりに、猛烈な勢いでレンゲを動かし始めた。
二口、三口。
止まらない。
続いて、箸で焼き餃子を一つ掴み、ラー油たっぷりのタレにダイブさせて丸ごと口へ放り込む。
パリッ、ジュワァァッ……!
薄い皮が弾け、中からニンニクとニラがガツンと利いた熱々の豚肉の肉汁が溢れ出す。
陸はハフハフと熱そうに息を吐きながら、ビールを一気に流し込み、再びチャーハンへとレンゲを突き刺した。
「むぐ……っ、うまっ……何これ、すごく……美味い……!」
「でしょ!? ここのチャーハン、世界一なんだから!」
普段の、ナイフとフォークを上品に使ってフレンチを嗜むエリートの姿はどこへやら。
陸はネクタイもないラフなニットの袖をまくり、一心不乱にチャーハンの山を崩し、餃子を頬張り続けていた。
その食べっぷりは、まるで何日も飢えていた野生の大型犬そのものだった。
眉間に刻まれていた張り詰めた緊張のシワは跡形もなく消え去り、額にはうっすらと健康的な汗が滲んでいる。
「ふふっ……あはは!」
思わず、私の口から笑いが溢れた。
「……え? な、なんですか栞さん。僕、そんなにおかしな食べ方してますか?」
陸がレンゲを止めて、きょとんとした顔で私を見つめてくる。
その整った顔の、口元の端っこには――オレンジ色のラー油と、チャーハンの米粒が一つ、ちょこんと可愛らしくくっついていた。
「口、口元! 油ついてるし、お米ついてるよ」
「えっ!? 嘘――」
慌ててペーパーナプキンで口元を拭おうとする陸。
その仕草があまりにも無防備で、子どもっぽくて。
社内で「氷のプリンス」と呼ばれ、宮原家の重圧に押し潰されそうになっていた青年が、油の跳ねる赤いテーブルの上で、ただのお腹を空かせた二十五歳の男の子に戻っていた。
「……あっはは! 本当に、美味しそうに食べるわね宮原くんは」
私が心からの笑顔で笑いかけると、陸の手がピタリと止まった。
そして――。
陸の頬が、カッと林檎のように赤く染まり上がった。
照れ臭そうに視線を泳がせ、口元を手で隠しながら、くしゃっと、本当に嬉しそうに目を細めて笑ったのだ。
「……栞さんのせいですからね。こんな体に悪いもの、食べさせられて」
「何言ってるの、あんなにガツガツ食べてたくせに!」
「……でも。本当に、美味いです。……こんなに美味しいご飯、何ヶ月ぶりだろう」
陸はレンゲを置き、手の中のビールグラスを見つめながら、静かに呟いた。
その横顔には、もうあの冷徹な仮面はなかった。
憑き物が落ちたような、穏やかで、柔らかな体温。
「僕……子どもの頃から、ファーストフードも大衆食堂も、一度も連れて行ってもらったことがなかったんです。食事は常にマナーの試験で、家族の会話は全部テストの点数と順位の確認で……。味がどうかなんて、考えたこともありませんでした」
「宮原くん……」
「でも、ここに来て……栞さんと一緒にいると。ご飯がちゃんと美味しくて、息ができて……自分が生きてるんだって、実感できるんです」
陸は顔を上げ、潤んだ切れ長の瞳で、まっすぐに私を見つめてきた。
赤いベニヤ板のテーブル越しに、熱い視線が絡み合う。
心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
「……栞さん。連れ出してくれて、ありがとうございました」
「……ううん。お礼なんていいのよ。美味しく食べてくれたなら、それで十分」
照れ隠しにビールを一口煽る私。
けれど、目の前で口元を拭いながら微笑む陸の無防備な笑顔から、どうしても目を離すことができなかった。
完璧なエリートの仮面を剥ぎ取った先に現れた、脆くて、愛おしい年下男子の素顔。
その心の柔らかい場所に触れてしまったのだと、私はこの時、確かに自覚していたのだった。




