第15話:雨上がりの誓いと最初の亀裂
ピピッ、ピロリロリロン――。
電子音が鳴り響き、止まっていた冷蔵庫のコンプレッサーが低く唸りを上げ始めた。
続いて、共用廊下の非常灯がカチリと音を立てて消え、管理人室の天井の角型シーリングライトが、パッと眩い蛍光色を部屋いっぱいに投げかけてくる。
「……ん……っ」
まぶたの裏を突き刺す光に、私は呻き声を上げて目を覚ました。
畳の上に敷かれた敷布団。
昨夜、停電したダイニングでカセットコンロの火とロウソクの灯りを囲み、男たち四人に全方位から隙間なく密着されて護られていた私は、嵐が去り始めた未明、極度の安堵と疲労によって限界を迎え、そのまま意識を手放してしまったのだった。
気がつけば自室の布団に運ばれ、冷えないようにしっかりと二重の毛布が掛けられていた。誰がここまで運んでくれたのかは――考えるだけで顔から火が出そうなので、一旦思考のゴミ箱に放り込むことにする。
上半身を起こし、障子を開けて雨戸の隙間から外を覗き見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「わあ……っ」
そこには、昨夜の狂乱が嘘のような、見事な「台風一過」の青空が広がっていた。
雨雲のひとかけらすら残っていない、どこまでも深く、澄み渡る秋晴れのセルリアンブルー。
洗われた大気は驚くほど冷涼で澄み切っており、濡れた木々の葉が、差し込んできた強烈な朝陽を浴びてダイヤモンドのようにキラキラと乱反射している。
「電気、復旧したんだ……! よかった……!」
安堵の息を吐き出すと同時に、大家としての本能が目を覚ました。
いくら天気が回復したとはいえ、昨夜は観測史上最大級とまで言われた猛烈な暴風雨だったのだ。築四十五年のメゾン・サクラが無傷で済んでいるはずがない。
私は急いでジャージに着替え、髪を後ろで無造作に束ねると、サンダルを引っ掛けて中庭へと飛び出した。
「うわ……これは、思っていた以上に派手にやられたわね……」
中庭に足を踏み入れた瞬間、私は呆然と立ち尽くした。
中央にそびえるシンボルツリーの山桜は、なんとか倒木こそ免れたものの、大人の太ももほどもある太い枝が何本もボキボキとへし折れ、無惨に地面へ横たわっていた。敷き詰められた砂利の上には、濡れそぼった大量の枯葉と折れた小枝、ちぎれた雨樋の破片、そしてどこからか飛んできた見知らぬプラスチックの植木鉢が散乱している。
足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。
「よし……落ち込んでる暇はないわ。ゴミ収集車が来る前に、通路だけでも綺麗に掃き清めて、折れた太い枝をノコギリで解体して――」
腕まくりをして道具小屋へ駆け込もうとした、その時だった。
「……おい。誰が一人でそんな重労働やれって言った」
背後から、低く掠れた声が降ってきた。
振り返ると、そこには黒いスウェットパンツに、首元の伸びきったグレーのTシャツを引っ掛けた深見怜が立っていた。
丸眼鏡の奥の目は酷く眠たげで、髪は鳥の巣のように爆発している。手には火のついていない煙草を一本くわえ、億劫そうに首筋をボリボリと掻いていた。
「深見さん! 起きて大丈夫なんですか? 昨夜、一番遅くまで起きてましたよね」
「アパートの外からガタガタと竹箒の音が聞こえりゃ、嫌でも目が覚めるんだよ。……おい創、陸、柴崎! いつまで寝てやがる、大家が一人で無茶しようとしてるぞ!」
深見がだらしなく声を張り上げた瞬間、エントランスの引き戸が勢いよくガラガラと開いた。
「栞さん! おはようございます! 怪我はありませんでしたか!?」
白の無地Tシャツにデニムというラフな部屋着姿の宮原陸が、濡れた中庭の敷石をものともせずに駆け寄ってきた。昨夜、私の肩を抱き寄せていた時の生々しい体温を思い出して私の心臓がドキンと跳ねる。
「大家さん、おはようございます。朝食用のパンを焼いておきましたから、作業が終わったらみんなで食べましょうね」
続いて現れたのは、麻のエプロンをきっちりと締めた柴崎晴人だ。手にはゴミ袋のロールと、軍手の束が握られている。
「……ノコギリ、俺がやる。あんたは触るな」
最後に、二階からドカドカと階段を踏み鳴らして降りてきた野村創が、巨大な両刃ノコギリとバールを小脇に抱え、ぶっきらぼうに私の前へと立ちふさがった。タンクトップから覗く筋骨隆々とした二の腕には、朝から気合いの入った筋が浮き出ている。
「あ……皆さん……! でも、これは大家の仕事で、皆さんはお仕事や学校が――」
「有休取ってます。プロジェクトのキックオフは来週からですから、今日一日はアパートの復旧に専念します」(陸)
「午前中の講義、休講になった。……枝の片付けくらい、すぐ終わる」(創)
「僕の店も、ランチ営業は仕入れの確認でお休みにして、ディナーから開けることにしました。時間はたっぷりありますよ」(柴崎)
「俺は締め切りが終わったばかりの無敵の身だ。……まあ、肉体労働はまっぴらごめんだが、小枝を袋に詰めるくらいなら手伝ってやる」(深見)
誰一人として、私に一人で作業をさせる気など微塵も持ち合わせていなかった。
四者四様の頼もしすぎる男たちに囲まれ、私は胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
「……ありがとうございます、皆さん! じゃあ、手分けして中庭を元通りにしましょう!」
私の号令とともに、秋晴れの中庭で、男たちの驚異的な連係プレーが幕を開けた。
その作業効率たるや、目を見張るものがあった。
創が圧倒的なパワーでへし折れた太い桜の幹にノコギリを入れ、ザクッ、ザクッと小気味よい音を立てて薪のようなサイズに切り分けていく。太い腕の筋肉が波打ち、飛び散る木屑が朝陽を浴びてキラキラと輝く。
陸は持ち前の論理的思考を発揮し、「可燃ゴミと粗大ゴミ、木材の分別ルートをこちらに固定します。創くんが切った枝を僕が運ぶので、柴崎さんは袋詰めをお願いします」と的確に指示を飛ばして最短の動線を作り上げる。
柴崎さんは手際よく散乱した落ち葉を一箇所に集め、ちりとりで手早く大きなポリ袋へと収めていく。その合間に、「栞さん、埃が立ちますからマスクをつけてくださいね」と私の口元に不織布マスクを優しくあてがってくれる過保護さだ。
そして深見はといえば、「腰が痛え」「作家の繊細な指先が荒れる」と悪態をつきながらも、長身を屈めて誰よりも黙々と、通路の端に溜まった濡れ落ち葉を竹箒で掃き集めていた。
一時間、二時間。
五人で汗を流すうちに、足の踏み場もなかった中庭は見違えるように美しさを取り戻していった。
折れた大枝は綺麗に束ねられて道具小屋の脇に積み上げられ、砂利の上からは枯葉が一枚残らず取り除かれ、散水ホースで打ち水がされた敷石が、秋の朝陽にしっとりと濡れて輝いている。
「……ふうぅっ! 終わったぁぁぁ!」
午前十一時。
最後のごみ袋の口を縛り終えた瞬間、全員から自然と歓声のような吐息が漏れた。
心地よい疲労感。額に浮かぶ汗を拭いながら、私は管理人室の台所へと駆け込んだ。
「皆さん、本当にお疲れ様でした! 冷たい麦茶、淹れてきましたよ!」
大きなガラスのピッチャーに、冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた麦茶と氷をたっぷり入れ、汗をかいたグラスを五つお盆に乗せて戻ってくる。
中庭に面した縁側に、男たちがめいめいに腰を下ろして風に当たっていた。
Tシャツの胸元をパタパタと仰ぐ陸、汗ばんだ首筋をタオルで拭う創、エプロンを外して深く息をつく柴崎、そして縁側の端でようやく煙草に火をつけた深見。
「どうぞ、宮原くん。創くんも、柴崎さんも、深見さんも」
カラン、と氷の涼やかな音を立ててグラスを配ると、男たちは喉を鳴らしながら一気に麦茶を煽った。
ぷはあ、と息を吐き出す姿は、どれも雑誌のグラビアのように絵になっていて、思わず見惚れそうになる。
私はグラスを両手で包み込み、縁側の真ん中、男たち四人が腰掛けるちょうど中央の板張りに正座した。
そして、居住まいを正し、膝の上に両手を揃えて、深々と頭を下げた。
「昨日は……そして今朝も。皆さん、本当にありがとうございました」
静まり返る中庭。
私の真剣な声に、氷の溶ける音だけが小さく響く。
「昨夜の台風……私、情けないことに雷が怖くて、足がすくんで、廊下で一人で泣きじゃくって動けなくなっちゃって……。祖母からこのアパートを任された『大家』なのに、住人の皆さんを守るどころか、一番に取り乱して、皆さんに抱きとめられて、温めてもらって、看病されて……本当に、情けない大家でごめんなさい」
元社畜としての責任感と、三十代の大人の女性としての不甲斐なさが胸を締め付け、私の視線は自然と板張りの床へと落ちていく。
迷惑をかけてしまった。
契約上は私が管理責任者なのに、完全に守られるだけの足手まといになってしまった。
そんな私の自責の念を、四人の男たちが黙って見過ごすはずがなかった。
「――栞さん」
最初に口を開いたのは、右隣に座っていた宮原陸だった。
グラスを縁側にコトリと置いた陸は、身を乗り出し、私の顔を覗き込んできた。
その顔には、昨夜の嵐のような狂おしい独占欲ではなく、秋晴れの青空のように澄み切った、眩しいほどの極上の笑顔が浮かんでいた。
「情けなくないですよ。……守りがいがあるって、言ったでしょう?」
「え……?」
「僕たちは、完璧で隙のない大家さんなんて求めていません。……怖かったら怖がっていいし、泣きたかったら泣いていいんです。昨夜、僕の胸の中で小さくなって震えていたあなたの温もりを思い出すだけで……僕、どんな過酷な仕事だって乗り越えられる気がするんですから」
爽やかなエリートの仮面の下から、甘く熱い告白がストレートに飛んでくる。
私の頬が一気に朱に染まった。
「……おい、陸。抜け駆けして調子のいいこと言ってんじゃねえよ」
左隣から、低くぶっきらぼうな声が割り込んできた。
野村創だった。
創は麦茶のグラスを握りしめたまま、あからさまに私から顔を背け、そっぽを向いていた。
けれど、その短く刈り上げられた襟足から、耳の先、そして太い首筋にかけてが――まるで夕焼けのように真っ赤に染まり上がっている。
「……次からは、呼べ」
「創くん……?」
「雷が鳴ったら、一番に俺を呼べって言ってんだよ。……二階からでも、アトリエからでも、走ってくるから。……あんたが泣いてるとこ、他の奴に見せたくねえんだよ」
そっぽを向いたまま、消え入りそうな声で紡がれた決死の言葉。
ピュアすぎる年下男子の不器用な独占欲に、私の心臓がトクンと激しく跳ね上がる。
すると、縁側の端から、紫煙を細く吐き出す気怠げな笑い声が響いた。
深見怜が、携帯灰皿に煙草をもみ消しながら、丸眼鏡の奥の目を細めて私を見据えていた。
「くくっ……若いガキどもが熱烈だな。だがな、大家」
深見は長い足を組み直し、顎で私を指した。
「あんたの泣き顔、小説のネタにはなったな。……悪くなかったぞ」
「深見さん! 人の弱みを小説のネタにしないでください!」
「ネタになるくらい、魅力的な表情だったって褒めてんだよ、鈍感女。……まあ、暗闇の中で怯えて俺のシャツを握りしめてた手の感触は、誰にも書かせねえけどな。俺だけの専売特許だ」
意地悪そうに口角を吊り上げながら、低音ボイスで囁かれる大人の色気。
昨夜の換気扇の下や密室での記憶がフラッシュバックし、私の頭から湯気が出そうになる。
そして――最後に。
私のすぐ目の前に屈み込み、優しく私の両手を包み込んできたのは、柴崎晴人だった。
柔らかな栗色の髪を風に揺らし、目尻を下げた菩薩のような笑顔。
けれど、その瞳の奥底には、昨夜の鍋の湯気の向こうで見せた、逃げ場のない甘い執着がギラギラと渦巻いていた。
「栞さん。大家さんだからって、一人で背負い込む必要なんてないんです」
柴崎さんの親指が、私の手の甲を優しく、愛おしそうになぞる。
「僕たちがいるんですから、もっと甘えてくださいね。……あなたの胃袋も、生活も、不安も……全部、僕が満たして、守ってあげますから」
「晴人、さん……っ」
四者四様の、一切の容赦のない甘やかしと求愛の言葉。
眩しい笑顔で口説いてくる年下エリート。
耳を真っ赤にして必死に囲い込もうとする純情美大生。
気怠げな大人の余裕で独占欲を匂わせるミステリ作家。
そして、優しい包容力の仮面で外堀を埋めてくるスパダリシェフ。
四人の男たちの視線が、私の身体の中心へと一斉に突き刺さる。
息が止まりそうになるほどの高密度な糖度。
しかし――次の瞬間だった。
バチィィッ……!
目に見えるほどの火花が、男たちの間で激しく散った。
陸が柴崎の手元を冷ややかに見据え、創が陸を睨みつけ、深見が三人まとめて嘲笑うように目を細め、柴崎が全員に対して一切の温度を感じさせない完璧な営業スマイルを向け返す。
「柴崎さん、大家さんの手をいつまで握ってるんですか? もう離してください」(陸)
「減るもんじゃありませんよ、陸くん。それより、昨夜の抱きつき方、ずいぶん強引でしたね?」(柴崎)
「……あんたら二人とも、大家さんから離れろ。近すぎる」(創)
「おいおい、小僧どもが騒がしいな。抜け駆けした奴から順番に、次の新作で酷い目に遭わせてやろうか?」(深見)
笑顔の裏で交わされる、氷点下の舌戦。
そこにはもはや、昨夜の災害を前にして結ばれていた「住人同士の助け合い」という美しい連帯感は、カケラも残っていなかった。
あるのはただ一つ――この佐伯栞という一人の女を、誰が最初に手に入れるかという、剥き出しのライバル意識と宣戦布告の熱狂だけだった。
(あ……これ、完全に終わったわ……)
冷たい麦茶のグラスを握りしめたまま、私は心の中で天を仰いだ。
祖母の遺言に書かれていた、唯一にして最大の防壁。
『住人同士、そして大家との私生活への過剰な干渉・プライベートの詮索は禁止』。
そんな生ぬるいルールは、昨夜の超大型台風の暴風雨とともに、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまっていたのだ。
十年間勤めたブラック企業を過労で退職し、祖母からアパートを相続したあの日。
「恋愛市場から自主退場し、家賃収入でのんびり一人暮らしをする」と誓った私のささやかな隠居計画は、入居からわずか数週間にして、完全に、跡形もなく崩壊してしまった。
目の前に広がるのは、澄み渡る秋晴れの青空と、綺麗に片付いた美しい中庭。
そして――私を巡って静かに牙を剥き、獲物を品定めするように熱い視線をぶつけ合う、四人の極上男子たち。
「……あ、あの……皆さん」
私が恐る恐る震える声で口を開くと、四つの端正な顔が一斉にこちらを向いた。
「「「「なんですか、栞さん(大家)」」」」
息の合いすぎた返事に、私は喉の奥まで出かかった悲鳴を必死に飲み込み、精一杯のツッコミを絞り出した。
「だ、誰がなんと言おうと……来月の家賃は、愛嬌じゃ払えませんからねぇぇぇっ!!」




