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負けず嫌いの育て方


 エステルは、負けず嫌いだ。


 それはもう、見事なくらいに。


「もう一度ですわ!」


「嫌だ」


「何故ですの!」


「もう三回やったから」


「まだ三回です!」


「三回も、だよ」


 庭から聞こえてくる声に、私は読んでいた手紙から顔を上げた。


 窓の向こう。


 七歳になったエステルとアレクが、木剣を手に向かい合っている。


 正確には、向かい合っていた。


 今はエステルだけが木剣を構え、アレクはさっさとそれを片づけようとしている。


「今日は一度も勝っておりません!」


「だからだよ。続けても同じだって」


「やってみなければ分かりませんわ!」


「疲れてるだろ」


「疲れておりません!」


「さっきから剣が下がってる」


「下がっておりません!」


「下がってる」


「下がって――」


 エステルが自分の木剣を見る。


 下がっていた。


「…………」


 すっと上げた。


「ほら」


「今は下がっておりません」


「そういう話じゃない」


 私はそっと手紙を机へ置いた。


(今日も元気ねえ)


 微笑ましい。


 実に微笑ましい。


 ただし。


 母親としては、少しだけ気になる。


     ◇


「エステル」


「はい、お母様」


「負けるのは、お嫌い?」


「嫌いですわ」


 即答だった。


 昼食の席。


 レオニスは王宮へ出ているため、今日は私とエステルの二人だけだ。


 先ほどまでアレクと剣を振っていた娘は、もう綺麗に着替えている。


 姿勢もいい。


 食事の作法も、七歳とは思えないほど身についている。


「どうして?」


 私が尋ねると、エステルは少し考えた。


「負けると、悔しいからです」


「ええ」


「勝つと、嬉しいです」


「ええ」


「ですから、負けるのは嫌いですわ」


 何という明快な理屈だろう。


(七歳!)


 妙に安心した。


 これで「グランヴェル家の者として敗北は許されません」とか言い出したら、私は食事どころではなくなるところだった。


「では、負けた相手も嫌いになります?」


「いいえ?」


 エステルが不思議そうな顔をする。


「どうしてですの?」


「例えば、アレクに負けたら」


「悔しいです」


「アレクが嫌いになる?」


「なりませんわ」


「では、どうするの?」


「次は勝ちます」


 また即答。


 私は笑った。


「そう」


「はい」


 エステルは肉を一口大に切りながら続けた。


「それに、アレクは強いですから」


「強い相手に負けるのは、嫌ではないの?」


「嫌です」


 そこは嫌なのね。


「でも」


 エステルの手が止まった。


「強い人に勝てた方が、嬉しいでしょう?」


 紫の瞳が輝く。


「ですから、もっと強くなってもらわなくては困りますわ」


(なるほど)


 相手を引きずり下ろすという発想が、今のところない。


 むしろ上がれ。


 私も上がるから。


 そういうことらしい。


 私は安堵しかけて。


 ふと。


 前世の記憶が胸を掠めた。


 画面の中の彼女。


 学院で、誰より美しく。


 誰より堂々として。


 誰よりも必死だった少女。


 彼女だって。


 最初から誰かを傷つけようとしていたわけではない。


 負けたくなかっただけだ。


 努力して。


 努力して。


 努力して。


 それでも、届かなかった。


 だから。


 いつからか。


 自分が上へ行くのではなく、相手を下へ落とすことを選んだ。


「お母様?」


「……何でもないわ」


 私は微笑んだ。


 エステルは、この子だ。


 画面の中で見た少女ではない。


 でも。


 同じ強さを持っている。


 同じ負けず嫌いを持っている。


 だったら。


 その強さを消してはいけない。


 私はずっと、そう思っていた。


     ◇


 その日の午後。


 思いがけず、その答え合わせをする機会が来た。


「……もう一度、お願いします」


 庭の片隅。


 エステルが木剣を握っていた。


 向かいにいるのは、アレクではない。


 グランヴェル家で剣術を教えている騎士だ。


 もちろん、七歳の令嬢に本気で剣を振るうはずもない。


 基本の構え。


 足運び。


 相手との距離。


 そういったものを教えるための稽古である。


 私は少し離れた場所から見ていた。


「お嬢様。本日はここまでにいたしましょう」


「まだできます」


「腕が上がらなくなっております」


「上がります」


 エステルが木剣を構える。


 確かに上がった。


 でも、震えている。


「エステル」


 私が呼ぶ。


「はい、お母様」


「先生の仰ることを聞きなさい」


「……はい」


 不満そうだ。


 それでも木剣を下ろした。


 騎士が一礼して去っていく。


 私はエステルのそばへ歩いた。


「悔しい?」


「……はい」


「何が?」


「できませんでした」


 エステルは俯いた。


「教えていただいた通りにしたつもりなのに、できませんでした」


「そう」


「もっとやれば、できると思います」


「そうね」


「ですから――」


「今日は終わり」


「お母様」


「続きは明日です」


「でも」


「エステル」


 私は娘の前にしゃがんだ。


「できるようになるまでやる。それは、とても立派なことよ」


 六歳の頃。


 この子が言った言葉を思い出す。


 できるようになるまで、やるのです。


 私は、あの言葉が好きだった。


 今も好きだ。


「でもね」


 小さな手を取る。


 掌が赤い。


 木剣を握り続けたせいだ。


「できるようになるために、今日はやめることもあるの」


「…………」


「手を傷めたら、明日はできなくなるでしょう?」


「……はい」


「疲れている時に無理をして、間違った動きを覚えてしまうこともあるわ」


「はい」


「だから、休むのも練習のうち」


 エステルが難しい顔をした。


「休むのに、練習なのですか?」


「そうよ」


「何もしていないのに?」


「何もしないことをするの」


「…………」


 ものすごく納得していない顔だ。


(分かる)


 七歳の私でもたぶん納得しない。


「では」


 エステルが言う。


「今日は手を休めながら、本を読んでもよろしいですか?」


「いいわよ」


「剣術の本を」


「…………」


「お母様?」


「いいわ」


 私は笑った。


(強いわ、この子)


     ◇


 数日後。


 王宮で、子供たちの小さな集まりが開かれた。


 大人たちの社交に付随した、ごく簡単なものだ。


 同年代の貴族の子供たちが集まり、茶を飲んだり、庭で遊んだりする。


 エステルも参加した。


 アレクもいる。


 私は少し離れた場所で、他の夫人たちと話をしていた。


 その時だった。


「まあ、エステル様でも負けることがあるのですね」


 少女の声がした。


 思わず視線を向ける。


 子供たちが輪になっている。


 中央に小さな盤。


 どうやら簡単な数字遊びをしていたらしい。


 エステルの前には、二枚の札。


 向かいの少年には、三枚。


 負けたのだろう。


「もちろんありますわ」


 エステルは平然としている。


「でも、いつも何でもおできになるから」


「それと負けないことは別でしょう?」


 少女が少し戸惑った。


「悔しくありませんの?」


「悔しいですわ」


「では――」


「ですから」


 エステルが向かいの少年を見る。


「次は負けませんわよ」


「えっ」


「もう一度お願いできます?」


 少年が目を丸くして。


 それから笑った。


「いいよ」


 盤が組み直される。


 私は胸を撫で下ろした。


(よし)


 ところが。


「でも」


 別の少年が言った。


「エステル様はアレクシス殿下の婚約者なんだから、負けたら駄目なんじゃない?」


 私の指が止まった。


 子供の言葉だ。


 悪意などない。


 たぶん、大人から聞いた言葉をそのまま口にしただけ。


「将来は王妃様になるんでしょう?」


 もう一人が続ける。


「だったら、一番じゃないと」


 エステルが黙った。


 胸の奥に。


 嫌なものが走った。


 知っている。


 こういう言葉を。


 何度も。


 何度も重ねられて。


 画面の中の彼女は。


『アレクシス様の隣に立つ者として』


『誰より優れていなくては』


『負けるわけにはいかないのです』


 そうやって。


 自分を追い込んでいったのではなかったか。


 立ち上がろうとした。


 けれど。


「どうしてですの?」


 エステルの声がした。


 私は止まった。


「え?」


「どうして、アレクの婚約者だと負けてはいけませんの?」


 少年が困った顔をする。


「だって……王妃様になるから」


「王妃になれば、何でも一番になれるのですか?」


「それは……」


「お母様は公爵夫人ですけれど、剣ならお父様の方が強いですわ」


(例えが身内)


「お父様は計算がとてもお得意ですけれど、刺繍はお母様の方がお上手です」


(レオニス、刺繍したことあるの?)


 今度聞こう。


「セリーヌはお茶を淹れるのが上手ですし、料理長はお菓子を作るのが上手です」


 エステルは首を傾げた。


「全部一番の人なんて、いないでしょう?」


 誰も答えない。


「それに」


 エステルは盤を見る。


「わたくしが負けたということは、この方がわたくしより上手だったということでしょう?」


 向かいの少年を見る。


「でしたら、すごいのはこの方ですわ」


「……僕?」


「ええ」


 エステルは少しだけ悔しそうに唇を尖らせた。


「とても悔しいですけれど」


 少年が笑う。


「じゃあ、もう一回やる?」


「もちろんですわ!」


 子供たちの空気が戻る。


 私は立ち上がりかけていた身体を、そっと椅子へ戻した。


「奥様?」


 隣の夫人が不思議そうに私を見る。


「何でもありませんの」


 微笑む。


 でも。


 胸の中では。


(…………)


 泣きそうだった。


 私が教えた言葉ではない。


 少なくとも。


 今の言葉を、そのまま教えた覚えはない。


 この子が。


 自分で考えたのだ。


     ◇


 帰りの馬車。


「エステル」


「はい?」


「今日の数字遊び、負けたの?」


「はい」


「悔しかった?」


「とても」


「そう」


「ですが、二回目は勝ちましたわ」


「まあ」


「三回目は負けました」


「あら」


「ですから、一勝二敗です」


 エステルが腕を組む。


「次にお会いするまでに練習いたします」


「そう」


 私は笑う。


「お母様」


「何?」


「どうして笑っていますの?」


「嬉しいから」


「わたくし、負けましたのに?」


「ええ」


「変なお母様ですわ」


「そうね」


 私は娘の髪を撫でた。


 深いワインレッドの髪。


 その向こうに。


 一瞬だけ、画面の中の彼女が見えた気がした。


 負けることを許せなくなった少女。


 誰かより劣っている自分を許せなくなった少女。


 誰より努力したからこそ。


 努力しても届かないことを、受け入れられなくなった少女。


 私は、あの子を弱くしたかったわけではない。


 負けず嫌いを直したかったわけでもない。


 誇りを捨てさせたかったわけでもない。


 だって。


 そこは全部。


 私が、あの子を好きだった理由でもあるから。


「エステル」


「はい」


「次は勝てるといいわね」


「勝ちますわ」


「でも、また負けるかもしれないわよ?」


「でしたら、その次に勝ちます」


「その次も負けたら?」


「さらに、その次です」


「ずっと勝てなかったら?」


 エステルが考える。


 かなり長く考える。


 そして。


「……もっと練習します」


 私は吹き出した。


「お母様!」


「ごめんなさい」


「笑うところではありませんわ!」


「ええ。そうね」


 笑いながら、娘を抱き寄せる。


「それでいいと思うわ」


 エステルは不満そうだった。


 でも。


 逃げなかった。


 負けた相手から。


 負けた自分から。


 悔しいという気持ちから。


 全部を抱えたまま。


 次へ行こうとしている。


 それでいい。


     ◇


 その夜。


 私は帳面を開いた。


 最近、この時間が習慣になっている。


 最初の頁には。


『エステル・グランヴェル』


『第一王子アレクシスと幼少期に婚約』


『学院入学後、主人公とアレクシスが恋愛関係に』


『エステル、破滅』


 そして。


『まず、友達になる』


 少し後ろには。


『婚約者になる前に、友達でいること』


 私は新しい頁を開いた。


『エステルは負けず嫌い』


 知っている。


 ずっと知っている。


 前世から。


『負けると悔しい』


『だから努力する』


 ここまでも同じ。


 私はペンを止めた。


 では。


 どこから違ったのだろう。


 画面の中の彼女は。


 いつから。


『だから、もっと努力する』


 ではなく。


『だから、負ける相手がいなくなればいい』


 という場所まで追い詰められたのだろう。


 思い出せない。


 ゲームの細かな筋書きは、相変わらず霧の中だ。


 でも。


 今は。


 少しだけ分かる。


 破滅する未来を避けるために。


 エステルを別人にする必要はない。


 私は、その一文を書いた。


『この子を、別の子にしない』


 その下に。


『負けず嫌いでいい』


『悔しがっていい』


『勝ちたいと思っていい』


 そして最後に。


『ただし、相手の努力まで否定しない』


 そこで。


 ふと、手が止まった。


 今日。


 エステルは言った。


『わたくしが負けたということは、この方がわたくしより上手だったということでしょう?』


『でしたら、すごいのはこの方ですわ』


 私は何も言っていない。


 あの場では。


 何も助けていない。


「……あ」


 声が漏れた。


 これまで私は。


 娘の未来を変えようとしていた。


 間違った道へ行かないように。


 破滅しないように。


 私が。


 私が。


 私が。


 そう思っていた。


 でも。


 今日。


 エステルは自分で考えて。


 自分で答えを出した。


 私の知らないところで。


 私が用意していない言葉で。


「……そっか」


 少しだけ。


 寂しい。


 そして。


 それ以上に、嬉しい。


 未来を選べる娘に育てよう。


 あの日。


 私はそう決めた。


 ならば。


 いつかは。


 私が選ばなくても、この子が自分で選べるようにならなくてはいけない。


 私は帳面の最後に、小さく書いた。


『エステル自身が、折ることもある』


 書いてから。


 しばらく、その文字を見つめた。


 破滅フラグを折るのは、私の仕事だと思っていた。


 でも。


 もしかすると。


 それは最初から、少しだけ違っていたのかもしれない。


 私は未来を知っている。


 だから危険な場所を教えることはできる。


 転ばないように手を差し出すこともできる。


 けれど。


 歩くのは、この子だ。


 そして。


 いつか。


 私の知らない道へ進むのも。


 きっと――この子自身なのだ。


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