同じ針を持つ
王宮の冬支度の集まり当日。
私は馬車の中で、自分の指先を見ていた。
「お母様」
「何?」
「今日は縫わなくてよいのですよ」
「分かってるわ」
「では、どうして指を見ているのですか?」
「昨日刺したところがまだ痛いの」
「三回でしたね」
「数えなくていいの」
向かいに座るエステルが、少しだけ笑った。
薄い冬色の外套の下には、落ち着いた深紫のドレス。髪には淡い青緑の小さな飾りが一つだけ留められている。
九歳の公爵令嬢として、きちんとしている。
きちんとしているのに。
「ヴィオラ様は、刺繍がお上手でしょうか」
頭の中はそこだった。
「まだ気にしてるの?」
「気にしていません。確認したいだけです」
「それを気にしてるって言うのよ」
「では、お母様はメレットという方を気にしていないのですか?」
刺さった。
針より深く。
「……誰に似たのかしら」
「お母様です」
「最近それ便利に使ってない?」
隣のセリーヌが窓の外を見たまま言った。
「到着いたします」
逃がしてくれた。
たぶん。
王宮の門が近づく。
今日の集まりは、先日の小宴とは少し違う。
遊ぶためだけの場ではない。救護院や孤児院へ送る冬物を集め、子どもたちにもその一部を手伝わせる。
だから私は、朝から自分に言い聞かせていた。
メレットは織物商。
リリア・メレットではない。
今日はただの慈善の集まり。
何も起きない。
よし。
「お母様」
「何?」
「今、何も起きない、と考えましたか?」
「……顔に出てた?」
「少し」
九歳児に読まれている。
公爵夫人としてどうなのだろう。
◇
広間へ入った瞬間、最初に目に入ったのは布だった。
壁際の長机に、毛布、厚手の布、毛糸、乾燥させた香草の袋が整然と並べられている。
冬の匂いがした。
まだ雪は遠い。それでも、羊毛と乾いた草の匂いは、これから来る寒さを先に部屋へ運んできたようだった。
「ミレーヌ」
声に振り向く。
王妃がいた。
今日は先日の小宴より装いが簡素だ。とはいえ王妃の簡素は、私の簡素とは違う。
「お招きありがとうございます」
「そんなに構えなくていいわ。今日は針仕事をする日ですもの」
「私はしません」
「即答ね」
「付き添いですので」
「残念」
何が残念なの。
王妃の視線が私の指先へ落ちた。
「練習はしたのね」
「どうして分かるんですか」
「その指」
見ないで。
「お母様」
エステルが小声で言う。
「王妃様にも分かりました」
「あなたは黙ってなさい」
王妃が笑った。
その向こうから、もう一人歩いてくる。
「ごきげんよう、エステル様」
「ヴィオラ様」
赤みのある栗色の髪を短めにまとめ、薄い灰色のドレスを着た少女。
ヴィオラ・レインフォード。
先日の小宴以来、二度目だ。
エステルの背筋がわずかに伸びる。
ヴィオラも気づいたらしい。
二人の視線が合った。
「今日は勝負ではないそうですね」
ヴィオラが言った。
「はい。お母様に言われました」
「私も母に言われました」
「同じですね」
「ええ」
何、その確認。
「ただ」
ヴィオラが続ける。
「終わったあとに見せ合うことまでは、禁止されていません」
エステルの目が輝いた。
「私もそう思っていました」
やっぱり勝負じゃない。
比べるだけ。
昨日聞いた。
「仲がよろしいのね」
王妃が隣で言った。
「……たぶん」
「何、その返事」
「本人たちがまだ決めていないので」
王妃は少し意外そうに二人を見る。
その間にも、エステルとヴィオラはどちらの席で縫うか相談を始めていた。
友達なのか。
ライバルなのか。
たぶん今は、どちらでもいい。
本人たちが面白そうなのだから。
◇
子どもたちの席は、大人の席から少し離れた窓際に作られていた。
アレクシスもいる。
王子が針を持っている。
ちょっと面白い。
「何ですか、ミレーヌ様」
「何でもありません、殿下」
「今、笑いましたよね」
「笑ってません」
「笑っていました」
エステルまで乗ってくる。
「アレク、糸が逆です」
「え?」
「そちらから通すのではありません」
「同じではないのか?」
「違います」
何が違うのか私にも分からない。
黙っておこう。
ヴィオラがアレクシスの手元を覗き込む。
「殿下、結び目が大きすぎます」
「これくらい必要だろう」
「袋の中に入ってしまいます」
「なら問題ない」
「ございます」
王子が二人の少女に裁縫を指導されている。
平和だ。
非常に平和だ。
私は少し離れた場所で、大人たちと冬の支援品について話しながら、その様子を眺めていた。
去年より毛布を増やす地域。
今年は乾燥が早かったため、薬草の保管状態が良いこと。
救護院から子ども用の厚手の靴下を増やしてほしいと要望があったこと。
話は具体的だった。
だから好きだ。
誰かが寒い。
なら、何を何枚用意するか。
そこまで落とせば、人は動ける。
「グランヴェル公爵夫人」
呼ばれて振り向いた。
四十代くらいの男性が頭を下げている。
上等ではあるが、貴族の装いではない。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。あなたがメレット商会の?」
「はい。ローレン・メレットと申します」
知っている。
昨日、四回確認した。
いや、確認させた。
私は普通に微笑んだ。
「昨年は北部向けの毛布でもお世話になったそうですね」
「公爵閣下には大口でお求めいただきました。商人としてはありがたい限りでございます」
「品質が良かったと聞いています」
「恐縮です」
普通の会話だ。
普通の商人。
普通の――。
「父上」
横から声がした。
少女だった。
十歳前後だろうか。濃い茶色の髪を後ろで一つにまとめ、両腕に布の束を抱えている。
商人の娘らしい、動きやすい服装。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ。そちらへ」
「はい」
少女は私に気づき、慌てて布を抱え直した。
「失礼いたしました」
「いいのよ」
メレット氏が苦笑する。
「娘です。今日は手伝わせております」
心臓が一つ跳ねた。
でも。
違う。
私は知っている。
名前を聞く前に、自分へ言った。
違う。
「ノーラ。公爵夫人にご挨拶を」
「ノーラ・メレットと申します」
少女が丁寧に頭を下げた。
ノーラ。
リリアではない。
今度は驚かなかった。
「ミレーヌ・グランヴェルです。今日はお手伝い?」
「はい。布の種類なら少し分かりますので」
「少し?」
父親が横から笑った。
「店の者より詳しい時があります」
「父上」
「本当だろう」
ノーラが少し頬を膨らませる。
その顔は、ゲームの主人公だった少女とは似ても似つかなかった。
当たり前だ。
同じ家名だから同じ人間ではない。
昨日、散々分かったことを、今日もう一度目の前で教えられた。
「お母様?」
エステルの声が飛んできた。
見ると、針を持ったままこちらを見ている。
「どうしたの?」
「糸がなくなりました」
「係の方に――」
「この糸ならございます」
ノーラがすぐに布束を置き、その下の箱から糸巻きを一つ取り出した。
「同じ色でよろしいですか?」
「はい」
エステルが受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけだった。
公爵令嬢と、商人の娘。
名前を名乗り合いもしない。
糸を一つ渡しただけ。
でも私は、その光景を妙に長く見てしまった。
エステルが平民の少女から糸を受け取る。
たったそれだけのことに、私の記憶は勝手に別の少女を重ねようとする。
やめなさい。
この子はノーラ。
リリアではない。
そしてエステルは、ゲームの画面の中にいたエステルではない。
「奥様」
隣からセリーヌの声がした。
「何?」
「また同じ顔をなさっています」
「どんな顔?」
「石を蹴ったら窓に飛んでいった時のような」
「それ、エステルから聞いたでしょう」
「はい」
共有されてる。
嫌な共有だ。
◇
昼を過ぎる頃、子どもたちの布袋がいくつも並んだ。
上手いもの。
ちょっと歪んだもの。
何を縫ったのか本人に聞かないと分からないもの。
全部、同じ箱に入れられる。
「お母様」
「何?」
「見てください」
エステルが自分の袋を差し出した。
三枚の葉。
昨日より整っている。
「上手になったわね」
「はい」
その横からヴィオラの袋が出てくる。
小さな枝に、丸い実が二つ。
きれいだ。
エステルがじっと見る。
ヴィオラもエステルの葉を見る。
沈黙。
「……ヴィオラ様」
「はい」
「お上手ですね」
「エステル様も」
「でも、実の丸いところがきれいです」
「葉の先は、エステル様の方が揃っています」
また沈黙。
「では」
エステルが言う。
「引き分けでしょうか」
ヴィオラは少し考えた。
「今日は、そういうことにしておきます」
「次は負けません」
「私もです」
やってる。
完全にやってる。
「勝負ではなかったのでは?」
私が言うと、二人が同時にこちらを見た。
「比べただけです」
「比べただけです」
声まで揃った。
アレクシスが隣で笑う。
「二人とも同じことを言っている」
「アレクはどうだったのですか?」
エステルが聞く。
王子の笑顔が止まった。
「……できた」
「見せてください」
「必要ない」
「見せてください」
「エステル」
「アレク」
負けた。
アレクシスが渋々、自分の袋を出す。
刺繍されていたのは、たぶん星だ。
たぶん。
「……花ですか?」
ヴィオラが聞いた。
「星だ」
「失礼しました」
どこかで聞いた会話だった。
私は口元を押さえた。
「ミレーヌ様」
「笑ってません」
「まだ何も言っていません」
まずい。
王妃まで肩を震わせている。
アレクシスが少し赤くなった。
「次はもっと星らしくする」
「では、私も次は葉を増やします」
「私も実を増やします」
「何で全員、次がある前提なの」
私が言うと、三人とも不思議そうな顔をした。
あるらしい。
次が。
◇
帰り際、廊下でノーラともう一度会った。
今度は空になった箱を抱えている。
「今日はありがとう」
私が言うと、彼女は目を丸くした。
「わ、私ですか?」
「エステルに糸を渡してくれたでしょう」
「あれくらいでしたら」
「それでもよ」
ノーラは少し照れたように笑った。
「公爵令嬢様、とてもきれいに縫っていらっしゃいました」
「本人に言ったら喜ぶわ」
「私からですか?」
「嫌なら無理にとは言わないけど」
少し迷ってから、ノーラは首を横に振った。
「いえ。次にお会いしたら」
次。
今日だけの手伝いかもしれない。
もう会わないかもしれない。
それでも、人はそう言う。
また会えたら。
その時に。
私はそれが、少し好きだった。
「奥様」
少し離れたところから、セリーヌが呼ぶ。
「馬車の用意ができております」
「今行くわ」
ノーラへ会釈して、歩き出す。
呼びかけたセリーヌのその先を、子どもたちが歩いている。
エステルの隣にはヴィオラ。
少し先にはアレクシス。
その向こうには、名前も知らない子どもたちが何人もいた。
ゲームで見た名前。
ゲームでは知らなかった名前。
似ている家名。
まったく知らない顔。
世界には、その全部が同じように存在している。
私はたぶん、これからも間違える。
知っているものを見つければ構えるし、似たものを見れば疑う。
娘の破滅を知っているのだから、完全にやめることはできない。
でも。
間違えたら、確かめればいい。
違ったなら、戻ればいい。
少し早足になる。
エステルが先を歩いている。
その手には、三枚の葉を縫った小さな袋があった。
救護院へ送るものだから、持って帰ることはできない。
それを少し名残惜しそうに見てから、エステルは係の者へ渡した。
自分で作ったものを、自分の知らない誰かへ渡す。
九歳の娘は、それができるようになっていた。
私は何も言わなかった。
褒めるのは、馬車に乗ってからでいい。
今はただ。
追いついた私にエステルが手を伸ばしたので、その手を取った。




