転んだのは私です
翌朝。
私は、全身が痛かった。
「奥様」
「何?」
「昨日、落馬はなさっておりません」
「知ってる」
「では、そのお顔は?」
「力が入ってたのよ。ずっと」
肩。
背中。
腕。
たぶん、心臓の周りまで筋肉痛だ。
昨日の騎乗会で、私は馬から落ちていない。
暴れたのはアレクシスの馬で、アレクシスにも怪我はなかった。
なのに朝起きたら、私だけが満身創痍みたいになっている。
「人間、見ているだけでもこんなに疲れるのね」
「奥様は見ているだけではございませんでしたので」
「何かした?」
「ずっと手綱を握り締めておられました」
なるほど。
手のひらを見る。
痛い。
「今日は静かにしていよう」
「賛成いたします」
「暖炉の前でお茶を飲んで、本でも読んで」
「大変よろしいかと」
「何もしない」
「ぜひ、そうなさってくださいませ」
セリーヌの返事が妙に早い。
私は寝台から降りた。
窓を開ける。
夜の間に、また雪が積もっていた。
白い。
昨日より、さらに白い。
庭の植え込みも、石の縁も、道も、全部丸くなって
そして、その真ん中に。
葡萄色の外套が走っていた。
「……エステル?」
その隣を、見覚えのある金髪が走っている
「アレクシス殿下もいらっしゃいますね」
「何してるの、あの二人」
次の瞬間。
エステルが雪を掴んだ。
丸めた。
投げた。
アレクシスの肩に当たった。
王子が止まった。
「セリーヌ」
「はい」
「静かにしていようと思う」
「はい」
「思うんだけど」
「はい」
アレクシスが雪を拾った。
「ちょっと行ってくる」
「そう仰ると思っておりました」
◇
「何をしているの!」
庭へ出た私の声に、二人が振り向いた。
エステルは手に雪玉。
アレクシスも雪玉。
現行犯である。
「お母様」
「ミレーヌ様」
「昨日あんなことがあったばかりでしょう!」
二人が顔を見合わせた。
「はい」
「はい」
「だったら今日は少し大人しく――」
「騎乗はしておりません」
エステルが言った。
「そういう問題じゃなくて」
「走ってもいません」
「今、走ってたわよね?」
「少しだけです」
「少しでも走ったって言うのよ」
アレクシスが手にしていた雪玉を、そっと背中へ隠した。
「殿下」
「何でしょう」
「それ、見えてます」
「……はい」
九歳。
王子でも九歳。
「二人とも、昨日は怖かったでしょう」
今度は少し声を落とした。
二人の顔から、遊んでいた色が少しだけ引く。
エステルが先にうなずいた。
「怖かったです」
アレクシスも続いた。
「僕もです」
「なら――」
「だから、今日は馬に乗っていません」
エステルが言う。
「それは分かってるけど」
「雪遊びなら、昨日のこととは別です」
「別……」
「はい」
言い切られた。
私はアレクシスを見る。
助けを求めたわけではない。
確認しただけだ。
たぶん。
「僕も、そう思います」
敵だった。
「それに」
アレクシスが続ける。
「母上が、庭なら構わないと」
「王妃様が?」
「はい」
私は離宮の二階を見る。
窓辺に人影があった。
王妃だ。
こちらを見ている。
手を振った。
私は振り返さなかった。
あとで言う。
絶対言う。
「お母様もなさいますか?」
「何を?」
「雪合戦です」
「しません」
「楽しいですよ」
「しません」
「昨日、私たちに何度も『無理をしないで』と仰っていました」
「言ったわね」
「ですから、お母様も無理をしなくてよいです」
「私は無理して雪合戦を断ってるんじゃないの」
エステルが首を傾げた。
その横で、アレクシスが笑った。
「殿下、笑いました?」
「笑っていません」
「笑ったわよね?」
「笑っていません」
この子、最近ちょっと強くなったな。
エステルの影響だろうか。
責任者を呼びたい。
私かもしれない。
◇
結局、私は雪合戦には参加しなかった。
大人なので。
公爵夫人なので。
肩も痛いので。
庭の端に立って見ていることにした。
エステルとアレクシスは、一定の範囲から出ない。
護衛もいる。
雪玉は固く握らない。
顔へ投げない。
王妃が決めたらしい。
意外と細かい。
それならまあ、いい。
「エステル、後ろ!」
「え?」
アレクシスの雪玉が外れた。
エステルの横を通る。
「惜しいです」
「今のは当てるつもりだった」
「分かっています」
「次は当てる」
「どうぞ」
楽しそうだ。
昨日、あんなに怖い思いをしたのに。
いや。
したからこそ、なのかもしれない。
子どもは、怖かった出来事の翌日に、世界全部を怖がるようになるわけではない。
少なくとも、この二人は違った。
馬は怖かった。
でも雪はきれいで、庭では遊びたい。
それでいいのだろう。
私は自分の手袋へ息を吹きかけた。
「ミレーヌ」
横から声がした。
レオニスだった。
「あなた、いつからいたの?」
「今来た」
「見て。元気」
「見れば分かる」
「昨日の今日なのに」
「昨日の今日だから寝込まなければならない理由もないだろう」
「それはそうなんだけど」
レオニスが私を見る。
「お前の方が寝込んでいたな」
「寝込んでない。起きるのが少し遅かっただけ」
「肩は?」
「痛い」
「腕は?」
「痛い」
「背中は?」
「痛い」
「寝込んでいるのと何が違う」
「歩ける」
「そうか」
納得された。
雑。
その時、雪玉が一つ飛んできた。
レオニスの胸に当たった。
ぱふ、と崩れる。
沈黙。
エステルが固まった。
「……お父様」
「エステル」
「違います」
「何がだ」
「アレクを狙いました」
「僕です」
アレクシスが即座に言う。
「分かっている」
レオニスが胸の雪を払った。
私は横を向いた。
「ミレーヌ」
「何?」
「笑ったか」
「笑ってない」
「笑っただろう」
「笑ってない」
昨日のアレクシスと同じことを言っている。
まずい。
レオニスが雪を拾った。
「あなた?」
「何だ」
「大人よね?」
「ああ」
「公爵よね?」
「ああ」
「何してるの?」
「娘に教育をする」
「雪玉で?」
「狙った相手へ当てる方法を教える」
「そこ?」
エステルの目が輝いた。
「お父様、投げ方をご存じなのですか?」
「当然だ」
「なぜ当然なの?」
聞いたのは私だけだった。
レオニスは雪玉を軽く握る。
「固めすぎるな。重くなる」
「はい」
「腕だけで投げるな」
「はい」
「相手が動くなら、今いる場所ではなく――」
「レオニス」
「何だ」
「本気で教えないで」
「教育だ」
「絶対違う」
アレクシスまで寄ってきた。
「公爵、僕も聞いてよろしいですか」
「殿下まで!?」
だめだ。
男二人が加わった。
雪合戦が、急に訓練になった。
◇
「ミレーヌ」
「王妃様」
「楽しそうね」
「どこがですか」
しばらくして庭へ降りてきた王妃は、私の隣で平然とお茶を飲んでいた。
侍女が持ってきた温かい茶だ。
ずるい。
私ももらった。
「昨日は心配したわ」
王妃が言った。
私はカップから顔を上げる。
「……はい」
「あなたの顔を見て、余計に」
「私ですか」
「アレクシスが落ちる前に、あなたが倒れるかと思ったもの」
「倒れてません」
「知ってるわ」
王妃は庭を見る。
アレクシスが投げた雪玉を、エステルが避けた。
その後ろでレオニスが何か指示している。
完全に遊んでいる。
「アレクシスは、昨夜少し眠れなかったそうよ」
「……そうなんですか」
「本人からは言わないでしょうけど」
私はアレクシスを見る。
笑っている。
「怖かったんですね」
「当然でしょう。九歳ですもの」
その言い方に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
王子でも。
婚約者でも。
ゲームの攻略対象でもなく。
九歳。
「でも、今朝は自分から庭へ出たわ」
「エステルを誘ったんですか?」
「逆よ」
「え?」
「エステル嬢が部屋へ迎えに来たの」
知らなかった。
「何て?」
「『昨日のことを考えているなら、外へ行きませんか』ですって」
私は庭を見る。
エステルが笑っている。
「それだけ?」
「それだけ」
「馬のことは?」
「何も」
なるほど。
だから二人は雪合戦をしていたのか。
励ますでもなく。
昨日の事故を何度も話すでもなく。
外へ行こう。
九歳のエステルなりの声のかけ方だった。
「いい子ね」
王妃が言う。
「……はい」
「今、ものすごく母親の顔をしたわよ」
「放っておいてください」
「嫌よ」
この人も強い。
◇
昼前。
雪合戦は終わった。
というより、終わらせた。
レオニスが本気になり始めたからだ。
「もう終わりです」
「まだ昼前だ」
「そういう問題じゃありません」
「エステルはまだやれると言っている」
「あなたがやりたいだけでしょう」
レオニスが黙った。
当たりだ。
エステルとアレクシスは、侍従たちに濡れた外套を預けている。
頬が赤い。
髪にも少し雪が残っている。
「楽しかった?」
「はい」
エステルが答える。
アレクシスもうなずいた。
「次は勝つ」
「今日は私の方が多く当てました」
「公爵に教わる前の分がある」
「最初から含めるのが勝負です」
「途中で条件が変わった」
「では引き分けですか?」
「……それならいい」
「私もです」
平和だ。
昨日と同じ二人なのに、昨日とは違う。
そのことを考えた瞬間、エステルがこちらを見た。
「お母様」
「何?」
「今、また考えすぎていますか?」
「考えてない」
「本当ですか?」
「本当」
「では」
エステルが足元の雪を指差した。
「そこ、滑ります」
「え?」
一歩動いた。
滑った。
「きゃっ」
視界が傾く。
レオニスが腕を伸ばす。
間に合わない。
私は尻から雪へ落ちた。
冷たい。
痛い。
静かになった。
全員が私を見ている。
「……お母様」
「何」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
アレクシスが口元を押さえた。
「殿下」
「何でしょう」
「笑いました?」
「笑っていません」
「笑ったわよね?」
「笑っていません」
王妃は隠す気すらなく笑っている。
セリーヌは目を閉じている。
レオニスだけが真顔で私へ手を差し出した。
「立てるか」
「立てる」
「肩は?」
「痛い」
「背中は?」
「痛い」
「尻は?」
「聞かないで」
エステルがとうとう吹き出した。
「エステル!」
「申し訳ありません、お母様。でも」
「でも何?」
「昨日、誰も落ちなかったのに」
嫌な予感がした。
「今日、転んだのはお母様ですね」
その通りだった。
私はレオニスの手を掴んで立ち上がる。
「帰るわよ」
「まだ離宮です」
「部屋に!」
後ろで笑い声が続いた。
昨日は誰も怪我をしなかった。
今日も、たぶん誰も怪我をしていない。
私のお尻以外は。
それで十分だった。




