第12話:エプロンの中の独占欲
金曜日の深夜に一〇一号室の宮原陸からソファの上で押し倒され、唇が触れ合う寸前まで迫られたあの衝撃的な事件から、二日が経過していた。
あれ以来、私はエントランスでスーツ姿の陸とすれ違うたびに、心臓が口から飛び出そうになるのを必死で押さえ込んでいる。当の本人はといえば、何事もなかったかのような涼しい顔で「おはようございます、栞さん」と爽やかに微笑み、去り際に誰も見ていない死角でネクタイの結び目を指先でくいと緩めてみせるのだ。あの年下エリート、自分の破壊力を完全に自覚して弄んでいる。恐ろしい男だ。
そして迎えた、日曜日。
本来であれば、メゾン・サクラの絶対ルールである「全体夕食会」が開かれる夜だった。
だが、今夜に限っては、住人たちそれぞれの事情が重なっていた。
一〇二号室の深見さんは木曜の脱稿と金曜の文壇バーでの泥酔がたたり、部屋で死んだように眠り続けている。二〇一号室の創くんは、秋のコンクールに向けた大型木彫作品の制作のため、今夜も美大のアトリエに泊まり込みだ。そして一〇一号室の陸は、新プロジェクトのキックオフ準備で休日出勤。
『今夜は皆さん留守ですし、アパートの共用ダイニングはお休みにして、もしよければ僕の店で夕食を召し上がりませんか? 栞さんの分、カウンターの特等席を空けておきますから』
今朝、ゴミ出しの際に二〇二号室の柴崎晴人から穏やかな笑顔でそう提案され、私は二つ返事で頷いていたのだった。
普段アパートで振る舞ってくれる家庭料理だけでも絶品なのに、彼がオーナーシェフを務めるビストロの本格料理を味わえるのだ。断る理由がどこにもない。
そんな日曜日の午後五時半。
管理人室で身支度を整えていた私の元へ、突然の来訪者が現れた。
――ピンポーン! ピンポンピンポン!
けたたましく連打されるインターホン。
慌てて玄関を開けると、そこには仕立ての良いキャメル色のチェスターコートを羽織り、ピンヒールを鳴らした美女が仁王立ちしていた。
「やっほー栞! 生きてる!?」
「と、朋世……!?」
松永朋世(まつながともよ・三十二歳)。
前のブラック企業で十年間、同じ営業事務として泥水をすすり合ってきた同期であり、私の唯一無二の親友だ。現在は大手外資系IT企業に転職し、バリバリと結果を出している現役のバリキャリ女子である。
「急にどうしたの? 連絡もなしに……」
「どうしたのじゃないわよ! あんたが会社辞めてアパートの大家になってから、もう一ヶ月以上経つじゃない。そろそろ寂しくて枕を濡らしてるんじゃないかと思って、銀座で買った高級マカロン片手に様子を見に来てあげたのよ!」
朋世はブランドバッグを揺らしながら土足で上がり込みそうな勢いだったが、ふと鼻をくんくんと鳴らし、私の顔をじっと覗き込んできた。
「……あれ? ちょっとあんた、なんか雰囲気変わってない?」
「えっ? そ、そうかな? お肌の手入れをサボって荒れてるとか……?」
「逆よ逆! 肌艶はやけに良いし、頬がほんのりピンク色だし……何より、前みたいな『死相が出てる社畜の目』じゃなくなってる。……というか、男の影がある女特有の、落ち着かない動揺オーラがダダ漏れなんだけど?」
ギクッ、と心臓が跳ね上がった。
元同僚の鋭すぎる観察眼は、相変わらず恐ろしい。
「な、何言ってるのよ! 男の影なんてあるわけないでしょ! 毎日アパートの掃除と帳簿付けで大忙しなんだから!」
「ふーん……? まあいいわ、詳しい尋問は後にして、とりあえずご飯行きましょ! 私、今夜は美味しいワインと肉を浴びるほど胃袋に流し込みたい気分なのよ」
「あ……ごめん朋世。実は今夜、うちのアパートの店子さんがやってる近所のビストロに行く約束をしてて……」
「ビストロ? 店子さんのお店? ……いいじゃない、そこにしましょう! 私の分の席、飛び込みで空いてないか聞いてみてよ」
強引な朋世に押し切られ、私は恐る恐る柴崎さんの携帯にメッセージを送った。
『急に友人が来てしまったのですが、二人でお伺いしてもご迷惑ではありませんか?』
送信からわずか三十秒で、返信のポップアップが届いた。
『もちろん大歓迎ですよ。お友達の分も、特別なコースをご用意してお待ちしていますね』
どこまでも完璧でスマートな対応。
私たちはコートを羽織り、メゾン・サクラを出て徒歩三分の裏路地へと向かった。
閑静な住宅街の角を曲がると、古民家をリノベーションしたシックな佇まいの店が目に入った。
暖色系の柔らかな灯りが漏れるガラス扉の横に、控えめな真鍮のプレート。
『Chez Shiba』
扉を開けると、カランコロンと澄んだドアベルが鳴り響いた。
店内は日曜の夜ということもあり、ほぼ満席。落ち着いたジャズが流れ、ワイングラスの触れ合う音と客たちの楽しげな談笑、そして厨房から漂う芳醇なバターと香草の香りが満ちている。
「いらっしゃいませ。佐伯様ですね、お待ちしておりました」
迎えてくれたのは、まだあどけなさの残る二十代前半の若い男性スタッフだった。
厨房見習いの真壁悠くんだ。
「真壁くん、こんばんは。急に二人になっちゃってごめんなさい」
「とんでもないです! シェフから『最優先でお通ししろ』って厳命されてますから。こちらへどうぞ!」
真壁くんに案内されたのは、オープンキッチンを真正面から見渡せる、カウンターの中央の特等席だった。
椅子を引いて腰を下ろした瞬間、目の前の厨房に立つ男の姿に、私は思わず息を呑んだ。
「……っ」
そこにいたのは、アパートで見せる「穏やかで優しいお母さん」の柴崎晴人ではなかった。
漆黒のコックコートを隙なく身に纏い、腰元には革のサロンエプロン。
袖を肘までまくり上げた前腕には、フライパンを振り続けることで鍛え上げられたしなやかな筋が浮き出ている。
そして何より――その眼差しだった。
「悠、二番テーブルのポワレ、火入れがあと三十秒遅い。肉汁が逃げる。今すぐアロゼしろ」
「は、はいっ!」
「五番のデセール、チュイールの角度が倒れてる。やり直し」
低く、研ぎ澄まされた冷徹な指示。
笑みなど微塵もない。鋭い刃物のように張り詰めたプロフェッショナルの横顔。
炎が立ち上がるガス台の前で、フライパンを華麗に煽り、ピンセットで肉の上にマイクロハーブをミリ単位で配置していくその手捌きは、息を呑むほどに美しく、残酷なまでの色気を放っていた。
「……ちょっと栞」
隣でメニューを開いていた朋世が、肘で私の脇腹を小突いてきた。
声を潜めながら、目を丸くしている。
「あそこのイケメンシェフが、あんたのアパートの住人なの……!?」
「う、うん。二〇二号室の柴崎さん……」
「嘘でしょ!? 何あの仕上がりまくった三十代の色気! そこらの芸能人より遥かにオーラあるじゃない! アパートの住人って聞いてたから、もっとエプロンつけた家庭的なおじさんかと思ってたわよ!」
「普段はもっと柔らかい人なんだけどね……仕事中は、あんなに厳しい顔するんだ……」
私がカウンター越しに柴崎さんの横顔を見つめていると、不意に、彼が顔を上げた。
目が合った。
その瞬間――氷のようだった彼の表情が、まるで春の雪解けのように、ふわりと蕩けるような笑みへと一変したのだ。
「いらっしゃいませ、栞さん。……ようこそ、僕の店へ」
柴崎さんはトングを置くと、カウンター越しにすっと歩み寄ってきた。
その瞳の奥には、厨房のスタッフたちに向けていた冷気配は微塵もなく、熱っぽい光だけが宿っていた。
「お友達をお連れいただき、光栄です。お席、狭くありませんか?」
「あ、はい! すごく素敵な席をありがとうございます、晴人さん」
「喜んでいただけて何よりです。……お飲み物は、僕が選ばせていただいてよろしいですか? 栞さんの今日のお疲れ具合に合わせて、完璧な一杯をご用意しましたから」
柴崎さんはワインクーラーから、水滴を纏った一本の白ワインを抜き取った。
ブルゴーニュの名門ドメーヌが手掛ける、最高峰のピュリニー・モンラッシェ。
すらりと伸びた指先でボトルを支え、私たちのグラスへと黄金色の液体を美しく注ぎ入れる。
「柑橘の爽やかな酸味と、豊かなミネラル感。今の栞さんの身体が一番求めている味のはずです」
「いただきます……っ、おいしい……! 冷たすぎず、口の中で香りがふわっと広がる……!」
「ふふ、温度管理は完璧にしてありますからね」
柴崎さんは目を細めて満足そうに頷くと、「お料理も、栞さんの好みに合わせて仕込んでありますから、お任せください」と言い残し、厨房の奥へと戻っていった。
ワイングラスを傾けながら、私は至福の溜め息をついた。
しかし、隣の朋世はワインに口をつけることも忘れ、異様な形相で固まっていた。
「……栞」
「ん? どうしたの朋世、飲まないの?」
「あんた……今、あのシェフのこと、なんて呼んだ?」
「え? 晴人さん、だけど……」
「『晴人さん』ですってぇぇぇぇ!?」
朋世が小声で叫びながら、両手で頭を抱えた。
そして、獲物を狙う鷹のような目つきで、カウンターの向こうで調理を続ける柴崎さんを凝視する。
そこへ、真壁くんが恭しい手つきで前菜の皿を運んできた。
「一品目でございます。『天使の海老と完熟アボカドのセルクル仕立てタルタル 〜ライムとディルの香り〜』でございます」
目の前に置かれたガラスの平皿。
美しく円形に成形されたタルタルの上には、宝石のように輝くキャビアと、薄紅色のエディブルフラワーが散りばめられている。
思わず歓声を上げそうになった私の横で、朋世がメニュー表をバサバサとめくり始めた。
「……ちょっと、お兄さん」
「は、はい?」
「このお料理、メニューのどこにも載ってないんだけど?」
真壁くんは苦笑いを浮かべ、厨房の柴崎さんの背中をチラリと見てから、小声で耳打ちしてきた。
「はい……それ、うちのグランドメニューには存在しません。シェフが今夜、大家さんがいらっしゃるって聞いてから、市場に電話して特別に天使の海老を取り寄せて仕込んだ、完全な裏メニューです。『彼女の好物だから』って……」
「なっ……!」
朋世の顔色が変わった。
私はフォークを手に取り、一口すくって口へ運ぶ。
ねっとりとした甘みを持つ天使の海老と、濃厚なアボカドのコク。そこにライムの爽やかな酸味とディルの清涼感が重なり合い、白ワインのミネラル感と完璧なマリアージュを奏でる。
「……信じられないくらい美味しい。私、エビとアボカドの組み合わせ、一番好きなの……」
「そりゃそうでしょうね! あんたの好物をピンポイントで狙い撃ちして作ってるんだから!」
朋世はフォークを握りしめ、眉間を寄せて唸った。
その後も、運ばれてくる料理はすべてが異次元の完成度だった。
じっくりと煮込まれたコンソメスープ、皮目がパリパリに焼かれた真鯛のポワレ、そしてメインの和牛ランプ肉のロースト。どれも私の噛む力や疲労感を計算し尽くしたかのような、優しくも濃厚な味わい。
食事を終え、最後のお皿が下げられたタイミングで、朋世がお手洗いに立つと言って席を外した。
私は満ち足りた胃袋を撫でながら、ぼんやりとワインの余韻に浸っていた。
――ガシィッ!
「ひゃっ!?」
背後から突然、肩を強い力で掴まれた。
振り返ると、お手洗いから戻ってきた朋世が、血相を変えて私の肩を揺さぶっていた。
「ちょっと栞、あんた今すぐ目を覚ましなさい!!」
「な、何よ急に!?」
「あんた、バカなの!? 危機感が完全に麻痺してるわよ!」
朋世は私の耳元に顔を寄せ、怒涛の勢いでまくし立てた。
「あのシェフの目をよーく見なさい! あいつ、料理を運んでくるたびに、あんたがフォークを口に運ぶ瞬間を厨房の奥からじーーーっと見つめて、喉仏を鳴らしてるのよ! あれは『親切な店子』の目じゃないわ! 完全に獲物を品定めして、逃げ道をじわじわ塞いで外堀を埋め立ててる肉食獣の目よ!」
「そ、そんなわけないでしょ! 晴人さんはただ、自分の料理を美味しく食べてほしいだけのプロフェッショナルで……」
「『晴人さん』って呼んでる時点で完全に毒されてるのよあんたは!」
朋世は私の額を人差し指で小突いた。
「いい!? メニューにない好物をわざわざ仕込み、ワインの温度をあんたの体調に合わせ、下の名前で呼び合い、特別な笑顔を独占させる……! あんなの、胃袋からあんたの生活の主導権を奪い去ろうとする高度な求愛行動以外の何物でもないわよ! 全方位イケメンに囲まれてるからって、男の欲望に対する警戒心が完全に死んでる!」
「うぐっ……」
矢吹先生に続いて、親友の朋世からまで同じような指摘を突きつけられ、私の心臓が痛いほど早鐘を打つ。
違う、私はただ、美味しいご飯を食べてるだけで――。
「はい、お待たせいたしました。本日のデセールです」
背後から、滑らかなバリトンボイスが響いた。
柴崎さんが自ら、純白の大きなデザートプレートを両手に持って現れたのだ。
「あ……ありがとうございます……」
テーブルに置かれたお皿を見て、私と朋世の息が同時に止まった。
中央に鎮座するのは、艶やかなフランボワーズのソルベと、濃厚なガトーショコラ。
そして――その周囲の白い磁器の余白に、繊細なチョコペンで流麗な飾り文字が描かれていた。
『いつもお疲れ様です、栞さん』
ハートや過剰な装飾はない。
けれど、プロの筆致で丁寧に刻まれたその労いの言葉は、どんな甘い愛の告白よりも深く、私の胸のど真ん中を射抜いた。
「ほら見なさいよ……!」
朋世が声にならない悲鳴を上げ、私の太ももを抓ってくる。
柴崎さんはそんな朋世の動揺など意に介さず、私の椅子のすぐ真横へと、すっと身を寄せた。
ふわりと香る、カカオと微かなバニラの甘い匂い。
柴崎さんの左手が、ごく自然な動作で、私の椅子の背もたれへと回される。
耳元に、温かい吐息が直接吹きかかった。
「……お口に合いましたか? 僕の、栞さん」
――僕の、栞さん。
ゾクッと背筋を甘い電流が駆け抜け、私の頭の中の思考回路が真っ白に弾け飛んだ。
朋世の目の前で、至近距離から落とされる低く艶めいた囁き。
見上げると、柴崎さんはワイングラスを指先で弄びながら、極上の、そして底知れぬ独占欲を孕んだ笑みを浮かべて私を見つめていた。
「アパートの夕食会もいいですが……こうして僕の城で、僕の料理だけに集中してくれるあなたを見るのも、悪くないですね」
耳たぶをかすめるような近さで紡がれる言葉。
その瞳の奥には、金曜日に見た陸の荒々しい飢えとはまた違う、静かで、絶対に逃がさないという冷徹な執着の炎が揺らめいていた。
「……は、晴人、さん……」
「ごちそうさまの言葉は、今夜アパートに帰ってから、二人きりでゆっくり聞かせてくださいね」
柴崎さんは目を細めてふわりと微笑むと、私の背中からゆっくりと手を離した。
隣を見れば、朋世が口をあんぐりと開けたまま、完全に石化していた。
そして、震える指先で私を指差し、声にならない声で呟く。
「……栞。あんた、もう完全に手遅れだわ」
美味しい料理で満たされたはずの私の胃袋と心臓は、逃げ場のない甘い包囲網の中で、かつてないほどの激しい熱を帯びて脈打ち続けていたのだった。




