知らないままでいい
帳面を開かなかったあの日から、数日。
私は別の帳面を開いていた。
「奥様」
「違うの」
「まだ何も申し上げておりません」
「いつもの帳面じゃないわよ」
「存じております」
「これは家計簿」
「それも存じております」
セリーヌは紅茶を置いた。
「誰に言い訳をなさっているのです?」
「自分かしら」
「では、お邪魔いたしました」
「待って。そこは少し付き合って」
先日、エステルは私のいない場所へ行った。
ちゃんと帰ってきた。
それで一つ学んだ。
知らなくてもいいことがある。
たぶん。
おそらく。
できれば。
「奥様」
「何?」
「眉間に皺が」
「知らないって難しいのよ」
「先日も同じことを仰っておられました」
「数日で身につくなら苦労しないわ」
セリーヌは否定しなかった。
そこへ、廊下から足音がした。
「お母様」
「何?」
エステルが入ってくる。
手に紙を持っている。
私は反射的に立ち上がった。
「何かあった?」
「まだ何も言っていません」
「その台詞、今日二回目」
「アレクからです」
「何が?」
「手紙です」
座った。
座ったけれど。
「へえ」
「何ですか、その顔」
「普通の顔よ」
「見せません」
「何も言ってないでしょう!」
「顔が言っています」
この家。
本当に。
◇
もちろん、手紙は見なかった。
見せてもらえなかったとも言う。
エステルは自室へ持っていった。
私は追わなかった。
偉い。
昼食まで三回しか気にならなかった。
四回かもしれない。
「何と書いてあった?」
昼食の席で、レオニスが普通に聞いた。
私は横を向いた。
「お父様は聞くのですか?」
「聞いてはいけないのか?」
「いけなくはありません」
「なら聞く」
強い。
エステルはパンをちぎった。
「先日のことです」
「交流会か」
「はい。アレクが、先日はありがとう、と」
「何に?」
私が聞いた。
エステルが見る。
「……今のは自然な質問でしょう?」
「そうですね」
許された。
「先日、アレクが、自分で決めたことだと皆に説明したお話をしたでしょう?」
「ええ」
「その後で、私も自分の言ったことは自分のものだと言いました」
「聞いたわ」
「それで」
エステルが少しだけ言いにくそうにした。
「今度は、二人で話す時に、どちらが先に決めたかではなく、どうしてそう思ったかも聞こう、と」
私はパンを落としかけた。
「それ、九歳の手紙?」
「お母様」
「だって」
「何歳なら書いてよいのですか?」
「そういう意味じゃなくて」
レオニスが笑った。
「アレクシスらしい」
「そうなの?」
「ああ。あの子は、自分が間違えたと思えば次を考える」
エステルがうなずく。
「私も返事を書きます」
「何て?」
「まだ決めていません」
「書いたら見せてよ」
「嫌です」
「早い」
「お母様」
「分かった。見ない」
今度は一回で引いた。
偉い。
「ただし」
「何ですか?」
「誤字だけなら見れるわよ」
「セリーヌにお願いします」
「私を飛ばした!」
「適材適所です」
レオニスがまた笑った。
◇
それから、二日後。
王妃様からのお招きを受け、私は王宮を訪れていた。
名目は、お茶。
この人からの「お茶」は、本当にお茶だけの時と、何か話がある時がある。
今日は後者だった。
「先日の交流会、聞きました?」
王妃が言った。
「どこまで?」
「アレクシスが少し王子らしいことを言ったところまで」
「そこまで」
「母親には全部話さないくせに、報告書には残るのよね」
「分かります」
心から。
王妃が笑う。
「でも、よかったわ」
「何がです?」
「あの子、自分で言ったのでしょう?」
「そう聞いています」
「あなたに教えられた言葉ではなく」
私はカップを置いた。
「はい」
「それが一番よ」
王妃は窓の外を見る。
「王子は、周りが先に答えを用意してしまうの」
「……分かる気がします」
「分かるでしょう?」
刺さった。
「私も、エステルにやっていたかもしれません」
「かもしれない?」
「やっていました」
「素直でよろしい」
「最近、周りが厳しいんです」
「成長ね」
「私の?」
「周りの」
ひどい。
王妃は楽しそうだった。
「それで、もう一つ」
「はい」
「学院の話です」
その言葉で、背筋が伸びた。
まだ先。
まだ、今ではない。
けれど。
知っている。
この国の貴族子弟が学ぶ王立学院。
アレクシスが通う。
エステルも。
そして。
ゲームの主人公だった少女――リリア・メレットが現れる場所。
「どうしました?」
「いえ」
「顔が変わりましたよ」
「そんなに?」
「少しだけ」
私は紅茶を見る。
来た。
まだ入学ではない。
ただの話題。
なのに。
胸の奥で、古い画面が一瞬だけ明るくなる。
制服。
校舎。
廊下。
笑うアレクシス。
睨むエステル。
そして、見知らぬはずなのに知っている少女。
「来年度から、学院の予備課程に一部変更が入るそうです」
「予備課程?」
「正式な入学前に、王都の子どもたちを対象にした短期講習を増やす案が出ています。礼法や基礎学問ではなく、集団で課題に取り組む形式を試したいそうで」
「エステルも?」
「年齢が合えば、いずれ対象になるでしょうね」
いずれ。
その言葉に、少しだけ息を吐く。
今ではない。
「アレクシスも?」
「もちろん。王子だから免除、にはしません」
「そうですよね」
「むしろ入れます」
「強い」
「王子ですもの」
王妃は平然としている。
「他人と一緒に失敗する経験は、王宮ではなかなかできませんから」
それは。
大事だと思う。
アレクシスにも。
エステルにも。
「ミレーヌ」
「はい」
「また先のことを考えています?」
ばれた。
「少し」
「どのくらい?」
「かなり」
「あなたも変わりませんね」
「努力はしています」
「知っています」
王妃の声が少し柔らかくなった。
「でも、学院は親が通う場所ではありませんよ」
「まだ何も言ってません!」
「顔が」
「もう嫌!」
◇
帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。
学院。
その言葉は重い。
私にとっては。
エステルにとっては、まだ未来の学校でしかない。
そこにリリアが来る。
アレクシスがいる。
ゲームでは、そこから始まった。
いや。
正確には、私が知っている物語がそこから始まった。
エステルの人生は、とっくに始まっている。
アレクシスも。
リリアも。
ゲームの開始画面より前に、みんな生きている。
当たり前のことなのに。
今さら、少し怖くなった。
私はリリアを知っている。
でも。
リリアは私を知らない。
エステルも、まだ知らない。
アレクシスも。
それでいい。
まだ。
◇
「学院?」
夕食の席で、エステルは目を輝かせた。
「まだ先の話よ」
「分かっています」
「本当に?」
「お母様よりは」
「どういう意味?」
「お母様は先の話をすると、今すぐ準備を始めます」
否定できない。
「でも、学院では何をするのですか?」
「勉強」
「それは知っています」
「友達を作ったり」
「今も作れます」
「先生に怒られたり」
「お母様は怒られたのですか?」
「……そこは聞かなくていい」
「怒られたのですね」
「違うの。若さゆえの」
「何をした」
レオニスまで入ってきた。
「あなたは黙ってて」
「気になる」
「ならないで」
エステルが笑っている。
「アレクも同じ学院ですよね?」
「そうね」
「ヴィオラさんは?」
「年が違うから、先にいるでしょうね」
「シオンさんも?」
「たぶん、あなたが入る頃には上級生ね」
エステルは少し考えた。
「知っている方がいるなら安心です」
「そう?」
「はい。でも」
「何?」
「知らない方もいるのでしょう?」
「もちろん」
「それも楽しみです」
私は止まった。
エステルは普通にスープを飲んでいる。
知らない人。
その中に。
いつか、リリアがいる。
「お母様?」
「何?」
「また顔が変です」
「変って言わないで」
「何を考えていたのですか?」
言えない。
あなたの人生を変えるかもしれない女の子のこと。
ゲームでは、リリアの視点で世界を見ていた。
努力して。
悩んで。
それでも前へ進んで。
最後には、最善の結果へ辿り着く。
その結果。
エステルは破滅した。
でも。
それは、リリアが悪かったわけではない。
たぶん。
あの雪の日をきっかけに。
一つずつ。
少しずつ。
エステルの中で、何かが噛み合わなくなっていった。
その先に、あの結末があったのだろう。
「知らない人のこと」
「知らないのに?」
「そうね」
エステルが首を傾げる。
私は笑った。
「だから、今は知らないままでいいの」
「変なお母様」
「自覚はある」
◇
その夜。
久しぶりに、例の帳面を開いた。
あの日は開かなかった帳面。
ゲームの記憶。
破滅フラグ。
思い出したことだけを書いてきた。
ページをめくる。
王子との婚約。
雪。
馬。
学院。
試験。
噂。
リリア・メレット。
名前だけなら、とっくに書いてある。
私はその文字を指でなぞった。
会ったことはない。
どこにいるかも知らない。
今、何をしているのかも。
ゲームの中では主人公だった。
でも現実では。
今この瞬間も、どこかで一人の女の子として生きている。
私はペンを持った。
何か書こうとして。
やめた。
未来のリリアについて、私はいくつも知っている。
知っているつもりでいる。
けれど。
目の前にいる九歳のエステルを、ゲームの悪役令嬢だったというだけで決めつけたくなかったように。
まだ会っていないリリアを、ゲームの主人公だったというだけで決めつけるのも違う。
帳面を閉じる。
学院は、まだ先。
だから今は。
エステルが笑って。
アレクシスと喧嘩もしていないのに仲直りみたいな話をして。
ヴィオラと勝負して。
シオンに手紙を書いて。
知らない子と知り合って。
そういう時間を積めばいい。
私も。
知らないものを、知らないままにしておく練習をしよう。
難しいけれど。
「奥様」
扉の外からセリーヌの声がした。
「何?」
「お休みのお時間です」
「今行く」
帳面を引き出しへ戻す。
その時。
ふと、思った。
学院に入れば。
私は今よりもっと、エステルの知らない時間を知らなくなる。
そしてエステルも。
私の知らない人間になっていく。
それは怖い。
でも。
たぶん。
そうならなければいけない。
引き出しを閉めた。
今夜は、鍵をかけなかった。




