最初は少しだけ
クララ・エヴァンスがグランヴェル家へ来る日。
私は朝から落ち着いていた。
とても。
「セリーヌ」
「はい」
「お菓子、多くない?」
「通常の量でございます」
「そう?」
「奥様が昨日追加なさった分は戻しました」
「戻したの!?」
「通常の量でございます」
落ち着いていた。
たぶん。
*
「お母様」
階段を下りてきたエステルが、私を見るなり止まった。
「何?」
「今日はご予定が?」
「ないわよ」
「では、そのお召し物は?」
私は自分の袖を見る。
いつもの昼間着。
少しだけ上品。
少しだけ。
「普通でしょう?」
「普段より少しだけきちんとしていらっしゃいます」
「いつもきちんとしてるわよ!」
「そういう意味ではなく」
「分かってるわよ!」
十二歳の娘は言葉の逃げ道まで塞いでくる。
「クララが来るだけです」
「分かってる」
「私の友人です」
「分かってるってば」
「お母様のお客様ではありません」
「……分かってるわよ」
最後だけ少し小さくなった。
エステルが笑った。
「ご紹介はします」
「別に催促してないけど?」
「はい」
「その『はい』何?」
「何でもありません」
絶対に何でもある。
*
昼前。
エヴァンス男爵家の馬車が到着した。
私は玄関には行かなかった。
行かなかった。
応接室にも行かなかった。
今日はエステルが迎える。
私は別室でお茶を飲んでいる。
完璧。
「奥様」
「何?」
「本が逆さまでございます」
「知ってる」
「左様でございますか」
「そういう読み方なの」
「初めて知りました」
私は本を閉じた。
「セリーヌ」
「はい」
「私、そんなに変?」
「本日は少々」
「少々」
「はい」
「……だって」
言いかけてやめる。
だって。
エステルが、自分で家へ呼んだ友達なのだ。
アレクシスではない。
王家との約束でもない。
私が選んだ相手でもない。
行事で一緒になって。
話して。
また会いたいと思って。
自分で誘った。
それだけのこと。
それだけのことが。
なんだか妙に嬉しい。
「お母様」
扉から声がした。
私は立ち上がった。
早すぎた。
一度座った。
もう一度立った。
セリーヌが見ている。
見ないで。
「どうぞ」
エステルが入ってくる。
その隣に、先日の少女がいた。
明るい栗色の髪。
灰色がかった緑の瞳。
年齢はエステルと同じ十二歳。
派手さはないけれど、視線がまっすぐだ。
少女は私を見ると、きちんと礼をした。
「お招きいただきありがとうございます。エヴァンス男爵家のクララ・エヴァンスと申します」
「ようこそ、クララさん。ミレーヌ・グランヴェルです」
知っているだろうけれど。
そういうものなので名乗る。
「今日はエステルとゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます」
ここで終わり。
私は聞かない。
好きなものは?
普段は何をしているの?
ご家族は?
エステルとは何を話したの?
聞かない。
偉い。
「では、お母様」
「ええ」
エステルがクララを連れて出ていく。
扉が閉まる。
「……感じのいい子ね」
「はい」
「しっかりしてそう」
「はい」
「エヴァンス男爵家って――」
「奥様」
「聞いてない! まだ最後まで言ってない!」
「失礼いたしました」
「先回りしないで!」
*
結局。
私は午後までクララとほとんど話さなかった。
本当に。
驚くほど。
エステルたちは庭へ行き。
途中からノエルが届け物を持って現れ。
なぜかそのまま捕まり。
少し遅れてアレクシスまで来た。
「どうして増えるの?」
「よろしいことではございませんか」
「いいことよ。いいことなんだけど」
窓の向こう。
四人が庭のテーブルを囲んでいる。
ノエルが何かを言う。
クララが返す。
ノエルが両手を上げる。
エステルが笑う。
アレクシスが紙を指して何か説明している。
「……何してるのかしら」
「ご覧になっておりますね」
「これは観察」
「以前も伺いました」
くっ。
同じ言い訳は二度通じない。
いや、一度も通っていなかった。
*
夕方。
アレクシスとノエルが先に帰った。
クララの迎えまでは、もう少し時間があるらしい。
私は廊下で偶然二人に会った。
本当に偶然。
「お母様」
「楽しめた?」
「はい」
「クララさんも?」
私が聞くと、クララが少し笑った。
「はい。とても」
「それならよかった」
「ただ」
「ただ?」
クララがエステルを見る。
エステルも見る。
「エステル様は、思っていた方と少し違いました」
お。
私は黙った。
これは聞きたい。
「どう思っていたの?」
エステルが先に聞いた。
「もっと怖い方かと」
「クララ」
「最初にお会いした時にも言いました」
「そうですけれど」
「王太子殿下の婚約者で、公爵家のご令嬢ですから」
「それだけで?」
「それだけで十分では?」
「納得できませんわ」
「でも、実際はすぐ怒ります」
「クララ!」
「ほら」
クララが笑う。
エステルがむっとする。
私も笑いそうになった。
耐えた。
「公爵夫人」
今度はクララが私を見る。
「はい?」
「エステル様は、家でもこのままなのですか?」
「ええ」
「お母様!」
「もっとすごい時もあるわよ」
「お母様!」
クララが吹き出した。
あ。
今の笑い方。
さっきまでの丁寧な少女とは少し違った。
エステルが私を睨む。
「余計なことを仰らないでください」
「友達には知ってもらった方がいいでしょう?」
「何をですか!」
「エステルのこと」
「それは私が決めます!」
ぴたり。
私は止まった。
エステルも止まった。
クララが、私とエステルを交互に見る。
「……ごめんなさい」
私が言った。
エステルが少し驚いた顔をした。
「いえ」
「そうね。あなたのことだものね」
「……はい」
ほんの一瞬。
空気が静かになる。
でも。
「ただし」
「まだ何か?」
「家でのあなたがもっとすごいのは事実だから」
「お母様!」
クララがまた笑った。
今度はエステルも、少し遅れて笑った。
よかった。
*
クララが帰ったあと。
エステルは玄関からしばらく動かなかった。
「楽しかった?」
「はい」
「また呼ぶ?」
「……はい」
少し間があった。
照れた?
これは。
たぶん。
聞かない。
私は学んでいる。
「クララも、また来たいと言っていました」
「そう」
「今度は私がエヴァンス家へ伺うかもしれません」
「そう」
「お母様」
「何?」
「止めませんね」
「止める理由がないもの」
エステルが私を見る。
「少し前なら、先に色々お調べになったのでは?」
「……そうかもね」
「今は?」
「気になる」
「やはり」
「ものすごく気になる」
「お母様」
「でも」
私は笑った。
「最初は少しだけでいいかなって」
「少しだけ?」
「会って、話して。それから知っていけばいいでしょう?」
エステルは一度瞬いた。
それから。
「はい」
と笑った。
*
夜。
レオニスに今日のことを話した。
「友人ができたのか」
「まだ、そこまで決めつけない」
「本人がまた会いたいと言っているのだろう?」
「そうだけど」
「なら友人ではないのか?」
「そういうのは本人たちが決めるの」
「難しいな」
「難しいのよ」
私はソファにもたれる。
クララ・エヴァンス。
ゲームには覚えがない。
知らない子。
でも今日。
エステルの横で笑っていた。
それだけで。
少し嬉しかった。
「ねえ、レオニス」
「何だ?」
「私、昔より知らないことが増えた気がする」
「そうか?」
「エステルが小さい頃は、今日何をしたかも、誰と会ったかも、大体知ってたでしょう?」
「ああ」
「今は知らない名前が増えて。知らない話が増えて。私がいないところで笑ったり、怒ったりしてる」
レオニスは少し考えた。
「寂しいか?」
「……ちょっと」
「そうか」
「でも、嬉しい」
「そうか」
「両方なの」
「それでいいんじゃないか」
簡単に言う。
でも。
たぶん、その通りなのだ。
私は全部を知るために母親になったわけではない。
全部を決めるためでもない。
エステルが自分で誰かに会って。
自分で好きになったり。
苦手になったり。
喧嘩したり。
仲直りしたり。
そういうものを持てるところまで。
無事に育ってほしかった。
そのために。
私はずっと。
破滅フラグなんてものを追いかけてきたのだから。
「……あ」
「どうした?」
「今、ちょっと綺麗にまとまった気がする」
「何が?」
「何でもない」
「またそれか」
「またです」
レオニスが笑う。
私も笑った。
学院まで、あと一年。
エステルの世界は。
私が思っているよりずっと早く。
広がり始めていた。




