第14話:停電のダイニング、ロウソクの距離
視界が、完全に奪われていた。
まぶたを開けているのか閉じているのかすら判別できない。指先を目の前にかざしても輪郭ひとつ捉えられない、底なしの漆黒。
耳を塞ぐ両手の隙間から、ゴオォォォッという獰猛な突風の唸りと、叩きつける豪雨の轟音が、地鳴りのように絶え間なく伝わってくる。鼻腔を突くのは、至近距離の落雷で焦げたような微かなオゾン臭と、古い木造廊下の埃の匂い。
「っ……あ……う……」
喉が引き攣れ、声にならない呼気が漏れる。
足腰から完全に力が抜け落ち、私は冷たい板張りの廊下の隅に、膝を抱えて丸まっていた。落とした懐中電灯がどこへ転がっていったのかも分からない。手探りで探そうにも、暗闇の中に手を伸ばすこと自体が恐ろしくて、指先一本すら動かせなかった。
頭上で、再び空がバリバリと不穏に軋む気配がする。
また落ちる。あの皮膚を焼き焦がすような光と、鼓膜を引き裂く雷鳴が、また私を打ち据えにやってくる――。
「誰か……っ、お願い、誰か……!」
子どものように震えながら、涙で濡れた顔を両膝の間に埋めた、その時だった。
ドタドタドタッッッ!
重厚な闇を突き破り、複数の激しい足音が板張りの床を蹴立てて近づいてきた。
一つじゃない。二つ、三つ、四つ。
軋む廊下を疾走してくる、焦燥感に満ちた靴音とスリッパの音。
「栞さんっ!?」
「おい、どこにいる! 返事をしろ!」
「大家さんっ!」
「チッ、どこで縮こまってやがる……!」
闇を切り裂く男たちの叫び声。
次の瞬間、暗闇の奥から、揺れる幾重もの光の筋が廊下の壁を乱反射しながら飛び込んできた。
スマートフォンのLEDライト、強力な作業用ランタン、そして細いペンライトの光。
「栞さんっ!」
最初に私の前に滑り込んできたのは、乱暴な息遣いとともに膝をついた人影だった。
光を背負って顔は見えない。けれど、躊躇なく伸びてきた大きく無骨な掌が、私の耳を塞いでいた両手を、上から力任せに包み込んだ。
――ガシィッ。
硬くて、節くれ立っていて、無数の傷跡のある手。
金属の粉と木屑の匂いを纏った、あの手の主。
「……創、くん……?」
「……怪我は」
荒い息を吐きながら、創が顔を覗き込んできた。
作業用ランタンの白い光に照らし出されたその顔は、いつもの不機嫌そうな無表情ではなく、血の気を引かせた必死の形相だった。
創の手が、私の氷のように冷え切った指先を、これでもかというほど強い力で握りしめる。骨が軋むほどの痛覚が、恐怖で麻痺していた私の感覚を、現実へと力ずくで引き戻してくれた。
「怪我……ねえのかって聞いてんだよ」
「う、うん……怪我は、してない……ただ、腰が抜けちゃって……」
「……よかった」
創の大きな喉仏が上下し、安堵の呼気が零れた。
その直後、ふわりと温かい布が私の震える肩を包み込んだ。
「栞さん、寒かったでしょう! これ着てください!」
駆け寄ってきた宮原陸が、自分が羽織っていた厚手のカシミアカーディガンを私の肩に掛け、襟元をキュッと整えてくれた。
ふわりと立ち上る、安心感に満ちたベルガモットの香水と、陸の温かい体温。
陸は両膝を畳み、私の視線の高さまで屈み込むと、震える私の背中に手を添えて、必死になだめるように背中を擦ってくれた。
「大丈夫です、僕たちがいます。もう一人じゃありませんからね」
耳元で囁かれる、甘く切実な声。
そこへ、奥から足早に歩み寄ってきた柴崎さんが、懐中電灯の光を間接的に天井へ向けながら、私の脇の下へと優しく滑り込ませるように両手を差し入れてきた。
「立てますか、栞さん。床が冷え切っています。このままここにいたら風邪をぶり返してしまいますよ」
柴崎さんの力強くてブレない支えによって、私の身体がゆっくりと持ち上げられる。
膝がガクガクと笑って立っていられない私を、柴崎さんがしっかりと横から抱きかかえるようにして支えてくれた。
最後に、廊下の隅に落ちていた私の懐中電灯を拾い上げた深見さんが、カチリとスイッチを入れ、私たちの足元を照らした。
丸眼鏡を押し上げ、ボサボサの黒髪を乱暴にかきむしりながら、深見は苦々しげに息を吐き出す。
「……まったく、人騒がせな大家だ。一瞬、雷に打たれて消し炭にでもなったかと思ったぞ」
「深見先生、そういう冗談は今はやめてください!」(陸)
「事実だろ。ほら見ろ、子鹿みたいに震えてやがる」
深見は口悪く吐き捨てながらも、自分が着ていた厚手のシャツの袖で、私の濡れた頬の涙を無造作にゴシゴシと拭った。
乱暴な手つきのくせに、擦れる皮膚は少しも痛くない。
「一人でいちゃダメですよ。ダイニングに集まりましょう。あそこならカセットコンロもありますし、火を焚けば少しは落ち着きます」
柴崎さんの先導で、四人の男たちに前後左右を完璧に護送されるようにして、私たちは共用ダイニングへと移動した。
引き戸を開けて足を踏み入れたダイニングは、普段の広々とした開放感とは一変し、まるで深い洞窟の奥のような静寂に包まれていた。
窓の外では、依然として叩きつける雨と暴風が建具をガタガタと激しく揺らしている。
けれど、部屋の隅にあるカセットコンロに柴崎さんが火を灯した瞬間――。
ボッ、と青い小さな炎が立ち上がった。
さらに、テーブルの中央に置かれた三本の太いアロマキャンドルに、深見のライターから炎が移される。
ゆらり、とオレンジ色の暖かな光が灯った。
影が壁に長く伸び、狭いダイニングの空気全体が、蜜のように濃密な琥珀色に染め上げられていく。
「……あたたかい……」
ダイニングテーブルの椅子に座らされ、陸のカーディガンに包まりながら、私はようやく深く息を吐き出すことができた。
テーブルの中央で揺れるロウソクの炎。
その小さな灯火を見つめているだけで、過呼吸寸前だった胸の鼓動が、ゆっくりと穏やかなリズムを取り戻していく。
「さて、と」
柴崎さんは腕まくりをすると、慣れた手つきでカセットコンロの上に大きな土鍋を据えた。
「冷蔵庫の電気が切れてしまいましたからね。保冷剤代わりに、中にある傷みやすい野菜と豚肉を一気に使い切ってしまいましょう。停電の夜は、温かいものを胃袋に入れるのが一番の特効薬です」
柴崎さんは手際よく、ざく切りにした白菜、長ネギ、椎茸、そしてたっぷりの豚バラ肉を鍋に放り込んでいく。
水筒にキープしてあった熱湯を注ぎ、昆布出汁の粉末と、信州味噌を溶かし入れる。
ほんの五分も経たないうちに、土鍋の隙間から、ふわあっと湯気が立ち上り始めた。
香ばしい味噌の香りと、豚肉の甘い脂、そして生姜の清涼感が混ざり合った、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが、冷え切っていたダイニングを満たしていく。
「……いい匂い」
「ふふ、食欲が出てきたなら大丈夫ですね」
柴崎さんは目を細めて微笑むと、取り皿にたっぷりの豚肉と野菜をよそい、熱々のスープとともに私の目の前へ置いてくれた。
「どうぞ、栞さん。フーフーして召し上がってください。生姜をたっぷり利かせてありますから、芯から温まりますよ」
「いただきます……っ」
木のスプーンで、澄んだ味噌スープをすする。
熱い液体が喉を通った瞬間、五臓六腑が歓喜の声を上げるのが分かった。
豚肉の旨味が溶け出した濃厚なコクと、クタクタに煮込まれた白菜の甘み。それが、冷え切っていた胃の腑をじんわりと温め、強張っていた筋肉の緊張を一本ずつ解きほぐしていく。
「……おいしい……すごく、おいしいです、晴人さん……」
「良かった。残さず全部食べてくださいね」
柴崎さんは満足そうに頷くと、自分の椅子を引いて、私の左隣へと腰を下ろした。
普段なら空席を空けて座るはずのダイニングテーブル。
だが、今夜は違っていた。
ロウソクの明かりが届く範囲は狭く、暗闇から逃れるようにして、五つの身体が自然と中央の小さな光の輪の中へと吸い寄せられていたのだ。
結果として――。
私のパーソナルスペースは、かつてないほどの高密度で、四人の男たちによって完全に包囲されていた。
私の左隣には、エプロンを外した柴崎晴人。
鍋を取り分けるたびに、彼の肩が私の二の腕に触れ、バニラとスパイスの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
私の右隣には、宮原陸。
薄手のシャツ一枚になった陸は、私の肩に掛けられた自分のカーディガンの端を、冷気が入らないようにと直す名目で、ごく自然に私の右肩へと腕を回していた。
触れ合う肩。陸の体温が、衣服越しにダイレクトに染み込んでくる。
そして、私の正面――ロウソクの炎を挟んだ向かいの席には、深見怜が足を組んで座っていた。
煙草を吸うのを我慢しているのか、手持ち無沙汰そうにマグカップを弄びながら、丸眼鏡の奥の切れ長の瞳で、私の顔をじっと観察するように見つめ続けている。
さらに――私の背後。
椅子を引いて座るスペースがないからと、野村創は座ることを拒否し、私の椅子の真後ろに、まるで巨大な護衛の壁のように直立していた。
百八十五センチを超える筋骨隆々とした巨躯が、背後からの隙間風を完全に遮断している。振り返らなくても、創の太い前腕の血管や、服についた木屑の匂いが、すぐ頭上から降ってくるのが分かる。
(な、なにこの……密着度……!?)
熱い鍋を食べているせいだけじゃない。
四方八方から押し寄せてくる男たちの体温と視線によって、私の体感温度はとっくに限界を突破していた。
その時だった。
ピカァァァッッッ!!
雨戸の隙間から、青白い稲妻の光が室内に鋭く差し込んだ。
一秒後――。
ズドォォォォォンッッッ!!
家全体を揺るがすような落雷の轟音が、夜の静寂を粉砕した。
「ひゃっ……!」
恐怖のあまり、私がビクッと肩を跳ね上がらせ、頭を抱えそうになった――その瞬間。
ギュッ。
右隣の陸の腕が、迷いなく私の肩を強く抱き寄せた。
私の身体が引き寄せられ、陸の固く引き締まった胸板へと、横からすっぽりと収まってしまう。
「大丈夫です、栞さん。ここにいますから」
耳元に落ちてくる、低く滑らかな低音ボイス。
耳たぶにかかる陸の熱い吐息に、心臓が跳ね上がる。
同時に――背後から、ズシリと重たい気配。
創の両手が、私の座る椅子の背もたれの左右へと、ドスンと置かれたのだ。
背後から覆いかぶさるような体勢。
創の広い胸板が私の後頭部すれすれの距離まで迫り、私の背中は、創の腕によって完全に檻のように囲い込まれていた。
「……揺れただけだ。ビビるな」
頭上から降ってくる、掠れたぶっきらぼうな声。
けれど、背中越しに伝わってくる創の呼吸は荒く、彼自身が私の身体を守ろうと、全身の筋肉を極限まで緊張させているのが痛いほど分かった。
さらに、正面の深見が、湯呑みのお茶をテーブル越しにすっと差し出してくる。
「おい、大家。口開けて茶あ飲め。……大の大人が雷ごときで縮こまるなと言いたいところだが、まあ……今夜くらいは、見逃してやる」
口の利き方は最悪なのに、深見の眼鏡の奥の瞳は、これまでに見たことがないほど柔らかく細められていた。
深見の長い指が、お茶を渡すついでに、私の頭の上にポンと置かれ、くしゃりと優しく撫でられる。
そして左隣の柴崎さんが、私の震える左手を、両手でそっと包み込んだ。
「栞さん。深呼吸してください。……吸って、吐いて。僕の手、温かいでしょう?」
柴崎さんの親指が、私の冷たい手の甲を優しくさする。
逃げ場のない、完璧な包囲網。
全方位からの過剰なスキンシップと、それぞれの男たちが繰り出してくる剥き出しの庇護欲。
(わ、私……どうなっちゃうの……!?)
雷の恐怖など、疾風のように消え去っていた。
代わりに私の全身を支配していたのは、過熱しすぎた男たちのフェロモンと、至近距離の吐息、そして肌を通して流れ込んでくる圧倒的な熱量だった。
顔から火が出るどころの話ではない。全身の血液が沸騰し、頭の中が真っ白にショートしそうだ。
「あ、あの……皆さん……! もう雷、遠ざかりましたから……! 離れていただいても……!」
私が蚊の鳴くような声で懇願すると、右隣の陸が、ふっと口角を意地悪そうに吊り上げた。
抱き寄せる腕の力を、少しも緩めようとしない。
「ダメですよ。またいつ落ちるか分かりませんから」
「そ、そうですか……?」(私)
「ええ。それに、大家さんを温めるのは、店子としての重要な義務ですからね」(陸)
「都合のいいこと言ってんじゃねえよ、陸」(深見)
正面から深見が冷ややかにツッコミを入れるが、自分の手も私の頭から離そうとしない。
「抜け駆けして抱きついてるんじゃねえ。……おい大家、俺にももっと茶を寄越せ。あと、膝の上に手ぇ乗せてもいいぞ」
「乗せません!!」(私)
「……おい、邪魔だ」
背後の創が、低く唸るような声で陸と深見を威嚇した。
「あんたら、大家さんにくっつきすぎだろ。離れろ」
「創くんだって、背後から覆いかぶさってるじゃないですか」(陸)
「……俺は、壁になってんだよ。風が入らねえように」
「苦しい言い訳ですねえ、純情美大生くん」(深見)
「……んだと、文士野郎!」
男たちの間で、ロウソクの炎を挟んでパチパチと火花が散る。
けれど、その小競り合いの中にあっても、誰一人として私から手を離そうとはしなかった。
左手は柴崎さんに握られ、右肩は陸に抱かれ、背後は創に塞がれ、頭上は深見に撫でられている。
外では、なおも嵐が吹き荒れている。
築四十五年の古い木造アパートは、きしみ、揺れ、電気も失って暗闇に沈んでいる。
けれど――。
この揺らめくロウソクの明かりの下、四人の極上男子たちに全方位から密着され、護られているこの小さな空間だけは。
世界で一番安全で、そして――世界で一番、甘くて息苦しい密室だった。
「……ふふっ」
あまりの状況に、私の口から、思わず小さく乾いた笑いが漏れた。
「……何笑ってんだ、大家」(深見)
「いえ……。大家失格だな、って思って」
私は赤く染まった顔を伏せ、手の中の温かいお茶を見つめた。
「本当は、私がみんなを守らなきゃいけないのに。……こんなに情けない姿見せて、みんなに守られてばかりで……」
私のその言葉に、四人の男たちの動きが、一瞬だけピタリと止まった。
沈黙。
ロウソクの芯が、パチリと小さく弾ける音がした。
左隣で、柴崎さんが私の手をギュッと握り直す。
右隣で、陸が私の肩を抱く腕に、さらに愛おしそうに力を込める。
背後で、創が息を呑み、頭を乱暴に掻く気配がする。
正面で、深見が眼鏡の奥の瞳を細め、フッと優しい笑みを零す。
男たちの視線が、暗闇の中で重なり合う。
そこにはもはや、災害への緊張感は微塵もなかった。
あるのはただ一つ――この無防備で、愛おしくて、放っておけない大家を、絶対に誰にも渡さないという、確固たる熱情だけだった。
嵐の夜は、まだ明けない。
けれど、停電のダイニングで縮まったこの危険すぎる距離感は、明日からの私たちの日常を、決定的に変えてしまうことを予感させていたのだった。




