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偉いということ


 公爵令嬢というものは、偉いらしい。


 少なくとも。


 七歳のエステルは、そう思っている。


「お母様」


「なあに?」


「わたくしは、公爵令嬢ですわよね?」


「ええ」


「アレクは王子ですわよね?」


「そうね」


「でしたら、アレクの方がわたくしより偉いのですか?」


「…………」


 朝食の紅茶を飲もうとしていた私は、静かにカップを置いた。


(来た)


 こういうの。


 子供って突然聞いてくる。


 しかも。


 適当に答えると、後々ものすごく響きそうなやつ。


 向かいではエステルが、真剣そのものの顔で私を見ている。


「どうしてそう思ったの?」


「昨日、先生が仰っていました」


「何と?」


「王家は、この国で最も尊い家なのだと」


「ああ……」


 なるほど。


 間違ってはいない。


 間違ってはいないけれど。


(七歳相手に、その説明だけ置いていかないでほしい)


 私は家庭教師への苦情を頭の隅に予約した。


「それで?」


「でしたら、王子であるアレクは、わたくしより偉いのかと思いまして」


「アレクは何て?」


「聞いておりません」


「どうして?」


「本人に聞くのは、何だかずるい気がしましたので」


 何がずるいのか分からない。


 でもエステルの中では何かあるらしい。


「お母様は、どう思いますの?」


「そうねえ……」


 私は少し考えた。


 身分制度のある世界で。


 王子と公爵令嬢は平等です!


 なんて言えば、それはそれで嘘になる。


 権限も。


 責任も。


 社会的な立場も違う。


 でも。


 人間そのものに上下がある。


 という話にしてしまうのは、もっと違う。


「立場としては、アレクの方が上ね」


「やはり」


「でも、それはアレクの方が人として偉い、という意味ではないわ」


 エステルが眉を寄せた。


「違うのですか?」


「違うわ」


「では、何が違いますの?」


「…………」


(難しい)


 七歳向け。


 七歳向けに。


 私は言葉を探した。


「例えば」


 ちょうど給仕をしていたセリーヌを見る。


「セリーヌ」


「はい」


「私とあなたでは、家の中でどちらの立場が上?」


「奥様でございます」


「では、どちらが美味しい紅茶を淹れられる?」


「私でございます」


 即答。


「少しくらい迷って?」


「事実でございますので」


「ほら」


 私はエステルを見る。


「私の方が立場は上。でも、紅茶ならセリーヌの方がずっと上手」


「それは分かります」


「……何故そこで即答なの?」


「事実ですもの」


 娘までセリーヌ側についた。


「では、お母様はセリーヌより偉くないのですか?」


「そういう話でもないのよねえ……」


 我ながら例えが悪かったかもしれない。


 その時。


「立場とは、できることの範囲だ」


 低い声がした。


 エステルが振り向く。


「お父様」


 いつの間にか。


 レオニスが食堂へ入ってきていた。


 今日は王宮への出仕が遅いらしい。


「できることの範囲?」


「そうだ」


 レオニスが席につく。


 セリーヌが当然のように紅茶を用意した。


「私には、グランヴェル家の領地について決める権限がある」


「はい」


「領民には、その権限はない」


「はい」


「だから私の方が偉いと思うか?」


 エステルが少し考えた。


「……違うのですか?」


「違う」


 レオニスははっきり言った。


「私の方が、多くの責任を負っているということだ」


 エステルが黙る。


 レオニスは続けた。


「私の判断一つで、多くの人間の生活が変わる」


「…………」


「だから、好き勝手に決めてよいという意味ではない」


 その声音は。


 いつもの家での柔らかい父親というより。


 公爵レオニス・グランヴェルのものだった。


「むしろ逆だ」


 レオニスは娘を見る。


「お前はいずれ、多くの者の上に立つ」


「はい」


「それは、お前が彼らより偉いという意味ではない」


 一拍。


「彼らより多くの責任を負うということだ」


 エステルは。


 じっと父親を見ていた。


(……やっぱり、この人すごいわ)


 悔しい。


 私がさっきから必死に例え話を考えていたのに。


 一発で終わらせた。


「では」


 エステルが訊く。


「アレクは、わたくしよりたくさん責任があるのですか?」


「そうなるな」


「王子ですものね」


「ああ」


「でしたら、大変ですわね」


「そうだな」


「…………」


 エステルが何か考えている。


 嫌な予感がした。


「エステル?」


「もっと鍛えなくては」


「何を?」


「全部です」


「待って」


 方向が違う。


     ◇


 数日後。


 王宮から招待があり、私たちは昼過ぎから城を訪れていた。


 公的な行事ではない。


 王妃主催の、比較的気楽な茶会だ。


 大人同士の話が中心で。


 子供たちは隣接した庭園で自由に遊んでいる。


 エステルは当然のようにアレクを見つけ。


「アレク!」


「走るなって、また怒られるぞ」


「まだ走っておりません!」


「今から走ろうとしてた」


「…………」


「図星?」


「うるさいですわ」


 いつもの二人だ。


 私は少し安心した。


 第一王子と未来の王妃候補。


 という言葉だけで見れば。


 大層な組み合わせなのだけれど。


 実態は。


 相変わらずこれだ。


 このままでいてほしい。


 本当に。


 そう思う。


     ◇


 事件というほどのものでもなかった。


 庭園の端。


 子供たち用の飲み物や菓子を運んでいた若い使用人が。


 足を滑らせた。


「あっ」


 銀の盆が傾く。


 グラスが落ちる。


 甲高い音。


 一つ。


 二つ。


 割れた。


 周囲の子供たちが振り返る。


「申し訳ございません!」


 使用人の少年は、すぐに膝をついた。


 十四、五歳くらいだろうか。


 顔が真っ青だ。


 幸い。


 誰かに飲み物がかかったわけでもない。


 怪我もない。


 だから。


 本来なら。


 大人が来て片づけて。


 注意を受けて。


 それで終わる話だった。


「何をしているんだ」


 一人の少年が言った。


 エステルたちより少し年上。


 どこかの伯爵家の子だったはずだ。


「王宮で物を割るなんて」


「申し訳ございません」


「使えないな」


 使用人の少年がさらに小さくなる。


 私は眉を寄せた。


 そこまで言わなくても。


 そう思った時。


「あなた」


 エステルの声がした。


(あ)


 嫌な予感。


 いや。


 良い意味か悪い意味かは分からないけれど。


 エステルが出た。


「何だよ」


「今、何と仰いましたの?」


「使えないって言ったんだ」


「何故ですの?」


「だって、皿も満足に運べないんだぞ」


 少年は当然のように言う。


「僕たちのために働いているくせに」


 その瞬間。


 エステルの顔が変わった。


 怒った。


 分かりやすく。


(ああ……)


 これは。


 止めるべきか。


 少しだけ見守るべきか。


 私は迷った。


「でしたら」


 エステルが言う。


「あなたは、あの盆を一度も落とさずに運べますの?」


「は?」


「運べるのでしょう?」


「僕はそんなことをする必要はない」


「では、どうして簡単だと分かりますの?」


「…………」


「自分ではできないことをしている人を、失敗したからと笑うのはおかしいですわ」


 少年の顔が赤くなる。


「笑ってない!」


「使えない、と仰いました」


「それは……」


「それに」


 エステルは割れたグラスを見る。


「転んだ理由も聞いておりません」


 使用人の少年が顔を上げた。


「床が少し濡れておりました」


「どこですの?」


「あちらです」


 見ると。


 確かに。


 庭園の散水の水が石畳へ流れていた。


 少年の靴跡もある。


「でしたら」


 エステルが振り返る。


「この方だけの失敗ではないのでは?」


「エステル」


 アレクが呼ぶ。


「うん?」


「まず、人を呼ぼう」


 エステルが瞬く。


「割れたガラスが危ない」


「……そうですわね」


(いいコンビ)


 アレクが近くの侍女へ声をかける。


 侍女たちがすぐに動いた。


 使用人の少年も立ち上がり。


「申し訳ありませんでした」


 何度も頭を下げる。


 すると。


「怪我は?」


 アレクが訊いた。


「え?」


「手」


 少年の指に、小さな切り傷があった。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


 アレクは侍女を見る。


「手当てを」


「かしこまりました」


 少年が連れていかれる。


 その背中を。


 エステルは少し不満そうに見送った。


「どうした?」


「わたくしも気づきましたわ」


「何に?」


「手です」


「僕の方が先だった」


「一瞬です」


「僕が先」


「次は負けません」


「何の勝負?」


 本当に。


 何の勝負なの。


     ◇


 その日の帰り。


 私は馬車の中でエステルへ訊いた。


「さっき、どうして怒ったの?」


「さっき?」


「使用人の子のこと」


「ああ」


 エステルが少し考える。


「おかしいと思いましたので」


「何が?」


「失敗しただけでしょう?」


「ええ」


「わざとではありません」


「そうね」


「それに、あの方は仕事をしておりました」


 エステルは言う。


「わたくしたちのために」


「…………」


「でしたら、失敗した時に笑うのは違います」


 私は少し驚いた。


「誰かにそう教わった?」


「いいえ」


「お父様?」


「違います」


「先生?」


「違いますわ」


「じゃあ、どうして?」


 エステルが。


 ものすごく不思議そうな顔をした。


「だって」


「うん」


「頑張っている人を笑うのは、嫌ですもの」


 胸の奥。


 何かが。


 静かに落ちた。


「……そう」


 それだけしか言えなかった。


 画面の中の彼女が。


 一瞬。


 脳裏をよぎった。


 学院で。


 平民の少女を見下ろすエステル。


 選ばれた自分と。


 選ばれていない相手。


 貴族と平民。


 未来の王妃と。


 ただの奨学生。


 そういうものが。


 いつの間にか。


 彼女の中で。


 勝つ理由になってしまったのだろうか。


 分からない。


 ゲームの細かな台詞なんて、ほとんど思い出せない。


 でも。


 覚えている。


 嫌な表情。


 嫌な言葉。


 そして。


 それ以上に。


 その奥にあった。


 必死さを。


 あの子だって。


 本当は。


 努力することの価値を誰より知っていたはずなのに。


 だからこそ。


 自分の努力だけが、報われなくなった時。


 壊れた。


「お母様?」


「何?」


「また変なお顔ですわ」


「どんな顔?」


「泣くのか笑うのか分からない顔です」


「…………」


 七歳。


 容赦がない。


「大丈夫よ」


 私は娘の髪を撫でた。


「少し、嬉しかっただけ」


「何がですの?」


「あなたが」


 言いかけて。


 やめた。


 偉い。


 とは言いたくなかった。


 今日の話の後では。


「あなたらしいな、と思って」


 エステルは首を傾げた。


     ◇


 夜。


 レオニスに今日のことを話した。


 彼は書類から目を上げ。


「そうか」


 それだけ言った。


「反応薄くない?」


「何を期待している」


「もっとこう……」


「立派に育ったな、と?」


「そう、それ」


「立派に育っている」


「なら言ってあげればいいのに」


「言っている」


「いつ?」


「必要な時に」


「それ、絶対足りないやつよ」


 レオニスが黙る。


 少しだけ考えている顔。


(効いた)


「でも」


 私は隣に座った。


「今日、おかしいと思ったの」


「何がだ」


「エステルが怒った理由」


 私は昼間のやり取りを思い出す。


「身分が低い相手だから庇ったんじゃないのよ」


「……ああ」


「可哀想だからでもない」


 あの子は。


 そういう庇い方をしていなかった。


 ただ。


 頑張っている人間を。


 努力も知らずに笑うことが。


 嫌だった。


「エステルらしい」


 レオニスが言う。


「ええ」


「お前に似たな」


「私?」


「そうだ」


「どこが?」


「人の努力を軽く扱う者を嫌うところだ」


「…………」


 思わず。


 言葉に詰まった。


「私、そんなに分かりやすい?」


「かなり」


 そうなのか。


「お前は自分では隠しているつもりらしいが」


「待って」


「何だ」


「それ以上言うと夫婦喧嘩になるわよ」


「事実だ」


「セリーヌみたいなこと言わないで」


 レオニスが。


 ほんの少し笑った。


「ただ」


「うん?」


「今日のことは、覚えておかせた方がいい」


「どうして?」


「エステルはいずれ、本人が望むかどうかに関わらず、多くの者から頭を下げられる立場になる」


 私は黙る。


「頭を下げられることに慣れると、それが当然だと錯覚する」


「…………」


「だから、今のうちに知っておくべきだ」


 レオニスは書類を閉じた。


「自分の生活が、多くの者の働きで成り立っていることを」


 公爵。


 王家から絶大な信頼を受ける男。


 人の上に立つことを。


 生まれた時から当然としてきた人。


 だからこそ。


 この人は。


 その意味を。


 ずっと考えてきたのかもしれない。


「レオニス」


「何だ」


「あなた、本当に良い父親ね」


「…………」


 顔は変わらない。


 でも。


 視線が少しだけ逸れた。


(また照れてる)


 言わない。


 今日は。


 言わないでおいてあげよう。


     ◇


 翌朝。


 私はエステルを連れて、屋敷の裏手へ向かった。


「お母様、どちらへ?」


「厨房よ」


「厨房?」


 公爵令嬢が普段入る場所ではない。


 だからこそ。


 エステルは興味津々だった。


 扉を開ける。


 熱気。


 香り。


 忙しく動く人々。


 料理人。


 下働き。


 給仕。


 朝食が終わったばかりなのに、もう昼食の準備が始まっている。


「……こんなにたくさん」


 エステルが呟いた。


「そうよ」


 私は言う。


「あなたが毎日食べているものを用意するために、これだけの人が働いている」


 次に洗濯場。


 次に馬小屋。


 庭師たち。


 使用人の仕事場。


 帳簿を扱う執務室。


 一つずつ。


 回った。


 エステルは。


 最初こそ物珍しそうだった。


 でも。


 段々。


 黙って見ていた。


「お母様」


「何?」


「皆、忙しいのですね」


「そうね」


「わたくしたちが寝ている時も?」


「働いている人はいるわ」


「朝、起きる前から?」


「もちろん」


「…………」


 その顔を見て。


 私は。


 少しだけ。


 あの日を思い出した。


 生まれたばかりのエステル。


 小さくて。


 赤くて。


 皺くちゃで。


 ただ。


 生きているだけだった子。


 あれから七年。


 私は。


 この子を守ろうと。


 必死だった。


 でも。


 子供は。


 守られているだけでは育たない。


 誰かに支えられていることを。


 知って。


 それを受け取って。


 いつか。


 誰かを支える側になる。


「エステル」


「はい」


「昨日、お父様が言っていたでしょう?」


「はい」


「上に立つということは、たくさん責任を負うということだって」


「覚えております」


「あなたの生活は、こういう人たちに支えられている」


「はい」


「だから」


 私は娘を見る。


「いつかあなたが誰かの上に立つ時は、その人たちの生活を支える側にもなりなさい」


 エステルは。


 しばらく黙っていた。


 そして。


「それが、公爵令嬢ですの?」


 私は微笑んだ。


「少なくとも、お父様と私はそう思っているわ」


「…………」


「難しい?」


「少し」


「今すぐ全部分からなくていいのよ」


「でも」


 エステルが顔を上げる。


「覚えておきますわ」


「ええ」


「忘れたら?」


「その時はまた教える」


「何度でも?」


「何度でも」


 エステルは。


 少し笑った。


     ◇


 その夜。


 帳面を開いた。


『エステルは負けず嫌い』


『負けると悔しい』


『だから努力する』


『相手の努力まで否定しない』


 前の頁。


 私はその下へ。


 今日のことを書いた。


『立場が上=人として偉い、ではない』


『上に立つ=多く責任を負う』


 少し考えて。


 もう一行。


『支えられていることを知る』


 そして。


『いつか、支える側になる』


 ペンを止める。


 画面の中のエステル。


 誇り高く。


 美しく。


 誰より努力して。


 それでも。


 最後には。


 自分より下だと思った少女を。


 排除しようとした。


 でも。


 今のこの子は。


 たぶん。


 簡単には。


 誰かを下だとは思わない。


 身分の違いを知らないわけではない。


 それを無くしたわけでもない。


 公爵令嬢であることを。


 誇りにも思っている。


 それでいい。


 私は。


 エステルから誇りを奪いたいわけではない。


 むしろ。


 堂々と胸を張る子でいてほしい。


 ただ。


 その誇りが。


 誰かを見下ろすための高さではなく。


 誰かを守るために。


 背筋を伸ばす理由になればいい。


「…………」


 私は帳面の最後に書いた。


『誇りは、上を見るために使う』


 少し考えて。


 付け足す。


『下を見るためではない』


 書いてから。


「……ちょっと格好つけすぎたかしら」


 独り言が漏れた。


 扉のそばから。


「少々」


 声がした。


「セリーヌ!」


「お茶をお持ちいたしました」


「いつからいたの?」


「『誇りは、上を見るために使う』あたりから」


「ほぼ一番恥ずかしいところ!」


「ご安心ください」


 セリーヌは無表情で茶を置く。


「誰にも申しません」


「本当に?」


「奥様がご自分から披露なさる可能性は残っておりますが」


「しないわよ!」


「では問題ございません」


 何なの。


 このメイド。


 私はため息をついて。


 もう一度、帳面を見る。


 破滅フラグ。


 そう呼べるような。


 分かりやすい出来事は。


 今日もなかった。


 でも。


 たぶん。


 これでいい。


 王子と友達になる。


 負けても。


 相手を憎まない。


 頑張っている人を。


 笑わない。


 立場の高さを。


 人間の価値と間違えない。


 一つ一つは。


 小さい。


 ゲームなら。


 イベントですらないかもしれない。


 けれど。


 人が壊れるのだって。


 きっと。


 一日ではない。


 だったら。


 人が育つのも。


 一日ではない。


 私は帳面を閉じた。


 破滅する未来を。


 派手に叩き壊すことばかり考えていたけれど。


 もしかすると。


 一番強いのは。


 破滅する場所へ辿り着いた時。


 もう。


 そこを選ばない人間になっていることなのかもしれない。


 そのためなら。


 私は。


 何年だって。


 この子と一緒に。


 こんな日を積み重ねていこう。


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