頑張ったこと
王子というものは。
褒められないらしい。
いや。
正確には。
褒められている。
毎日のように。
「さすが殿下です」
「お見事でございます」
「将来が楽しみです」
そんな言葉を。
アレクは。
たぶん。
私よりずっと多く聞いている。
なのに。
その日。
私は初めて。
それが少しも。
アレクを褒めていないことがあるのだと知った。
◇
きっかけはエステルの誕生日から、ひと月ほど経った頃だった。
王宮から。
小さな招待状が届いた。
「演奏会?」
「はい」
朝食の席。
エステルが封筒を両手で持っている。
「アレクが演奏するそうですわ」
「へえ」
私は招待状を見る。
王妃主催の、ごく小規模な午後の集まり。
親しい貴族家をいくつか招き、王子がヴァイオリンを披露するらしい。
「アレク、ヴァイオリン弾けるの?」
「弾けますわ」
「知ってたの?」
「はい」
「上手?」
「知りません」
「え?」
「わたくしの前では弾いたことがありませんもの」
「そうなの?」
「でも」
エステルが少し得意そうに言う。
「毎日、練習しているそうです」
「へえ」
「この前も、指が痛いと言っていました」
「…………」
「どうしました?」
「何でもない」
私は紅茶を飲む。
指が痛い。
それを、今のアレクはエステルには言える。
ほんの二年前。
『僕は王子です』
そう言って、疲れたことすら認めようとしなかった子が。
少しずつ変わっている。
「楽しみね」
「はい」
エステルは頷いた。
「上手でしたら、褒めます」
「上からね」
「下手でしたら、そう言います」
「それは少し手加減してあげて」
「何故です?」
「人間関係のため」
◇
演奏会の日。
王宮の小広間には春の午後の光が差し込んでいた。
大きな催しではない。
王と王妃。
数組の貴族。
そして子供たち。
その中央。
アレクがヴァイオリンを持って立っている。
白と青を基調にした礼装。
金の髪。
背筋はまっすぐ。
八歳。
なのに立っているだけなら、本当に絵本の王子様みたいだった。
「殿下も随分とご立派になられましたな」
近くの貴族が言う。
「王子たるもの、音楽の一つや二つは嗜めなくては」
「この年であれほど弾けるのであれば十分でしょう」
「さすがは陛下のお子だ」
私は何となくアレクを見る。
微笑んでいる。
いつもの、きれいな笑顔。
演奏が始まった。
◇
私は音楽に詳しくない。
前世でも、楽器なんて学校の授業で触ったくらい。
だから技術的なことはよく分からない。
でも。
上手だった。
少なくとも八歳の子供が弾いていると思えば、十分すぎるほど。
音がきれいに流れる。
途中、一度。
ほんの少し音が揺れた。
私でも分かった。
アレクの眉が、ほんの一瞬だけ動く。
でも演奏は止まらない。
最後まで弾き切った。
拍手。
部屋いっぱいに。
アレクは礼をする。
「素晴らしい」
「さすが殿下」
「将来の国王として、申し分ございませんな」
「王族には教養も必要ですから」
「当然とはいえ、この年で大したものです」
当然。
その言葉が妙に耳に残った。
アレクは笑っている。
「ありがとうございます」
きれいに。
王子として礼を返す。
私はその顔を、どこかで見たことがある。
疲れているのに。
『大丈夫です』
と言った時の、あの顔。
◇
演奏会の後。
子供たちは庭へ出た。
大人たちはそのまま小広間で歓談。
私は王妃と少し話した後、テラスへ出る。
庭の向こう。
木陰にアレクとエステルがいた。
エステルが何か言っている。
アレクが困った顔。
少し気になって近づく。
「どうしたの?」
「お母様」
「ミレーヌ様」
アレクがすぐに姿勢を正す。
「二人で何の話?」
「アレクが変なのです」
「エステル」
「変?」
「はい」
エステルがアレクを見る。
「わたくしが演奏を褒めたら、できて当然だと言うのです」
「…………」
私はアレクを見る。
「そうなの?」
「はい」
「どうして?」
「王子ですから」
出た。
また。
「王子はヴァイオリンが弾けないといけないの?」
「教養として必要です」
「それは分かるけど」
「だから、できるのは当然です」
アレクは穏やかに言う。
本当にそう思っている顔だった。
「アレク」
エステルが少し不満そうに言う。
「でも、練習したのでしょう?」
「したよ」
「毎日?」
「うん」
「指が痛くなるくらい?」
「それは……」
「言っていましたわ」
「言ったけど」
「でしたら、頑張ったのでしょう?」
アレクが止まった。
「…………」
「違いますの?」
「いや」
「では、頑張ったのです」
「でも」
「何です?」
「王子だから」
「それはもう聞きました」
強い。
エステル。
今日も容赦がない。
「王子だから、練習しなければならなかったのでしょう?」
「うん」
「だから練習した」
「うん」
「なら、頑張ったのでは?」
「…………」
アレクが答えない。
エステルが首を傾げる。
本当に分からないのだ。
何故、こんな簡単なことをアレクが認めないのか。
「わたくしも」
エステルが言う。
「領地経営の勉強をしなければなりません」
「うん」
「公爵令嬢だからです」
「うん」
「でも、勉強したら頑張ったことになります」
「…………」
「剣も、乗馬も、礼儀も」
「…………」
「やらなければならないからやったことは、頑張ったことにならないのですか?」
アレクが私を見る。
助けを求めるように。
(ごめん)
私は心の中で謝る。
(これは、エステルの勝ちだわ)
でも口には出さない。
今は二人の話だから。
「……分かんない」
アレクが小さく言った。
「何がです?」
「みんな、やるから」
「誰が?」
「父上も。母上も」
「はい」
「先生も」
「はい」
「王になるなら、できなきゃいけないって」
「はい」
「だから」
アレクは自分の指を見る。
「できても、別にすごくない」
その言葉に胸が少し痛んだ。
できても、すごくない。
できなければ、足りない。
それはどこまで行けば終わるのだろう。
◇
「アレク」
エステルが呼ぶ。
「何?」
「わたくしは、今日の演奏が上手だったと思いました」
「ありがとう」
「でも、途中で一度、変な音がしました」
「…………」
「エステル」
さすがに私は止めようとした。
「いいんです」
アレクが先に言った。
「僕も分かってます」
「でしょう?」
「うん」
「悔しいですか?」
「……悔しい」
「なら、次はもっと上手に弾けますわ」
「どうして?」
「悔しいから練習するでしょう?」
「…………」
「わたくしならします」
でしょうね。
「それに」
エステルは少し考えてから。
「できて当然なら、失敗して悔しいのも変ですわ」
「え?」
「だって」
何でもないことみたいに言った。
「頑張っていないなら、悔しくないでしょう?」
アレクが目を見開いた。
私は何も言えなかった。
たぶん、それは完全に正しい理屈ではない。
頑張っていなくても失敗すれば悔しいことはある。
でも。
今のアレクには届いた。
それで十分だった。
「……僕」
アレクが自分の手を見る。
「頑張ったのかな」
「頑張ったのでしょう?」
エステルが言う。
「わたくしは、毎日見ていたわけではありませんから知りません」
「そこは断言しないのね」
「見ていないことを知っているとは言えませんもの」
「正しいけど」
「でも」
エステルはアレクを見る。
「指が痛くなるまで練習したのは、あなたでしょう?」
「うん」
「なら、それはアレクが頑張ったことですわ」
「…………」
アレクが笑った。
王子の笑顔ではなく。
いつもの。
エステルといる時の八歳の男の子の顔で。
「そっか」
「はい」
「じゃあ」
少し照れたように。
「褒めてもらっていい?」
「もう褒めました」
「もう一回」
「仕方ありませんわね」
エステルが胸を張る。
「とても上手でしたわ」
「ありがとう」
「次は、あの変な音も出さないように」
「そこまで言う?」
「褒めることと、失敗は別です」
「厳しいなあ」
アレクは笑う。
エステルも少し笑った。
私はその二人を見ていた。
褒めることと失敗は別。
責任と評価を混ぜない。
片方があるから、もう片方を消さない。
先日、ある商人と話した時にも似たことを考えた。
あの時は大人同士で難しい顔をしていたのに。
娘は子供同士で、もっと簡単にやっている。
◇
その帰り。
馬車の中でエステルが訊いた。
「お母様」
「何?」
「アレクは、どうして自分が頑張ったことが分からないのです?」
「うーん」
難しい。
「たぶんね」
私は言葉を選ぶ。
「ずっと、できて当然だと言われてきたからじゃないかしら」
「当然」
「王子だからできて当然。王子だから頑張って当然。王子だから我慢して当然」
「…………」
「そう言われ続けると、自分が頑張ったことまで、最初から数えなくなるのかもしれない」
「数えない?」
「十頑張っても、王子だからゼロ」
「おかしいですわ」
「そうね」
「十は十です」
「そうね」
「王子でも?」
「王子でも」
「公爵令嬢でも?」
「公爵令嬢でも」
「お母様でも?」
「私でも」
「お父様でも?」
「もちろん」
エステルが考える。
「では」
「うん?」
「お父様も褒めた方がいいですわね」
「…………」
「お母様?」
「うん」
「何故笑うのです?」
「何でもない」
帰ったら、やってみよう。
あの人。
どんな顔するだろう。
◇
「今日もお仕事を頑張りましたわね、お父様」
「…………」
夕食。
エステルがいきなり言った。
レオニスの手が止まった。
「何だ、突然」
「褒めています」
「何故」
「お仕事をしたからです」
「それは私の仕事だ」
「だから何です?」
「…………」
あ。
同じだ。
エステルも気づいたらしい。
目がすっと細くなる。
「お父様」
「何だ」
「仕事だから頑張ったことにならないのですか?」
「いや」
「では、頑張りました?」
「…………」
レオニスが私を見る。
助けを求めるように。
ごめん。
無理。
私、さっき同じ場面を見た。
「どうなのです?」
「……やるべきことをやっただけだ」
「アレクと同じことを言っていますわ」
「アレクシス殿下が?」
「はい」
エステルが今日のことを説明する。
レオニスは静かに聞いていた。
「なるほど」
「ですから」
「分かった」
レオニスが少し考える。
「今日は頑張った」
「はい」
「これでいいか」
「はい!」
エステルが満足そうに頷く。
「お疲れ様でした」
「……ああ」
レオニスがほんの少し視線を逸らした。
照れてる。
絶対。
「あなた」
「何だ」
「今日も頑張ったのね」
「ミレーヌ」
「お疲れ様」
「やめろ」
「何でよ」
「お前は面白がっているだろう」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「本当にそう思ってる」
「…………」
レオニスはそれ以上何も言わなかった。
でも。
耳が少し赤い。
「奥様」
セリーヌが背後から囁く。
「何?」
「旦那様をあまり追い詰めない方が」
「何で?」
「逃げ場がございません」
「褒めてるだけよ?」
「それが問題なのかと」
難しい。
褒めるって。
◇
数週間後。
アレクがまたグランヴェル家へ来た。
その日は珍しくヴァイオリンを持って。
「弾くの?」
エステルが訊く。
「うん」
「何故?」
「聴いてほしいから」
「わたくしに?」
「うん」
「いいですわ」
何故、偉そうなの。
でもアレクは気にしない。
庭の東屋。
私とエステルと。
たまたま早く仕事を切り上げたレオニス。
セリーヌ。
観客はそれだけ。
アレクがヴァイオリンを構える。
演奏が始まる。
あ。
この曲。
前と同じだ。
そして。
前に音が揺れたところ。
今度はきれいに流れた。
最後まで。
演奏が終わる。
拍手。
エステルが一番大きく手を叩く。
「アレク」
「うん」
「今度は変な音がしませんでしたわ」
「そこから?」
「それから」
エステルが笑う。
「前より、ずっと上手でした」
「ありがとう」
「練習しました?」
「した」
「頑張りました?」
アレクが一瞬止まる。
それから。
今度は迷わず。
「うん」
と答えた。
「頑張った」
「そうでしょう」
何故かエステルが得意そうだ。
私は胸の奥が温かくなる。
たった一言。
『頑張った』
それを自分で言えるようになるまで。
この子にはどれくらい必要だったのだろう。
分からない。
でも。
今、言えた。
それでいい。
◇
演奏が終わった後。
アレクがヴァイオリンを片づけている。
エステルはその隣。
「ところで」
「何?」
「前より上手になったということは」
「うん」
「今度は、わたくしも何かで前より上手になったところを見せなければなりませんわね」
「何で?」
「負けたままではありませんか」
「何の勝負?」
「成長の勝負です」
「そんな勝負ある?」
「今できました」
「勝手だなあ」
「嫌ですの?」
「……やる」
「では何にします?」
「剣」
「望むところですわ」
結局そうなる。
私は笑う。
「若いですね」
セリーヌが言う。
「八歳よ」
「存じております」
「私たちが年寄りみたいに言わないで」
「奥様が仰ったのでは」
「言ってない」
隣でレオニスが小さく笑った。
◇
その夜。
私は帳面を開く。
『できないことを、恥じなくていい』
『分からなければ聞く』
『人に頼る』
前に書いた文字。
その下へ新しく書く。
『やらなければならないことでも、頑張ったことは消えない』
少し考える。
『できて当然、で努力をゼロにしない』
さらに。
『失敗したことと、頑張ったことは別』
ペンを止める。
これはアレクのためだけの言葉ではない。
エステルにもきっと必要になる。
努力して。
努力して。
それでも届かない時。
負けた時。
失敗した時。
その結果だけで、それまで積み重ねたものまでゼロにしないために。
そして。
たぶん私にも。
レオニスにも。
誰にでも。
「…………」
画面の中のエステルを思い出す。
あの子は。
どれだけ頑張ったのだろう。
王子の婚約者だから。
未来の王妃だから。
公爵令嬢だから。
できて当然。
頑張って当然。
誰かに。
『よく頑張ったね』
そう言ってもらえたことはあったのだろうか。
分からない。
ゲームには、そんな場面はなかった。
だから。
私は今、目の前にいる娘には言っておこうと思う。
◇
「エステル」
寝る前。
娘の部屋を覗く。
「はい?」
「今日も頑張ったわね」
「何をです?」
「いろいろ」
「いろいろでは分かりませんわ」
「細かい」
「褒めるなら具体的にお願いします」
「注文が多い」
私は笑う。
「午前中の勉強も」
「はい」
「乗馬も」
「はい」
「アレクの演奏をちゃんと聴いたことも」
「それは頑張っていません」
「じゃあ除外」
「はい」
「それから」
少し考える。
「アレクが頑張ったことを、ちゃんとアレクに返してあげたこと」
「返した?」
「あなたが褒めたから、アレクは自分で『頑張った』って言えたのよ」
「…………」
エステルが少し考える。
「それは」
「うん?」
「わたくしが頑張ったことなのですか?」
「どうかしら」
「分かりませんの?」
「何でも私が答えを持ってると思わないで」
「お母様なのに」
「お母様でも」
エステルがくすりと笑う。
「では」
「うん?」
「わたくしが決めます」
「何て?」
「今日は、頑張りました」
「そう」
「はい」
「じゃあ」
私は娘の頭を撫でる。
「よく頑張りました」
エステルは少しだけ照れたように。
「ありがとうございます」
と答えた。
たぶん。
努力は未来を保証してくれない。
頑張ったから必ず勝てるわけでもない。
必ず報われるわけでもない。
それでも。
頑張ったことまで、なかったことにはならない。
誰かが見て。
認めて。
時には本人に返してやる。
そうすれば。
努力は結果だけではない何かを、その人の中に残していく。
私はまだ、その何かに名前をつけられなかった。
でも今は、それでいい。
エステルが。
アレクが。
今日より少しだけ明日を歩きやすくなるなら。
きっと。
それでいいのだ。




