勝負にならない
アレクシス殿下が来る日の朝。
エステルは朝食の席で宣言した。
「今日は石蹴りをしません」
レオニスの手が止まった。
「なぜだ」
「お父様」
「何だ」
「そんな顔をなさらないでください」
「どんな顔だ」
「楽しみにしていた顔です」
「していない」
している。
ものすごくしている。
私は紅茶を飲んだ。
「レオニス。九歳の娘に遊んでもらえなくて拗ねる公爵は、ちょっと嫌よ」
「拗ねてはいない」
「では、残念ですか?」
エステルが聞く。
「……少し」
「素直」
「お前は黙っていろ」
私に言う?
セリーヌがパンを置きながら、何事もなかったように尋ねた。
「では、本日は何をなさるのですか?」
「新しい遊びです」
エステルの目が輝く。
嫌な予感がする。
「昨日から考えていたの?」
「はい!」
「アレクシス殿下は知っているのか?」
「いいえ」
「俺も?」
「知りません」
「ミレーヌは?」
「知りません」
「セリーヌは?」
「存じません」
全員知らない。
なのにエステルだけが満足そうだ。
「何をするつもりなの?」
「秘密です」
「必要なものは?」
「もうお願いしました」
誰に。
私とレオニスが同時にセリーヌを見る。
「私ではございません」
「じゃあ誰?」
「庭師のロイです」
根回し済み。
九歳。
強い。
「危ないことではないわよね?」
「危なくありません」
「服は汚れる?」
「少し」
「少し?」
「……たぶん」
「セリーヌ」
「着替えをご用意しておきます」
「お願い」
「お母様まで参加する前提なのですか?」
「え?」
エステルが不思議そうな顔をした。
「参加なさらないのですか?」
参加するの?
私。
「お前もやるのか」
レオニスが嬉しそうだ。
「何であなたまで嬉しそうなのよ」
「家族で遊ぶのだろう?」
「殿下もいらっしゃるけど」
「なら五人だ」
「私も数に入っておりますか?」
セリーヌ。
入っていたらしい。
「はい」
「私は仕事がございます」
「終わってからで構いません」
「逃げ道を塞がないでくださいませ」
朝から元気だ。
主にエステルが。
◇
昼前。
アレクシス殿下は、いつものように必要以上にきちんとした姿でやって来た。
金色の髪。
背筋。
挨拶。
九歳なのに、玄関に立った瞬間だけは本当に王子様である。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、よくいらしてくださいました」
私が礼を返す。
隣でエステルも綺麗に一礼した。
「お待ちしておりました、アレクシス殿下」
「ありがとう、エステル」
完璧。
完璧な少年少女。
このあと泥がつく予定だけど。
アレクシス殿下は顔を上げると、少しだけ周囲を見た。
「今日は、あれはしないのですか?」
「あれ?」
「石を蹴る遊びです」
好きになってる。
「今日は別の遊びをします」
エステルが言う。
「別の?」
「はい。私が考えました」
「エステルが?」
「正確には、昨日街で見た遊びを少し変えました」
「昨日の?」
「はい」
あれか。
ゼロ点だった、あれ。
「庭に用意してあります」
エステルがアレクシス殿下の手を取った。
「あ」
取った。
自然に。
殿下の目が一瞬だけ大きくなる。
でも離さない。
「行きましょう」
「う、うん」
敬語が落ちた。
いいぞ。
いや何が。
私は母親だ。
落ち着け。
「ミレーヌ」
「何?」
「顔」
「何も考えてないわよ」
「そうか」
「何よ、その返事」
レオニスが笑っている。
腹立つ。
◇
庭の一角に、見慣れないものができていた。
地面に大きな円。
その中に、大小いくつもの輪。
少し離れた場所には、木で作られた小さな台。
台の上には布袋が並んでいる。
「何これ」
「投げます」
エステルが布袋を一つ持った。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
中には豆か砂が入っているらしい。
「ここから投げて、輪の中に入れば点が入ります」
「なるほど」
輪には数字が書かれている。
中心ほど高い。
分かりやすい。
「三回ずつ投げて、一番点が高い人が勝ちです」
「それなら私にもできそうね」
「もちろんです」
「剣術の経験は関係あるか?」
レオニス。
何を警戒している。
「投げるので、少しはあるかもしれません」
「そうか」
嬉しそう。
「お父様は最後です」
「なぜだ」
「大人だからです」
「ミレーヌも大人だ」
「お母様は最初です」
「なぜ」
「一番、練習が必要そうだからです」
「ちょっと」
アレクシス殿下が口元を押さえた。
笑ったな。
「殿下?」
「すみません」
「いいのよ。笑って」
「では」
「そこは遠慮して」
また笑った。
最近、この子はグランヴェル家に来ると王子様の皮が少し薄くなる。
良いことだと思う。
たぶん。
「では、お母様から」
「分かったわよ」
線の前に立つ。
布袋を持つ。
意外と重い。
「三回ね」
「はい」
一投目。
投げた。
円の手前に落ちた。
「……」
「……」
「何か言って」
「惜しいです、お母様」
「エステル。優しさが痛い」
二投目。
一番外側の輪。
「入りました!」
「何点?」
「一です」
「一」
「一点です」
「言い直さなくていい」
三投目。
飛んだ。
中心を越えた。
「力加減が極端ですね」
セリーヌ。
いつの間に来た。
「仕事は?」
「一段落いたしましたので」
「見に来たの?」
「お嬢様に呼ばれておりますので」
逃げなかった。
偉い。
「次は私です」
エステルが線に立つ。
一投目。
三点。
二投目。
二点。
三投目。
四点。
「九点です」
強い。
「練習したでしょう」
「昨日、少し」
「ずるい」
「考えた人の特権です」
言うようになった。
次はアレクシス殿下。
布袋を持って、構える。
構えた。
ものすごく構えた。
「アレク」
「何?」
「これは剣ではありません」
「分かっている」
「顔が真剣です」
「勝負だから」
エステルが笑う。
「そうですね」
殿下も笑った。
一投目。
四点。
「おお」
二投目。
五点。
「え?」
三投目。
五点。
「十四点です!」
「初めてよね?」
「はい」
「何で?」
アレクシス殿下が自分の手を見る。
「分かりません」
腹立つ。
才能ある人の返事。
「投げる訓練もなさっているのですか?」
セリーヌが聞いた。
「騎士の先生に、短い槍を投げる練習を少しだけ」
「それだ」
レオニスが言った。
「なるほど」
エステルが頷く。
悔しそう。
でも楽しそう。
「では、お父様です」
「任せろ」
何を任せるの。
レオニスが布袋を持つ。
一投目。
五点。
二投目。
五点。
三投目。
五点。
「十五点」
満点。
大人げない。
「お父様!」
「何だ」
「初めてですよね?」
「初めてだ」
「どうしてです!」
「投げるだけだろう」
「それを言ったら終わりよ」
エステルが頬を膨らませる。
レオニスは満足そう。
「勝負だからな」
この親子。
「旦那様」
「何だ」
「九歳のお嬢様が考案なさった遊びで満点を取って、そのお顔は少々」
「どんな顔だ」
「大変満足そうです」
「勝ったからな」
認めるんだ。
「次はセリーヌです」
「私は見学で」
「駄目です」
「なぜです?」
「五人で遊ぶと決めました」
「私は決めておりません」
「私が決めました」
「お嬢様」
「お願いします」
真正面から来た。
セリーヌが黙る。
弱い。
エステルのお願いに弱い。
「……一度だけです」
「三回です」
「一度だけ参加する、という意味です」
「はい!」
勝った。
エステルが。
セリーヌは布袋を持った。
線の前に立つ。
一投目。
五点。
「え?」
二投目。
五点。
「待って」
三投目。
五点。
沈黙。
「十五点です」
エステルが言った。
「セリーヌ?」
「はい」
「何で?」
「投げただけですが」
「それレオニスと同じ答え!」
「奥様」
「何?」
「厨房で豆袋を棚へ投げ渡すことがございますので」
「そんな日常技能で?」
「手が塞がっている時などに」
メイド長。
強い。
レオニスが腕を組んだ。
「同点か」
「そのようですね」
「もう一回やるか」
「仕事に戻ります」
「逃げるのか」
「旦那様」
「何だ」
「私は勤務中です」
「……そうだったな」
公爵。
忘れないで。
エステルが腹を抱えて笑っている。
アレクシス殿下まで声を出して笑った。
その笑い方を見て。
私は少しだけ、昔の画面を思い出した。
完璧な王子。
誰にでも優しく。
何でもできて。
正しいことを選び続ける。
ゲームの中のアレクシスは、こんなふうに腹を抱えて笑っただろうか。
……覚えていない。
でも。
今ここにいるこの子は笑っている。
それでいい。
◇
二回戦。
私は三点。
成長。
エステル十一点。
アレクシス十三点。
レオニス十五点。
「また!」
「安定しているな」
「自分で言わないで」
セリーヌは仕事に戻ったので不参加。
つまりレオニスの一人勝ち。
つまらない。
「お父様がいると勝負になりません」
エステルが言った。
「負けたからルールを変えるのか?」
「違います」
「では?」
エステルが考える。
真剣。
こういう時の顔は、少し怖い。
私は知っている。
この子は負けず嫌いだ。
負けたら悔しい。
だから考える。
「距離を変えます」
「ほう」
「お父様だけ、二歩後ろから」
「なぜ俺だけ」
「大人だからです」
「ミレーヌも大人だ」
「お母様を二歩下げたら、円まで届きません」
「エステル」
「事実です」
「事実でも言っていいことと悪いことがあるの」
アレクシス殿下がまた笑っている。
もう隠さなくなった。
「僕も後ろから投げます」
「え?」
エステルが振り返った。
「僕も十四点だったから。二歩は無理でも、一歩なら」
「でも、アレクは私と同じ九歳です」
「だから?」
「同じ場所で勝負すればいいでしょう」
「それだと、さっき勝った」
アレクシス殿下はさらっと言った。
エステルの眉が動く。
「……言いましたね」
「言った」
「では一歩後ろです」
「うん」
「私もです」
「え?」
今度は殿下が驚いた。
「私も一歩下がります」
「それでは同じでは?」
「同じでいいのです」
エステルは線を一歩下げた。
「ここから勝ちます」
あ。
この顔。
私は好きだ。
負けたから相手を引きずり下ろすんじゃない。
条件を変えるなら、自分もそこへ行く。
昔のエステルならどうだったのだろう。
ゲームの中の彼女を、私は知っているつもりだった。
努力して。
積み上げて。
それでも最後には、追いついてくる誰かを許せなくなった少女。
でも今のエステルは。
「お父様は二歩です」
「俺だけか」
「大人ですから」
「ミレーヌは」
「言わせないで」
今のエステルは、笑っている。
「では三回戦です!」
◇
結果。
私、四点。
エステル、八点。
アレクシス、十点。
レオニス、十三点。
「負けました!」
エステルが叫んだ。
清々しい。
「お父様、強すぎます!」
「そうだな」
「自分で言わないでください!」
「事実だ」
「もう一度です!」
「いいぞ」
「待って」
私が止めた。
二人が見る。
「これ、いつまでやるの?」
「私が勝つまでです」
「夕食になるわよ」
「では、お父様は三歩後ろへ」
「構わん」
「構うのよ。どんどん別競技になってるから」
アレクシス殿下が布袋を拾った。
手の中で軽く放り上げる。
「でも、面白いです」
「殿下まで」
「勝てない相手がいる方が」
そこで言葉が止まった。
エステルが見る。
「方が?」
殿下は少し考えた。
「次を考えられるから」
私は何も言わなかった。
レオニスも。
エステルだけが、すぐに頷いた。
「そうです」
当然みたいに。
「勝てなかったら、次を考えればいいのです」
「うん」
「それでも駄目なら?」
「また考える」
「それでも?」
「……練習する」
「私もです」
エステルが笑った。
「では、次は明日ですね」
「今日じゃないの?」
「アレクは帰らないといけませんから」
「あ」
忘れてた顔。
王子様。
帰ります。
◇
遊びを終えたあと、二人はテラスで冷たい果実水を飲んでいた。
レオニスは仕事へ戻った。
私は少し離れた席で、セリーヌと明日の予定を確認している。
「それから、王宮より書状が届いております」
「王宮?」
「はい」
セリーヌが封書を差し出した。
さっきまで豆袋を投げていた空気が、少しだけ変わる。
封蝋。
王家の印。
私は姿勢を正した。
開く。
読む。
「……あら」
「何でしょう」
「秋の小宴」
王妃主催。
王族と、いくつかの家の子どもたちを招いた小規模な集まり。
堅苦しい公式行事というより、次代を担う子どもたちが顔を合わせるための場。
エステルにも招待が来ている。
もちろん、公爵家の娘として。
そして。
アレクシス殿下の婚約者として。
「エステル」
「はい?」
呼ぶと、二人がこちらを見た。
「王宮からお招きよ」
「お招き?」
「秋の小宴ですか?」
アレクシス殿下が先に反応した。
「知っているの?」
「母上が準備していると」
「あなたも出るのね」
「はい」
エステルが封書を見る。
「どなたがいらっしゃるのですか?」
「そこまでは書いてないわね」
「楽しみです」
即答。
強い。
私は少しだけ驚いた。
六歳の頃。
初めての社交で失敗して、悔しくて、泣くのを我慢していた小さな娘。
あの頃なら、王宮で知らない子どもたちと会うと聞いて、こんな顔をしただろうか。
「お母様?」
「ううん」
「何です?」
「楽しみなのね」
「はい」
「緊張は?」
「します」
そこも即答。
「するんだ」
「もちろんです。でも」
エステルは果実水の杯を置いた。
「知らない方とお話しするのは、前より好きになりました」
胸の奥が少し温かくなる。
危ない。
ここで感動すると顔に出る。
「お母様」
「何?」
「今、何か変なお顔を」
「してない」
「していました」
「してないわよ」
アレクシス殿下が笑う。
「僕も見ました」
「殿下?」
「嬉しそうな顔でした」
「二対一はずるい」
「勝負ですから」
何その学習。
エステルが笑った。
「お母様、勝負になりませんね」
「それ、心に来るからやめて」
今日一日、何もかも負けっぱなしだ。
「とにかく。参加のお返事を出しておくわ」
「はい!」
エステルは嬉しそうに頷いた。
その横で、アレクシス殿下も自然に笑っている。
王宮。
社交。
知らない子どもたち。
婚約者として並ぶ二人。
昔なら、私はその単語を一つずつ拾って、頭の中の物語と照らし合わせていただろう。
今は。
まず、目の前の二人を見る。
エステルが何を話すのか。
誰と出会うのか。
アレクシスが王宮ではどんな顔をするのか。
それを見てから考えればいい。
「ところで」
私は封書を畳んだ。
「小宴って、親も参加するのよね?」
セリーヌが答える。
「当然でございます」
「そうよね」
「奥様」
「何?」
「今、少し面倒そうなお顔をなさいました」
「気のせいよ」
「お母様」
「何」
「私も見ました」
「エステルまで」
アレクシス殿下が手を挙げる。
「僕も」
「三対一!」
勝負にならない。
今度こそ、本当に。




