雪の庭
朝、目を覚ました時には、屋敷の庭が白くなっていた。
雪。
今年最初の雪だった。
「お母様!」
廊下の向こうから足音がする。
嫌な予感がした。
いや、雪の日に九歳児が走ってくる足音なんて、だいたい用件は一つだ。
扉が開く。
「雪です!」
「見れば分かるわ」
「積もっています!」
「それも見れば分かるわ」
「外へ行きましょう!」
やっぱり。
私は寝台の上で毛布を引き上げた。
「寒い」
「雪なので」
「知ってる」
「でしたら暖かくして行けばよいです」
「理屈で殴らないで」
エステルはもう外へ出る格好をしていた。
深い葡萄色の厚手の上着。手袋。ブーツ。
準備が早い。
「いつから起きてたの?」
「雪に気づいてからです」
「それは何時?」
「まだ暗かったです」
「寝なさい」
「眠れませんでした」
九歳。
雪に強い。
私は枕へ顔を埋めた。
「セリーヌ」
「はい」
扉の外から返事が来た。
「あなた、止めなかったの?」
「一度は」
「一度?」
「二度目は奥様へお願いしようと」
「何で私に回すのよ」
「お母様なら一緒に行ってくださると思いました」
エステルが言う。
私は顔だけ出した。
「その信頼、今だけ少し重いわ」
「では、お父様にお願いします」
「待って」
起きた。
負けた気がする。
◇
庭へ出ると、空気が鼻の奥まで冷たかった。
雪は膝まで埋まるほどではない。
芝を隠し、石畳の輪郭を柔らかくするくらい。
それでも見慣れた庭がまるで別の場所に見えた。
「きれいですね」
エステルが言った。
「そうね」
そこは同意する。
寒いけど。
とても寒いけど。
エステルは私から数歩離れ、しゃがみ込んだ。
両手で雪を集める。
「何を作るの?」
「決めていません」
「決めてから集めない?」
「触ってから考えます」
そういうところは、レオニスに似ていない。
たぶん私だ。
認めたくない。
しばらくして、エステルの手の中に丸い雪の塊ができた。
「できました」
「何が?」
「まだ分かりません」
「じゃあ、できてないわよ」
エステルは気にせず、もう一つ丸め始めた。
私は屋敷の軒下に戻りたくなった。
その時。
「おはよう」
背後から声がした。
振り返る。
レオニスだった。
外套を羽織り、手には何も持っていない。
「あなたまで来たの?」
「呼ばれた」
「誰に」
「エステルに」
知ってた。
「お父様」
エステルが立ち上がる。
手の中の雪玉を持ったまま。
「何を作ればよいと思いますか?」
「城」
「朝から規模が大きい」
「では砦」
「ほとんど同じ」
レオニスは庭を見る。
「壁なら作れる」
「本気で参加するの?」
「呼ばれたからな」
この人はこういう時、妙に真面目だ。
エステルが嬉しそうに雪を集め始めた。
レオニスもしゃがむ。
公爵が雪の壁を作っている。
何だこれ。
「奥様」
軒下からセリーヌが呼ぶ。
「温かい飲み物をご用意いたします」
「お願い」
「旦那様とエステル様の分も」
「ありがとう」
◇
砦は、思ったより早くできた。
レオニスが本気だったからだ。
「……あなた、こういうの得意なのね」
「土塁と同じだ」
「九歳の雪遊びに軍事経験を持ち込まないで」
「崩れにくい方がいいだろう」
「そうだけど」
エステルは満足そうだ。
高さは腰くらい。
半円形の壁。
内側には三人がしゃがめる程度の空間まである。
「立派です」
「そうね」
「お母様も中へ」
「私は外でいい」
「では敵ですね」
「何で?」
エステルが雪を一つ丸めた。
私は見た。
エステルも見た。
「待ちなさい」
「まだ何もしていません」
「その手の物を置きなさい」
「雪です」
「雪玉でしょう」
「はい」
「投げる気でしょう」
「まだ決めていません」
この子。
「レオニス」
「俺に振るな」
「父親でしょう」
「母親でもあるだろう」
「そこで平等にしなくていいの」
エステルが笑った。
次の瞬間。
白いものが飛んだ。
「きゃっ」
私の肩に当たった。
痛くはない。
冷たい。
「エステル!」
「当たりました!」
「喜ぶところじゃない!」
私は足元の雪を掴んだ。
丸める。
エステルの顔が変わる。
「お母様」
「何?」
「大人げないです」
「先に投げたのは誰?」
「子どもです」
「便利ね、その立場!」
投げた。
エステルが砦の陰へ隠れる。
外れた。
「お父様!」
「俺を盾にするな」
「味方でしょう?」
「いつ決まった」
「砦を一緒に作りました」
「そうか」
「納得しないで!」
レオニスが雪玉を作り始めた。
「あなたまで!?」
「戦力差が大きい」
「どっちに?」
「二対一だ」
「私が一よ!」
「だからだ」
「なら私側に来て!」
レオニスが考える。
「エステル」
「はい」
「母上をこちらへ入れれば三人になる」
「敵がいなくなります」
「問題だな」
「真面目に相談しないで!」
その間に雪玉が飛んできた。
今度は外れた。
私はしゃがむ。
投げ返す。
当たらない。
何で。
九歳児、避けるのが上手い。
「奥様」
軒下でセリーヌが呼んだ。
「お茶が冷めます」
「今それどころじゃないの!」
「そうでございますか」
声が平坦。
「そんな所で見てないで、あなたも手伝いなさい!」
「仕事中でございます」
「兵力招集! 仕事よ!」
必死か、私。
「……左様でございますか」
セリーヌの声のトーンが少し上がった。
「では、お茶が冷める前に終わらせないといけませんね」
セリーヌは白い手袋をきゅっと引き上げ、こちらへ歩き出した。
◇
結局、勝敗はつかなかった。
セリーヌまで加わったことで戦力差は埋まった――はずだったのだが、途中でレオニスが私側に寝返り、今度はエステルが「二対二なら公平です」とセリーヌを自分側へ引き込んだ。
そこからはもう、誰がどちらの味方なのか分からない。
最後には全員で半分崩れた砦を補修していた。
何の時間だったのだろう。
でも、楽しかった。
悔しいけれど。
屋敷へ戻り、暖炉の前で手袋を乾かす。
エステルの頬は赤い。
「次はもっと大きくしましょう」
「次があるの?」
「雪が降れば」
「自然現象を予定に入れないで」
レオニスが温かい飲み物を口にする。
「次は入口を作った方がいい」
「あなたも次がある前提なのね」
「改善点は残った」
「仕事みたいに言わないで」
エステルがうなずく。
「壁も、もう少し高くできます」
「あなたまで」
似ている。
この父娘。
変なところで。
セリーヌが濡れた外套を受け取りながら言った。
「次回は、先に替えの手袋をご用意しておきます」
「セリーヌも!?」
「準備は必要でございますので」
味方がいない。
「それに」
セリーヌが淡々と続ける。
「いつ戦場から招集がかかるか、分かりませんから」
そう言ったセリーヌの視線が冷ややかに感じたのは、たぶん雪のせいだけではない。
でも暖炉は暖かい。
温かい飲み物もある。
悪くない朝だった。
そう思ったところで。
玄関の方から、少し慌ただしい足音が聞こえた。
使用人が一人、居間の入口で足を止める。
「旦那様」
レオニスが顔を上げた。
「どうした」
「王宮より使者が参っております」
空気が少し変わった。
レオニスは杯を置く。
さっきまで雪の砦を本気で作っていた人の顔が、公爵へ戻る。
「通せ」
「はい」
私は無意識に背筋を伸ばした。
王宮からの使者。
急ぎだろうか。
エステルも静かになる。
ほどなくして、封蝋のされた書状が運ばれてきた。
レオニスが受け取る。
封を確認し、開く。
読む。
眉が、ほんの少し動いた。
「何?」
「冬の行幸だ」
「行幸?」
「王家が西の離宮へ移る。例年より短いが、今年も行うらしい」
私は聞き覚えのない予定に首をかしげた。
「それで?」
「我が家にも同行の打診が来ている」
「全員?」
「俺と、お前と、エステル」
エステルの目が明るくなる。
「離宮へ行くのですか?」
「まだ返事はしていない」
「雪はありますか?」
「今より多いだろう」
「行きたいです」
早い。
「エステル」
「はい」
「行幸は遊びではないわよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……少しは遊びます」
「正直」
レオニスが書状をもう一度見る。
「アレクシス殿下も同行なさる」
「それはそうでしょうね」
王家の行幸なのだから。
私は何気なく言った。
何気なく。
そのはずだった。
西の離宮。
冬。
アレクシス。
雪。
四つの言葉が頭の中に並ぶ。
そして。
何かが引っかかった。
「……待って」
声が出た。
レオニスがこちらを見る。
エステルも。
「お母様?」
「今、何か」
何か。
思い出しかけた。
白い庭ではない。
もっと広い。
森。
雪。
馬の息。
鈴の音。
画面の向こうで誰かが叫んでいる。
――殿下!
視界が揺れる。
馬が跳ねる。
金色。
雪の上に、何かが落ちる。
「ミレーヌ」
レオニスの声で戻った。
暖炉。
居間。
エステル。
濡れた手袋。
私は立ったまま、自分の指先を見ていた。
冷えている。
さっきまで雪を触っていたから。
それだけ。
「……西の離宮で、何をするの?」
レオニスが一度、書状へ目を落とした。
「滞在は四日。晩餐、近隣の視察、それから――」
少し間があった。
「三日目に、王家主催の冬の騎乗会」
心臓が鳴った。
今度ははっきり。
騎乗会。
その言葉を知っている。
いや。
知らない。
正確なイベント名までは思い出せない。
でも。
雪の中。
馬。
アレクシス。
誰かの悲鳴。
そして、その場にエステルがいた。
「お母様?」
娘の声。
私は顔を上げた。
九歳のエステルがいる。
頬が赤い。
髪の端がまだ少し湿っている。
さっきまで私へ雪玉を投げていた娘。
ゲームの画面の中で誰かを追い詰めていた令嬢ではない。
でも。
だからといって。
起きるはずだった出来事まで消えたとは限らない。
「行幸、行きたい?」
私は聞いた。
エステルは少し驚いた顔をしてから、うなずく。
「はい」
「騎乗会も?」
「出てもよいのでしたら」
迷いがない。
この子は馬が好きだ。
私は知っている。
知っているからこそ、胸の奥が重くなる。
レオニスが私を見る。
「思い出したのか」
エステルの前。
言葉を選ぶ。
「少しだけ」
レオニスはそれ以上聞かなかった。
「危険か」
「分からない」
正直に言う。
「でも、馬が関係してる気がする」
エステルが私と父親を交互に見た。
「何のお話ですか?」
当然だ。
私は一瞬迷った。
そして、しゃがんだ。
娘と目線を合わせる。
「昔、聞いたことのある話を思い出しかけているの。まだ、ちゃんとは分からないわ」
「その話に、騎乗会が出てくるのですか?」
「たぶん」
「危ないのですか?」
「それも分からない」
エステルは黙った。
怖がるだろうか。
行きたくないと言うだろうか。
そう思った。
でも、しばらくして。
「では、分かるまでは気をつければよいのですね」
そう言った。
私は瞬きをした。
「……行くの?」
「はい」
「怖くない?」
「少しは」
正直。
「でも、何が起きるか分からないなら、行かなくても分からないままです」
九歳。
強い。
いや。
強いというより。
この子は、そういうふうに考えるようになった。
怖いから避けるだけではなく。
分からないなら、気をつける。
必要なら確かめる。
たぶん。
それも私が教えた。
「お母様」
「何?」
「顔が変です」
「今いいところだったのに」
「すみません」
「謝るなら言わないで」
エステルが小さく笑った。
レオニスが書状を畳む。
「返事は明日にする」
「今日じゃなくていいの?」
「急ぎではない」
そして私を見る。
「お前が思い出すなら、それを待つ」
「明日までに思い出せる保証はないわよ」
「なら、その時点で決める」
簡単に言う。
でも、その簡単さに助けられる。
私は暖炉へ目を向けた。
火が揺れている。
窓の外では、さっき作った雪の砦が見える。
半分崩れたまま。
朝には、ただの雪だった。
遊んで、笑って、冷えて。それだけの日になるはずだった。
けれど今、目を閉じると一瞬だけ別の雪が見える。
白い地面。
跳ね上がる馬の前脚。
誰かの叫び声。
そこで切れる。
「三日目……」
小さく口にすると、エステルが首をかしげた。
「何ですか?」
「覚えておく日」
私は答えた。
思い出せるかどうかは分からない。
それでも、忘れるわけにはいかなかった。
窓の外で、雪の砦の端が音もなく崩れた。




