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少し遠くなる


 春は、毎年ちゃんと来る。


 当たり前のことなのに、子どもがいると、それが少し怖い。


 二年前まで、エステルの髪を結う日のほうが多かった。


 今はもう、自分で結える。


 もちろんセリーヌに仕上げを頼む日もあるし、難しい編み込みの日は侍女の手を借りる。


 でも、今日は自分でやったらしい。


「曲がってない?」


「曲がっておりません」


「本当に?」


「お母様」


 鏡の前のエステルが、私を見た。


「私ではなく、セリーヌに聞きました」


「知ってる。横から確認しただけ」


「それを聞いていると言うのでは?」


 十一歳。


 強くなった。


 いや、九歳の頃から強かった気もする。


「奥様」


「はい」


「お嬢様の髪は曲がっておりません」


「はい」


「奥様のお顔は少々曲がっております」


「顔?」


「寂しそうでございます」


「セリーヌ」


「はい」


「そういうのは本人の前で言わないで」


「では廊下で申し上げます」


「場所の問題じゃないのよ」


 エステルが笑った。


 声も少し変わった。


 背も伸びた。


 笑い方は、まだあまり変わらない。


 そういうものを見つけるたび、私は安心して、同時に困る。


 二年。


 何もなかったわけではない。


 ヴィオラとは手紙を続けているし、シオンからは季節の便りが届く。アレクシスとは会えば相変わらず競うし、会わない時は手紙でまで競っている。


 勝敗の基準は知らない。


 たぶん本人たちも知らない。


 私は途中で数えるのをやめた。


 破滅フラグも、毎月律儀に現れてくれたわけではない。


 当たり前だ。


 人生はゲームのイベント表ではない。


 雪の日のように、記憶と現実が重なることもあった。


 何も起きず、私だけが一日疲れたこともあった。


 そして今日。


 エステルは、王宮へ行く。


 私抜きで。


「……本当に、私いらない?」


「はい」


「即答」


「前にも一人で行きました」


「一人ではないでしょう。ヴィオラもいたし、アレクシスもいたし」


「今日もおります」


「そういう意味じゃなくて」


「お母様」


「はい」


「今日は学院の準備講座です」


「知ってる」


「保護者の茶会ではありません」


「知ってる」


「ですから」


「分かってるってば」


 分かっている。


 分かっているから困っている。


 学院に入る前の子どもたちを集めて、数日だけ行われる合同講座。


 王族も貴族も、条件を満たせば商家の子も参加する。


 身分ごとに席を固めず、課題ごとに組を作る。


 二年前、王妃様が話していた仕組みが、試験的に始まったのだ。


 エステルは今年、参加できる年齢になった。


 アレクシスもいる。


 ヴィオラは年齢が上なので、今回は補助役に近い立場で参加するらしい。


 シオンはもう学院側の人間だ。


 知っている顔はある。


 でも。


 知らない顔のほうが多い。


「お母様」


「何?」


「鞄を返してください」


 気づけば持っていた。


「重さを確認してただけ」


「先ほどもしました」


「増えてるかもしれないでしょう」


「何がですか」


「心配が」


「鞄には入りません」


 正論。


 十一歳の正論は九歳より刺さる。


 私は鞄を返した。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 言えた。


 普通に。


 たぶん。


 エステルは二歩進んで、振り返った。


「お母様」


「何?」


「帰ったら話します」


 私は少しだけ目を見開いた。


「全部?」


「全部とは言っていません」


「そこは変わらないのね」


「私の話なので」


 二年前と同じ言葉だった。


 でも、今度は笑っていた。


「行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


 扉が閉まる。


 私はそのまま三秒立っていた。


「奥様」


「今日は仕事するから」


「何も申し上げておりません」


「顔に書いてある」


「奥様ほどではございません」


 負けた。


     *


 仕事はした。


 本当にした。


 昼までに三件。


 昼食後に二件。


 途中で学院関係の書類を開いたのは一回だけ。


 一回なら誤差だと思う。


「五回でございます」


「数えてたの?」


「同じ書類を開かれましたので」


「仕事の確認よ」


「内容を覚えておられる書類を?」


「確認よ」


「左様でございますか」


 セリーヌは強い。


 家の中に敵が多い。


 夕方。


 馬車の音がした。


 立たない。


 私は立たない。


 十一歳の娘が講座から帰ってきただけだ。


 九歳の頃の社交会から帰ってきた時と同じように、普通に迎えればいい。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 セリーヌが先に玄関へ向かった。


 私は立った。


 仕方ない。


 公爵夫人として。


 玄関まで出るのは、公爵夫人として普通。


 たぶん。


「ただいま戻りました」


「お帰りなさい。どうだった?」


「お母様」


「何?」


「まだ外套も脱いでいません」


「そうね」


 成長している。


 主に娘が。


     *


 夕食にはレオニスも間に合った。


「それで、何をしたんだ?」


 早い。


 私はまだ聞いていない。


 聞きたかった。


 ものすごく聞きたかった。


 でも待った。


 なのにこの人は座ってすぐ聞いた。


「お父様は聞くのですね」


「聞いてはいけないのか?」


「いけなくはありません」


「なら聞く」


 この家の父親は強い。


 エステルが笑った。


「最初は、四人で一つの課題をしました」


「四人?」


 私の声が少し早かった。


 レオニスがこちらを見る。


 見ないで。


「はい。アレクシス殿下と、私と、それから二人です」


 知らない二人。


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


「どんな子?」


 聞いてから、私は水を飲んだ。


 普通。


 これは普通の質問。


「一人は北側の領地の男の子です。計算がとても速くて。もう一人は商家の女の子でした」


 止まるな。


 呼吸。


「名前は?」


「お母様」


「何?」


「今日はよく聞きますね」


「普通でしょう。娘が初めて参加した講座の話よ」


「そうですね」


 エステルはパンをちぎった。


 私は待った。


「男の子はエリオット・ベルン。女の子はミア・ローデンです」


 違う。


 何が。


 とは言わない。


 私はただ、少しだけ息を吐いた。


 自分でも分からないくらい小さく。


「四人で何を?」


 レオニスが聞いた。


「町に必要なものを、限られた予算で選ぶ課題です」


「面白そうだな」


「面白かったです。でもアレクシス殿下が最初、全部必要だと言いました」


「言いそう」


 私とレオニスの声が重なった。


 エステルが笑う。


「ですから、全部は買えないと言いました」


「それで?」


「殿下が、では何を削るべきかと」


「うん」


「私が先に答えようとしたら、ミアが『使う人に聞かないんですか』と言いました」


 私は瞬いた。


「……へえ」


「課題の紙に、町の人の人数や仕事も書いてあったんです。私たちは品物ばかり見ていました」


「なるほど」


 レオニスが頷いた。


「それで、四人で最初から読み直しました。エリオットは数字を見て、ミアは暮らす人を見て、殿下は全体を見て」


「エステルは?」


 私が聞いた。


 娘は少し考えた。


「私は」


 そこで、ちょっとだけ笑った。


「みんなが違うことを言うので、順番に聞きました」


 あ。


 私は何も言わなかった。


 二年前。


 アレクシスから届いた手紙。


 誰が先に決めたかだけではなく、どうしてそう思ったのかを聞こう。


 そんな話をしていた。


 あれを。


 覚えていたんだ。


「最後はどうなった?」


「全員が少しずつ譲りました」


「勝った人はいないの?」


「お母様」


「何?」


「課題です」


「知ってる」


「勝負ではありません」


「エステルがそれを言う日が来るとは」


「勝負なら勝ちます」


「安心した」


「何にですか」


 そこは変わっていなかった。


     *


 食後。


 エステルは自分の部屋へ戻った。


 明日も講座がある。


 私は書斎へ入った。


 机の引き出しに手をかける。


 開ける。


 鍵は、かけていない。


 二年前から。


 中には一冊の帳面。


 開けば、知っている名前がある。


 リリア・メレット。


 今日はいなかった。


 少なくとも、エステルの口からその名前は出なかった。


 ほっとしたのか。


 残念だったのか。


 自分でも分からない。


 私は帳面を開かなかった。


 代わりに、今日の講座の案内を机に置いた。


 王族。


 貴族。


 商家。


 違う場所で育った子どもたちが、同じ机につく。


 ゲームでは、学院に入ってから始まったものがある。


 でも現実では、その前にも人生がある。


 エステルには、この二年で私の知らない時間が少しずつ増えた。


 知らない会話。


 知らない考え。


 同じ屋敷で暮らしていても、全部は知らない。


 今日、その範囲が少し広がった。


 怖い。


 でも。


 帰ってきたエステルは、私が教えていないやり方で、人の話を聞いていた。


 いや。


 教えていない、は違うか。


 私だけが教えたわけではない。


 アレクシスとの手紙。


 ヴィオラとの会話。


 マーリンお母様の四枚の札。


 レオニスの言葉。


 セリーヌの容赦ない正論。


 シオンから届いた便りだって、きっと何かを残している。


 私の知らないところで受け取ったものも、もうたくさんあるのだろう。


 私は娘を育てている。


 でも。


 娘を作っているわけじゃない。


「……そりゃそうよね」


 口にすると、少し笑えた。


 机の上の案内を畳む。


 明日もエステルは出かける。


 私は行かない。


 明後日も。


 その次も。


 そうやって少しずつ。


 私の手の届かない場所が増えていく。


 学院は、まだ先だ。


 けれど。


 そこへ続く道は、もう始まっていた。



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