知らない顔
王宮の小宴は、名前ほど小さくなかった。
いや。
王宮基準では小さいのだろう。
広間が一つ。
招かれた家も限られている。
楽団も壁際に数人だけ。
料理だって、正式な晩餐会ほど大げさではない。
ただし、公爵夫人である私から見ても「気軽なお茶会」と呼ぶには十分すぎる人数がいる。
「小宴って言ったじゃない」
馬車を降りる前に、思わず呟いた。
「小宴でございます」
向かいのセリーヌが答える。
「これで?」
「王宮ですので」
便利な言葉ね、王宮。
隣ではエステルが窓の外を見ていた。
深い葡萄色の髪をいつもより丁寧にまとめ、淡い青緑の石を小さく飾っている。
九歳。
ちゃんと緊張している。
膝の上で重ねた指が、さっきから二度ほど組み直されていた。
「エステル」
「はい」
「帰る?」
「帰りません」
即答。
「冗談よ」
「分かっています」
「緊張してる?」
「しています」
「私も」
エステルがこちらを見る。
「お母様も?」
「するわよ。王宮よ?」
「いつも平気そうです」
「そう見せてるの」
「では、今日もそうします」
そう言って、エステルは一度だけ大きく息を吸った。
それから背筋を伸ばす。
あ。
今の、私の真似だ。
「奥様」
セリーヌが小声で言った。
「何?」
「お顔が」
「分かってる」
たぶん今、ものすごく嬉しそうだ。
◇
広間へ入ると、最初にアレクシス殿下が見つけてくれた。
「エステル」
王妃のそばにいたのに、こちらを見た瞬間だけ九歳の顔になる。
でも走っては来ない。
そこは王子様。
歩いて来る。
「アレクシス殿下」
エステルが礼をする。
殿下もきちんと返した。
「来てくれてよかった」
「お招きいただいたのですから、当然です」
「でも、よかった」
「……はい」
エステルが少し笑う。
私は横を見る。
セリーヌも横を向いた。
見なかったことにするらしい。
分かる。
「ミレーヌ」
王妃に呼ばれた。
「ごきげんよう、王妃陛下」
「そんなに固くならなくていいわ。今日は子どもたちのための席ですもの」
「そう言われましても、ここ王宮ですので」
「あら。王宮は便利な言い訳になるのね」
聞こえてた?
馬車の中だったのに。
違う。偶然だ。
怖い。
王妃は楽しそうに笑った。
「今日は、普段の夜会では親の後ろに隠れてしまう子たちも呼んでいるの。家格も年齢も少しばらけさせてね」
「なるほど」
「大人が決めた相手とだけ話していては、子ども同士の相性なんて分からないでしょう?」
それは確かに。
「もちろん、最低限の礼儀は見ますけれど」
見ないわけではない。
王妃だ。
「エステルも、好きに話していらっしゃい」
「はい、王妃陛下」
「アレクシス。あなたがずっと隣にいては駄目よ」
「え」
殿下。
声に出た。
王妃の眉が少し上がる。
「何か?」
「……いいえ」
エステルが笑いを堪えている。
「では、あとで」
「うん」
殿下は名残惜しそうに一度振り返ってから、別の少年たちの方へ戻っていった。
王妃。
強い。
◇
最初の十分ほど、私は少し離れた場所からエステルを見ていた。
見守る。
監視ではない。
たぶん。
「奥様」
「何?」
「近いです」
「離れてるでしょう」
「視線が」
「視線に距離なんてないわよ」
「ございます」
セリーヌに肩を軽く押され、私は大人たちの輪へ戻された。
エステルは最初、同じくらいの年頃の令嬢二人と話していた。
笑っている。
大丈夫そう。
そのあと、少し年下の男の子に何か聞かれた。
しゃがんで目線を合わせている。
大丈夫そう。
さらにそのあと。
知らない少女と向かい合った。
私は手にしていた杯を止めた。
誰だろう。
年はエステルより一つか二つ上に見える。
赤みのある栗色の髪を短めにまとめ、薄い灰色のドレスを着ている。
派手ではない。
でも立ち方が妙に堂々としていた。
少女が何か言う。
エステルが答える。
少女がもう一度言う。
エステルの眉が上がった。
あ。
ちょっと危ない顔。
「グランヴェル婦人」
「はい?」
目の前にいた夫人に呼ばれて、私は慌てて視線を戻した。
「聞いていらした?」
「もちろんです」
聞いてない。
何の話だっけ。
「今年の葡萄は――」
「ええ、少し遅いそうですね」
当たった。
奇跡。
会話を終え、もう一度エステルを見る。
まだ話している。
逃げてはいない。
相手の少女も。
むしろ。
楽しそう?
◇
「それは反則です」
近くを通るふりをして、聞こえた。
エステルの声。
「反則じゃないわ」
少女が返す。
「先に取った方が勝ちでしょう?」
「三つしかないのに二つ取るのはずるいです」
「一つ残したもの」
「それでは私とミア様で取り合いになります」
「だから早く取ればよかったのよ」
何の話?
見ると、卓上に小さな砂糖菓子が一つだけ残っていた。
その前で、エステルと栗色の少女と、ミアと呼ばれた年下の女の子が向かい合っている。
平和。
ものすごく平和な争いだった。
「では半分にします」
エステルが言った。
「え?」
「ミア様と半分ずつです」
「私は?」
栗色の少女。
「二つお持ちでしょう」
「でも、三つ目も欲しいわ」
「強欲です」
「公爵令嬢に言われたくないわ」
おお。
言う。
エステルの目が細くなった。
私は一歩だけ近づいた。
セリーヌに袖をつままれた。
「まだです」
「分かってるわよ」
小声。
エステルが口を開く。
「では勝負にしますか?」
「勝負?」
「はい。何かで勝った方が取るのです」
また勝負。
この子。
「いいわね」
少女が笑った。
「何をする?」
「石蹴りはできませんから……」
しなくていい。
王宮で始めないで。
「なぞなぞは?」
年下のミアという少女が言った。
二人が見る。
「私、なぞなぞを知っています」
「では、それにしましょう」
エステルが即決した。
栗色の少女も頷く。
「いいわ」
何で砂糖菓子一つにそんな真剣なの。
ミアが嬉しそうに考える。
「朝は四本、昼は二本、夜は三本――」
待って。
それ知ってる。
私は思わず答えそうになって口を閉じた。
危ない。
ここで公爵夫人が子どもの砂糖菓子争奪戦に乱入するところだった。
「人です」
栗色の少女が即答した。
「あっ」
エステルが悔しそうな声を出す。
「正解です!」
ミアが拍手した。
栗色の少女は最後の砂糖菓子を取った。
「三つ目」
「……負けました」
「ええ」
「次は負けません」
「次も取るわ」
二人が笑った。
喧嘩じゃない。
たぶん、気が合っている。
「ところで」
エステルが言った。
「まだお名前をきちんと伺っていません」
「そうだった?」
「砂糖菓子を取られたことしか知りません」
「それは大事ね」
少女がスカートをつまんだ。
今度は、きちんと礼をする。
「ヴィオラ・レインフォード。レインフォード伯爵家の長女よ」
「エステル・グランヴェルです」
「知ってるわ」
「では、なぜ名乗らせたのです?」
「あなたの口から聞いた方がいいでしょう?」
エステルが一瞬止まる。
それから。
「そうですね」
笑った。
ヴィオラ・レインフォード。
知らない名前だった。
少なくとも。
私の記憶には、引っかからない。
それが少しだけ、嬉しかった。
◇
「見すぎよ」
今度は王妃に言われた。
「そんなにですか?」
「そんなに」
「母親ですので」
「私も母親よ」
強い。
「アレクシス殿下は?」
「あちら」
王妃が顎で示す。
殿下は三人の少年と話していた。
……話している?
一人が身振りを交えて何か説明し、アレクシス殿下が困った顔をしている。
「何をしているんでしょう」
「馬の話ですって」
「殿下、馬はお得意でしょう?」
「乗るのはね」
「では?」
「どの馬が一番格好いいかで揉めているの」
「平和ですね」
「平和よ」
王妃が笑った。
「だから、こういう席を作るの」
その声は少しだけ柔らかかった。
「大人がいると、子どもは正しい話ばかりするでしょう?」
私はエステルを見る。
砂糖菓子三つで勝負していた。
「確かに」
「王子も、公爵令嬢も、伯爵令嬢も。子どものうちくらい、くだらないことで本気になればいいのよ」
「王妃陛下」
「何?」
「それ、すごく好きです」
「あら」
「私も、そう思います」
王妃は少しだけ目を細めた。
「なら、見守りなさい」
「はい」
「近づかずに」
「……はい」
釘を刺された。
◇
しばらくして、子どもたちの輪が大きくなった。
誰が始めたのか分からない。
最初はなぞなぞだった。
そこにアレクシス殿下たちが混ざった。
次に「知っている一番変な動物」という話になった。
そのあと「一番遠くへ行ったことがある人」に変わった。
子どもの会話。
どこへ行くか分からない。
「僕は西の離宮」
アレクシス殿下。
「私は南の祖母の領地」
ヴィオラ。
「私は……」
エステルが考える。
そこで一人の少年が言った。
「フェルディア領なら行ったことがある」
私の耳が反応した。
反応するな。
今は子どもの会話。
「北東でしょう?」
ヴィオラが言う。
「そう。父上の仕事で一度だけ」
「遠い?」
「遠かった」
「馬は?」
アレクシス殿下。
そこ?
「たくさんいた」
「いいな」
殿下が本気で羨ましそう。
エステルが笑う。
「シオンも馬に乗れます」
「シオン?」
ヴィオラが聞いた。
「シオン・フェルディアです。お友達です」
「あなた、フェルディアの子と友達なの?」
「はい」
「へえ」
それだけ。
それだけだった。
橋の話にもならない。
雨の話にもならない。
旧街道の話にもならない。
私は肩の力を抜いた。
シオンは、事件の名前じゃない。
エステルの友達の名前だ。
当たり前のことを、子どもたちは当たり前に扱う。
私はその輪から視線を外した。
今日は、それでいい。
◇
小宴の終わり頃。
「お母様」
エステルが戻ってきた。
「楽しかった?」
「はい」
「何をしていたの?」
「色々です」
「色々?」
「なぞなぞと、動物と、馬と、領地のお話と、それからヴィオラ様と次の勝負のお約束を」
「次があるの?」
「あります」
当然の顔。
「何で勝負するの?」
「まだ決めていません」
「決めてないのに約束したの?」
「はい」
楽しそう。
「ヴィオラ様とは、お友達になったの?」
聞くと、エステルが少し考えた。
「まだ分かりません」
意外な答えだった。
「そうなの?」
「今日お会いしたばかりですから」
「……そうね」
「でも、またお話ししたいです」
それで十分か。
「では、次に会った時ね」
「はい」
そこへアレクシス殿下が来た。
「エステル」
「アレク」
今日はもう、二人とも人前で少しだけ呼び方が柔らかい。
「これ」
殿下が小さな包みを差し出した。
「何です?」
「残っていたから」
開く。
砂糖菓子が一つ。
エステルが目を丸くした。
「どうして?」
「さっき、取れなかったでしょう」
「見ていたのですか?」
「途中から」
「負けたので要りません」
「え」
「勝ったのはヴィオラ様です」
「でも、これは別の皿の」
「それでもです」
アレクシス殿下が困る。
エステルも譲らない。
ああ。
この二人。
そこでエステルが少し考えた。
「半分なら」
「半分?」
「アレクと半分ならいただきます」
殿下が止まった。
私も止まった。
セリーヌを見る。
セリーヌは天井を見ている。
逃げた。
「……うん」
殿下が答えた。
耳が少し赤い。
エステルは気づいていない。
砂糖菓子を割ろうとしている。
硬い。
「割れません」
「僕が」
「アレクも割れていません」
「これは硬いね」
二人で苦戦している。
甘い。
砂糖菓子が。
砂糖菓子がね。
「ミレーヌ」
後ろから声がした。
王妃。
「何も言ってません」
「私も何も聞いていないわ」
「ではなぜ」
「顔」
もう嫌。
◇
帰りの馬車。
エステルは疲れたのか、私の肩にもたれていた。
眠ってはいない。
目だけ閉じている。
「お母様」
「何?」
「ヴィオラ様、面白い方でした」
「そうね」
「お母様もご存じでした?」
「いいえ」
「そうなのですか?」
「今日初めて知ったわ」
エステルが目を開けた。
「お母様でも、知らない方がいるのですね」
「いっぱいいるわよ」
「何でもご存じなのかと」
「そんなわけないでしょう」
少し笑う。
でも。
その言葉は、妙に残った。
知らない人がいる。
知らない出来事がある。
私が昔見た物語には、名前すら出なかった人たちが、この世界には大勢いる。
ヴィオラも、その一人かもしれない。
今日、砂糖菓子を三つ欲しがって。
エステルと張り合って。
次の勝負を約束した少女。
それだけで、一人の人間だ。
「お母様?」
「何でもないわ」
私はエステルの髪を撫でた。
「今日は楽しかった?」
「はい」
「なら、よかった」
「お母様は?」
「私?」
「楽しかったですか?」
考える。
王妃に見張りすぎと言われた。
知らない夫人との会話を半分聞き逃した。
砂糖菓子一つで本気になる子どもたちを見た。
アレクシス殿下の耳が赤くなった。
「楽しかったわ」
「よかったです」
エステルはまた目を閉じた。
馬車が静かに揺れる。
私は窓の外を見た。
今日、何か大きなことが起きたわけではない。
破滅の気配も。
昔の記憶も。
恐ろしい予感も。
何もない。
ただ、エステルの世界に知らない顔が一つ増えた。
たぶん。
こういう日も、あとから大切になる。
誰と出会って。
誰と笑って。
誰ともう一度会いたいと思ったのか。
それは私が決めることじゃない。
エステルが、自分で増やしていくものだ。
隣で、小さな寝息が聞こえ始めた。
私は起こさないように、少しだけ肩を下げる。
王宮で堂々としていた公爵令嬢は。
帰り道では、まだ九歳の娘だった。




