第11話:スーツを脱いだ大型犬の牙
金曜日の夜九時を回ると、街の空気は特有の浮遊感を帯び始める。
一週間の労働から解き放たれた人々が居酒屋の暖簾をくぐり、駅前の喧騒が心地よいざわめきとなって遠くから届く。かつてブラック企業に囚われていた頃の私にとって、金曜の夜とは「土日の休みに持ち帰る仕事の仕分け」に追われるだけの絶望的な残業タイムでしかなかったが、脱サラして大家となった今、それは「一週間を無事に乗り切った静かな安らぎの時間」へと変わっていた。
今夜の「メゾン・サクラ」は、驚くほど静まり返っていた。
二〇二号室の柴崎さんのビストロ「シェ・シバ」は、週末の金曜夜とあって予約で満席。仕込みから深夜の締め作業まで戦場のような忙しさだと、夕方に真壁くんが食材のストックを取りに来た際に教えてくれた。
一〇二号室の深見さんは、日曜日にあの凄まじい修羅場を乗り越えて脱稿したあと、担当編集の小野寺さんに引きずられるようにして文芸誌の特集取材と打ち上げを兼ねた銀座の文壇バーへと連行されていった。
そして二〇一号室の創くんは、火曜日にコインランドリーで交わしたあの熱い約束の通り、秋の選抜コンクールに向けた追い込みのため、美大の大型アトリエに泊まり込みで作業を続けている。
「……ふう。みんなそれぞれ、外の世界で戦ってるのよね」
広々とした共用ダイニング。
誰もいない無垢材のテーブルの上で、私はマグカップに淹れたほうじ茶を啜りながら、来週のゴミ収集カレンダーに目を通していた。
住人たちがそれぞれの本業で懸命に汗を流している姿を見ていると、大家である私ももっとしっかり環境を整えなければと背筋が伸びる。古い木造アパートの廊下を雑巾がけし、庭の落ち葉を掃き清め、電球の点検を終えて、ようやく訪れた一人の時間。
その静寂を破るように――。
――カチャ、ガラガラガラッ。
玄関エントランスの木製引き戸が、小気味よい勢いで開け放たれた。
足音の軽やかさで、すぐに誰か分かった。
一〇一号室の宮原陸だ。
「栞さん! いらっしゃいますか!?」
靴を脱ぐのももどかしいといった様子で、ダイニングへと飛び込んできた陸の姿を見て、私は思わず目を丸くした。
「宮原くん? おかえりなさい。今日はずいぶん早い――」
「栞さん、勝ちました! コンペ、勝ったんです!」
普段の冷静沈着な外資系エリートの仮面はどこへやら、陸は頬を上気させ、少年のような無邪気な笑顔を弾けさせていた。
仕立てのいい濃紺のスーツのボタンを外し、抱えていた大きな紙袋をテーブルの上にドンと置く。中から現れたのは、黄金色の美しい化粧箱に入った、見るからに超高級そうなフルボトルのシャンパンだった。フランスの超有名メゾン、『クリュッグ』のヴィンテージ。一本で私の数ヶ月分の小遣いが吹き飛ぶような代物だ。
「こ、コンペって……先週、夜遅くに帰ってきて『理不尽に詰められた』って言ってた、あの大型案件?」
「そうです! 国内最大手の通信キャリアのグローバル再編プロジェクトです! 今日、最終プレゼンだったんですが、先方の取締役会で僕たちのチームの提案が満場一致で採択されました! それに……」
陸はテーブルに両手をつき、ぐっと身を乗り出して私の顔を覗き込んできた。
涼しげな切れ長の瞳が、歓喜の炎でキラキラと輝いている。
「同期最速で、僕がプロジェクトリーダーに就任することが正式に決定しました。来月から、六人のチームを率いて現場の指揮を執ります!」
「えっ……同期最速のリーダー!? す、すごいじゃない宮原くん! 本当におめでとう!」
思わず立ち上がって両手を叩くと、陸はまるで飼い主に褒めちぎられた大型犬のように、くしゃりと顔を綻ばせた。
「ありがとうございます! ……あの日、栞さんが玄関で僕を抱きしめて……『よく頑張って帰ってきたね』って言ってくれなかったら、僕、本当に心が折れてました。あの夜があったから、今週死ぬ気で踏ん張れたんです。だから――この祝杯は、絶対に栞さんと二人で開けたいと思って、走って帰ってきたんです」
「わ、私と……?」
「はい! 他の住人さんたちがいなくて、ちょうど良かったです。栞さん、お酒、付き合ってくれますよね?」
満面の笑みで首を傾げる陸。断れるはずがなかった。
あの日、深夜の玄関でスーツのネクタイを緩め、私の肩に額を預けて「充電させてください」と泣き言を漏らしていた彼の、限界ギリギリの痛々しい姿を思い出す。あの過酷なプレッシャーを跳ね除け、見事に栄冠を勝ち取ってきたのだ。元社畜として、その努力の凄まじさは痛いほどよく分かる。
「もちろん! 喜んでお付き合いするわ。ちょっと待ってて、グラスと……何か簡単なおつまみ用意するね」
「おつまみなんて乾き物で十分です! 早く乾杯しましょう!」
冷蔵庫から冷やしておいたシャンパングラスを二客取り出し、戸棚にあったナッツとドライフルーツを小皿に盛る。
陸は慣れた手つきでボトルのワイヤーを外し、親指でコルクを押し上げた。
――シュポンッ。
上品で控えめな抜栓の音がダイニングに響く。
フルートグラスに注がれた黄金色の液体が、きめ細やかな白い泡を幾重にも立ち上らせる。立ち上る果実とブリオッシュの芳醇なアロマに、鼻腔が甘くくすぐられた。
「メゾン・サクラの大家さん、佐伯栞さんに。……乾杯」
「宮原くんの昇進と、大勝利に。……乾杯!」
カラン、と澄んだクリスタルの音が重なり合う。
口に含んだ瞬間、驚くほど繊細な泡が舌の上で弾け、凝縮された葡萄の旨味が広がった。
「……おいしい! こんな高級なシャンパン、生まれて初めて飲んだかも」
「栞さんに喜んでもらえてよかった。……ああ、美味い……生き返るな……」
陸はグラスを一気に半分ほど飲み干すと、ふう、と深く息を吐き出した。
そして、テーブルの上のボトルを引き寄せ、自分のグラスに並々と注ぎ足す。
二杯、三杯。
アルコール度数十二度を超えるシャンパンを、まるで水のように煽っていく。
「ちょ、ちょっと、宮原くん? ペース早すぎない? 空きっ腹にそんな勢いで飲んだら酔っ払っちゃうよ」
「平気ですよ。今日くらい、酔わせてください」
陸はネクタイの結び目を指先でグッと引き下げ、喉元の第一ボタンをぷちりと外した。
白いシャツの襟元が寛ぎ、引き締まった喉仏が覗く。
先ほどまでの無邪気な大型犬の表情に、微かな熱と、大人の男の生々しい気怠さが混ざり合い始めていた。
「この二週間……本当に地獄だったんです。父からは『勝って当たり前だ』って毎晩のように連絡が来るし、社内の先輩たちからは『失敗したら降格だな』って陰口を叩かれて……。プレッシャーで吐き気が止まらなくて、夜も一時間おきに目が覚めて……」
陸はグラスを弄びながら、自嘲気味に呟いた。
「でも、不思議ですね。どんなに外で神経をすり減らしても、このアパートの門をくぐって、栞さんの顔を見ると……スッと肩の力が抜けるんです。木造の廊下の匂いも、栞さんが入れてくれるお茶も……全部が僕の呼吸を取り戻してくれる」
「宮原くん……」
「栞さんって、僕のことを『東大卒の外資系コンサル』として見ないでしょう? 肩書も、年収も、家柄も関係なく……ただの情けない僕を、叱って、心配して、頭を撫でてくれる。……そんな人、僕の人生で初めてなんです」
陸の瞳が、じっと私を捉えていた。
シャンパンの酔いが回ってきたのか、その頬はほんのりと赤く染まり、瞳の奥は夜の湖のように深く潤んでいる。
普段は完璧なエリートとして武装している男が見せる、剥き出しの孤独と甘え。
胸がキュッと締め付けられる。
「頑張ったね、宮原くん。本当に、偉かったよ」
私が自然と微笑みながら労うと、陸はふっと口元を緩めた。
だが、その緩み方は、どこか不満げだった。
「……また、それだ」
「え?」
「宮原くん、って呼ぶの。……そろそろやめてくれませんか」
陸はグラスをテーブルにコトリと置くと、立ち上がった。
そして、私が座っていた三人掛けの革張りソファの横へと、音もなく歩み寄ってきたのだ。
ギシッ、とソファが沈み込む。
陸が、私のすぐ隣へと滑り込んできた。
逃げる間もないほどの至近距離。
肩と肩が触れ合い、陸のスーツの生地越しに、熱い体温がダイレクトに伝わってくる。
ベルガモットの香水の匂いと、シャンパンの甘いアルコールの香りが混ざり合い、私の鼻腔を濃厚に包み込んだ。
「ひゃっ……み、宮原くん、近いってば……!」
私が慌てて身体を離そうとすると、陸は逃げ道を塞ぐように、ソファの背もたれに長い右腕を回してきた。
完全に、腕の中に閉じ込められた形になる。
「前にも言いましたよね? 『陸』って呼んでほしいって」
耳元に落ちてくる、低く掠れた声音。
吐息が首筋を撫でるたびに、全身の産毛が逆立つような甘い悪寒が走る。
「で、でも、私たちは大家と店子だし……宮原くんの方が年下だし、下の名前で呼び捨てにするのはちょっと……」
「年下、ですか。……やっぱり、僕のこと、可愛い弟か何かだと思ってるんですね」
陸の瞳が、すっと細められた。
その瞳の奥に宿ったのは、先ほどまでの甘えた光ではない。
獲物をじりじりと追い詰める、冷徹で貪欲な肉食獣の眼光だった。
まずい。
本能が激しい警報を鳴らした。
この男は、酔っている。いや、お酒の力を借りて、理性のリミッターを意図的に外しているのだ。
「あ、あのね、宮原くん! もうシャンパンは十分飲んだから、そろそろお部屋に戻って休んだ方がいいと思うの! 明日もお仕事あるんでしょ!?」
私がパニックになって立ち上がろうと、両手を膝についた――その瞬間だった。
――ガシィッ。
「……っ!?」
私の右手が、陸の大きな手によって力任せに掴まれた。
驚いて息を呑んだ次の瞬間、強烈な力で腕を引かれた。
視界がぐるりと反転する。
足元のバランスを失った私の身体は、革張りのソファの上にドサリと押し倒されていた。
「きゃっ……!?」
背中に走る革の弾力。
逃げようと身じろぎした瞬間、両脇のクッションに陸の両手がドンと突かれ、私の視界は完全に塞がれた。
覆いかぶさるようにして、百八十センチを超える長身が見下ろしてくる。
至近距離に迫る、端正な顔立ち。
ネクタイは大きく緩められ、乱れた前髪の隙間から覗く濡れた瞳が、ギラギラとした熱狂を孕んで私を射抜いていた。
「み、宮原くん……っ!? 酔っ払ってる! 離して……!」
私が両手で陸の胸板を押し返そうと叫ぶと、陸は眉一つ動かさず、むしろその重みを増すように距離を詰めてきた。
触れ合う胸板。
スーツ越しに伝わってくる、ドクドクと狂ったように脈打つ陸の心臓の鼓動。
私の呼吸が、喉の奥で詰まる。
「……酔ってません」
降ってきたのは、耳を疑うほど低く、ドスの利いた大人の男の声だった。
「シラフですよ、栞さん。……ずっと、言いたかったんです」
「な、何を……」
言葉が震える。
陸の右手が、ゆっくりと持ち上がった。
骨張った、驚くほど熱い指先が、私の火照った頬にそっと触れる。
ビクッと私の身体が硬直する。
陸の手はそのまま、私の頬を包み込み――親指の腹が、私の下唇の端を、じわりと弄ぶように優しくなぞった。
「ひゃぅ……っ」
唇に触れる指の熱さに、情けない声が漏れる。
陸は私の唇を見つめ、飢えたような瞳で喉仏を小さく上下させた。
「いつまで俺を、都合のいい『可愛い後輩』扱いするつもりですか?」
――俺。
一人称が、「僕」から「俺」へと変わっていた。
年下の礼儀正しいコンサルタントの殻が、音を立てて粉々に砕け散った瞬間だった。
「疲れたら甘えて、頭撫でてもらって、充電させてくれって泣き言言って……。そうやって弟ポジションでいれば、あなたが傍にいてくれると思って、ずっと我慢してました」
陸の顔が、さらに数センチ近づく。
鼻先が触れそうな距離。
陸の荒い吐息が、私の唇を熱く濡らしていく。
「でも、もう限界です。……水漏れの時は創に抱き上げられて、熱が出た時は柴崎さんに食べさせてもらって、深見先生の部屋にはおにぎり持って入り込んで……! 俺がどれだけ嫉妬で頭がおかしくなりそうだったか、あなた、これっぽっちも分かってないでしょう」
「み、宮原……くん……っ」
「陸、って呼べって言っただろ」
陸の親指が、私の下唇をグッと押し開き、前歯の隙間をかすめる。
背筋を甘い電流が駆け抜け、足の先から力が抜けていく。
「俺、男ですよ。……あなたのこと、一度だって『ただの大家』なんて思ったことない。……抱きたいし、閉じ込めたいし、他の男に指一本触れさせたくない」
剥き出しの独占欲。
大型犬の皮を脱ぎ捨てた獣が、牙を剥いて喉元に噛み付こうとしている。
恐ろしいはずなのに、見下ろしてくる陸の瞳のあまりの美しさと熱情に、私の心臓は狂ったように跳ね上がり、呼吸すら忘れて見惚れてしまっていた。
スウッと、陸の瞳が伏せられる。
唇が、重なる。
触れ合う寸前――お互いの吐息が完全に混ざり合い、唇の輪郭が微かに触れかけた、まさにその刹那だった。
――ガタガタッ、ガラガラガラッッッ!!!
静寂を切り裂くように、玄関の引き戸が乱暴に開け放たれる音が響いた。
「……っ!?」
ドサリ、と重たい鉄の道具箱が土間に叩きつけられる鈍い音。
そして――。
「……おい、誰かいるのか」
二階へと続く廊下の暗がりから聞こえてきたのは、課題を終えて帰宅したばかりの、野村創の低く不機嫌な声だった。
その瞬間。
陸の身体がピクリと跳ね上がり、瞳の奥に宿っていた狂気の熱が、ハッと我に返ったように揺らいだ。
「……っ、クソッ……!」
陸は舌打ちを一つ落とすと、咄嗟に私の体から身を起こし、ソファの背もたれへと後退した。
覆いかぶさる重圧が消え去り、私の肺に冷たい空気が一気に流れ込んでくる。
「はっ……はぁっ……!」
乱れた呼吸のまま、私は慌ててソファから飛び起き、乱れた服と髪を震える手で整えた。
心臓が、耳の奥で激しいドラムを打ち鳴らしている。
顔から火が出るどころか、全身の血液が沸騰して蒸発してしまいそうだ。
ダイニングの入り口の引き戸がガラリと開き、作業着姿で泥と鉄粉に汚れた創が姿を現した。
創はソファの前に立つ私と、ネクタイを緩めて肩で息をしている陸の姿を交互に見つめ、眉間の皺をこれ以上ないほど深く刻んだ。
「……何してんだ、お前ら」
創の鋭い三白眼が、テーブルの上のシャンパンの空き瓶と、二つのグラスを射抜く。
陸はわずか三秒で、いつもの完璧なビジネスマンの表情を取り繕ってみせた。
立ち上がり、ネクタイの結び目をすっと整えながら、爽やかな笑みを浮かべる。
「創くん、おかえり。コンペの祝勝会を、大家さんに付き合ってもらってたところですよ」
「……そうかよ。ずいぶん楽しそうだな」
創は吐き捨てるように言うと、私の真っ赤になった顔をジロリと睨みつけた。
そして、何も言わずに踵を返し、ドカドカと重たい足音を立てて二階へと上がっていってしまった。
再び訪れた沈黙。
ダイニングに残されたのは、私と陸の二人だけ。
陸は創が去っていった階段の方向を見つめた後、ゆっくりと私へと向き直った。
その瞳には、先ほどの営業スマイルは跡形もなく消え失せていた。
熱く、濁り、決して諦めない男の執念。
「……栞さん」
「ひゃ、はい……!」
陸は一歩、私に近づくと、私の耳元に顔を寄せた。
そして、誰にも聞こえないような、熱い吐息混じりの囁きを落とした。
「今日は邪魔が入りましたけど……次は、途中で止めませんから」
唇の端を親指で軽く拭い、満足そうに口角を吊り上げる陸。
「覚悟していてくださいね。……僕の、可愛い大家さん」
そう言い残すと、陸は空になったシャンパンのボトルを手に取り、「おやすみなさい」と優雅に一礼して、一〇一号室のドアの向こうへと消えていったのだった。
カチャリ、と閉まるドアの音。
一人取り残されたダイニングの真ん中で、私は膝から崩れ落ち、ペタリと床にへたり込んだ。
触れられた唇の端が、まだ熱くジンジンと痺れている。
「なんなの……なんなのよ、あの子……っ!」
可愛い後輩? 人懐っこい大型犬?
全部、偽りだったのだ。
スーツを脱ぎ捨てたあの男の正体は、甘い仮面の下に鋭い牙を隠し持った、とんでもなく危険な肉食獣だった。
大家と店子の境界線。
その最後の砦は、今夜、解かれたネクタイとシャンパンの泡の向こうへと、完全に粉砕されてしまったのだった。




