同じ言葉ではぬい
ノエル・クラウゼンという少年は、どうやら本当にアレクシスと気が合ったらしい。
あの茶会から十日。
エステルの口から、その名前を三回聞いた。
三回。
数えているわけではない。
印象に残っただけである。たまたま。
「お母様」
「何?」
「また数えていました?」
「数えてないわよ」
「では、なぜ指を三本立てているのです?」
私はそっと手を下ろした。
「癖」
「初めて見ました」
「今日からの癖」
「便利ですわね」
十一歳になって、娘の追及が鋭くなった。
昔はもう少し誤魔化せた気がする。
成長とは恐ろしい。
*
その日、エステルは王宮へ行く予定だった。
アレクシスとノエル、それから何人かの子どもたちで、先日の合同講座でもらった資料を見直すらしい。
講座は終わっている。
なのに、続きをやる。
自主的に。
十一歳ってそんなに立派だった?
私の十一歳の頃といえば。
前世も。
今世も。
もっとこう。
……いや。
どっちも思い出すのはやめよう。
「今日はお勉強だけ?」
「そのつもりです」
「そのつもり」
「殿下が途中で別の話を始めなければ」
「アレクシスが?」
「ノエルが言うには、殿下は気になることがあると終わるまで考えるそうです」
「ノエル、もう分かってるのね」
「本人に言っていました」
「本人に」
「『殿下、それ今やる話ですか』と」
「強いわね」
「殿下は『今思いついた』と」
「もっと強いわね」
王子と伯爵家の次男。
身分だけ並べれば、ずいぶん差がある。
でもエステルの話を聞いている限り、二人の間にはその差がほとんど見えない。
もちろんノエルは礼儀を忘れているわけではない。
人前では殿下と呼ぶし、必要なところではきちんと頭を下げる。
その上で普通に言う。
違うと思えば違う。
後でいいと思えば後でいい。
アレクシスも、それを嫌がらない。
むしろ楽しんでいる。
いい友達ができたのね。
そう思う。
そして少しだけ。
ほんの少しだけ。
羨ましい。
「お母様?」
「何でもない」
「そうですか?」
「行ってらっしゃい」
「はい。行ってまいります」
エステルを玄関で見送った。
いつもみたいに、自室の窓から隠れて見送ったりはしない。
私は成長した。
「奥様」
「何?」
「本日は玄関でお見送りなさるのですね」
「玄関で見送るのは普通でしょ」
「左様でございますか」
なら、いつもそうすればいいのに。
と言わんばかりの顔だった。
*
昼を過ぎた頃だった。
レオニスが珍しく早く戻ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい。早いわね」
「予定が一つなくなった」
「じゃあ休める?」
「そのつもりだった」
「だった?」
レオニスが一枚の紙を差し出した。
王宮からのものだった。
学院入学前の子どもたちを対象にした交流行事。
今後、回数を増やすことを検討しているらしい。
「また?」
「先日の講座の評判がよかったそうだ」
「へえ」
「王族や上位貴族だけではなく、参加する家の範囲も広げたいらしい」
私は紙を読む。
学院へ入れば、当然いろいろな家の子どもが集まる。
貴族だけではない。
成績や推薦、家の事情。
いろんな入口から、いろんな子が来る。
その前に、少しずつ交流の場を作る。
悪くない。
むしろいい。
「エステル、喜びそう」
「そうだな」
「知らない人と会うの、最近ちょっと楽しそうなのよ」
「前から嫌いではなかっただろう」
「前は勝負相手を探してる感じだったの」
「今は?」
「話してみたい人を探してる感じ」
レオニスが少し笑った。
「違うものか?」
「全然違うわよ」
「そうか」
「違うの」
「分かった」
分かってない顔だった。
でもいい。
私には分かる。
エステルは変わった。
勝ちたい気持ちは今も強い。
負ければ悔しがる。
自分が正しいと思えば譲らない。
でも。
相手が何を考えているのか。
なぜそうしたのか。
前よりずっと聞くようになった。
それはきっと、私だけが教えたことではない。
アレクシス。
ヴィオラ。
シオン。
マーリンお母様。
セリーヌ。
レオニス。
そして、最近ならノエル。
いろんな人と会って。
いろんな言葉をもらって。
娘は娘の形になっていく。
「……フラグって、こういうのもあるのかしら」
「何だ?」
しまった。
「何でもない」
「今、何と言った?」
「独り言」
「ふらぐ?」
「忘れて」
「どういう意味だ?」
「だから忘れてってば」
「気になる」
レオニスが真面目な顔をする。
やめて。
その顔で聞かないで。
「昔の……言い回しみたいなものよ」
「昔の?」
「そう。昔の」
レオニスが私を見る。
「……ああ」
それ以上は聞かなかった。
助かった。
「で、どういう意味だ?」
「そこは聞くの!?」
私は紙へ視線を戻した。
危ない。
最近、気が緩んでいる。
*
夕方。
エステルが帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
「ノエルが殿下に怒られていました」
「何したの?」
「殿下の書いた案に、『長い』と一言だけ書きました」
「強い」
「殿下は『理由を書け』と」
「正しい」
「ノエルはその下に、『同じことを三回書いているから』と」
「もっと強い」
レオニスが吹き出した。
「お父様?」
「いや」
「笑いました?」
「少し」
「私も笑いました」
「笑ったのね」
「殿下も最後は笑っていました」
平和だ。
とても平和。
こういう話だけ聞いていたい。
「それでね、お母様」
「うん?」
「今度の交流会のお話、聞きました?」
「今日ちょうど」
「参加してもよろしいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
即答した私に、エステルが少し目を丸くした。
「何?」
「いえ」
「何よ」
「お母様、最近あまり止めませんね」
胸に刺さった。
この家の人たちは最近よく私に刺してくる。
「前から止めてないわよ」
「そうでした?」
「……たぶん」
「最初の頃は、殿下とお茶をするだけでも色々聞かれました」
「あなた六歳だったでしょう!」
「今は十一歳です」
「知ってる!」
「五年経ちました」
「数字にしないで!」
五年。
重い。
いや、嬉しい。
嬉しいんだけど。
五年。
「お母様?」
「ちょっと待って。今、年月に殴られてるから」
「……また、お母様の独特な言い回しですわ」
「独特って何よ」
「時々、妙な例え方をなさるでしょう?」
「そんな分類されてるの?」
「はい」
即答された。
「失礼ね。そんなに変な言い回しなんてしてないわよ」
「フラグ、は違うのか?」
う。
「ふらぐ? 何ですか、それ?」
「知らん。ミレーヌからさっき聞いた」
「な、何でもない! 何でもないから!」
駄目だ。
なんとか誤魔化さないと。
「何の言葉ですの?」
「んー……昔聞いた、異国の言葉かなぁ、なんて。あはは」
「奥様」
セリーヌの目が光る。
「目が泳いでいらっしゃいます」
「たまには助けなさいよね! 貴方!」
駄目だ。
味方がいない。
*
夕食のあと、エステルは今日使った紙を見せてくれた。
四人でまとめた案。
字が四種類ある。
整ったアレクシスの字。
少し強めのエステルの字。
小さく数字を書き込んだ子の字。
そして、余白に遠慮なく線を引くノエルの字。
「この線、ノエル?」
「はい」
「大胆ね」
「殿下にも言われていました」
「でしょうね」
私は紙をめくる。
最後の一枚。
町の広場に何を置くか。
井戸の修繕。
日除け。
荷車を止める場所。
子どもが遊べる場所。
全部はできない。
だから選ぶ。
「これは誰の案?」
「最初は別々です」
「最初は?」
「最後は四人で決めました」
「へえ」
「殿下が、全部必要だと言って」
「うん」
「ノエルが、全部は無理だと言って」
「うん」
「私が、では使う人に聞けばいいと言って」
私は顔を上げた。
「それ、前の講座でミアが言ってなかった?」
「はい」
エステルは普通に頷いた。
「だから使いました」
「……そう」
「良い考えでしたから」
ああ。
そういうことか。
ミアという少女は、あの日一緒になっただけかもしれない。
これから何度も会うかもしれない。
分からない。
でも。
あの日の言葉は、もうエステルの中に残っている。
人は、ずっとそばにいなくても何かを残す。
言葉だったり。
考え方だったり。
選び方だったり。
「お母様?」
「何でもない」
「今日はそれが多いです」
「そう?」
「はい」
エステルが紙を片づける。
私はその手元を見ながら、ふと思った。
フラグ。
前世では、何かが起きるきっかけとか。
未来につながる印とか。
そんな意味で、軽く使っていた。
この世界に来てからは。
ずっと怖い言葉だった。
エステルを破滅へ連れていくもの。
見つけたら折らなければならないもの。
でも。
未来につながるものが全部、悪いわけじゃない。
今日のエステルの中には、たくさんの人の言葉がある。
それだってきっと。
未来へ続いている。
「お母様」
「ん?」
「また考えています?」
「ちょっとだけ」
「先ほどの、ふらぐ、ですか?」
止まった。
「……覚えなくていいから」
「まだ意味も聞いておりません」
「そのままでいいの」
「変なお母様ですわ」
「誰のために変になってると思ってるのよ」
「私ですか?」
「……半分くらい」
「残りは?」
「元から」
セリーヌがこちらを見た。
「何よ」
「何も申し上げておりません」
「顔が言ってるのよ」
笑い声が重なった。
私は頬を膨らませる。
フラグ。
今のエステルには、母親が使う妙な言葉の一つ。
それでいい。
今はまだ。
意味まで知る必要はない。
私は娘の前に置かれた悪い未来だけを見つけて、折ればいい。
その先にどんな未来を作るかは。
もう。
少しずつ。
エステル自身が決め始めているのだから。




