お祖母様は二度言う
西の離宮から戻って三日目。
私はようやく、自分の椅子に落ち着いて座っていた。
暖炉。
いつもの机。
いつもの帳面。
そして。
「奥様」
「何?」
「まだ開いておられませんね」
「今から開くの」
「先ほどから十分ほど、その状態でございます」
「余韻よ」
「帳面を開くのに?」
「帰ってきた実感を味わってるの」
セリーヌは何も言わなかった。
何も言わない顔が、一番うるさい。
私は帳面を開いた。
冬の騎乗会。
その横に、自分で書いた文字がある。
――今日、ひとつ折れた。
改めて見ると、少し恥ずかしい。
何、この勝利宣言。
いや、勝ったけど。
たぶん。
少なくとも、ゲームで起きたはずの事故は起きなかった。
アレクシスは怪我をしなかった。
エステルも。
誰も。
でも。
折れたのは、事故だけじゃない。
あの日をきっかけに、失敗を許せなくなっていったはずのエステル。
アレクシスの隣に立つために、誰にも負けてはいけないと思い込んでいったエステル。
そこへ続く道からも。
たぶん、少し外れた。
全部じゃない。
この先だって、何があるか分からない。
それでも。
昨日のことを昨日のこととして、次の日には雪の中で笑っていた。
それを見られただけで、今は十分だ。
その翌日に転んだのは私だけだけど。
そこは書かない。
「奥様」
「何?」
「今、何かを書かないと決めたお顔をなさいました」
「あなた、本当に私の顔を読むのやめない?」
「長年の経験でございます」
私は帳面を閉じた。
今日はもういい。
すると、まるでそれを待っていたように扉が叩かれた。
「奥様。お手紙が届いております」
使用人から受け取ったセリーヌが、封筒をこちらへ差し出す。
見覚えのある封蝋。
「……実家」
「アルセリオン侯爵家からでございます」
私が生まれ育った家。
そして、この封の使い方は。
「お母様だわ」
開ける。
短い。
とても短い。
『ミレーヌへ。
エステルを連れて、明後日いらっしゃい。
午後で構いません。
重ねて言いますが、あなただけでなくエステルも連れて来るのですよ。
マーリン』
「念を押されてる」
「エステル様をお連れするように、でございますね」
「そう。こういう時のお母様は逃がしてくれないのよ」
嫌な記憶がある。
『姿勢を正しなさい』
少し経って。
『ミレーヌ、姿勢を正しなさい』
二回目は、もうお願いではない。
「私には何の用かしら」
「奥様をお呼びになったのでは?」
「手紙の主役が完全にエステルなのよ」
私は手紙をもう一度見る。
丁寧に念まで押されている。
逃げられない。
◇
「行きます」
エステルは即答した。
「まだ何も説明してないけど」
「お祖母様からのお招きなのでしょう?」
「そうだけど」
「でしたら行きます」
強い。
私が九歳の頃、母から呼び出されたらまず用件を聞いた。
聞いても逃げられなかったけど。
「何をするか分からないのよ」
「お茶では?」
「どうして?」
「お祖母様ですので」
分かる。
妙に分かる。
「お母様は行きたくないのですか?」
「行きたくないわけじゃないの。ただ、お母様がエステルを名指しで二回呼んでるのが怖いの」
「二回?」
「二回」
「大切なのですね」
「きっとね」
そこへレオニスが入ってくる。
「何の話だ」
「お母様から招待状」
「アルセリオンから?」
「明後日。私とエステル」
手紙を渡す。
レオニスが読む。
「二回書いてあるな」
「でしょう?」
「大切なんだろう」
「きっとね」
何回言うんだ、私。
◇
二日後。
アルセリオン侯爵家の屋敷へ着くと、母は玄関広間まで出てきていた。
マーリン・アルセリオン。
私の母。
社交の場では、笑っているだけで相手が自分から姿勢を正すような人である。
本人はたぶん、何もしていない。
それが一番怖い。
「いらっしゃい、エステル」
「お招きありがとうございます、お祖母様」
「ミレーヌも」
「ついでみたいに言わないで」
「あら。ちゃんと最初に手紙を書いたでしょう?」
「本文の大半がエステル絡みだったわよ」
「そうだったかしら」
絶対覚えてる。
母はエステルを見る。
「少し背が伸びたわね」
「本当ですか?」
「ええ」
エステルの顔が明るくなる。
「お母様は何も仰いません」
「毎日見てると分からないのよ」
マーリンが私を見る。
「言い訳ね」
「お母様」
「ミレーヌ」
嫌な予感がした。
「姿勢」
反射的に背筋が伸びた。
「……お母様?」
「違うの。これは幼少期からの訓練なの」
「よいことですね」
「あなたが言わないで」
マーリンは楽しそうに笑った。
◇
案内されたのは大きな応接間ではなかった。
庭に面した、小さな茶室。
五人ほどなら囲める丸卓が一つ。
今日は母と私とエステルだけらしい。
「それで?」
私は座るなり聞いた。
「何?」
「エステルを二回も名指ししてまで呼んだ理由」
「せっかちね」
「誰の娘だと思ってるの」
「私の娘ね」
「そういうところ!」
エステルが笑いをこらえている。
母は気にせず、卓上の小さな箱を開けた。
中に入っていたのはカードだった。
十枚ほど。
「何ですか?」
エステルが身を乗り出す。
「お茶会の席札よ」
「席札?」
「名前は書いていないわ」
確かに空白だ。
母はカードを四枚だけ抜き、卓上に並べた。
「エステル。あなたなら、ここへ誰を招く?」
「え?」
「四人まで。あなたを入れて五人のお茶会」
エステルが止まる。
私も止まった。
なるほど。
そういう用件か。
「誰でもよいのですか?」
「ええ。ただし、理由を教えてちょうだい」
エステルは考え始めた。
すぐには答えない。
母も急かさない。
私は口を挟まない。
こういう時の母は、答えを教えない。
昔からそうだった。
「……アレク」
エステルが一枚を取った。
「アレクシス殿下ね」
「はい。一緒にいることが多いですし、話しやすいので」
「婚約者だから?」
「それもあります。でも、それだけなら呼ばなくても会えます」
母の眉が少しだけ動いた。
「では、なぜ?」
「私が知らないことを知っています。逆もあります。勝負もできます」
「お茶会で?」
「お茶会では勝負しません」
「本当に?」
「たぶん」
「エステル」
「……しません」
私は吹き出しそうになった。
母がこちらを見る。
姿勢を正した。
何も言われてないのに。
「二人目は?」
エステルは次の札を見た。
「ヴィオラさん」
ヴィオラ・レインフォード。
王宮の小さな集まりで知り合った、エステルより三つ年上の伯爵令嬢。
菓子を割るところから始まり、今では刺繍まで比べている。
友達かと聞けば、まだ分からないと言う。
でも名前はすぐ出た。
「理由は?」
「次に会った時、何を比べるか決めていません」
「お茶会は勝負を決める場所ではないわよ」
「知っています」
「では?」
エステルが少し考える。
「話したいからです」
短かった。
母はうなずいた。
「それで十分よ」
「三人目は?」
エステルは少しだけ考えてから、次の札を取った。
「シオン様」
シオン・フェルディア。
少し年上で、遠い土地に暮らしている少年。
会える回数は多くないけれど、エステルとは手紙のやり取りが続いている。
「理由は?」
「またお話ししたいです。手紙でも話せますけれど、会って話すのとは違いますから」
母が静かにうなずいた。
「そうね」
エステルが四枚目を見る。
今度は長い。
指が札の上で止まったまま動かない。
「決まらない?」
「はい」
「なら、空けておいてもいいのよ」
「四人招くのでは?」
「四人まで、よ」
エステルが母を見る。
「空けてもよいのですか?」
「もちろん」
「でも、席が余ります」
「余った席へ、無理に誰かを座らせる必要はないでしょう?」
静かな声だった。
私は母を見る。
この人。
九歳の孫に何を教えようとしているのか。
たぶん、社交。
でもそれだけではない。
「呼びたい人ができたら、その時に名前を書けばいいわ」
エステルは空白の札を見る。
「……はい」
そして、四枚目を卓上へ戻した。
空白のまま。
◇
お茶が運ばれてきた。
ここからは普通のお茶会だった。
少なくとも私はそう思っていた。
「では次に」
「まだあるの?」
「ミレーヌ」
「はい」
姿勢が伸びる。
悔しい。
母はエステルへ小さな砂糖壺を渡した。
「今日のお茶を、あなたが整えてみなさい」
「私が?」
「ええ。お客様は私とミレーヌ」
「私も客なの?」
「何か問題が?」
「ないです」
あるけど。
エステルが立ち上がる。
茶器を見る。
菓子を見る。
砂糖。
ミルク。
ナプキン。
少し緊張している。
「お母様」
「何?」
「お祖母様は、お砂糖を?」
「一つ」
「聞かないの」
母が言った。
エステルの手が止まる。
「え?」
「今日はあなたが招く側でしょう?」
「はい」
「なら、自分で私に聞きなさい」
「あ」
エステルが私を見る。
助けを求めた。
私は口を閉じた。
ごめん。
ここは助けない方がいい。
エステルは母へ向き直る。
「お祖母様。お砂糖はいくつお使いになりますか?」
「一つお願い」
「ミルクは?」
「今日は結構よ」
「分かりました」
次に私。
「お母様は二つですね」
「何で聞かないの?」
「知っていますので」
「そういう問題?」
母が笑った。
「よく見ているのね」
「はい」
「でも、お客様の好みは変わることもあるわ」
エステルが止まる。
私を見る。
「お母様。今日はお砂糖を二つでよろしいですか?」
「……はい」
「ミルクは?」
「少し」
「いつも入れないでしょう?」
「今日は入れたい気分なの」
「先に言ってください」
「今聞かれたから答えたのよ」
エステルが少しむっとした。
九歳。
その顔に安心する。
完璧にできなくていい。
母も、それを求めていない。
エステルは慎重に茶を整えた。
少し時間がかかった。
私のミルクは、たぶん「少し」より多かった。
でも飲める。
「どう?」
エステルが聞く。
「おいしい」
「本当ですか?」
「本当」
「お祖母様は?」
母は一口飲む。
「おいしいわ」
エステルの肩が下がった。
緊張していたらしい。
「ただし」
戻った。
「砂糖を入れた後、匙を受け皿へ置く向きが逆ね」
「……はい」
「それから、ミレーヌのミルクは多いわ」
「やっぱり?」
「お母様」
「私は何も言ってない」
「顔が言っています」
どこで覚えたの、その技。
「次は気をつけます」
エステルが言う。
「ええ」
母は微笑む。
「次は気をつけなさい」
二回。
エステルが私を見る。
私は小さくうなずいた。
来たわね。
お祖母様の二回目。
◇
帰りの馬車。
エステルは膝の上に四枚の席札を置いていた。
母が持たせたものだ。
一枚目。
アレクシス。
二枚目。
ヴィオラ。
三枚目。
シオン。
四枚目。
空白。
「持って帰るとは思わなかった」
「お祖母様が、書きたくなった時に書きなさいと」
「そう」
「お母様」
「何?」
「お母様なら、誰を書きますか?」
「四人目?」
「はい」
私は考える。
九歳のエステルの席。
アレクシスがいる。
ヴィオラがいる。
シオンがいる。
その隣へ、誰を座らせるか。
ゲームのことを考えれば。
名前は一つ浮かぶ。
リリア・メレット。
でも。
まだ会っていない。
今のエステルは、彼女を知らない。
私だけが知っている名前を、娘の空席へ勝手に書くことはできない。
「書かないかな」
「お母様も?」
「ええ」
「どうしてですか?」
「その席は、あなたの席だから」
「私の席?」
「あなたが誰かを招くための席。私が決めるものじゃないわ」
エステルは札を見る。
「では、お母様にも教えません」
「何を?」
「書く時が来ても」
「何で!?」
「私が決めるものなのでしょう?」
「そうだけど、教えてはよくない?」
「その時に考えます」
「そこまで自立しなくていいのよ」
「お母様」
「何?」
「姿勢」
反射で背筋が伸びた。
エステルが笑う。
「今のは嘘です」
「エステル!」
声を上げると、娘はもっと笑った。
母にやられたことを、娘にやられる。
ひどい。
でも。
膝の上の空白は、そのままでいいと思った。
まだ名前のない席。
知らない誰かのための場所。
あるいは、ずっと空いたままかもしれない場所。
どちらでもいい。
この子が決めるなら。
私は窓の外を見る。
道の端には、まだ雪が残っている。
けれど陽の当たるところから、少しずつ土が見え始めていた。
冬は、まだ終わっていない。
それでも景色は、昨日と同じではなかった。




