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できないこと


 エステルが八歳になった。


 誕生日の朝。


 娘は私たちから贈られた新しい乗馬用の手袋を両手にはめて、満足そうに指を開いたり閉じたりしていた。


「どう?」


「ぴったりですわ!」


「そう。良かった」


「お父様、ありがとうございます」


「ああ」


「お母様も」


「どういたしまして」


 笑う娘を見ながら。


 私は、ほんの少しだけ感慨に浸る。


 八歳。


 生まれた時には。


 あんなに小さかったのに。


 今では馬にも乗る。


 剣も振る。


 勉強もする。


 アレクと会えば、だいたい何かで勝負を始める。


 成長した。


 本当に。


「今日から、もっと難しい馬にも乗れますわね」


「待って」


 感慨。


 終了。


「今の馬でいいでしょう?」


「ですが、もう八歳です」


「八歳になった瞬間に乗馬技能が上がるわけじゃないのよ」


「練習すれば上がります」


「それはそうだけど」


「でしたら練習します」


 強い。


 この子。


 本当に。


 八歳になっても。


 何も変わっていない。


     ◇


 変わっていない。


 と、思っていた。


 その日の午後までは。


     ◇


 誕生日だからといって。


 特別な予定ばかりを詰め込んだわけではない。


 午前中は家族で過ごし。


 昼食後。


 エステルはいつも通り家庭教師の授業を受けていた。


 誕生日くらい休ませても。


 と私は言ったのだけれど。


『昨日まで七歳だったからといって、今日から勉強しなくてよくなるわけではありませんわ』


 正論。


 誰に似たの。


 たぶん私じゃない。


 そして。


 夕方。


 授業を終えたエステルが。


 珍しく。


 私のところへ来なかった。


「セリーヌ」


「はい」


「エステルは?」


「お部屋にいらっしゃいます」


「一人?」


「はい」


「具合でも悪いの?」


「そのようには見受けられませんでしたが」


 少し。


 引っかかった。


 普段なら。


 授業が終われば、その日の出来を話しに来る。


 できた。


 できなかった。


 先生に褒められた。


 悔しかった。


 だいたい何かしら。


 特に。


 できなかった日は。


 次はできるようにすると。


 宣言しに来る。


 それがない。


「見てくるわ」


     ◇


 扉を叩く。


「エステル?」


「……はい」


 いる。


「入ってもいい?」


 少し間があった。


「どうぞ」


 部屋へ入る。


 エステルは。


 机に座っていた。


 目の前には。


 紙。


 何枚も。


 同じような文字列と数字が並んでいる。


「何してるの?」


「復習です」


「授業の?」


「はい」


「今日は何を習ったの?」


「領地経営の基礎ですわ」


「へえ」


 八歳で。


 領地経営。


 貴族教育。


 重い。


「難しかった?」


「…………」


 返事がない。


 あ。


 これ。


「難しかったのね」


「難しくありません」


「エステル」


「難しくありませんわ」


 声が。


 少し強い。


 私は隣へ行く。


「見てもいい?」


「…………はい」


 紙を見る。


 収穫量。


 税率。


 備蓄。


 輸送費。


 簡単な仮想領地の収支計算らしい。


 そして。


 何ヶ所か。


 赤い印。


「間違えたの?」


「三つです」


「三つ」


「十問中」


「七つ合ってるじゃない」


「三つも間違えました」


「初めて習ったんでしょう?」


「ですが」


 エステルは唇を噛んだ。


「先生は、アレクなら全部できると仰いました」


「…………」


 なるほど。


 そこか。


「先生が?」


「王子殿下は、すでに同じ範囲を終えていらっしゃると」


「それで?」


「全問正解だったそうです」


 私は。


 心の中で。


 家庭教師の肩を掴んだ。


(何故それを今この子に言うの)


 いや。


 悪気はない。


 たぶん。


 婚約者同士。


 お互い高め合うように。


 そういうつもりだったのだろう。


 そして。


 エステルは。


 負けず嫌いだ。


 普段なら。


『でしたら、わたくしも次は全部正解します!』


 で終わる。


 はずだった。


「何度やっても」


 エステルが言う。


「ここが分からないのです」


 指をさす。


 輸送費と備蓄量を絡めた問題。


「先生には聞いた?」


「聞きました」


「それでも?」


「説明は分かります」


「うん」


「でも、自分でやると間違えます」


「…………」


「だから」


 小さな手が。


 紙を握る。


「もう一度やりました」


「うん」


「また間違えました」


「それで?」


「もう一度」


 机の上。


 同じ問題。


 何度も。


 何度も。


 書き直している。


 私は。


 まだ幼かった頃のエステルを思い出した。


 文字を間違えて。


 何度も書き直した娘。


『できるようになるまで、やるのです』


 あの時。


 私は。


 この子の強さに感動した。


 今も。


 その気持ちは変わらない。


 でも。


「エステル」


「はい」


「今日は、もうやめましょう」


「嫌です」


 即答。


「エステル」


「できるようになるまでやります」


「…………」


 同じ言葉。


 なのに。


 あの頃とは。


 少し違って聞こえた。


「どうして?」


「どうしてって」


「どうして今日、できるようにならなきゃいけないの?」


「だって」


 エステルが。


 私を見る。


「アレクはできるのです」


「うん」


「わたくしは、アレクの婚約者です」


「うん」


「でしたら」


 その先を。


 私は。


 聞きたくないと思った。


 でも。


 聞かなければいけない。


「でしたら、わたくしもできなければ」


 胸の奥で。


 何かが。


 冷えた。


     ◇


 ゲームの中のエステル。


 私は。


 彼女の努力が好きだった。


 誰より勉強して。


 誰より礼儀を磨き。


 誰より未来の王妃に相応しくあろうとした。


 だから。


 前世の私は。


 悔しかった。


 そんな彼女の積み重ねが。


 恋愛の前では。


 何の意味もなかったように扱われることが。


 でも。


 今。


 目の前にいる娘の言葉を聞いて。


 初めて。


 怖いと思った。


 努力は。


 良いものだ。


 少なくとも。


 私はそう思っている。


 できないことを。


 できるようにする。


 負けたら。


 次は勝てるように頑張る。


 それは。


 この子の強さだ。


 だけど。


 もし。


『できるようになりたい』


 ではなく。


『できなければならない』


 になったら。


 その強さは。


 どこへ向かう?


「エステル」


「はい」


「アレクができることを、あなたも全部できなきゃいけない?」


「……婚約者ですもの」


「どうして?」


「隣に立つのですから」


「隣に立つ人は、同じことが全部できないといけないの?」


「…………」


「お父様と私は?」


 エステルが黙る。


「お父様にできて、私にできないこと。たくさんあるわ」


「でも」


「私にできて、お父様にできないこともある」


「……例えば?」


「刺繍」


「それは」


「紅茶」


「それはセリーヌです」


「私とお父様なら私の勝ちよ」


「基準が低いですわ」


「ひどい」


 少し。


 エステルの口元が緩んだ。


 良かった。


「お父様はね」


 私は続ける。


「私よりずっと領地のことに詳しい」


「はい」


「政治も」


「はい」


「剣も」


「はい」


「そんなに即答しなくても」


「事実ですもの」


「でも、私がそれを全部お父様と同じようにできないからって、隣に立ってはいけないとは思わない」


「…………」


「お父様も、たぶん思ってない」


「たぶん?」


「そこは本人に確認しましょう」


     ◇


「思っていない」


 その夜。


 確認した。


 本人に。


「即答ね」


「何故迷う必要がある」


「ほら」


 私はエステルを見る。


 夕食後。


 三人で。


 レオニスの執務室にいる。


 エステルは少し気まずそうだった。


「お父様」


「何だ」


「お母様が、領地経営でお父様に勝てなくてもいいのですか?」


「勝つ?」


 レオニスが私を見る。


「何の話だ」


「そこは気にしないで」


「気になるが」


「今は娘」


 レオニスは。


 納得していない顔のまま。


 エステルへ戻る。


「ミレーヌが私と同じことをできる必要はない」


「何故です?」


「私ではないからだ」


「…………」


「逆も同じだ」


「お父様にも、お母様にできてできないことがありますの?」


「ある」


「刺繍?」


「それはできない」


「紅茶?」


「…………」


「できないのね」


「必要なら覚える」


「張り合わないで」


 この父。


 この娘。


 似ている。


「エステル」


 レオニスが呼ぶ。


「はい」


「今日、何があった」


 エステルは。


 少し迷って。


 話した。


 問題を三つ間違えたこと。


 アレクは全問正解だったこと。


 何度やっても。


 一つ。


 どうしても分からなかったこと。


 レオニスは。


 途中で口を挟まず。


 最後まで聞いた。


「そうか」


「……はい」


「では、その問題を見せろ」


「え?」


「持っているのだろう」


「はい」


 エステルが紙を渡す。


 レオニスは読む。


 しばらく。


 無言。


「この問題か」


「はい」


「何故、この量を備蓄する必要があると思う」


「冬に備えるためです」


「それだけか?」


「……不作の時?」


「他には」


「…………」


 エステルが考える。


 分からない。


 顔に出る。


「答えを覚えようとしているな」


「……はい」


「だから分からない」


「え?」


 レオニスは。


 机の上に別の紙を置いた。


 簡単な地図を描く。


 村。


 川。


 街道。


 倉庫。


「ここがグランヴェル領の村だとする」


「はい」


「収穫した小麦を、全て王都へ売れば高く売れる」


「はい」


「では全て売るか?」


「売りません」


「何故」


「領民が食べる分が必要です」


「他には」


「種……?」


「そうだ」


 レオニスが頷く。


「来年植える分もいる」


 エステルが。


 紙を見る。


「備蓄は、余ったものではない」


「……必要だから残す?」


「そうだ」


「でも、多すぎれば売れるものが減ります」


「そうだ」


「少なすぎれば、何かあった時に困る」


「そうだ」


「…………」


 エステルの目が。


 変わった。


「だから、この問題は」


 指が動く。


 計算。


 一度。


 止まる。


 もう一度。


「……あ」


 小さな声。


「できた?」


 私が訊く。


 エステルは。


 答えを見る。


「合っています」


「良かったじゃない」


「でも」


 エステルが。


 レオニスを見る。


「先生と説明が違います」


「そうだろうな」


「どちらが正しいのです?」


「どちらも正しい」


「……?」


「人によって、理解しやすい説明が違う」


 レオニスは言う。


「一度聞いて分からなければ、別の聞き方をすればいい」


「…………」


「一人に聞いて分からなければ、別の者に聞いてもいい」


「それは」


 エステルが。


 少し躊躇う。


「ずるくありませんか?」


「何故だ」


「自分でできていません」


「誰かに教わることと、自分で考えないことは別だ」


 私は。


 思わず。


 レオニスを見た。


 この人。


 本当に。


 こういう時は強い。


「お前はいずれ、多くのことを決める立場になる」


「はい」


「その全てを、自分一人で理解できると思うか?」


「…………」


「私はできない」


 エステルが顔を上げた。


「お父様でも?」


「私でもだ」


 レオニスは。


 静かに言う。


「だから、人に聞く」


「…………」


「分かる者を探す」


「…………」


「意見が違えば、両方聞く」


「…………」


「その上で、自分で決める」


 エステルは。


 じっと父親を見ていた。


「できないことがあるのは、悪いことではない」


 一拍。


「できないことを、できるふりをする方が危険だ」


 私は。


 その言葉を。


 覚えておこうと思った。


     ◇


 数日後。


 アレクが遊びに来た。


「アレク」


「何?」


「領地経営の問題、全部できたそうですわね」


「え?」


「先生から聞きました」


「ああ」


「わたくしは三つ間違えました」


「そうなの?」


「一つは、何度やっても分かりませんでした」


 アレクが。


 少し困った顔をした。


「それで?」


「お父様に聞きました」


「うん」


「分かりました」


「良かったじゃないか」


「はい」


 エステルは。


 そこで。


 何故か胸を張った。


「ですから、次は負けません」


「結局勝負なの?」


「当然です」


 アレクが笑う。


「じゃあ、今度同じ問題やる?」


「望むところですわ」


「でも」


「何です?」


「僕、計算はできたけど」


「はい」


「剣は昨日、先生に三回直された」


「…………」


 エステルの目が光る。


「どこを?」


「足」


「見せてください」


「今?」


「今です」


「来たばっかりなんだけど」


「庭へ行きますわよ」


「ちょっと待って」


 エステルが。


 アレクの手を引いていく。


 私は。


 その背中を見送った。


 何だろう。


 少し。


 安心した。


 アレクができる。


 自分ができない。


 それを。


 悔しがる。


 それでいい。


 次は勝ちたい。


 それも。


 この子らしい。


 でも。


 アレクにも。


 できないことがある。


 自分にも。


 できることがある。


 そして。


 分からなければ。


 誰かに聞けばいい。


 たったそれだけのこと。


 なのに。


 ゲームの中の二人には。


 案外。


 それが難しかったのかもしれない。


     ◇


 その日の午後。


 私は。


 少し離れたところから。


 二人の稽古を眺めていた。


「違いますわ、アレク!」


「分かってる!」


「今、同じところを注意されました!」


「分かってるって!」


「でしたら直してください!」


「エステルだって昨日、計算間違えたんだろ!」


「それはもう分かりました!」


「僕だって今分かってる!」


「ではもう一度!」


「やるよ!」


 木剣が鳴る。


 先生が。


 困ったように笑っている。


「仲がよろしいですね」


 隣で。


 セリーヌが言った。


「そう見える?」


「少なくとも、遠慮はございません」


「それは確かに」


 婚約者。


 未来の王と。


 未来の王妃。


 その言葉だけなら。


 互いに。


 弱いところなんて。


 見せない方が良さそうに思える。


 でも。


 私は。


 逆だと思う。


 できない。


 分からない。


 疲れた。


 負けた。


 悔しい。


 そういうものを。


 見せても。


 隣にいる。


 それを。


 今のうちに。


 この二人が知ってくれたら。


 たぶん。


 数年後。


 何かが違う。


     ◇


 夜。


 帳面を開く。


『アレクシス――疲れたと言えない』


『婚約者になる前に、友達でいること』


『エステルは負けず嫌い』


『相手の努力まで否定しない』


『上に立つ=多く責任を負う』


『ゲームの外を見る』


 最近。


 本当に。


 何の帳面なのか分からなくなってきた。


 破滅フラグ対策帳。


 の。


 はず。


「まあ、いいか」


 新しい頁を開く。


『エステル――できないことがある』


 書いて。


 少し笑う。


 当たり前。


 そんなの。


 当たり前なのに。


 何故か。


 とても大切なことに思えた。


『できないことを、恥じなくていい』


『分からなければ聞く』


『人に頼る』


 そこで。


 ペンが止まった。


 人に頼る。


「…………」


 私は。


 前の頁を見る。


『オルフェン・バルト』


『困った時には相談したまえ』


 その文字。


 レオニスの言葉。


『最初からそのつもりだ』


 思わず。


 苦笑する。


「……人のこと言えないわね」


 私は。


 娘には。


 頼ればいいと言う。


 アレクには。


 疲れたと言っていいと言う。


 でも。


 自分は?


 破滅フラグを知っているのは。


 私だけ。


 ゲームの記憶を持っているのも。


 私だけ。


 だから。


 私が何とかしなければ。


 ずっと。


 そう思っている。


 もちろん。


 前世の記憶のことなんて。


 簡単に話せるものではない。


 話したところで。


 信じてもらえるかも分からない。


 でも。


 だからといって。


 全部を。


 一人で抱える必要まで。


 あるのだろうか。


「…………」


 分からない。


 まだ。


 そこまでは。


 私は。


 うまくできない。


 娘に教えたことを。


 自分ができていない。


「お母様?」


「わっ!」


 振り向く。


 寝間着姿のエステルがいた。


「どうしたの?」


「お水を飲みに」


「そう」


「お母様は?」


「ちょっとお勉強」


「またですの?」


「またです」


 エステルが。


 帳面を見る。


「分からないことがありますの?」


「…………」


 私は。


 少し迷った。


 それから。


「あるわ」


 と答えた。


「たくさん?」


「たくさん」


「お父様に聞きます?」


「聞けることはね」


「聞けないことも?」


「あるのよ、大人には」


「そうですの」


 エステルは。


 しばらく考え。


「では」


「うん?」


「わたくしに聞いてもいいですわよ」


「…………」


「分かるかもしれません」


 胸が。


 詰まった。


 八歳。


 まだ。


 私が守らなければならない。


 そう思っている娘が。


 当然みたいな顔で。


 私を助ける側に。


 一歩。


 足を置いた。


「ありがとう」


 私は笑った。


「その時は、お願いするわ」


「はい」


「でも今は寝なさい」


「お母様も」


「私は大人だから」


「できないことを、できるふりをする方が危険だと、お父様が仰っていました」


「睡眠の話じゃないわよね、それ」


「夜更かしが平気なふりも危険です」


「…………」


 強い。


 この子。


 本当に。


 八歳になって。


 ますます。


 強くなっている。


「分かりました」


 私は帳面を閉じた。


「一緒に寝ましょうか」


「はい」


 立ち上がる。


 娘と並んで。


 廊下を歩く。


 小さかった手は。


 もう。


 生まれた頃とは比べものにならない。


 でも。


 まだ。


 私の手の中に収まる。


 いつか。


 この手を離す日が来る。


 その時。


 この子は。


 何でもできる人になっている必要なんてない。


 できないことを知って。


 できる人を認めて。


 必要なら。


 助けてと言える。


 そして。


 誰かが困っていたら。


 自分にできることを差し出せる。


 そんな人に。


 なってくれたら。


 それでいい。


「お母様」


「何?」


「手」


「え?」


「握りすぎです」


「あ、ごめん」


「痛くはありませんけれど」


 エステルが。


 私の手を。


 今度は自分から握り直した。


「このままでいいですわ」


「……そう」


 私は。


 少しだけ。


 握り返した。


 破滅フラグを折るために。


 私は娘を育てている。


 ずっと。


 そう思っていた。


 でも。


 時々。


 分からなくなる。


 この子を育てているのは。


 本当に。


 私だけなのだろうか。


 もしかすると。


 私も。


 この子に。


 少しずつ。


 育てられているのかもしれない。


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