お母様は来ません
春になって、困ったことが一つある。
エステルが外へ出る。
いや、前から出ていた。
王宮にも行くし、お茶会にも行くし、雪の離宮で馬にも乗った。
でも。
「保護者の同席は不要、とあります」
セリーヌが読み上げた。
「不要?」
「はい」
「不要って何?」
「必要がない、という意味でございます」
「意味は知ってる」
私は招待状を奪うように受け取った。
王都の若い令息令嬢を集めた、小さな春の交流会。
主催は王家ではない。古くから王家と付き合いのある伯爵家で、年少の子どもたちが同年代と交流するため、毎年開いているらしい。
今年はアレクシスも参加する。
ヴィオラも。
そしてエステルも招かれた。
ここまではいい。
問題は最後。
『なお、子どもたち自身の交流を目的とするため、会場内への保護者の同席はご遠慮ください』
「遠慮しないと駄目?」
「ご遠慮ください、とございます」
「お願いよね?」
「実質的にはお断りかと」
「セリーヌ」
「はい」
「私、邪魔?」
「今回は」
即答。
傷ついた。
◇
「行きます」
エステルも即答した。
最近、この子は招待状に強い。
「私、入れないのよ?」
「お母様への招待ではありませんので」
「分かってるけど」
「ヴィオラさんもいらっしゃいます」
「そうね」
「アレクも」
「そうね」
「でしたら大丈夫です」
何が。
私が大丈夫ではない。
「知らない子もいるのよ?」
「知り合うための会なのでしょう?」
正しい。
正しすぎる。
「何か言われたら?」
「答えます」
「困ったら?」
「考えます」
「それでも困ったら?」
「周りの大人に相談します」
満点。
誰が育てたの、この子。
私だ。
余計に何も言えない。
「お母様」
「何?」
「心配なのですか?」
「……少し」
「少し?」
「かなり」
エステルが笑った。
「行ってまいります」
まだ三日後である。
◇
三日後。
私はエステルの髪を見ていた。
「右、少しずれてない?」
「ずれておりません」
セリーヌが答える。
「飾りは?」
「問題ございません」
「靴は?」
「問題ございません」
「予備のハンカチ」
「ございます」
「もう一枚」
「奥様」
「何?」
「お嬢様は交流会へ向かわれるのであって、遠征ではございません」
「分かってる」
「では、その小袋は?」
「念のため」
「何が入っているのです?」
「ハンカチ、手袋、髪留め、飴、糸、針、包帯」
「最後の三つを置いてください」
「どうして?」
「どうして必要だと思われたのです?」
分からない。
でも何かあった時に。
「お母様」
エステルが振り向いた。
「大丈夫です」
「……そう?」
「はい。それに」
少しだけ笑う。
「お母様は来ません」
知ってる。
改めて言われると効く。
「行ってらっしゃい」
「行ってまいります」
エステルは一人ではない。
侍女も護衛も屋敷までは同行する。
会場にも主催家の大人たちがいる。
ただ、私がいないだけ。
それだけなのに。
馬車が門を出ていくのを、私はずっと見ていた。
「奥様」
「何?」
「そろそろ中へ」
「もう少し」
「先ほどから馬車は見えておりません」
「余韻よ」
「最近、その言葉を便利にお使いですね」
◇
交流会は、思っていたより賑やかだった。
――ということを、私は後でエステルから聞いた。
その日の夜に。
それから、何日かの間に少しずつ。
だからここから先は、私が見た話ではない。
エステルが話してくれたことを、私が繋いだ話だ。
全部ではない。
たぶん、あの子が話してもいいと思った分だけ。
でも。
あの子が自分で見て、自分で選んだ話なら。
それでいい。
◇
会場には十数人の子どもがいた。
年齢は近いが、全員が同い年ではない。
ヴィオラは先に来ていた。
「エステル様」
「ヴィオラさん」
「今日は刺繍を持ってきていません」
「私もです」
「安心しました」
「どういう意味ですか?」
「持ってきていたら、また勝負が始まりそうでしたので」
「持ってくればよかったです」
「やはり安心できませんでした」
二人で笑ったらしい。
そこへアレクシスが来た。
王子が入れば、当然、空気が少し変わる。
子どもでも分かる。
姿勢を正す子。
近づきたいのに近づけない子。
親から何か言われてきたのか、妙に丁寧になる子。
アレクシスは慣れている。
慣れているからこそ、同じ顔で挨拶を返す。
「アレク」
エステルが呼ぶ。
何人かがこちらを見た。
「エステル」
アレクシスが少しだけ表情を緩めた。
それだけで、また何人かが見る。
婚約者。
王子と公爵令嬢。
大人たちの世界では、とっくに意味を持つ組み合わせだ。
九歳の二人に、その全部が分かっているわけではない。
でも、見られていることくらいは分かる。
「今日は勝負しません」
エステルが言った。
「何の話?」
「お祖母様に、お茶会は勝負をする場所ではないと言われました」
「僕と勝負するつもりだったの?」
「ですから先に言いました」
「僕は何も言ってないけど」
「言う前に止めました」
「それはずるくない?」
「何がです?」
ヴィオラが横で笑った。
空気が少しほどけた。
近くにいた子どもたちも、ようやく話しかけてきた。
◇
問題が起きたのは、菓子が二皿目に入った頃だった。
大きな問題ではない。
誰かが怪我をしたわけでもない。
馬も暴れていない。
橋も落ちていない。
ただ。
「エステル様は、殿下がお決めになることにも、よくご意見を仰るのですか?」
一人の令嬢が聞いた。
悪意があったのかは分からない。
エステルにも分からなかったという。
「意見?」
「先日の騎乗会でも、競走をおやめになったと聞きました」
エステルの手が止まった。
アレクシスも。
「私がやめました」
「殿下も?」
「はい」
「エステル様がお止めになったからではなく?」
柔らかい声だった。
だからこそ、少し答えにくい。
周りも聞いている。
雪の騎乗会。
アレクシスの馬が驚いた。
怪我はなかった。
その前に、エステルとアレクシスは競走をしないと決めていた。
事実。
でも、順番を少し変えると。
エステルが王子を止めた話にもなる。
「私が――」
エステルが答えようとした。
「僕が決めました」
先にアレクシスが言った。
エステルが隣を見る。
「アレク」
「エステルから、競走はしないと聞きました。それで僕もそうすると決めました」
令嬢が瞬いた。
「では、エステル様のご意見で」
「聞いたのは意見です。決めたのは僕です」
アレクシスの声は穏やかだった。
怒ってはいない。
でも、いつもの子ども同士の話し方より少しだけ王子だった。
「僕が何かを決めた時に、エステルのせいにされるのは困ります」
エステルは黙った。
たぶん。
その時、少し驚いていたのだと思う。
「申し訳ありません」
「謝るほどではありません。ただ、そうだったというだけです」
アレクシスはそこで終わらせた。
長く説明しない。
誰が悪いとも言わない。
ただ、自分が決めたことを自分のものとして引き取った。
「でも」
今度はエステルが言った。
「最初に競走をしないと言ったのは私です」
アレクシスが見る。
「それはそうだけど」
「そこまでアレクのものにしなくてよいです」
「庇ったわけじゃないよ」
「分かっています」
「なら」
「私が言ったことまで、アレクが決めたことにしないでください」
今度はアレクシスが黙った。
ヴィオラが口元を押さえた。
「何?」
エステルが聞く。
「いえ」
「笑いました?」
「少し」
「どうして?」
「お二人とも、ご自分の分を取り合っているので」
「取り合っていません」
アレクシスとエステルの声が重なった。
今度は周りも笑った。
さっきまでの固さが消えた。
◇
その後、交流会では小さな遊びが始まった。
卓の上にいくつかの品を置き、一分だけ見て、布をかけた後に何があったか答える。
子ども向けの記憶遊びだ。
「勝負です」
エステルが言った。
「さっきしないって言ったよね?」
「お茶会で勝負はしません」
「まだお茶会は終わってないよ」
「これは遊びです」
「さっき勝負って言ったよね?」
「別です」
理屈が強い。
結果。
一回目はヴィオラ。
二回目はアレクシス。
三回目はエステル。
「引き分けですね」
「三人で?」
「はい」
「次をやれば決まるよ」
「やります」
「結局勝負してるじゃないですか」
ヴィオラが言った。
誰も否定できなかった。
◇
夕方。
馬車が戻ってきた。
私は玄関広間にいた。
「奥様」
「たまたまよ」
「何も申しておりません」
「たまたまここを通ったの」
「外套までお召しになって?」
「少し外の空気を」
「玄関広間で?」
「セリーヌ」
「はい」
「今日はよく喋るわね」
扉が開いた。
エステルが入ってくる。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
走らない。
私は大人なので。
歩いて近づく。
「どうだった?」
「楽しかったです」
「何かあった?」
「ありました」
心臓が跳ねた。
「何!?」
「記憶遊びで引き分けました」
「そっち!?」
エステルが笑う。
「他には?」
「知らない方ともお話ししました」
「困らなかった?」
「少し」
「何が?」
エステルは一瞬考えた。
「アレクと、少し話しました」
「アレクシスと?」
「はい」
「喧嘩?」
「違います」
「本当に?」
「お母様」
「何?」
「全部聞くのですか?」
「聞きたい」
「全部は嫌です」
即答された。
「どうして!?」
「私の話なので」
胸に刺さった。
この前の空白の席と同じだ。
私が決めるものではない。
だから。
私が全部知るものでもない。
「……分かった」
「でも」
エステルが少し近づいた。
「一つだけ」
「何?」
「今日、少し分かりました」
「何が?」
エステルは少し考えた。
「アレクが決めたことは、アレクのものです」
「うん」
「私が言ったことは、私のものです」
私は黙って、その続きを待つ。
「一緒にいても、そこは同じなのだと思います」
「……そうね」
たぶん。
それが、今日エステルが持ち帰ってきたものだ。
誰かに庇われることでも。
誰かを庇うことでもない。
自分の選択を、自分のものとして持つこと。
相手の選択まで、自分のものにしないこと。
九歳で、そんなふうに綺麗に言葉にできているわけではないだろう。
今日、誰かと話して。
少し困って。
言い返して。
笑われて。
その中で、自分なりに一つ持って帰ってきた。
それで十分だ。
「それから」
「まだあるの?」
「次の記憶遊びでは勝ちます」
「そっちに戻るの?」
「大事です」
エステルは真剣だった。
私は笑った。
◇
夜。
「どうだった」
レオニスが聞いた。
「私に?」
「他に誰がいる」
「エステルに聞けば?」
「もう聞いた」
「何て?」
「楽しかった、と」
「それだけ?」
「十分だろう」
「十分だけど」
私は寝台の端に座る。
「私、今日何もしてないのよ」
「珍しいな」
「そこ、感心するところ?」
「成長した」
「何もしてないのに?」
「何もしないで待てた」
む。
言い返せない。
「でも、何か考えて帰ってきたみたい」
「何をだ?」
「アレクシスと話して、少し分かったことがあるって」
「それで?」
「全部は教えてくれなかった」
「そうか」
「寂しくない?」
「なぜ私が」
「娘が知らないところで話をして、知らないことを考えて、知らないことを増やしていくのよ」
「普通だろう」
「普通だけど」
レオニスは少し考えた。
「お前はエステルが歩けるようになった時も同じことを言った」
「言った?」
「自分で行ける場所が増える、と」
覚えていない。
でも、言いそう。
「その時、お前はどうした」
「……追いかけた?」
「転びそうな時だけな」
「今も?」
「同じだろう」
私は窓を見る。
春の夜。
庭は暗く、もう雪はない。
今日、エステルは私のいない場所へ行った。
知らない子と話した。
少し困った。
アレクシスと話した。
ヴィオラと笑った。
そして、自分で帰ってきた。
破滅フラグを折る。
ずっと、そう考えてきた。
私が見つけて。
私が考えて。
私が先回りして。
でも。
今日の私は、何も折っていない。
それでも一日は、ちゃんと終わった。
「レオニス」
「何だ」
「何もしないの、難しいわね」
「ああ」
「そこは否定して」
「事実だ」
腹が立つ。
でも。
たぶん、これから増える。
私の知らないところで、エステルが選ぶことが。
私が来ない場所が。
その夜。
机の上には、開かなかった帳面があった。
私はそれを見て。
開かないまま、灯りを消した。




