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少しだけなら


 クララ・エヴァンスが二度目にグランヴェル家へ来たのは、最初の訪問から十日ほど後だった。


 今度の私は落ち着いている。


 本も正しい向きだ。


 お菓子も増やしていない。


 服も普段通り。


 完璧。


「奥様」


「何?」


「先ほどから同じ頁でございます」


「今日は挿絵を見てるの」


「その本に挿絵はございませんが」


「……細かいわね」


 セリーヌが何も言わずにお茶を置いた。


 今日はエステルの客だ。


 私は呼ばれるまで行かない。


 前回、そう決めた。


 決めたというか。


 エステルに言われた。


 私のお客様ではありません、と。


 正しい。


 とても正しい。


 だから私はここにいる。


「お母様」


 扉が開いた。


「はい!」


 返事が早かった。


 セリーヌが見ている。


「……何?」


「クララが、お母様にご挨拶したいそうです」


「そう」


 私はゆっくり本を閉じた。


 落ち着いて。


「では、行こうかしら」


「こちらへ来ます」


「そう」


 座り直した。


 立たなくてよかった。


     *


「先日はありがとうございました」


 入ってきたクララは、前より少しだけ自然に礼をした。


「こちらこそ。エステルが楽しそうだったわ」


「私も楽しかったです」


「それならよかった」


 ここまで。


 私は聞かない。


 今日は本当に聞かない。


 クララが手にしていた小さな包みを差し出した。


「これを」


「私に?」


「いいえ、エステル様に」


「でしょうね」


「お母様」


「分かってるわよ」


 クララが笑う。


 前回より早い。


 エステルが包みを受け取った。


「開けても?」


「どうぞ」


 中から出てきたのは、細い革紐に小さな木片を通したものだった。


 飾りというには素朴。


 札というには小さい。


 木片には、鳥のような形が彫られている。


「これは?」


「兄が作ったものです」


「お兄様?」


「木を削るのが好きなのです。余ったものをもらいました」


「鳥ですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「兄は馬だと言っていました」


 エステルが木片を見る。


 私も見る。


「……鳥ね」


「お母様」


「私は何も言ってない」


「言いました」


 クララが吹き出した。


「やはり鳥に見えますよね」


「クララまで!」


「兄には言わないでください」


「言いませんけれど」


 エステルはもう一度木片を見る。


「でも、かわいいです」


「馬が?」


「鳥が」


「お嬢様」


 セリーヌが静かに呼ぶ。


「何です?」


「お兄様には、くれぐれも」


「分かっています!」


     *


 二人はそのまま庭へ出ていった。


 私は残った。


 残ったのだけれど。


「……お兄さんがいるのね」


「はい」


「何歳かしら」


「存じません」


「木を削るのが好き」


「左様でございますね」


「エヴァンス男爵家は王都の西」


「先日伺いました」


「それくらいしか知らないのよね」


「はい」


「…………」


「奥様」


「何?」


「調べますか?」


 私はセリーヌを見る。


 セリーヌも私を見る。


「……調べない」


「左様でございますか」


「今は」


「はい」


「でも普通に家同士のお付き合いとして必要になったら調べるわよ」


「もちろんでございます」


「そこは分けるの」


「承知しております」


 そう。


 何も知らないことと。


 何も確認しないことは違う。


 エステルの友人だからといって、相手の家を一切知らないままでいる必要はない。


 でも。


 ゲームにいたか。


 危険か。


 何かのフラグか。


 そういう目で最初から覗き込むのは。


 少し違う。


「……難しいわね」


「何がでございますか?」


「母親」


「今さらでございますね」


「今さら言わないで」


     *


 昼過ぎ。


 私はレオニスと執務室にいた。


「エヴァンス男爵家?」


 書類から顔を上げる。


「知ってる?」


「知っている」


「どんな家?」


「西に小領を持つ男爵家だ。大きくはない。王都にも屋敷がある」


「それは知ってる」


「なら何を聞きたい」


「……何だろう」


 レオニスが私を見る。


「クララ嬢の家だからか」


「そう」


「気になるなら調べればいい」


「それをやりすぎないようにしてるの」


「何故だ」


「エステルが自分で知り合った子だから」


「家同士の付き合いになるなら、必要なことは確認する」


「うん」


「それ以上は、エステルが知ればいい」


「…………」


「違うか?」


「同じことを考えてた」


「なら問題ないだろう」


「あなた、時々すごく簡単に言うわよね」


「複雑にする必要があるのか?」


「それができたら苦労しないのよ」


 レオニスが少し笑った。


「では、一つだけ」


「何?」


「エヴァンス男爵は、王都で目立つ人物ではない」


「うん」


「だが、領地の税や提出物で問題を起こした記憶もない」


「……それ、あなたの中では結構褒めてる?」


「かなり」


 地味。


 でも。


 きちんとしている。


 レオニスがそう言うなら、少なくとも今すぐ警戒するような家ではないのだろう。


「ありがとう」


「ああ」


「もう聞かない」


「そうか」


「今は」


「そうか」


「その顔何?」


「何でもない」


 夫まで。


 最近これを使う。


     *


 夕方。


 クララの迎えが少し遅れることになった。


 使いの者が先に知らせに来たので、問題はない。


 エステルとクララは居間で何かを書いている。


 私は通りかかった。


 本当に。


 今度こそ本当に通りかかった。


「……何してるの?」


「お母様」


「はい」


「通りかかっただけ」


「まだ何も言っていません」


「先に言っておこうと思って」


 最近これも多い。


 卓上には紙が二枚。


 名前がいくつか並んでいる。


「学院の入学前交流会です」


 エステルが言った。


「次は小さな班に分かれるそうです」


「へえ」


「その班で、簡単な課題をするのです」


「課題?」


「王都の施設を一つ選んで、調べてまとめるそうです」


「十二歳で?」


「難しいものではありません」


 クララが紙を指す。


「図書館、施療院、市場、工房などから選ぶそうです」


「楽しそうね」


「お母様」


「何?」


「今、参加したそうな顔をしました」


「してない」


「しています」


「してないわよ」


 したかもしれない。


「班は自分たちで?」


「一部は希望を出せます。ただ、全員希望通りではないそうです」


「なるほど」


 学院に入る前から。


 知らない子と組む。


 話す。


 役割を決める。


 そういう練習なのだろう。


 エステルの紙には。


 クララ。


 それから。


 アレクシス。


 ノエル。


 見覚えのない名前が二つ。


 私は。


 そこで止まった。


 止まっただけ。


 読んだ。


 それだけ。


「お母様」


「何?」


「今、見ましたね」


「見える位置にあるんだもの」


「何を?」


「名前」


 エステルが紙を見る。


「ああ」


 それだけだった。


 前なら。


 誰?


 どこの家?


 ゲームにいた?


 と。


 頭の中が騒がしかったかもしれない。


 今も少し騒がしい。


 でも。


「希望はクララ?」


「はい」


「私はエステル様と」


 クララが答える。


「殿下とノエル様は?」


「アレクは、誰とでもよいそうです」


「ノエルは『面白そうな人』と書いたそうです」


「何その希望」


「先生にも同じことを言われたそうです」


 想像できる。


 ちょっと笑った。


「知らない方と同じ班になるかもしれません」


 エステルが紙を見ながら言う。


「そうね」


「でも」


「うん?」


「前ほど嫌ではありません」


 私はエステルを見る。


「前は嫌だった?」


「嫌というか」


 少し考える。


「どう話せばよいか分からない方と一緒になるのは、面倒でした」


「正直ね」


「今も少し面倒です」


「変わってないじゃない」


「でも、話してみないと分からないとも思います」


 クララが横で笑った。


「私のことですか?」


「クララもです」


「最初は怖い方だと思っていました」


「それはもう聞きました!」


「今も少し怖いです」


「クララ!」


「ほら」


 また。


 二人で笑う。


 私は。


 紙に並ぶ知らない名前を見た。


 それから。


 笑っているエステルを見た。


「お母様?」


「何でもない」


 今度は。


 私が使った。


     *


 迎えの馬車が来た。


 クララは玄関で礼をして。


 エステルに向き直る。


「次の交流会で」


「ええ」


「同じ班になれなかったら?」


「終わったあとに話せばよいでしょう?」


「そうですね」


「それに」


 エステルが少しだけ得意そうに笑う。


「学院に入れば、毎日のように会うのですから」


「まだ一年あります」


「すぐです」


「エステル様は気が早いです」


「クララが遅いのです」


「何がですか?」


「色々です」


「分かりません」


「私も今言って分からなくなりました」


 二人が笑う。


 クララが馬車に乗る。


 扉が閉じる。


 走り出すまで。


 エステルは見送った。


 私は少し後ろにいる。


「お母様」


「何?」


「今日は静かでしたね」


「失礼ね。いつも静かよ」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


 エステルがこちらを見る。


「クララのこと、あまり聞きませんでした」


「聞いてほしかった?」


「いいえ」


「じゃあいいじゃない」


「でも」


 エステルが少し考える。


「少しだけなら、聞いてもよいです」


「…………」


「お母様?」


「何それ」


「何がです?」


「そんなこと言われたら聞きたくなるでしょう!」


「ですから、少しだけです」


「好きな食べ物は?」


「焼き菓子です」


「好きな色は?」


「緑だそうです」


「お兄さんは何歳?」


「十四歳です」


「木彫りはいつから?」


「知りません」


「他には?」


「少しだけと言いました!」


「まだ三つ!」


「十分です!」


 エステルが歩き出す。


「待って。あと一つ」


「駄目です」


「一つだけ」


「駄目です」


「エステル」


「駄目です!」


 私は追いかける。


 前を歩く娘の肩が。


 笑っていた。


     *


 その夜。


 私は例のノートを開いた。


 アレクシス。


 エステル。


 学院。


 リリア・メレット。


 思い出したこと。


 思い出せないこと。


 確かなこと。


 怪しいこと。


 長い時間をかけて。


 何度も書き直してきた。


 私は新しい頁を開く。


 ペンを持つ。


 今日見た。


 知らない二つの名前。


 思い出せる。


 書こうと思えば書ける。


 でも。


 書かなかった。


 代わりに。


 別のことを書く。


 ――学院入学前交流。班別課題あり。


 そこまで。


「……よし」


 何がよしなのか。


 自分でも少し分からない。


 でも。


 ノートは未来を全部知るためのものではない。


 エステルの周りにいる人を。


 全員、ゲームの登場人物かどうか確かめるための名簿でもない。


 必要な時に。


 必要なことを思い出すためのものだ。


 たぶん。


 今は。


 それでいい。


 窓の外は暗い。


 学院まで、あと一年。


 知らない名前は。


 きっと。


 これからもっと増える。


 その全部を。


 私は先に知ることはできない。


 少しだけ寂しくて。


 少しだけ怖くて。


 でも。


 前より。


 少しだけ楽しみだった。




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