二人で出かける
その朝、私は娘から屋敷を追い出された。
「行ってらっしゃいませ、お母様」
玄関広間で、エステルがにこやかに言う。
「……どこへ?」
「お父様とです」
「だから、どこへ?」
「どこでもよいです」
雑。
九歳の娘に、両親まとめて外出を命じられている。
隣を見る。
レオニスは外出着だった。
黒を基調にした上着。金の装飾は控えめ。剣まで帯びている。
「あなた、知ってたの?」
「今朝聞いた」
「そのわりに準備万端ね」
「外へ出るなら着替えるだろう」
「行き先も決まってないのに?」
「決めればいい」
強い。
「セリーヌ」
「はい」
助けを求めて振り返る。
セリーヌも外套を持って待っていた。
私の。
「何でそっち側なの」
「エステル様から、奥様が理由をつけて執務室へ逃げ込まないよう見張るよう申しつかっております」
「私の味方は?」
「旦那様がおられます」
レオニスを見る。
「行くぞ」
「味方じゃない」
◇
事の発端は、昨夜だったらしい。
夕食のあと、エステルがレオニスに聞いた。
『お父様は、お母様と二人でお出かけになることはありますか?』
レオニスは考えた。
考えてしまった。
そこを娘に見逃されなかった。
『最近はないのですね』
『仕事が――』
『お母様も同じことをおっしゃいます』
そこで逃げ道がなくなったらしい。
「どうして私だけ知らなかったの」
「お前に先に言えば断ると思ったそうだ」
「よく分かってるわね、あの子」
「感心するところか?」
馬車の中で、私は腕を組んだ。
別にレオニスと出かけるのが嫌なわけではない。
嫌なわけがない。
ただ。
「二人で出かけるって、何をするの?」
「俺に聞くな」
「夫でしょう」
「お前も妻だ」
正論で殴られた。
「買い物でもするか」
「何を?」
「だから俺に聞くな」
駄目だ。
夫婦そろって、九歳の娘に外へ放り出されたあとの行動が分からない。
恋人同士なら、もう少しこう。
待ち合わせをして。
街を歩いて。
何か食べて。
いや、待って。
私たち、結婚して十年以上になる。
今さら初々しい恋人ごっこを始めたら、それはそれで怖い。
「何を難しい顔をしている」
「夫婦の外出について考えてるの」
「そんなに難しいものか」
「あなた、さっきから何も案を出してないでしょう」
「市場へ行く」
「急に出た」
「城下の西市場に、新しい菓子店ができたと聞いた」
私はレオニスを見た。
「誰から?」
「エステルから」
「それ、最初から行き先を指定されてない?」
レオニスが黙った。
やられた。
◇
西市場は、思っていたより賑やかだった。
貴族向けの商店が並ぶ大通りから一本外れると、空気が変わる。
焼いた肉の匂い。果物を積んだ籠。布を広げた露店。値段を呼ぶ声。荷車を避けて走る子どもたち。
護衛は少し離れてついてきている。
レオニスは目立つ。
本人は目立たない格好をしているつもりらしい。
無理よ。
背が高い。
姿勢がいい。
歩き方に迷いがない。
しかも顔が整ってるのに、圧が強い。
「もう少し普通に歩けない?」
「普通に歩いている」
「領地を視察する公爵みたい」
「公爵だからな」
「今日は夫なの」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
レオニスがこちらを見る。
「……何よ」
「いや」
「何」
「分かった」
何が。
そのあと、ほんの少しだけ歩調が緩んだ。
私に合わせたのだと気づいて、もっと恥ずかしくなった。
こういうところ。
この人は、こういうところなのよ。
「菓子店、どこ?」
「逃げるな」
「逃げてない」
声が少し上ずった。
◇
新しい菓子店は、すぐに見つかった。
理由は簡単。
並んでいた。
「……帰る?」
「来たばかりだぞ」
「公爵夫妻が行列に並ぶの?」
「並べばいい」
「いいの?」
「先に入れと言う方が嫌だろう」
「嫌」
「なら並ぶ」
そういうところは話が早い。
最後尾につく。
前には親子連れがいた。
さらに前には若い男女。
後ろにはいつの間にか年配の女性が二人並んだ。
何だろう。
妙に落ち着かない。
「見られてる気がする」
「気のせいではない」
「やっぱり?」
「護衛が離れて立っているからな」
「そこ?」
「あと、お前の髪は目立つ」
「あなたの顔も目立つわよ」
「顔は変えられん」
「髪も変えられないわよ」
後ろから、小さく笑う声がした。
振り返ると、年配の女性二人が慌てて顔をそらした。
聞かれていた。
恥ずかしい。
「あなたが変なこと言うから」
「俺か?」
「あなたよ」
すると、前にいた女の子がこちらを振り返った。
母親らしい女性と手をつないでいる。
七歳くらいだろうか。
女の子は私とレオニスを交互に見た。
「けんかしてるの?」
「してないわ」
即答した。
レオニスも同時に言った。
「していない」
女の子が首を傾げる。
「でも、おこってる」
「怒ってないわ」
「怒っていない」
また重なった。
母親が真っ青になって、娘の肩を引いた。
「も、申し訳ございません!」
「大丈夫です。お気になさらず」
私は笑った。
女の子はまだ納得していない顔をしていた。
レオニスが小声で言う。
「喧嘩に見えるらしい」
「あなたが怖い顔してるからでしょう」
「お前もだ」
「ほら、そういうところ」
後ろでまた笑われた。
もういい。
◇
店の名物は、小さな焼き菓子だった。
薄い生地を何層にも重ね、その間に木の実と蜜を挟んで焼くらしい。
四角く切られた表面がつやつやしている。
「これ、エステルが好きそう」
「そうだな」
「三つ買う?」
「なぜ三つだ」
「私とあなたとエステル」
「セリーヌは」
「あ」
「使用人たちは」
「あ」
結局、大箱になった。
「二人で出かけた意味ある?」
「買う量が増えた」
「そういう意味じゃない」
店を出る。
まだ昼には少し早い。
「次は?」
「お前はどこか行きたいところはないのか」
「急に聞かれても……」
私は通りを見渡した。
布屋。
靴屋。
食器。
香料。
小さな書店。
「あ」
「何だ」
「本屋」
「行くか」
「いいの?」
「なぜ駄目なんだ」
そうだった。
今日は別に、何か役に立つものを買わなくてもいい。
必要な資料を探すわけでもない。
エステルの教育書でもない。
領地経営でも、商会でも、道路でもない。
ただ本を見る。
そのことに気づいた瞬間、少しだけ足が軽くなった。
◇
書店は狭かった。
天井近くまで棚があり、奥へ行くほど通路が細い。
私はこういう店が好きだ。
前世でも好きだった。
大きな店も便利だけれど、小さな店には「何でこれがここに?」という本がある。
この世界でも同じだった。
「ミレーヌ」
「何?」
「消えたかと思った」
「いるわよ」
「さっきまで横にいた」
「本屋で横を見て歩く人はいないの」
「いる」
「細かいわね」
私は棚から一冊抜いた。
古い旅行記だった。
知らない土地の祭りや料理、宿で起きた失敗談まで書いてある。
役に立つかと言われたら、たぶん立たない。
だから欲しい。
「それを買うのか」
「駄目?」
「駄目とは言っていない」
「あなたは?」
「俺は――」
見ると、レオニスの手にも一冊あった。
軍制史。
「仕事じゃない」
「趣味だ」
「仕事みたいな趣味ね」
「お前に言われたくない」
「私の旅行記のどこが仕事なの」
「読んだあと、行きたいと言い出す」
「言わないわよ」
「本当か」
「……面白そうなら言うかも」
「ほらな」
悔しい。
店主に会計を頼む。
その時、棚の端に小さな冊子が見えた。
子ども向けの遊戯集。
石や紐、木片を使った遊びが絵入りで載っている。
「これも」
手を伸ばす。
同時に、レオニスの手も伸びた。
止まる。
「……エステルに?」
「ああ」
「私も」
顔を見合わせた。
「二人で出かけても、結局あの子のものを買うのね」
「仕方ないだろう」
「仕方ないわね」
笑ってしまった。
◇
昼食は、店ではなく広場の端で食べた。
焼いた薄いパンに肉と野菜を挟んだもの。
レオニスがそれを持っているだけで、妙に面白い。
「何だ」
「似合わない」
「食べ物に似合うも似合わないもあるか」
「あるわよ」
「お前は似合っているのか」
「私は何でも似合うの」
「便利だな」
かじる。
香辛料が思ったより強い。
「辛っ」
「大丈夫か」
「大丈夫。おいしい」
レオニスも食べる。
平然としている。
「辛くない?」
「これくらいなら」
「強いのね」
「お前が弱い」
「今、夫婦の亀裂が入った」
「香辛料でか」
くだらない。
本当にくだらない。
でも、久しぶりだった。
エステルの話をしない時間。
仕事の話をしない時間。
何かを心配しない時間。
私は広場を歩く人たちを眺めた。
「ねえ」
「何だ」
「昔も、こういうことした?」
「した」
「そうだっけ」
「結婚したばかりの頃にな」
レオニスが即答する。
「お前が市場を見たいと言った」
「私が?」
「ああ」
「何を買った?」
「何も」
「何も?」
「お前は見るだけ見て満足した」
それは。
すごく私っぽい。
「あなた、よく覚えてるわね」
「忘れる理由がない」
まただ。
この人は時々、何でもない顔でこういうことを言う。
「……それ、ずるいわ」
「何がだ」
「分からないならいい」
「分からん」
「でしょうね」
パンをもう一口かじる。
辛い。
顔が熱いのは、そのせいだ。
絶対そう。
◇
屋敷へ戻ると、エステルが玄関まで走ってきた。
「お帰りなさいませ!」
「ただいま」
「どうでしたか?」
目が輝いている。
何を期待しているの、この子は。
「普通に市場へ行って、本屋へ行って、お昼を食べたわ」
「楽しかったですか?」
「まあ」
「楽しかった」
横からレオニスが言った。
私は振り返った。
「あなた、そういうところだけ答えが早いわね」
「事実だ」
エステルが嬉しそうに笑う。
「では、成功ですね」
「何の?」
「お出かけです」
「成功とかあるの?」
「あります」
あるらしい。
「セリーヌ」
「はい」
「この子、今日ずっとこんな感じだった?」
「朝からでございます」
「止めてよ」
「なぜでございますか」
味方がいない。
「それより、エステル」
レオニスが包みを差し出した。
「土産だ」
「ありがとうございます!」
まず焼き菓子の箱。
エステルの顔が明るくなる。
「皆で食べましょう」
「ええ」
「それから、これだ」
遊戯集。
エステルが受け取る。
表紙を見る。
開く。
一頁。
二頁。
三頁。
目が変わった。
あ。
これはまずい。
「お父様」
「何だ」
「次のお休みは、いつですか?」
レオニスが固まった。
「待って、エステル」
「お母様もです」
「私も?」
「はい。この遊び、四人いる方が面白そうです」
開いた頁には、紐で区切った四つの陣地と、木片を取り合う子どもたちの絵。
嫌な予感しかしない。
「セリーヌも」
「私は仕事がございます」
「前もそう言って参加したでしょう」
エステルが覚えている。
セリーヌがわずかに目を逸らした。
「アレクにも手紙を書きます」
「五人になったわよ」
「ヴィオラ様にも」
「六人」
「人数が多い方が――」
「待って」
私は遊戯集を取り上げた。
説明を読む。
読む。
もう一度読む。
「これ、陣取りじゃない」
「はい」
「走るの?」
「はい」
「木片を奪うの?」
「はい」
「私も?」
「はい」
私はレオニスを見た。
「あなたが買ったのよね」
「お前も手を伸ばした」
「止めてくれてもよかったでしょう」
「なぜだ。楽しそうだ」
この男。
やる気だ。
「お母様」
エステルが私の袖を引く。
「何?」
「今日は、お父様とお出かけできてよかったですか?」
さっきまでの勢いが少しだけ消えていた。
九歳の顔で、私を見る。
私は答える。
「ええ。よかったわ」
「では、また行ってください」
「追い出すの?」
「違います」
エステルは笑った。
「お二人で行ってほしいのです」
その言い方が妙に嬉しくて。
私は娘の頭を撫でた。
「分かったわ」
「本当ですか?」
「たまにはね」
隣でレオニスが言う。
「次は俺が決める」
「何を?」
「行き先だ」
「……もう次の話?」
「たまには行くんだろう」
そうだけど。
早い。
「どこへ行くの?」
「まだ決めていない」
「決めてから言って」
「なら聞くな」
エステルが笑う。
セリーヌも、ほんの少しだけ笑っていた。
私はため息をつく。
その日の夕方。
遊戯集には、エステルの字で小さな紙が挟まれていた。
『みんなで試す』
その下に。
『お母様は少し近い場所から』
「気を遣われてる!」
私の声が、屋敷に響いた。




