知らない名前が増えていく
十一歳の一年は、思っていたより早く過ぎた。
いや。
正確には、過ぎたというより。
エステルが勝手に先へ進んでいった。
「お母様。勝手に進んだわけではありません」
「心を読まないで」
「顔に書いてあります」
「どこに?」
「そのあたりに」
エステルが私の額のあたりを指す。
私は思わず手で隠した。
「消えた?」
「いいえ」
「じゃあどこ?」
「今度は口元です」
「移動するの!?」
十二歳になった娘は、ますます手強い。
*
春。
学院入学まで、あと一年。
エステルたちが参加する入学前の交流行事も、すっかり珍しいものではなくなっていた。
最初は王宮や上位貴族の主催が多かったけれど、今では学院側が場所を貸すこともある。
参加する家も増えた。
貴族だけではない。
学院への進学を考えている商家の子。
地方から王都へ来ている子。
推薦を受ける予定の子。
私は最初、その名簿を見せてもらうたびに少し緊張した。
知らない名前がある。
知っている名前がある。
ゲームで見たような気がする名前がある。
全然思い出せない名前がある。
そして、そのたびに。
ノートを開きたくなった。
開いて。
照らし合わせて。
この子は安全。
この子は分からない。
この子はもしかしたら。
そうやって分類したくなった。
でも最近は。
少しだけ、我慢できる。
少しだけ。
「奥様」
「何?」
「名簿を裏返してから、もう三度ほど表に戻そうとなさっております」
「戻してないわよ」
「手が伸びております」
「伸びただけ」
「便利な手でございますね」
「セリーヌ」
「はい」
「最近、エステルに似てきたわよ」
「光栄でございます」
絶対にそう思っていない顔だった。
*
その日の交流会は、学院の小さな演習棟で行われた。
保護者は別室。
子どもたちは子どもたちで課題をこなす。
もう、それにも慣れた。
慣れた。
慣れたはず。
「ミレーヌ」
「何?」
「扉を見すぎだ」
「見てないわよ」
「さっきから同じところを見ている」
「壁を見てるの」
「なぜ?」
「壁があるから」
「そうか」
レオニスが諦めた。
勝った。
何に。
「グランヴェル公爵夫人」
声をかけられて振り向く。
見覚えのある夫人だった。
何度か社交の場で顔を合わせている。
挨拶をして、当たり障りのない話をする。
今年は地方から来た家も多いとか。
学院側も、入学前から家格に関係なく話す機会を作りたいらしいとか。
「子どもたちは、親が思うより早く馴染むものですね」
「本当に」
私は笑った。
それはもう。
嫌というほど実感している。
*
課題が終わった子どもたちが庭へ出てきた。
遠目にもエステルは分かる。
深い赤の髪。
その隣にアレクシス。
少し離れてノエル。
さらに何人か。
知らない子もいる。
私は目を細めた。
エステルが誰かと話している。
女の子だ。
同じくらいの年頃。
明るい茶色の髪を肩のあたりでまとめている。
派手な装いではない。
でも、立ち方が妙に堂々としている。
何を話しているのかは聞こえない。
エステルが何か言う。
女の子が返す。
エステルが眉を上げる。
女の子も眉を上げる。
あ。
なんか。
ちょっと危ない。
「レオニス」
「見ている」
「止めなくていい?」
「何を?」
「喧嘩」
「しているようには見えないが」
「でも、エステルのあの顔」
「楽しそうだな」
「……え?」
もう一度見る。
女の子が何か言った。
エステルが一瞬きょとんとして。
笑った。
女の子も笑った。
あ。
本当だ。
楽しそう。
「何を話してるのかしら」
「後で本人に聞けばいい」
「今知りたい」
「聞こえないだろう」
「そうなのよね」
「近づくなよ」
「行かないわよ!」
「そうか」
「信用してないでしょう」
「している」
「間があった!」
*
帰りの馬車で、私は五分待った。
偉い。
本当に偉い。
乗ってすぐには聞かなかった。
五分。
たぶん。
「ねえ、エステル」
「はい」
「あの女の子、誰?」
「どの子です?」
「庭で話してた、茶色い髪の」
「ああ」
エステルは窓の外を見ながら、何でもないことのように言った。
「クララ・エヴァンスです」
知らない名前だった。
私の中で、何も鳴らない。
ゲームの画面も。
台詞も。
イベントも。
何も出てこない。
「……クララ・エヴァンス」
「はい」
「どこの子?」
「エヴァンス男爵家です。王都から少し西の領地だそうです」
「そう」
「お母様」
「何?」
「調べます?」
心臓に刺さった。
「調べないわよ」
「そうですか?」
「何でそんなこと聞くの」
「以前なら、知らない名前を聞くと少し目が変わっていましたから」
「どんな目よ」
「こういう」
エステルが少し目を細める。
「そんな顔してない!」
「していました」
「してない!」
「お父様」
「していたな」
「あなたまで!」
レオニスが窓の外を見る。
逃げた。
「それで?」
私は咳払いをした。
「クララさんとは、何を話していたの?」
「最初は課題のことです」
「うん」
「その後、殿下のことを少し」
「アレクシス?」
「クララが、殿下は思っていたより普通なのですね、と」
「強い子ね」
「私もそう思いました」
「そこで意気投合したの?」
「いいえ」
「違うの?」
「私が、殿下は普通ではありません、と言いました」
「婚約者!」
「普通の十一歳……いえ、十二歳は、あそこまで考え込みません」
「それはそうだけど!」
「するとクララが、『では面倒な方なのですね』と」
「さらに強い!」
エステルが笑う。
「それで、少し話しました」
「少し?」
「はい」
「楽しそうだったけど」
「見ていたのですか?」
「たまたま!」
「お母様」
「何?」
「今日は保護者の部屋から庭まで、少し距離がありましたよね」
「目がいいの」
「左様ですか」
「何そのセリーヌみたいな返事!」
娘が笑う。
レオニスまで笑っている。
ひどい。
*
その夜。
私は久しぶりに、例のノートを開いた。
エステルが六歳だった頃から書き続けているもの。
最初のページは、今見るとひどい。
文字が乱れている。
アレクシス。
婚約。
断罪。
追放。
破滅。
思い出せることを、順番もなく書き殴っていた。
そこから。
思い出すたびに足した。
違うと分かれば消した。
確信が持てなければ横に疑問符を書いた。
何年も。
何年も。
私は前世の記憶を掘り返してきた。
忘れていた場面を拾って。
ノートに書いて。
また思い出して。
それを繰り返した。
「……そういえば」
最近、ときどき思う。
前世の記憶が戻ったというより。
前世の私が、少し近くなった気がする。
言葉だったり。
考え方だったり。
どうでもいいことほど、妙にはっきり出てきたりする。
フラグ。
萌え。
推し。
そんな言葉。
公爵夫人として生きていれば、絶対に覚えるはずのない言葉。
なのに肝心のゲーム設定は、相変わらず穴だらけだ。
「……そこは思い出してよ、私」
自分で言って、自分でため息をつく。
でも。
たぶん。
前世の私が戻ってきたわけではない。
私はミレーヌ・グランヴェルだ。
レオニスの妻で。
エステルの母で。
この世界で生きてきた私だ。
ただ、その私の中に。
昔の私が持っていた言葉や、感覚や、どうでもいい癖まで。
前より少し、手の届くところにある。
それだけなのだと思う。
私はノートをめくった。
知らない名前。
クララ・エヴァンス。
書こうとして。
ペンが止まった。
「……何で書くの?」
知らない。
ゲームで覚えていない。
今日、エステルが話した女の子。
それだけ。
危険だという理由はない。
調べる理由もない。
私はペンを置いた。
ノートを閉じる。
少し前なら、念のため、と書いていたかもしれない。
念のため。
娘のため。
その言葉は便利だ。
どこまでも行ける。
でも。
エステルには、私の知らない名前が増えていく。
それでいい。
たぶん。
それがいい。
*
三日後。
「お母様」
「何?」
「今度、クララを家に呼んでもよろしいですか?」
私は紅茶を吹きそうになった。
耐えた。
公爵夫人なので。
「……もちろん」
「本当ですか?」
「何で驚くの」
「もう少し聞かれるかと」
「何を?」
「家のこととか。ご両親のこととか。どういう子なのかとか」
「聞きたいわよ」
「やはり」
「聞きたいけど」
私は一度、息を吐いた。
「あなたが呼びたいんでしょう?」
「はい」
「だったら、まず会ってみる」
エステルが少し目を丸くした。
そのあと。
嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、お母様」
「どういたしまして」
娘が部屋を出ていく。
私は紅茶を飲む。
一口。
二口。
「セリーヌ」
「はい」
「エヴァンス男爵家って、どんな家?」
「奥様」
「聞くだけ! 調べない! 聞くだけだから!」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔が言ってるのよ!」
セリーヌが、ほんの少し笑った。
前世の私は近くなった。
娘の世界は遠くなった。
たぶん。
どちらも悪いことではない。
知らない名前が増えるたび。
私は少しずつ。
エステルの未来を、エステルに返していく。




