先に知っていたこと
雪が消えた。
庭の隅に最後まで残っていた白い塊も、朝にはなくなっていた。
春である。
そして春になると、人は動く。
商人も。
荷馬車も。
招待状も。
なぜ最後だけ紙なのに動きが強いのかは知らない。
「奥様」
「何?」
「またお手紙でございます」
「今日はどこ?」
「王都慈善会からです」
「……嫌な予感がしない」
「よろしいことでは?」
「最近、手紙を見ると何か起きる気がして」
「それは奥様が何か起きる手紙だけ覚えておられるからでは」
正論。
セリーヌから封筒を受け取る。
内容は、春の慈善市への協力依頼だった。
王都の広場で、貴族家や商会が品を出し、その収益を冬に被害を受けた地域の救済へ回す。
珍しい催しではない。
グランヴェル家も毎年、布や保存食、日用品を出している。
「今年は西部も対象なのね」
「雪害がございましたので」
「北東部は?」
「一部が対象に含まれております」
北東部。
その言葉で、頭の隅にフェルディアが浮かんだ。
でも、それだけ。
雨も橋も馬車も浮かばない。
よし。
今日は地図を出さない。
「品目の確認をしましょう。去年と同じでいいかしら」
「一部、変更が必要かと」
「どうして?」
「保存食の納入をお願いしている商会が、今年は数量を減らしたいと」
「不作?」
「いえ。王都へ入る荷が一時的に偏っているそうです」
「偏ってる?」
セリーヌが別紙を渡した。
小麦。
乾燥豆。
塩漬け肉。
毛布。
必要量に対して、いくつか不足がある。
「慈善市って、足りないものを集めるためにやるのよね?」
「はい」
「なのに、その慈善市へ出すものが足りない」
「はい」
「ちょっと面白いわね」
「奥様」
「笑ってないわよ。仕組みの話」
私は紙を見る。
冬が終わった。
だから冬の被害がなくなったわけではない。
雪が溶けた後に、足りなかったものが見えてくる。
「レオニスに聞く」
「旦那様は執務室にいらっしゃいます」
「行ってくる」
「地図は?」
「出さない」
「まだ何も申しておりません」
「顔が言ってるのよ」
少し勝った。
◇
「足りないな」
レオニスは一覧を一度見ただけで言った。
「やっぱり?」
「ああ。だが慈善市だけの問題ではない」
「どういうこと?」
「春先は毎年、冬越しの在庫が薄くなる。そこへ今年は雪で輸送が遅れた地域がある」
「じゃあ、王都だけで集めたら」
「地方から王都へ持ってくる分、別の場所が薄くなる」
「あ」
それは駄目だ。
善意で一か所を満たして、別の場所を空にする。
「必要な場所へ、必要なものを回す方が先ね」
「そうだ」
「慈善市に並べる見栄えのいい品より?」
「当然だ」
レオニスは机の端に置かれた書類を一枚抜いた。
「ちょうど各地から在庫と輸送の報告を集めている。王家からの要請だ」
「見てもいい?」
「構わない」
受け取る。
地域名。
品目。
数量。
輸送可能時期。
数字が並ぶ。
嫌いではない。
好きでもない。
でも、見ているうちに一つ気づいた。
「これ」
「何だ」
「北東部の毛布、余裕がある」
「ああ」
「でも乾燥豆が少ない」
「そうだな」
「西部は逆」
レオニスが私を見る。
「交換すればいいのでは?」
「簡単に言うな」
「駄目?」
「駄目ではない。距離と運賃と、途中の荷の積み替えを考えろ」
「じゃあネラさん」
「呼ぶと思った」
「まだ呼ぶって言ってない」
「顔に出ている」
この家、私の顔を読む人が多すぎる。
「ただし」
レオニスが続けた。
「ネラ一人に聞いて終わりにはするな。慈善市の名で動かすなら、商会側と王都側の記録も残せ」
「記録?」
「誰が、何を、どこからどこへ動かしたかだ」
「そんなの普通に残すでしょう?」
「普通に残せ」
「何、その言い方」
「お前は時々、結果が良ければ途中を飛ばす」
「飛ばしてないわよ」
「近道を見つけると走る」
「……少しだけ」
「転ぶぞ」
「雪はもうないから」
「そういう意味ではない」
分かってる。
◇
ネラ・ハーディが屋敷へ来たのは翌日の午後だった。
四十代の運送手配人。
荷馬車と道と天気の話になると、私よりずっと現実を見る人だ。
前にフェルディアへ手紙を届ける時も、彼女の判断に助けられた。
「奥様。今度は何を運びたいんです?」
「最初から私が何か運ぶ前提なの?」
「私を呼んだ時点で」
「そうね」
負けた。
ネラは一覧を見て、すぐに首を振った。
「北東から西へ直で回すのは高いです」
「やっぱり?」
「途中で空荷になる区間が出ます。慈善なら運賃を下げる商会もありますが、馬は善意じゃ走りません」
「名言ね」
「餌を食いますから」
現実的だった。
「では、どうする?」
レオニスが聞く。
今日は同席している。
「王都へ来る予定の荷を使います」
ネラが指で紙をなぞった。
「北東から王都へ入る毛布があります。西から王都へ入る豆もある。全部を王都で降ろさず、必要分だけ行き先を付け替える」
「帰り荷を使うのか」
「はい。空荷を減らせます」
私は紙を見る。
分かるような。
分からないような。
「つまり」
「奥様」
「何?」
「地図は出しません」
「まだ言ってない」
「顔が」
「もういい!」
レオニスが笑った。
笑ったな。
「ただ、一つ問題があります」
ネラの指が止まる。
「慈善市の名義で荷を動かすなら、今ある商会の契約とは別扱いになります。誰かが責任を持って指示を出さないと」
「私が出す」
言ってから、レオニスを見た。
「……駄目?」
「私を見る前に言ったな」
「言った」
「近道を見つけると走る」
「今回は転ばない」
「書面を作れ」
「はい」
「王都慈善会にも同じものを送れ。アルセリオンにも一部を頼むなら、そちらにも」
「お母様?」
「社交の名簿と寄付元の調整は、お前よりマーリン殿の方が上手い」
「それは認める」
「それから王家にも写しを」
「そこまで?」
「そこまでだ」
面倒。
でも。
レオニスが面倒なことを言う時は、だいたい必要だ。
「分かった」
私は紙を引き寄せた。
◇
「お母様、何をなさっているのですか?」
夕方。
エステルが執務室を覗いた。
「慈善市の準備」
「紙が多いですね」
「準備をちゃんとすると紙が増えるのよ」
「お父様みたいです」
「やめて。そんなに堅く見える?」
「旦那様に失礼でございます」
セリーヌが後ろから刺してきた。
エステルが机へ近づく。
「何を出すのですか?」
「毛布と保存食。それから子ども向けの衣類も少し」
「私も何か出せますか?」
「もちろん。前みたいに刺繍でもいいし、使っていないものでも」
エステルは考えた。
「作ります」
「何を?」
「まだ決めていません」
「決めてから宣言しない?」
「先に決めると、やらなければならなくなります」
「面倒な子ねぇ」
「お母様に言われたくありません」
九歳に刺された。
「ヴィオラさんにも聞いてみます」
「一緒に作るの?」
「はい。前に次は何を比べるか決めていませんでしたので」
「慈善を勝負にしないでね」
「しません」
一拍。
「たぶん」
「エステル」
笑って逃げた。
あの子、最近本当に強くなった。
その背中を見送りながら、机へ戻る。
書類の一番上に、自分の名前があった。
ミレーヌ・グランヴェル。
責任者。
なんだか大げさだ。
荷物を少し融通するだけなのに。
◇
慈善市の三日前。
お母様から返事が来た。
『承知しました。
寄付元の重複はこちらで整理します。
あなたが同じ家へ二度お願いを出していたので、一件取り下げました。
マーリン』
「……うわぁ」
確認したはずなのに。
感情の消えた笑顔を見せる母を思い浮かべて、少しゾッとした。
私は紙を伏せた。
「奥様」
「何?」
「マーリン様は二度仰る方ですが、奥様は二度お願いなさる方なのですね」
「セリーヌ」
「はい」
「エステルに言わないで」
「もう後ろにいらっしゃいます」
振り向く。
いた。
「お母様」
「何?」
「二度?」
「違うの。これは事務上の事故なの」
「お祖母様に直していただいたのですか?」
「そうとも言う」
「お礼を申し上げた方がよいですね」
「あなた、どんどんお祖母様側になるわね」
エステルは笑った。
手には布袋を持っている。
「できました」
「何が?」
「慈善市へ出すものです」
中から出てきたのは、小さな巾着だった。
前に作ったものより、縫い目が整っている。
刺繍は小さな花。
「上手になったわね」
「ヴィオラさんと三つずつ作りました」
「勝負は?」
「していません」
「本当に?」
「……どちらが早く三つ作れるかは比べました」
「したのね」
「でも、全部出します」
エステルは胸を張った。
「勝ったの?」
「一つ目は私。三つ全部ではヴィオラさんです」
「負けたの?」
「次があります」
強い。
そして、ちゃんと楽しそうだ。
「じゃあ、これも一覧に入れておくわね」
「一覧?」
「誰が何を出したか、全部記録するの」
「どうしてですか?」
「分からなくならないため」
「誰に?」
「みんなに」
答えてから、少し考えた。
誰に、か。
寄付した人。
運んだ人。
受け取った人。
慈善会。
王家。
そして後から、この荷がどう動いたのか確かめる人。
「お母様?」
「何?」
「また考えすぎていますか?」
「少しだけ」
「では、これも書いてください」
エステルが巾着を一つ、私の手へ載せる。
「エステル・グランヴェル。巾着三つ」
「はい」
「ヴィオラ・レインフォード。巾着三つ」
「はい」
「競争して作った」
「それは書かなくていいです!」
そこは駄目らしい。
◇
慈善市当日。
王都の広場は、人で埋まっていた。
布。
菓子。
木工品。
衣類。
保存食。
貴族の紋章がついた天幕の間を、商人と市民が行き交っている。
エステルはヴィオラと一緒に、自分たちの巾着が並ぶ卓を見ていた。
「一番手前のが私です、お母様」
「分からないわよ」
「花びらの数が違います」
「本当だ」
隣でヴィオラが言う。
「エステル様の方が一枚多いのです」
「どうして?」
「途中で間違えたので、そのまま花びらにしたみたいです」
「それ言っていいの?」
「結果として花です」
ヴィオラ、強い。
「ミレーヌ様」
呼ばれて振り向く。
王都慈善会の担当者だった。
「北東部向けの豆と、西部向けの毛布ですが、先ほど出発しました」
「もう?」
「はい。手配書のおかげで、予定より早く積み替えができました」
「よかった」
「グランヴェル公爵家から事前に各所へ写しを回していただいたので、確認も早く済みました」
胸の奥が少し軽くなる。
面倒だった紙が、ちゃんと役に立った。
「奥様」
ネラが来た。
「何?」
「一台だけ予定が変わります」
「何かあった?」
「西へ向かう便の一つが、途中の村で荷を下ろします。雪解けで倉庫の屋根が落ちたそうです」
「必要なの?」
「毛布と豆、両方」
「数は?」
「全体には影響しません。予備分で足ります」
「なら、お願い」
ネラがうなずく。
「書面も直しておきます」
「そこまでしなくても――」
言いかけて。
レオニスの顔が浮かんだ。
近道を見つけると走る。
「……お願い。慈善会にも写しを」
「承知しました」
ネラが離れていく。
私は少しだけ得意になった。
成長した。
たぶん。
「お母様」
「何?」
「今、褒めてほしい顔をしています」
「あなたまで私の顔を読むの?」
「分かりやすいです」
「誰に似たのよ」
「お母様です」
「それ、便利に使ってない?」
エステルが笑う。
その向こうで、一つ目の巾着が売れた。
「あ」
エステルが振り向く。
買ったのは、同じくらいの年頃の女の子だった。
母親らしい女性が代金を払い、少女が巾着を大事そうに持つ。
エステルは何も言わない。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑った。
ヴィオラも隣で見ていた。
「次はもっときれいに作れます」
「今言うの?」
「次がありますので」
エステルらしい。
◇
その夜。
屋敷へ戻ってから、私は最終の記録を確認した。
予定変更一件。
寄付元変更一件。
輸送先追加一件。
どれも書いてある。
「完璧」
「そうか?」
向かいでレオニスが紙を読む。
「何、その言い方」
「完璧ではない」
「どこ?」
「ここ。王都側の受領確認がまだだ」
「今日出た荷よ?」
「だからまだだ」
「じゃあ私のせいじゃないでしょう」
「完了していないという話だ」
「細かい」
「必要だ」
私は椅子へ沈む。
「でも、ちゃんと記録したわよ」
「ああ」
「変更も」
「ああ」
「王家にも慈善会にも写しを出した」
「ああ」
「褒めて」
レオニスが顔を上げた。
「よくやった」
素直。
逆に困る。
「……もう少し溜めてもよかったのに」
「面倒だな、お前は」
「知ってる」
レオニスは書類を揃えた。
「今回の形は残しておけ」
「来年も使う?」
「使える。災害時にも応用できる」
「大げさじゃない?」
「荷を持っている者、運べる者、必要としている者。その三つを早く結べる仕組みは役に立つ」
「仕組み」
「ああ」
私は机の上を見る。
商会。
運送手配人。
アルセリオン。
王都慈善会。
王家。
グランヴェル。
いろんな名前が、一枚の紙の上で線になっている。
「私、一人で何かしたわけじゃないのね」
「当たり前だ」
「もう少し言い方ない?」
「お前が声をかけたから動いた者はいる。だが、お前一人で荷馬車は走らん」
「それはそう」
ネラが道を選んだ。
マーリンが寄付元を整理した。
商会が荷を出した。
慈善会が受け取った。
レオニスが書面を整えさせた。
私は。
最初に、足りないものを見つけた。
それから、人をつないだ。
「それでいいのかも」
「何がだ」
「何でもない」
私は最終書類へ署名する。
ミレーヌ・グランヴェル。
今日、誰かが助かったかもしれない。
それなら十分だ。
書類を閉じようとして、ふと手が止まった。
「レオニス」
「何だ」
「この記録って、ずっと残るの?」
「公的なものは残る」
「どれくらい?」
「内容によるが、長いものは相当だ」
「ふうん」
自分の名前を見る。
誰に頼んだか。
どこへ連絡したか。
何を動かしたか。
全部、書いてある。
少し恥ずかしい。
「何だ」
「後から見たら、私、ものすごく働いてる人みたい」
「働いたんだろう」
「そうなんだけど」
私は笑って書類を閉じた。
その時の私は、それ以上考えなかった。
記録というものは。
残した人間が、後で読み返すためだけにあるわけではない。




