呼ばれていない名前
招待状というものは、届くだけなら紙である。
開けば予定になる。
読めば人間関係になる。
そして、ときどき。
名前が一つ並んでいるだけで、心臓に悪い。
「お母様?」
「……何でもないわ」
嘘である。
何でもある。
私は朝の居間で、一枚の招待状を持ったまま固まっていた。
王妃主催の冬支度の集まり。
名前だけ聞けば穏やかだ。
王都の救護院や孤児院へ送る冬物を、いくつかの家が持ち寄る。そのついでに子どもたちにも布や毛糸に触れさせ、簡単な飾りを作らせる。
慈善と社交と教育を一つの部屋に詰め込んだ、いかにも王宮らしい催しだった。
エステルも招かれている。
そこまではいい。
問題は、その下に添えられた参加予定者の家名だった。
――メレット。
私はもう一度見る。
メレット。
見間違いではない。
「お母様、先ほどから同じところを見ていませんか?」
「見てないわ」
「見ています」
「……見てるわね」
九歳児に負けた。
エステルが私の隣へ寄ってくる。
「知っている方ですか?」
「待って」
反射的に招待状を胸元へ引いた。
エステルが止まる。
しまった。
「ごめんなさい。隠したいわけじゃないの」
「では、見てもよいのですか?」
「もちろん」
差し出す。
エステルは素直に受け取り、私が見ていた辺りへ目を落とした。
「メレット……?」
その名前を娘の口から聞いた瞬間、背中に細いものが走った。
リリア・メレット。
ゲームの主人公だった少女。
平民出身で、努力家で、学院の特別推薦枠を勝ち取る。
そして、学院でエステルと出会う。
出会うはずなのだ。
学院で。
少なくとも、私の記憶では。
「お母様?」
「……家名に、少し覚えがあっただけよ」
これは嘘ではない。
全部でもない。
最近、こういう答えが増えた。
私は自分の中にあるものを、まだ誰にも全部は渡していない。
渡せない、と言った方が正しいのかもしれない。
だって説明できない。
あなたはゲームの悪役令嬢でした。
その子は主人公でした。
私は別の人生でそれを見ていました。
言えるわけがない。
言ったところで、何から説明すればいいのよ。
「メレット家って、貴族なのですか?」
エステルの問いで、私は現実へ戻った。
「それを今から確かめるわ」
「知らないのですか?」
「世の中の家名を全部知ってると思ってた?」
「少し」
「お母様を何だと思ってるの」
「お母様です」
「強い答えね」
◇
結論から言えば。
違った。
「違う?」
「はい」
セリーヌが淡々と答える。
私は執務机に両手をついた。
「本当に?」
「三度目でございます」
「もう一回だけ」
「四度目になります」
「じゃあ三度で我慢する」
「すでに三度お答えしております」
逃げ道がない。
王妃からの招待状に記されていたメレットは、リリア・メレットではなかった。
正確には、メレットという名の商家だった。
王都で織物を扱う店を営んでおり、今回の催しへ布地を納める協力者として名が添えられていたらしい。
しかも主人は五十代の男性。
娘は二人いるが、どちらも成人済み。
リリアはいない。
「……同じ姓ってあるのね」
「ございます」
「そりゃあるわよね」
「ございます」
「分かってるわよ」
セリーヌの目が少しだけ冷たい。
「奥様は時折、世界に同じ姓が二つ存在してはならないようなお顔をなさいます」
「そんな顔ある?」
「今なさっておられました」
私は椅子に座った。
力が抜けた。
何だったの、さっきの緊張。
メレット。
それだけで頭の中に鐘が鳴った。
主人公。
学院。
エステル。
断罪。
勝手に全部が一本の線になった。
そして、違った。
「……恥ずかしい」
「何がでございますか」
「何でもない」
こればかりは説明できない。
セリーヌは追及しなかった。
ありがたい。
ただ、机の上の書類を一枚整えてから言った。
「ですが、奥様」
「何?」
「確認なさったこと自体は、よろしいのでは」
「慰めてる?」
「いいえ」
「即答」
「思い込みのまま動かれるよりは、ずっと」
慰めではなかった。
評価だった。
しかも低いところから始まっている。
「私、そんなに信用ない?」
「ございます」
「今ちょっと間があったわよ」
「気のせいでございます」
絶対あった。
◇
昼前、エステルがやってきた。
「分かりましたか?」
「分かったわ」
「どなたでした?」
「織物商の方」
「……それだけですか?」
「それだけ」
エステルが瞬きをする。
「お母様のお知り合いではなかったのですね」
「ええ」
「では、どうしてあんな顔をしていたのですか?」
「どんな顔?」
「石を蹴ったら窓に飛んでいった時のような顔です」
「そんな顔してた?」
「はい」
具体的すぎる。
「ちょっと、知っている名前に似ていたの」
「似ていた?」
「そう」
エステルはそれ以上聞かなかった。
代わりに招待状を指差す。
「この集まり、ヴィオラ様もいらっしゃるのですね」
「え?」
見る。
本当だ。
レインフォード伯爵家。
メレットの文字に全部持っていかれて、見落としていた。
「……いるわね」
「お母様」
「何?」
「ヴィオラ様の方が、今は知っている方です」
ぐうの音も出ない。
「そうね」
「次の勝負を考えなくては」
「そこ?」
「大事です」
エステルは真剣だった。
「冬物を作る集まりなら、走る勝負はできません」
「しなくていいのよ」
「投げ袋も難しいです」
「しなくていいの」
「刺繍なら――」
「慈善活動を勝負にしないで」
エステルが不満そうに口を閉じた。
「競うことが悪いとは言わないけど、送る相手がいるものなんだから、まずちゃんと作りなさい」
「はい」
「それから遊びなさい」
「はい」
納得した。
するんだ。
「お母様も参加なさるのですよね」
「私は付き添いね。大人は別室で話す時間もあるみたいだけど」
「何を話すのですか?」
「たぶん、冬の支援とか寄付とか」
「難しい話ですか?」
「難しくする人がいれば難しくなるわ」
「お母様は?」
「簡単にしたい人」
「お父様は?」
「難しい話を簡単に終わらせたい人」
エステルが笑った。
「では、同じですね」
「たぶんね」
少し違う気もするけれど。
◇
午後、私はレオニスの執務室に招待状を持ち込んだ。
「メレット?」
一度読んで、彼は言った。
「織物商だな」
「知ってるの?」
「名は」
「何で?」
「昨年、北部へ毛布を送った時に納入した店の一つだ」
「……先にあなたに聞けばよかった」
「何を調べた」
「いろいろ」
「セリーヌに?」
「いろいろ」
「迷惑をかけるな」
「かけてないわよ」
たぶん。
四回聞いただけ。
「それで」
レオニスが招待状を机へ置く。
「なぜメレットを気にした」
来た。
この人は、こういうところを流さない。
でも、無理にこじ開けもしない。
私は少し考えた。
「前に話したでしょう。昔見た物語の場面みたいなものが、時々頭に浮かぶって」
「ああ」
「そこに、その名前があった気がしたの」
「同じ人物ではなかった」
「ええ」
「なら、今回はそれで終わりだ」
簡単。
「あなた、気にならないの?」
「気にはなる」
「なら」
「お前がまだ分からないものを、俺が聞いて分かるのか?」
私は黙った。
「……分からないと思う」
「なら、分かった時に話せ」
「うん」
やっぱり、この人は待つ。
ありがたい。
ありがたいけれど。
「そのうち、待たせすぎって怒らない?」
「内容による」
「怖い答え」
「今のところは怒っていない」
「今のところ?」
「ミレーヌ」
「はい」
「四回も同じことをセリーヌに聞くな」
「何で知ってるの!?」
扉の外に気配があった。
セリーヌ。
売ったわね。
◇
数日後。
冬支度の集まりへ持っていく品を確認するため、私はエステルと一緒に屋敷の裁縫室へ入った。
普段、私はここへ頻繁には来ない。
布がある。
糸がある。
針がある。
そして、職人たちの目がある。
怖い。
「お母様、縫えますか?」
「何を?」
「何かを」
「範囲が広い」
エステルは練習用の布を受け取っていた。
冬の集まりでは、子どもたちが小さな布袋に飾り縫いをするらしい。
完成したものには乾燥させた香草を入れ、救護院の寝具箱などへ添える。
九歳でもできる。
そう聞いた。
九歳でも。
「お母様も」
「私は付き添いよ」
「今は練習です」
「私は練習の付き添い」
「一緒にやりましょう」
逃げられなかった。
針を持つ。
布に刺す。
引く。
糸が絡む。
「……どうして?」
「奥様」
裁縫係の女性が困った顔をしている。
「針を一度、お止めください」
「止めてるわ」
「糸を引くお手も」
「はい」
完全に子ども扱いだった。
隣を見る。
エステルは黙々と縫っている。
上手い。
「何で?」
「習っていますので」
「私も昔習ったはずなんだけど」
「お母様は、今も習えばよいのでは?」
正しい。
正しすぎる。
「エステル」
「はい」
「世の中には、できなくても生きていけることがあるの」
「でも、できた方が楽しいこともあります」
返された。
しかも聞き覚えがある。
たぶん私が、昔この子に言った。
「……誰に育てられたのかしら」
「お母様です」
「知ってる」
針を刺す。
今度は絡まない。
少しだけ嬉しい。
悔しい。
◇
練習が終わる頃には、私の布には何とも言えない花が一輪できていた。
花のつもりだ。
エステルが見る。
「……太陽ですか?」
「花よ」
「失礼しました」
「今、すごく失礼だったわよ」
「でも、きれいです」
「急に持ち上げないで」
「本当です」
エステルは自分の布を見せた。
小さな葉が三枚。
少し歪んでいるけれど、ちゃんと葉に見える。
「上手ね」
「まだです」
「十分じゃない?」
「ヴィオラ様がどれくらいできるか分かりません」
「まだ勝負する気なの?」
「しません」
一拍。
「比べるだけです」
「それを勝負って言うのよ」
エステルが笑った。
私も笑う。
机の端には、王妃からの招待状が置いてある。
そこにメレットの文字もある。
朝に見た時とは、もう違って見えた。
ただの名前。
少なくとも、今回は。
私は一度、そこに知っている物語を重ねた。
でも違った。
世界の方が、私の記憶に合わせてくれるわけではない。
当たり前のことだ。
分かっていたはずなのに、名前一つで忘れかけた。
「お母様」
「何?」
「次は、もう少し花らしくなると思います」
「まだ言う?」
「一緒に練習しましょう」
差し出された新しい布を見る。
「……もう一枚?」
「はい」
「今日?」
「はい」
九歳。
容赦がない。
私は新しい布を受け取った。
針を持つ。
今度こそ花を縫う。
メレットという名前のことは、その間だけ頭から消えた。




