第13話:台風前夜、軋むレトロアパート
木曜日の午後四時を回った頃から、空の色はおかしな濁り方をしていた。
青空を塗りつぶすように広がった雲は、灰色を通り越して不気味な赤紫色を帯びており、大気全体が湿り気を帯びて重く澱んでいる。生ぬるい風が突発的に吹き抜けるたび、中庭の山桜の太い枝が大きくしなり、枯れ葉がざわざわと悲鳴のような擦過音を立てていた。
「……うわぁ。いよいよ、本当に直撃するんだ……」
管理人室の小さな液晶テレビから、聞き慣れた気象予報士の切迫した声が響いていた。
『――大型で非常に強い台風が、勢力を維持したまま今夜、関東地方に上陸する見込みです。目黒川水系をはじめとする中小河川の流域では、厳重な警戒を。暴風域に入るのは午後八時前後、記録的な暴風と大雨、激しい落雷が予想されます。不要不急の外出を控え、早めの避難行動を……』
画面の隅で赤く点滅する『大雨・暴風・洪水・雷注意報』の文字。
私は腕組みをし、築四十五年の我が城――メゾン・サクラの飴色の天井を見上げた。
「築四十五年……。昭和五十六年の新耐震基準ぎりぎりの木造モルタル二階建て……」
思わず、先週の帳簿付けで確認したアパートの建築確認通知書の文字が頭をよぎる。
頑丈な鉄筋コンクリート造のタワーマンションならいざ知らず、ここは昭和の情緒を色濃く残した木造建築だ。普段なら「風情がある」「木の温もりを感じる」と愛着を覚える建具の隙間や古い雨戸も、風速三十メートルを超える超大型台風の前には、ただの脆い弱点でしかない。
「私がしっかりしなきゃ。祖母からこのアパートを任された新米大家なんだから、住人の命と建物を守るのは私の責任よ!」
元・営業事務の危機管理スイッチがカチリと入った。
ジャージの袖をたくし上げ、工具箱から幅広の養生テープを二巻引っ張り出す。手には単一電池を入れたずっしりと重い懐中電灯。
まずは中庭の点検だ。風で飛びそうな植木鉢や剪定鋏、ホースリールなどを片っ端から道具小屋へと運び込み、ガタつきのある雨戸に養生テープを米の字に貼り付けて補強していく。
ピカッ。
「……っ!?」
作業の最中、西の空が不意に鋭く白く光った。
数秒の不気味な静寂の後――。
ゴロゴロゴロ……ズズゥゥン……!
遠くの空を引き裂くような、重たい遠雷の地鳴りが腹の底を揺さぶった。
その瞬間、私の手から養生テープがぽろりと滑り落ち、砂利の上を転がった。
「ひっ……!」
足が、目に見えてガクガクと震えていた。
情けないことに、私――佐伯栞(三十二歳)には、大人になってもどうしても克服できない致命的な弱点があった。
雷だ。
幼い頃、祖母の家に預けられていた夏休みに、庭の柿の木に落雷が直撃して爆発炎上した光景を目撃して以来、あの空が裂けるような光と、地響きを伴う轟音が、骨の髄まで恐ろしかった。
会社員時代も、夕立で遠雷が鳴るたびにオフィスの給湯室に駆け込んで耳を塞ぎ、元上司の工藤から「いい歳して雷に怯えるなんて、図体ばかりデカい出来損ないだな」と嘲笑されていた苦い記憶がある。
「だ、大丈夫……まだ遠い……。作業を終わらせなきゃ……」
冷や汗の滲む手のひらを太ももで拭い、転がったテープを拾い上げる。
強風が吹き荒れ始め、大粒の雨がポツポツと地面を叩き始めた。
中庭の北側、一階と二階の共用廊下に面した大きな雨戸を閉めようと手をかけたが、レールが錆びついていてびくともしない。
「うそ、固い……! 動いてよ、早く閉めないとガラスが割れちゃう……!」
必死に両腕で木製の雨戸を引っ張っていた、その時だった。
「……どけ」
背後から、低く無愛想な声が降ってきた。
驚いて振り返る間もなく、私の肩口を大きな手がそっと押し除け、黒い作業着姿の巨躯が割り込んできた。
「創くん……!?」
二〇一号室の野村創だった。
美大の課題を途中で切り上げて帰ってきたのだろう、肩には大きなリュックを背負い、服のあちこちに木屑がついている。
創は無言のまま、錆びついた雨戸の取っ手を大きな手で鷲掴みにした。
前腕の太い筋肉に、ボコボコと青い血管が浮き上がる。
ガガガッ、ピシャァン!
私が全身全霊を込めても動かなかった雨戸が、創の圧倒的な腕力によって、いとも簡単にレールの端まで滑り込み、硬いロックがカチャリと掛けられた。
「二階の廊下も、アトリエの納屋も、全部閉めてきた」
創は短くそう告げると、雨粒に濡れた前髪を無造作に払った。
そして、私の手元で小刻みに震えている懐中電灯と、青ざめた顔をジロリと見下ろしてくる。
「……あんた、顔色悪いぞ。さっきの雷か?」
「えっ……あ、ううん! ちょっと寒気がしただけで、平気だよ!」
年上の大家として虚勢を張ろうとしたが、創の鋭い三白眼は誤魔化せなかった。
創はふんと短く鼻を鳴らすと、私の手から養生テープをひったくるように奪い取った。
「高いところの窓は俺がやる。……あんたは中に入ってろ。風で吹き飛ばされるぞ」
「で、でも、創くんの手を煩わせるわけには……」
「怪我された方が面倒くせえんだよ」
口の利き方は相変わらずぶっきらぼうで乱暴だ。
けれど、背伸びもせずに高い位置の窓枠へ養生テープをテキパキと貼り付けていくその背中は、どんな言葉よりも頼もしく、温かい気遣いに満ちていた。
そこへ、中庭の木戸がガラリと開き、仕立てのいいレインコートを着た人影が現れた。
「栞さん! 創くん! 良かった、まだ外にいらしたんですね!」
駆け寄ってきたのは、一〇一号室の宮原陸だった。
手にはビジネスバッグの他に、コンビニの大きなレジ袋を二つも提げている。
「宮原くん! お仕事、もう終わったの?」
「はい。台風が本格化する前に、全社で早期帰宅命令が出ました。目黒川の水位が警戒レベル三に達しています。念のためにハザードマップの最新情報と、目黒区の避難指示のタイムラインを僕のタブレットに落としてきました」
陸は手際よくスマホを取り出し、画面を私に見せてくれた。
氾濫危険水位の予測グラフ、近隣の避難所である小学校の開設状況、停電時の緊急連絡先。外資系コンサルタントならではの完璧な情報収集とリスク管理。
「それと、これ。モバイルバッテリーの大容量タイプを二個買ってきました。乾電池の予備と、非常用の除菌シートもあります。……栞さん、手、すごく冷たいですよ? 早く中に入ってください」
陸の滑らかな手が、私の震える指先をふわりと包み込んだ。
スーツの袖口から香るシトラスの香りが、雨風の湿った匂いを掻き消していく。
至近距離で覗き込んでくる陸の瞳には、先週の金曜日に見せたようなギラギラとした肉食の熱ではなく、ただひたすらに私を気遣う誠実な光が宿っていた。
「ありがとうございます、宮原くん……すごく助かる……」
「僕たちがついてますから。何も心配いりませんよ」
耳元で優しく囁かれ、心臓がトクンと小さく跳ねる。
そこへ、勝手口の引き戸が開き、暖かな光とともに芳醇な香りが漂い出してきた。
「皆さん、お揃いですね。外の作業はもう十分ですよ。中へ入ってください」
エプロン姿で顔を出したのは、二〇二号室の柴崎晴人だった。
裏路地のビストロ「シェ・シバ」を臨時休業にし、早々にアパートへ戻ってきてくれていたのだ。
「晴人さん! お店、お休みにして大丈夫だったんですか?」
「こんな嵐の夜に営業しても、お客様を危険に晒すだけですからね。それより、アパートの備蓄の確認が最優先です。共用キッチンの大型冷蔵庫は、停電したら保冷機能が落ちます。中にある傷みやすい食材をすべて下ごしらえして、カセットコンロで煮込めるように準備しておきました。飲料水も二十リットル確保してあります」
さすがプロの料理人。
災害時の食料確保と衛生管理において、これほど心強い味方はいない。
柴崎さんは中庭から上がってきた私たちに、乾いたタオルを一人一枚ずつ手渡し、私の濡れた肩にそっと手を添えてくれた。
「さあ、栞さん。身体が冷えてしまいますよ。ダイニングに温かい生姜湯を用意してありますから」
「はい……ありがとうございます……!」
三人の頼もしい男たちに囲まれ、共用ダイニングへと足を踏み入れた。
テーブルの上には、カセットコンロが二台、ガスボンベが六本、そして柴崎さんが仕込んだ大鍋が鎮座している。陸が買ってきた非常用物資が綺麗に整頓され、創が道具小屋から持ってきた大型のペンチやバールが部屋の隅に備えられていた。
そこへ、廊下の奥からスリッパを引きずる気怠げな音が近づいてきた。
「……あー、うるせえ。建具がガタガタ鳴りすぎて、一行も筆が進まねえぞ」
一〇二号室の深見怜が、伸びきった黒いカーディガンを羽織り、首筋を掻きながら姿を現した。
丸眼鏡の奥の目は相変わらず眠たげで、手には火のついていない煙草が一本。
「深見さん! 起きてたんですね」
「この風の音で寝てられるかよ。築四十五年のボロ屋が、丸ごと吹き飛ぶんじゃねえかってヒヤヒヤするぜ」
悪態をつきながらも、深見はダイニングテーブルの椅子を引いて腰を下ろすと、私の顔をじっと観察するように見つめてきた。
そして、ふっと鼻を鳴らし、机の上の湯呑みを私の前へと押しやってくる。
「おい、大家。さっきから口数が少ないぞ。……無理して空元気出してんじゃねえよ」
「え……?」
「お前、雷が鳴るたびに肩をビクビク震わせてただろ。一〇二号室の窓から丸見えだったんだよ。……怖いなら怖いって、最初から男どもに泣きつけばいいものを」
図星を突かれ、私は言葉を失った。
この作家は、どんな時でも私の小さな変化を一番最初に見抜き、遠慮のない言葉で暴き立ててくる。
けれど、その言葉の裏には、深見なりの不器用な「守る気配」がしっかりと滲んでいた。
「な、泣きついたりしません! 私、大家ですから!」
「へえ、大家様ねえ。泣きっ面で縮こまる大家様なんて、小説のネタにもならんぞ」
深見が意地悪そうに口角を吊り上げると、周囲から一斉にツッコミが入った。
「深見先生、茶化さないでください。栞さんは責任感が強すぎるんです」(陸)
「そうだぞ。あんたが一番手伝ってねえだろ」(創)
「先生、避難用のスペースですから煙草は我慢してくださいね」(柴崎)
「チッ、全員で袋叩きかよ」
深見が肩をすくめ、男たちの間に小さな笑いが起きる。
外の嵐とは裏腹に、ダイニングの中には、不思議な温もりと安心感が満ちていた。
エリート、美大生、シェフ、そして作家。
普段はバラバラな世界で生きているはずの男たちが、この古い木造アパートと、頼りない新米大家を守るために、自然と一つの陣形を組んでくれている。
けれど――。
自然の猛威は、そんなささやかな安らぎをあざ笑うかのように、容赦なく牙を剥き始めた。
午後八時。
台風は、予報通り目黒区を暴風域に巻き込んだ。
ゴォォォォォォッッッ……!
メキメキメキッ……!
窓の外で、猛烈な突風が渦を巻いて吹き荒れる。
雨戸が激しく叩きつけられ、壁が、柱が、床が、まるで生き物のように悲鳴を上げて軋み始めた。
時折、中庭の山桜の太い枝が窓ガラスをガシガシと擦る不気味な音が響き、アパート全体が地震のようにミシッと小さく揺れる。
「……っ」
私はダイニングの椅子の上で、無意識に両手で膝を抱え込んでいた。
怖い。
ブラック企業のオフィスで過労で倒れた夜よりも、世界から完全に孤立してしまったような、圧倒的な暴力の気配。
「栞さん、大丈夫ですか? 紅茶、温め直しましょうか」
柴崎さんが優しく声をかけてくれたが、私の耳には嵐の轟音しか入ってこなかった。
「あ……ご、ごめんなさい。私、一階の廊下の勝手口、鍵がかかってるかもう一度見てきます……!」
じっとしていられなかった。
恐怖から逃れるように、私は何か仕事を見つけようと立ち上がり、ダイニングの引き戸を開けて共用廊下へと出た。
薄暗い、一本の長い廊下。
外の風雨の音が、薄い壁を隔ててダイレクトに響いてくる。
勝手口の鉄製ドアの前に立ち、閂がしっかり掛かっているのを確認して、ほっと息を吐き出した――その瞬間だった。
ピシャァァァァァンッッッ!!!!
廊下のガラス窓全体が、目の眩むような青白い閃光で焼き尽くされた。
昼間よりも遥かに明るい、網膜を灼くような光。
コンマ五秒の後。
ドガァァァァァァンッッッッッ!!!!
ズズズズズズズズズゥゥゥゥンッ……!!
鼓膜を直接引き裂くような、至近距離での爆発音。
アパートのすぐ裏手、電柱か大木に落雷が直撃したのだ。
足元の床板が、跳ね上がるように激震する。
「――っ、いやぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴を上げ、私はその場にへたり込んだ。
そして、その轟音と同時に――。
バチンッッッ!
廊下の天井の電球が、火花を散らすような音を立てて弾け飛んだ。
一階も、二階も、ダイニングの暖かな明かりも。
アパートを満たしていたすべての人工の光が、一瞬にして消滅した。
真っ暗闇。
指先一つ見えない、完全なる漆黒。
外からは、暴風雨の咆哮と、バリバリと空を引き裂く雷鳴の余韻だけが響き渡っている。
停電だ。アパート全体のブレーカーが落ちたのだ。
「う、そ……真っ暗……何も、見えない……!」
呼吸が過呼吸のように乱れ、喉の奥が痙攣する。
立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。
冷たい板張りの廊下の隅で、私は持っていた懐中電灯を落とし、両手で耳を固く塞いで、ただ一人、小さく丸まって激しく震えることしかできなかった。
「助けて……誰か……助けて……っ!」
暗闇と雷鳴の檻に閉じ込められた私の口から、情けない涙とともに、掠れた悲鳴が零れ落ちていたのだった。




