殿下の隣
合同講座の二日目。
私は行かない。
昨日も行かなかった。
今日も行かない。
大丈夫。
「奥様」
「何?」
「窓から馬車をご覧になるのは、お見送りに含まれますか」
「含まれない」
「左様でございますか」
「屋敷の中だから」
「基準はそこなのですね」
セリーヌは納得していなかった。
私も別に納得していない。
でもエステルはもう出た。
十一歳の娘は、自分の鞄を持って、自分で外套を整えて、普通に馬車へ乗った。
振り返って手を振った。
私も振った。
窓越しに。
これは見送りではない。
観察である。
*
昼前、王宮から一通の封書が届いた。
私は開かなかった。
「奥様」
「何?」
「王妃陛下からでございます」
「見れば分かるわ」
「先ほどから見ておられますので」
「今、心の準備をしてるの」
「お手紙に?」
「王妃様の手紙はたまに怖いのよ」
破滅フラグの知らせではない。
たぶん。
いや、王妃様はそんな言葉を知らない。
私は封を切った。
内容は簡単だった。
講座の最終日に、保護者も交えた小さな茶会を開く。
よければレオニスと来てほしい。
それだけ。
「……行っていいって」
「おめでとうございます」
「その言い方やめて」
「昨日からよく我慢なさいました」
「子ども扱いしないで」
「お嬢様のお母様扱いをしております」
「それもなんか嫌」
でも行く。
行きますとも。
正式に呼ばれたのだから。
*
最終日の午後。
王宮の小広間には、講座を終えた子どもたちと、その家族が集まっていた。
大きな式典ではない。
親同士が挨拶を交わし、子どもたちは三日間の課題について話している。
エステルを探す。
いた。
アレクシスもいる。
その横に、知らない少年がいた。
茶色がかった金髪。
派手ではない。
姿勢はきちんとしている。
服装も伯爵家あたりの子息として違和感はない。
でも。
「殿下、それ三回目です」
少年が言った。
「何がだ?」
「同じ説明です」
「必要だから説明している」
「二回で伝わらなかったなら、三回目もたぶん伝わりません」
「ではどうする」
「別の言い方をします」
「なるほど」
アレクシスが普通に頷いた。
私は止まった。
え。
誰。
今、王子に「三回言っても無理」って言った?
「ミレーヌ」
隣のレオニスが小さく呼ぶ。
「見てる」
「見れば分かる」
「違う。あの子」
「クラウゼン伯爵家の次男だな」
「知ってるの?」
「父親を知っている」
「先に言って」
「今、初めて見た」
「じゃあ同じじゃない」
少年がこちらに気づいた。
すぐに表情を整える。
さっきまでの気安さが嘘みたいに、きれいに礼をした。
「グランヴェル公爵、公爵夫人。ノエル・クラウゼンと申します」
十一歳。
アレクシスと同い年。
クラウゼン伯爵家の次男。
名前と家だけなら、何も珍しくない。
「初めまして、ノエル」
「お目にかかれて光栄です、公爵夫人」
ちゃんとしている。
とてもちゃんとしている。
さっき王子に三回目は無理って言ってた子と同一人物とは思えない。
「お母様」
エステルが来た。
「ノエルとは昨日から同じ組なのです」
「昨日の?」
「エリオットとミアとは別の組です。今日は組み替えがありました」
「なるほど」
講座は毎日同じ相手ではないらしい。
そういうことも私は知らない。
知らなくても、エステルは普通にやっている。
「クラウゼンは面白い」
アレクシスが言った。
「殿下」
「何だ?」
「本人の前で、珍しいものを見つけたみたいに言わないでください」
「褒めている」
「褒め方の問題です」
まただ。
私はアレクシスを見る。
笑っている。
大きくではない。
でも、王宮で大人に向ける整った笑顔とは違う。
エステルと競っている時とも少し違う。
肩の力が抜けている。
「仲がいいのね」
つい言った。
二人がこちらを見た。
「昨日知り合ったばかりです」
ノエルが答える。
「そうなの?」
「はい」
「そうだな」
アレクシスも頷く。
「でも殿下、昨日から三回くらい同じ話をしています」
「お前が途中で話を変えるからだ」
「殿下が戻すんです」
「終わっていない」
「終わらせてください」
昨日知り合ったばかり。
嘘でしょう。
いや、嘘ではない。
こういうのもあるのか。
人と人の距離は、年月だけで決まらない。
エステルが少し呆れた顔をしている。
「昨日からずっとこうなのです」
「エステルは止めないの?」
「最初は止めました」
「最初は」
「途中で無駄だと分かりました」
「賢い」
成長か、これも。
*
茶会が始まると、子どもたちは講座で作ったものを順番に見せることになった。
今日の課題は、架空の町で起きた問題を、限られた人数でどう解決するか。
アレクシス、エステル、ノエル、それから別の少女の四人組は、途中で意見が割れたらしい。
「殿下は、まず責任者を決めるべきだと」
エステルが説明する。
「必要だろう」
「必要です。でも決めるのに時間がかかりました」
「ノエルが全員に向いているところがあると言い出したからだ」
「実際そうでしょう。エステル嬢は人の話を聞くし、殿下は全体を見るし、僕は」
ノエルが止まった。
「僕は……」
「何だ?」
「逃げ道を探します」
「それは長所なのか?」
「無理なものを無理と言うのも必要です」
「なるほど」
レオニスが横で小さく笑った。
私は分かった。
アレクシスがこの子と話しやすい理由。
ノエルは、殿下に反対することを怖がっていない。
でも、反対したいわけでもない。
王子だから従うでもなく。
王子だから噛みつくでもなく。
無理なら無理。
いいならいい。
たぶん、それだけだ。
「それで責任者は?」
私が聞いた。
「決めませんでした」
エステルが答えた。
「決めなかったの?」
「時間ごとに変えました。最初は殿下。途中は私。最後はノエルです」
「僕はどちらでもよかったんですが」
「逃げようとしたので」
「エステル嬢が逃がしてくれませんでした」
「必要でしたから」
「そういうところですよ」
「何がですの?」
「いえ」
ノエルが笑った。
エステルが少し目を細める。
まだ。
まだ距離がある。
でも、たぶん。
この子は遠慮をなくすのが早い。
そんな気がした。
*
「クラウゼン家の子と、アレクシスが気が合ったようね」
帰り際、王妃様が私に言った。
「やっぱり珍しいんですか?」
「アレクシスは誰とでも話せます」
「はい」
「でも、誰とでも気を抜けるわけではありません」
それはそうだ。
王子だもの。
出会った頃から、あの子は自分の言葉を探していた。
十一歳になったからといって、王子でなくなるわけではない。
「ノエルは、殿下相手でも普通ですね」
「普通すぎて、父親が青くなっていたわ」
「お父様、いらしてたんですか?」
「柱の向こうに」
見てなかった。
ごめんなさい、クラウゼン伯爵。
「叱られません?」
「少しは叱られるでしょうね」
「少しなんですね」
「礼を失しているわけではありませんもの」
王妃様が笑う。
「それに」
「はい」
「友人は、親が選ぶものではないでしょう?」
胸に刺さった。
最近、この人たち私に刺してくる。
マーリンお母様も。
レオニスも。
セリーヌも。
王妃様まで。
「……そうですね」
「エステル嬢もでしょう?」
私は広間の方を見る。
エステルがヴィオラと話している。
少し離れたところで、アレクシスとノエルがまだ何か言い合っている。
シオンはここにはいない。
でも学院に行けば、また会う。
知らない子も増える。
その中に。
いつか、リリアもいる。
「はい」
今度は、ちゃんと言えた。
「そうですね」
*
帰りの馬車で、エステルが窓の外を見ながら言った。
「ノエルは変わっています」
「そう?」
「殿下にあんなに遠慮しない人、あまり見ません」
「エステルも結構しないでしょう」
「私は婚約者ですから」
「それ、免許みたいに使うもの?」
「違います」
レオニスが笑った。
「気に入ったのか?」
「誰がです?」
「ノエルを」
「別に」
早い。
答えが早い。
「話しやすいとは思います」
「それを気に入ったと言うんじゃない?」
「お母様」
「はい」
「何でも色恋の話にしないでください」
「してない!」
「今、少ししました」
「してないってば!」
レオニスが窓の外を向いた。
笑っている。
「あなたも笑わないで」
「笑っていない」
「肩」
「道が悪い」
「嘘つき」
エステルまで笑った。
ひどい家族だ。
「でも」
エステルが続ける。
「殿下は楽しそうでした」
私は黙った。
「そうね」
「いつも楽しくないという意味ではありません」
「分かってる」
「私といる時とも違いました」
「うん」
エステルは少し考えてから、頷いた。
「いいことだと思います」
私は娘を見る。
その横顔は、九歳の頃より少し長くなっている。
自分の知らないアレクシスを見つけて。
それを嫌がるのではなく。
いいことだと言える。
それも、成長なのだろう。
私が何も教えていないところで。
*
その夜。
私は帳面を開かなかった。
今日は、開く理由がなかった。
ノエル・クラウゼン。
ゲームで聞いた覚えは――
と。
そこまで考えて、やめた。
「知らなくていいって、練習したばっかりでしょう」
自分に言う。
ゲームにいたか。
攻略対象か。
重要人物か。
そんなことより。
今日、アレクシスが楽しそうだった。
エステルも、新しい人間関係を面白がっていた。
それでいい。
少なくとも今は。
窓の外は、春の夜だった。
学院までは、あと二年。
二年もある。
たぶん。
きっと。
――あっという間なのだろう。




