同じ雪、違う道
西の離宮へ向かう朝、私は馬車の前で三回荷物を確認した。
「奥様」
「何?」
「先ほどもご覧になりました」
「何を?」
「同じ箱を」
「そうだった?」
「はい」
セリーヌは迷いなく答えた。
私は箱から手を離す。
中に入っているのは防寒具だ。薬でも、秘密兵器でも、未来を変える何かでもない。
ただの手袋と厚手の外套。
分かっている。
分かっているけれど、何かしていないと落ち着かない。
「お母様」
背後からエステルが呼んだ。
振り向く。
今日は旅装だった。濃い葡萄色の外套に、動きやすい細身のブーツ。髪も普段より簡単にまとめている。
「準備できた?」
「はい」
「忘れ物は?」
「ありません」
「本当に?」
「お母様よりは」
「誰に似たのかしら」
「お母様です」
「最近その返し早くない?」
エステルが少し笑った。
そこへレオニスが来る。
「出るぞ」
「待って。あなたは何か忘れてない?」
「ない」
「確認した?」
「した」
「何回?」
「一回」
「少ない」
「一回で足りる」
強い。
私は馬車へ乗った。
◇
西の離宮までの道中、私は思い出せる限りのことを頭の中で並べた。
雪。
馬。
アレクシス。
エステル。
三日目。
騎乗会。
それ以上は、まだ曖昧だった。
前にフェルディアの件でやったように、曖昧な記憶へ現在の事実を無理に重ねるのはやめる。
今あるのは、ただの断片。
だから今回は、調べ尽くさない。
地図も増やさない。
誰かを何度も呼び止めて同じ質問もしない。
セリーヌが向かいで静かにこちらを見ている。
「何?」
「何も申し上げておりません」
「顔が言ってる」
「奥様もお顔に出ておりますので、お互い様かと」
「何が出てるの?」
「四回目を我慢していらっしゃるお顔です」
ばれている。
私は窓の外を見た。
白い畑が流れていく。
エステルはその隣で、景色を追っていた。
「お母様」
「何?」
「雪が増えました」
「そうね」
「離宮では、もっと積もっていますか?」
「たぶん」
「楽しみです」
明るい。
それでいい。
私は、この子に「何か起きるかもしれないから楽しむな」と言いたいわけではない。
危ないなら守りたい。
でも、何もかも遠ざけてしまったら、それはこの子の人生ではなくなる。
その線引きは、今でも難しい。
「エステル」
「はい」
「騎乗会だけど」
「はい」
「雪の上では、普段と同じように走れないからね」
「分かっています」
「競争もしない」
「分かっています」
「アレクに言われても?」
エステルが少し考えた。
「アレクが言いますか?」
「たとえばよ」
「でしたら、断ります」
「本当に?」
「勝負は、条件が同じ時にした方がよいです」
私は黙った。
「雪道で速さを競っても、馬によって得意不得意が違います。勝っても、少しつまらないです」
九歳。
ちゃんと九歳の理屈だ。
でも、前より一段だけ先へ行っている。
「そう」
「お母様?」
「何でもない」
私は窓の外へ顔を向けた。
少しだけ、肩の力が抜けた。
◇
西の離宮は、王都の宮殿よりずっと小さい。
それでも王家の離宮なので、私の感覚では十分大きい。
石造りの建物の向こうに、雪を被った森が広がっていた。
空気が違う。
冷たい。
静か。
音が雪へ吸われていく。
「エステル!」
到着して間もなく、アレクシスが駆けてきた。
いや、途中から歩いた。
王子なので。
人目があったから。
その切り替えが九歳なりに一生懸命で、少し面白い。
「殿下」
エステルも人前ではきちんと礼をする。
「道中はいかがでしたか」
「問題ありませんでした。殿下は昨日から?」
「ああ。父上たちが先に入る必要があったから」
公の場では、二人ともちゃんとしている。
でも。
「雪、見ましたか」
「見た」
「庭の方がもっと積もっています」
「あとで行きましょう」
「行く」
すぐ九歳へ戻った。
王妃が少し離れたところから私を見る。
目が合う。
笑っている。
何も言わないでほしい。
私は会釈だけ返した。
◇
一日目は何も起きなかった。
二日目も。
晩餐。
挨拶。
近隣の施設への短い訪問。
子どもたちは雪の積もった庭を歩き、アレクシスとエステルは足跡の大きさを比べていた。
平和。
とても平和。
だからこそ。
三日目の朝。
厩舎前に並んだ馬を見た時、私は急に息が浅くなった。
鈴。
馬具の一部に、小さな鈴が付いている。
飾りだ。
騎乗会の列が森へ入る時、先頭の馬だけに付けるらしい。
雪の中でも位置が分かりやすいように。
しゃらん、と鳴った。
その音で。
記憶が戻った。
『アレク、あの木までです!』
幼い声。
深い赤紫の髪。
笑っている。
『負けない』
金色の髪。
馬が走る。
鈴が遠ざかる。
雪を蹴る蹄。
木の枝から、大きな雪の塊が落ちた。
馬が跳ねる。
悲鳴。
もう一頭が近すぎる。
ぶつかる。
白い地面。
金色。
そして。
『エステル様が競走を持ちかけたのです』
誰かの声。
『殿下がお怪我をなさったのは――』
そこで。
切れなかった。
白い地面が遠ざかる。
画面が変わる。
『殿下にお怪我をさせたのは、グランヴェル公爵令嬢だそうよ』
『競走を持ちかけたのも、エステル様だったとか』
『殿下の婚約者なのに――』
知らない声が重なる。
責める声。
噂する声。
そして。
少しだけ長くなった、赤紫の髪。
『殿下の隣に立つ以上、二度と同じ失敗は許されません』
誰が言ったのかは分からない。
けれど、その言葉を聞いた少女の顔だけは見えた。
泣いていない。
怒ってもいない。
ただ、まっすぐ前を向いていた。
画面がまた変わる。
机。
答案。
礼法の稽古。
何度も、何度も。
負けた時ほど、次は勝つ。
間違えたなら、二度と間違えない。
殿下の隣に立つ自分は、誰より優れていなければならない。
それが。
私の知っている、ゲーム開始時のエステルへ続いていた。
「……あ」
声が漏れた。
事故だけじゃない。
これだ。
この日から。
失敗したから、次を考えるのではなく。
失敗したから、もう失敗してはいけない。
そんなふうに。
この子は変わっていった。
「ミレーヌ」
腕を掴まれた。
レオニスだ。
「大丈夫か」
「……思い出した」
声が小さくなる。
周囲には人がいる。
エステルも、少し先で自分の馬の手綱を確認している。
「何だ」
「競争」
「誰が」
「エステルとアレクシス殿下」
レオニスの目が動く。
「それで事故が?」
「たぶん。殿下の馬が驚いて、エステルの馬も近くにいて……ぶつかったように見えた」
「原因は」
「木から雪が落ちた」
「場所は」
「分からない」
「時刻は」
「分からない」
レオニスはそれ以上聞かなかった。
私も言わなかった。
必要なのは、記憶の穴を今ここで埋めることではない。
競争させない。
間隔を取らせる。
それだけでもいい。
「騎乗会を中止にする?」
私が聞く。
レオニスは森を見た。
「今の話だけなら、そこまではしない」
「でも」
「雪が落ちて馬が驚くこと自体は、冬ならあり得る。だからこそ、騎手も馬もそれを前提に動く」
正しい。
腹が立つくらい正しい。
「ただし」
レオニスが続ける。
「子どもだけで先へ出さない。競争をさせない。間隔を空ける。そこは俺からも言う」
「うん」
「お前は?」
「エステルに言う」
「全部?」
私は少し考える。
「言えるところまで」
レオニスがうなずいた。
◇
「エステル」
呼ぶと、娘がこちらへ来た。
「はい」
「少し話があるの」
表情が変わる。
私の声で分かったのだろう。
「思い出したのですか?」
「少しね」
私はしゃがまなかった。
今日はエステルが騎乗服で立っている。
私も立ったまま話した。
九歳。
でも、いつでも幼児扱いする年齢ではない。
「昔聞いた話では、この雪の中で子ども同士が馬を競わせて、事故になったみたい」
「……私と、アレクですか?」
鋭い。
「そう聞いてる」
「誰が怪我を?」
「アレクが怪我をしたって」
エステルの顔が固くなる。
「私が、競走を言い出したのですか?」
「そう聞いてる」
黙った。
私は続ける。
「でも、それは昔聞いた話。今日のあなたがそうするって意味じゃない」
「はい」
「怖い?」
「少し」
「乗らなくてもいいのよ」
エステルはすぐには答えなかった。
厩舎の方を見る。
自分の馬。
アレクシス。
森。
それから私へ戻る。
「乗ります」
「そう」
「でも、競走はしません」
「うん」
「アレクにも言います」
「それは私たちから――」
「私から言います」
止まった。
エステルの声は強くない。
でも、決めている。
「私が言ったことになっていたのでしょう?」
「……ええ」
「でしたら、今の私は言わないと、私から伝えたいです」
胸の奥が熱くなった。
私はそれを顔に出さないようにした。
たぶん出た。
「分かった」
「はい」
「でも無理はしないで」
「はい」
「少しでも変だと思ったら」
「お母様」
「何?」
「五回目です」
「まだ三回くらいよ」
「たぶん五回です」
「数えなくていいの」
エステルが笑った。
少しだけ。
◇
騎乗会が始まった。
子どもたちは大人の間へ入る形で列を作る。
アレクシスの隣にエステル。
ただし、少し間を空けている。
私は馬上から二人を見る。
アレクシスが何か言った。
エステルが答える。
聞こえない。
でも次の瞬間、アレクシスがこちらを見た。
私ではなく、少し後ろのレオニスを見る。
それからうなずいた。
伝えたらしい。
森へ入る。
雪の上を馬が進む。
速くない。
歩くより少し速い程度。
鈴の音が前から聞こえる。
しゃらん。
しゃらん。
私は呼吸を数えた。
一。
二。
三。
何も起きない。
木々の間から光が落ちる。
白い。
きれいだ。
エステルが振り返る。
「お母様」
「何?」
「大丈夫ですか?」
「私が聞く側じゃない?」
「顔が固いです」
「寒いのよ」
「そうですか」
絶対信じてない。
列が緩い坂へ入る。
その時。
前方で枝が鳴った。
ぱき、と。
私は顔を上げる。
重い雪が、木の枝から落ちた。
どさっ。
音は小さかった。
でも馬には十分だった。
アレクシスの馬が首を振る。
前脚が浮く。
「アレク!」
エステルの声。
記憶と同じ。
心臓が止まりそうになる。
でも。
次が違った。
エステルは追わなかった。
手綱を引き、自分の馬を横へ向ける。
距離を取る。
「下がって!」
後ろの子どもへ声を飛ばした。
アレクシスは鞍にしがみつく。
馬がもう一度跳ねる。
近くの騎手がすぐ前へ出た。
レオニスも動く。
「殿下、手綱を短く!」
声が飛ぶ。
アレクシスが応じる。
一度。
二度。
馬が足を踏み直す。
止まった。
静かになった。
雪が枝から細く落ち続ける。
私は息をしていなかった。
「……アレク」
エステルが呼ぶ。
さっきより小さい声だった。
「大丈夫だ」
アレクシスが答える。
顔は白い。
でも座っている。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「手は?」
「エステル」
「はい」
「今は母上みたいだ」
エステルが止まった。
私は遠くから聞いていた。
「……それはどういう意味ですか」
「同じことを何度も聞くところ」
「心配しているのです!」
「分かってる」
アレクシスが少し笑った。
笑えるなら、大丈夫だ。
私はようやく息を吐いた。
◇
騎乗会はそこで中止にはならなかった。
一度休み、馬の状態を確かめ、短い経路へ変更して離宮へ戻った。
帰ってから、アレクシスは医師に見てもらった。
怪我なし。
エステルも。
他の子どもたちも。
誰も怪我をしなかった。
私は暖炉の前で椅子に座り、しばらく動けなかった。
「お母様」
エステルが来る。
「大丈夫?」
「それ、私が言う台詞よ」
「私は大丈夫です」
「怖かった?」
「怖かったです」
即答だった。
「でも、馬を追わなかったわね」
「近づいたら危ないと思ったので」
「そうね」
「それに」
エステルが少しだけ視線を下げる。
「朝、お母様が話してくださったので」
私は何も言わなかった。
「昔の私は、追ったのですか?」
「たぶん」
「それで、ぶつかった?」
「そう見えた」
「……そうですか」
少し考える。
私は、その沈黙を埋めなかった。
やがてエステルが言った。
「では、今日は違いましたね」
「ええ」
「なら、よかったです」
簡単だった。
私にとっては何年も怖がってきたものの一つなのに。
この子にとっては、今日、自分で選んだ行動だ。
失敗しなかったから、よかったのではない。
昔はこうだったと聞いても。
今日は違う方を、自分で選べた。
それで終われる。
失敗を、次の失敗を恐れる理由にしなくていい。
昔の誰かではない。
今のエステル。
「お母様」
「何?」
「アレクに競走しないと言った時、変な顔をされました」
「何て?」
「『今日はどうした』と」
「失礼ね」
「なので、『雪の日は条件が違うので勝ってもつまらない』と言いました」
「それで?」
「納得しました」
「納得するのね」
「アレクですので」
分かるような、分からないような。
でも笑ってしまった。
エステルも笑う。
その時、扉が開いた。
アレクシスだった。
護衛と侍従を後ろに連れている。
「エステル」
「アレク」
「殿下」
私が立とうとすると、アレクシスが止めた。
「そのままで。母上に、無事だと自分で言ってこいと言われました」
「王妃様らしいわね」
「それと」
アレクシスがエステルを見る。
「さっきは助かった」
エステルが瞬きをする。
「私は何もしていません」
「後ろを下げただろう。馬が近くに来なかった」
「それは……」
「だから、助かった」
エステルは少しだけ姿勢を正した。
「でしたら、どういたしまして」
丁寧。
でも耳が少し赤い。
アレクシスも同じくらい赤い。
九歳。
まだ、それでいい。
私は何も言わなかった。
言ったらたぶん二人とも怒る。
◇
夜。
私は一人でノートを開いた。
雪。
馬。
騎乗会。
アレクシス。
エステル。
そこまで書く。
その下に、今日起きたことを書く。
枝から雪が落ちた。
馬が驚いた。
アレクシスは落馬しなかった。
エステルは追わなかった。
誰も怪我をしなかった。
ペンを止める。
同じ条件だった。
同じ音だった。
同じように馬が跳ねた。
それでも、結果は違った。
私が騎乗会そのものを消したわけではない。
雪を止めたわけでもない。
枝から落ちる雪を、先回りして全部払ったわけでもない。
ただ。
何年も前から。
この子と話して。
叱って。
笑って。
負けて。
考えさせて。
私も間違えて。
その積み重ねの先に、今日のエステルがいた。
そして。
今日、思い出したものがある。
あの事故のあと。
ゲームのエステルは責められた。
アレクシスを危険な目に遭わせた令嬢として。
婚約者なのに、と。
たぶん、あの日だけではない。
そのあとも何度も。
直接言われたことも。
聞こえないところで言われたことも。
自分で自分に言い聞かせたことも。
――二度と失敗してはいけない。
そうやって。
負けることを嫌う少女ができたのではない。
負けることを、怖がる少女ができた。
間違えれば、また誰かを傷つける。
失敗すれば、アレクシスの隣に立つ資格がなくなる。
だから勝たなければならない。
完璧でなければならない。
私はずっと、ゲーム開始時のエステルを知っていた。
でも。
どうしてあの子が、ああなったのか。
今日まで、ちゃんと考えていなかった。
私はノートの端に、小さく線を引いた。
そして、その上に一つだけ書く。
――冬の騎乗会。
少し迷って。
その隣に、もう一つ。
――破滅フラグ、ひとつ。
そこで手が止まった。
違う。
ひとつではない。
今日、折れたのは。
アレクシスが怪我をする未来だけではない。
その事故をきっかけに。
エステルが自分を責め続ける未来。
失敗を許せなくなる未来。
アレクシスの隣にいるために、誰にも負けられなくなる未来。
そこまで続いていた道から。
今日のエステルは、自分で外れた。
小さな選択。
人との距離。
負けた時の顔。
間違えた時に、どうするか。
その全部が積み重なって、最後へ続いていく。
なら。
折るものだって、一つではない。
私は文字を消さなかった。
代わりに、その下へ書き足した。
――今日、ひとつ折れた。
窓の外は暗い。
雪はまだ降っている。
明日の朝には、また景色が変わっているだろう。
同じ雪でも。
通る道は、もう同じではない。




