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言っていないこと


 噂というものは、足が速い。


 馬より速い。

 手紙より速い。

 たぶん、王宮の早馬より速い。


 そして何より厄介なのは、走っている間に勝手に着替えることだ。


「……私、泣いていません」


 朝食の席で、エステルが言った。


 静かな声だった。


 静かすぎる。


 これは怒っている。


「うん」


「ヴィオラ様とも喧嘩していません」


「うん」


「砂糖菓子は取られました」


「そこは認めるのね」


「負けたので」


 大事らしい。


 向かいではレオニスが新聞から顔を上げている。

 セリーヌは何事もない顔で紅茶を注いでいた。


 テーブルの上には一通の手紙。


 今朝、レインフォード伯爵家から届いたものだった。


 内容は丁寧だった。

 丁寧すぎるほど丁寧だった。


 先日の王宮の小宴において、令嬢ヴィオラが我が家のエステルと些細な諍いを起こしたと耳にした。もし不快な思いをさせていたなら申し訳ない。子ども同士のこととはいえ、今後とも良い関係を――。


 要するに。


 誰かが見た。

 誰かが話した。

 誰かが少し足した。


 砂糖菓子争奪戦が、いつの間にか伯爵家から謝罪の手紙が届く事件になった。


「誰が泣いたと言っているの?」


 私が尋ねると、エステルは唇を結んだ。


「昨日、侍女の方が話しているのを聞きました」


「どんなふうに?」


「王宮で、私がヴィオラ様に菓子を取られて泣いた、と」


「それで?」


「アレクが慰めた、と」


 私は紅茶を置いた。


 レオニスも新聞を置いた。


 セリーヌだけが紅茶を注ぎ続けた。


「……そこまで増えたの?」


「増えたとは?」


「何でもないわ」


 実際には泣いていない。

 アレクシス殿下が砂糖菓子をくれようとしたのは事実だけれど、慰めたわけでもない。

 しかも最後は二人で割ろうとして、硬くて割れなかった。


 現実はだいぶ格好悪い。


 なのに噂になると、なぜか少し物語っぽくなる。


 公爵令嬢が伯爵令嬢に菓子を奪われて涙する。

 婚約者の王子が優しく慰める。


 誰よ、その少女漫画みたいな話を作ったの。


「父上」


 エステルがレオニスを見る。


「何だ」


「このような時は、どうすればよいのですか」


 レオニスはすぐには答えなかった。


 新聞を畳む。

 きちんと端を揃えてから、娘を見る。


「エステルは、どうしたい」


「訂正したいです」


「誰に」


 エステルが止まった。


「……皆に」


「皆とは誰だ」


「それは……」


 難しい。


 噂の嫌なところだ。

 相手の顔が見えない。


「侍女たちを集めますか?」


 エステルが真面目に言った。


「やめましょう」


 私は即答した。


「では、お茶会を開いて」


「もっとやめましょう」


「でも」


「『私は泣いておりません』って公爵令嬢がお茶会を開いたら、その日のうちに『やっぱり相当気にしていたらしい』になるわよ」


 エステルの顔が険しくなる。


「面倒です」


「でしょう?」


「お母様は、こういう時どうするのですか」


「寝る」


「ミレーヌ」


 レオニスに止められた。


「冗談よ」


「半分は本気だった顔だ」


「半分くらいは寝たらどうでもよくなることもあるの」


 セリーヌが小さく息を吐いた。


「奥様の場合、起きてから思い出してもう一度腹を立てておられます」


「余計な情報を足さないで」


「事実でございます」


 エステルが少しだけ笑った。


 よし。

 眉間の皺が一つ減った。


     ◇


 朝食のあと、レオニスは仕事へ戻った。


 私はエステルと一緒に例の手紙をもう一度読んだ。


「レインフォード伯爵家は、私たちが怒っていると思っているのでしょうか」


「少なくとも、可能性を気にしているんでしょうね」


「怒っていません」


「うん」


「ヴィオラ様も悪くありません」


「砂糖菓子を二つ取ったけど?」


「三つです」


「あ、三つ目も勝ったんだった」


「はい」


 そこは忘れない。


 エステルは手紙を見つめた。


「では、伯爵家には違うと伝えればいいのですね」


「それはそうね」


「皆には?」


「どうしましょうか」


 私はわざと答えなかった。


 こういう時、親は便利だ。

 答えを言えば早い。


 でも、早いことがいつも正しいとは限らない。


 エステルはしばらく考えていた。


「……ヴィオラ様は、どう思っているでしょう」


 お。


「気になる?」


「はい。私が泣いたことになっているなら、ヴィオラ様が泣かせたことになっています」


 そこか。


「それは嫌?」


「嫌です」


 迷わなかった。


「私は泣いていませんし、ヴィオラ様は勝っただけです」


「うん」


「勝った方が悪いことになるのは、おかしいです」


 エステルらしい。


 負けたことより、勝った相手の勝ち方を曲げられる方が嫌なのだ。


「なら、まずヴィオラ様に書いてみる?」


「私が?」


「あなたの話でしょう?」


「……はい」


「何を書く?」


 エステルは少し考えた。


「私は泣いていません、と」


「最初に?」


「大事です」


「大事ね」


 紙とペンが用意された。


 エステルは背筋を伸ばして座る。


 書き出す。


 止まる。


 消す。


 もう一度書く。


「お母様」


「何?」


「『先日はありがとうございました』の次に、『私は泣いておりません』でよいでしょうか」


「ちょっと怖いわね」


「では、その前に砂糖菓子のお礼を」


「もらってないでしょう」


「そうでした」


 真剣に悩んでいる。


 私は笑いそうになるのを堪えた。


「普通に、楽しかったって書けば?」


「でも、それでは噂の話が遅くなります」


「急いでるのね」


「はい」


 結局。


 最初の数行は季節の挨拶と小宴のお礼。

 そのあと、噂を耳にしたこと。

 自分は泣いていないこと。

 ヴィオラと喧嘩したつもりもないこと。


 そして最後に。


『次の勝負は、私が決めてもよろしいでしょうか』


 そこ?


「これでいいです」


 満足そうだった。


「伯爵家への返事は私が書くわ」


「お願いします」


「皆への訂正は?」


 エステルはペンを置いた。


「……まだ分かりません」


「そう」


「でも、ヴィオラ様に違うと伝われば、少し安心します」


「うん」


 それでいい。


 全部を一度に片づけなくてもいい。


     ◇


 午後。


 私はレオニスの執務室へ行った。


 別に相談があったわけではない。


 何となく。


 こういう時は夫の顔を見たくなる。


「暇なのか」


 開口一番それだった。


「帰るわ」


「待て」


「暇じゃないもの」


「座れ」


 勝った。


 何に。


 長椅子に座ると、レオニスは書類から目を離さないまま言った。


「エステルは?」


「ヴィオラ様に手紙を書いたわ」


「そうか」


「自分は泣いてないし、あなたも悪くないって」


 そこでようやく顔を上げた。


「それを自分で決めたのか」


「ええ」


「なら、いい」


 短い。


「あなた、朝もそうだったけど」


「何だ」


「噂を消そうとは言わないのね」


「消せるなら消す」


「消せない?」


「内容による」


 レオニスはペンを置いた。


「家や王家に実害が出る話なら、出所を確かめる。意図があるなら止める。だが今回のような子どもの小さな話まで、グランヴェル家が一つずつ潰して回ればどう見える」


「怖い」


「そういうことだ」


 なるほど。


「それに」


「うん」


「エステルは泣いていない」


「うん」


「ヴィオラ嬢とも喧嘩していない」


「うん」


「アレクシス殿下に慰められてもいない」


「そこ、ちょっと残念そうね」


「何がだ」


「何でもない」


 父親。


 娘の婚約者との仲が良いのは安心。

 良すぎると複雑。


 忙しい男である。


「事実は当人たちが知っている」


 レオニスが続けた。


「必要な相手にも伝える。それで足りることもある」


「足りないことも?」


「ある」


 即答だった。


「その時は?」


「戦う」


 怖い。


「急に公爵になったわね」


「最初から公爵だ」


「家では忘れちゃうのよ」


「それはどうなんだ」


 私は笑った。


 レオニスも少しだけ口元を緩める。


「でも、噂って不思議ね」


「何がだ」


「本当にあったことだけ並べても、順番とか言い方で全然違う話になるでしょう?」


 レオニスの目が少し細くなった。


「そうだな」


「今回だって、菓子を取られた。アレクが菓子を渡そうとした。そこだけなら本当よ」


「泣いた、を足せば話になる」


「そう」


 たった一つ。


 事実ではないものを足すだけで。


 あるいは。

 足さなくても、何かを抜くだけで。


 人の姿は変わる。


「ミレーヌ」


「何?」


「考えすぎるな」


「顔に出てた?」


「出ていた」


「セリーヌみたいなこと言わないで」


「長く一緒にいるからな」


「……そういうの、さらっと言うのやめて」


「なぜだ」


 本人は分かっていない。


 ずるい。


     ◇


 二日後。


 ヴィオラから返事が来た。


 早い。


 エステルは封を切る前から落ち着かなかった。


「読みます」


「どうぞ」


 私は少し離れて座った。


 本人宛ての手紙だ。

 見せてくれるなら読むけれど、横から覗くものではない。


 エステルの目が紙の上を動く。


 止まる。


 眉が寄る。


 次の瞬間。


「……何ですか、これ」


「どうしたの?」


「お母様、見てください」


 差し出された。


 読む。


 ヴィオラの字は、思っていたより丸かった。


『エステル様へ。

 私も喧嘩をした覚えはありません。

 あなたが泣いたところも見ていません。

 もし泣いていたなら、私が気づかなかったことになりますので、それはそれで少し困ります。

 それから、砂糖菓子は三つとも正当に手に入れました。ここは大事なので、間違えないでください。

 次の勝負は、そちらが決めて構いません。

 ただし、私が勝てないものを選ぶのは反則です。

 ヴィオラ・レインフォード』


 私は二回読んだ。


「……面白い子ね」


「そこではありません」


「どこ?」


「『私が勝てないものを選ぶのは反則』です」


「そこ?」


「勝負なのですから、私が得意なものを選ぶのは当然ではありませんか?」


「エステル」


「はい」


「あなたたち、たぶん大丈夫よ」


「何がです?」


「何でもない」


 エステルはもう次の勝負を考え始めている。


「刺繍……いえ、ヴィオラ様もお上手かもしれません」


「石蹴りは?」


「王宮ではできません」


「また王宮でやる気なの?」


「次にお会いする場所は分かりません」


「そうね」


「投げ袋なら」


「アレクとお父様を呼ばなければいい勝負になるかもね」


「お父様は呼びません」


 即答。


 根に持ってる。


「では――」


 エステルが考える。


 その顔はもう、噂のことをほとんど気にしていなかった。


 私は手紙を返した。


「返事を書く?」


「書きます」


「今?」


「はい」


「まだ勝負も決まってないのに?」


「決めながら書きます」


 紙を用意するよう頼む声が飛ぶ。


 セリーヌが廊下の向こうから返事をした。


 私は一人、長椅子に残る。


 結局。


 噂そのものは消えていない。


 どこかではまだ、公爵令嬢が砂糖菓子を取られて泣いたことになっているかもしれない。


 でも。


 泣いていない本人と。

 泣かせていない本人は。


 もう次の勝負の話をしている。


 それなら今は、それでいい。


     ◇


 数日後。


 私は王妃から届いた短い私信を読んで、額を押さえた。


『先日の小宴について、アレクシスから聞きました。

 エステル嬢が泣いたという話は事実ではないと承知していますので、ご安心を。

 なお、アレクシスは砂糖菓子を割れなかったことの方を気にしているようです。』


「そっち?」


 思わず声が出た。


「何かございましたか」


 セリーヌが聞く。


「王子様が砂糖菓子に負けたことを気にしてる」


「九歳でいらっしゃいますので」


「そうなんだけど」


「エステル様とよくお似合いです」


「……そうね」


 負けたら、次を考える。


 あの二人は本当に似てきた。


 私は王妃の手紙を畳む。


 噂は、勝手に話を作る。


 でも、人と人の間にあるものまで、噂が決めるわけじゃない。


 エステルとヴィオラが何だったのか。

 アレクシスが何をしたのか。


 それは、そこにいた人たちが知っている。


 今はまだ。


 それで十分だった。



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