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雨上がりの便り


 雨の日から、五日が過ぎた。


 朝から、よく晴れていた。


 庭にはもう水たまりもなく、窓を開けると乾いた芝が朝の光を返している。


「お母様!」


 朝一番。


 窓を開けたエステルが振り返った。


「晴れましたわ!」

「本当ね」

「今日も石蹴りができます!」

「まず朝食でしょう」

「そのあとです」

「勉強は?」

「そのあとです」

「順番が違わない?」

「大丈夫です」


 何が。


 大丈夫なのか。


 でも。


 朝からエステルは本当に嬉しそうだった。


 レオニスは新聞を読み、セリーヌはいつものように朝食を整えている。


 朝から平和だ。


 あの日、胸の奥にあった冷たさも、今は少しだけ遠い。


 何も起きなかった。


 その事実は。


 思っていたより大きかった。


          ◇


 朝食の途中。


「お嬢様」


 セリーヌが一通の封筒を差し出した。


「フェルディア子爵家より、お手紙でございます」


「シオン様からですわ!」


 差出人を見たエステルの顔が明るくなる。


 あの日の午後に出した手紙。

 その返事が、ようやく届いたらしい。


 エステルが封を切る。


 可愛らしい文字。


 すぐ読み始める娘。


 目が早い。


「お母様、一緒に読んでも?」

「もちろん」


 便箋には。


 先日の雨のこと。


 剣の稽古が屋内になったこと。


 そして。


『兄上は朝から見回りへ行きましたが、お昼前には帰ってきました。母上にずいぶん叱られていました。濡れたまま廊下へ入ったからだそうです。』


 その下には。


『雨で外に出られなかったので、兄上と盤遊びをしました。三回負けましたが、四回目は僕が勝ちました。兄上は「たまたまだ」と言いました。』


 私は思わず笑った。


「何ですか?」

 エステルが聞く。

「ユリウス様、帰ってからお母様に叱られたみたい」

「どうしてです?」

「濡れたまま屋敷へ入ったから」

「……」


 エステルが一拍考える。


「それは叱られますわ」

「でしょう?」

「お兄様でも」

「十六歳でも」

「はい」


 レオニスが紅茶を飲みながら言った。


「どこの家も同じだな」

「あなたも雨の日、濡れたまま入ったことあるでしょう」

「ない」

「あります」

 セリーヌが即答した。

「いつ」

「三年前でございます」

「覚えてるの?」

「旦那様が玄関から書斎まで足跡を」

「セリーヌ」

「失礼いたしました」

「失礼なのは覚えてることじゃない?」

 私が笑う。


 レオニスは咳払いを一つ。


「昔の話だ」

「三年前」

「昔だ」

「お父様も叱られたのですか?」

「少し」

「誰に?」

「お母様」


 エステルが嬉しそうに私を見る。


「お母様は強いですわね」

「違うわよ」


 マーリンお母様には勝てない。


 あの人なら。


 二回言う。


 絶対。


 シオンの手紙を最後まで読む。


『次は晴れの日に伺えたら嬉しいです。エステル嬢とアレク様にもよろしくお伝えください。』


「アレクにも書いてる」

「仲良しですもの」

 エステルが言う。


 そう。


 今の三人は。


 ちゃんと友達になり始めている。


 ゲームの盤面なんて関係なく。


 普通に。


 それが。


 少し嬉しい。


          ◇


 午前。


「石蹴りは午後です」


 セリーヌが先に釘を刺す。


「何で?」

 エステル。

「午前のお勉強がございます」

「終わったら?」

「お昼でございます」

「そのあとです」


 朝と同じ答え。


 ぶれない。


「では、それまでは何をしましょう」

 エステルが考える。


「お勉強」

「分かっています」

「終わったら読書」

「昨日読んだ本の続きを読みます」

「それでいいじゃない」


 エステルは本を抱えて書庫へ向かった。


 私はその背中を見送る。


 静かな午前。


 帳面は。


 今日は開かなかった。


 あの日までなら。


 きっと気になったことがあれば、すぐ開いていた。


 でも。


 今は。


 少しだけ待てる。


 先日。


 記憶の中と似た雨が降った。


 同じように道が閉じた。


 それでも何も起きなかった。


 似ている日と。


 その日。


 それは別。


 その感覚を。


 忘れたくない。


「奥様」

「何?」

「今日は帳面を開かれませんね」

「開きたい?」

「いいえ」

「じゃあ言わなくていいでしょう」

「確認です」

「またそれ」


 セリーヌが微笑む。


「ですが」

「何?」

「少し安心いたしました」

「どうして」

「あの日は、奥様のお心がずっと遠くにございましたので」

「……そんなに?」

「はい」


 少し考える。


 遠く。


 確かに。


 橋の向こうばかり見ていた。


 今は。


 ここ。


 庭。


 書庫。


 エステルのページをめくる音。


 そっちが聞こえる。


「ありがとう」

「何がです?」

「戻してくれたから」

「私は何もしておりません」

「そういうことにしておく」


 紅茶を一口。


 今日は。


 ちゃんと美味しい。


          ◇


 昼過ぎ。


 庭が乾いた。


「お母様!」


 待ってました。


 という顔。


「まだ何も言ってないでしょう」

「言う前から分かります」

「便利ね」

「夫婦ではありませんけれど」

「そこは似なくていいの」


 結局。


 石蹴り。


 今日はエステル一人ではない。


 レオニスもいる。


「あなた仕事は?」

「終えた」

「先日も聞いた」

「今日も終えた」

「何故そんなに石蹴りに本気なの」

「娘が挑んでくる」

「お父様が挑んでいらっしゃいます」

「違う」

「同じです」


 始まる。


 私は見学。


 今日は本当に。


 見学。


「お母様も」

「やらない」

「一回だけ」

「やらない」

「一度」

「エステル、それ最近覚えた言い方?」

「便利です」


 便利じゃない。


 石が滑る。


 乾いた地面。


 軽い音。


「一勝目ですわ!」

「まだ一勝だ」

「一勝は一勝です」

「もう一度」

「望むところです」


 父娘。


 本当に。


 飽きない。


 そこへ。


「エステル!」


 門の方から声。


 アレクだった。


「アレク様!」

「こんにちは」


 王子様が普通に庭へ走ってくる。


 護衛が少し困っている。


「今日は王宮のお勉強終わったの?」

「うん。午後は自由って言われたから」

「石蹴りですわ」

「見れば分かる」


 アレクが笑う。


「僕も入っていい?」

「もちろん!」


 三人。


 久しぶり。


 エステル。


 アレク。


 シオンは今日はいない。


 でも。


 約束は続いている。


「シオン様からお手紙来ましたわ」

「本当?」

「兄上に勝った話です」

「一度だけ?」

「はい」

「何で知ってるの」

「手紙ですもの」

「そっか」


 アレクも笑った。


 そのまま。


 三人で石を選び始める。


 レオニスが少し離れる。


「休憩?」

 私が聞く。

「世代交代だ」

「何の」

「石蹴り」

「大げさ」


 でも。


 少し嬉しそう。


 子どもたちが笑っている。


 その輪の中に。


 エステルがいる。


 それだけで。


 私は十分だった。


          ◇


 夕方。


 アレクが帰ったあと。


 エステルはシオンへの返事を書いていた。


「今日はアレク様も一緒に石蹴りをしました」


 さらさら。


「お父様は最初に三連勝しましたが、そのあと二連敗しました」


「エステル」


 私が止める。


「何ですか?」

「それ書くの?」

「事実ですわ」

「あなたのお父様よ」

「だからです」


 強い。


 レオニスが後ろで聞いていた。


「別にいい」

「本当に?」

「あれは事実だ」

「今日は負けを認めるのね」

「次は勝つ」

「だから書かれるのよ」


 エステルが笑う。


 便箋の最後。


『今度は四人で勝負いたしましょう。』


 四人。


 エステル。


 アレク。


 シオン。


 そして。


 もう一人。


「誰?」

 私は聞く。


「ユリウス様です」

「え?」

「今度は負けませんわ」

「何で戦うの?」

「石蹴りです」

「ユリウス様、一度しかやってないわよ」

「四回です」

「そうだった」


 回数。


 大事らしい。


「では、お兄様にもよろしくと」

「うん」


 普通の便り。


 普通の約束。


 私はそれを見ている。


 未来ではなく。


 今。


 ここ。


          ◇


 夜。


 寝室。


「今日は帳面を書かなかったな」

 レオニスが言う。


「ええ」

「珍しい」

「自分でも思う」

「不安は消えたか」

「消えてはいない」


 正直に答える。


「でも、あの日から今日までで、一つ分かった気がする」

「何を」

「私は思い出した場面を、そのまま未来だと思いすぎてた」


 レオニスは黙って聞いている。


「雨が降ることも、道が閉じることも、ユリウスが見回りへ行くことも、全部それだけなら普通の日常なのよ」

「ああ」

「その日常のどこかで、何かが起きたんだと思う」


 事故なのか。


 襲撃なのか。


 誰かの選択なのか。


 そこがまだない。


「なら、今は日常を知る方が先だ」

「そうね」


 ユリウスが濡れたまま帰って叱られた。


 シオンが兄に一度勝ったことを嬉しそうに書く。


 フェルディア子爵から、事故はないと知らせが届く。


 そんなこと。


 ゲームでは描かれていない。


 でも。


 今なら。


 そっちの方が大事だと思える。


「レオニス」

「何だ」

「ありがとう」

「何に」

「今日、何も聞かなかったから」

「聞いてほしかったのか」

「違う」

「ならいい」


 やっぱり。


 この人は待つ。


 私が話せるところまで。


 勝手に決めない。


 だから。


 私も少しずつ整理できる。


「寝るか」

「うん」


 灯りを落とす。


 窓の外。


 静かな夜だった。


 明日もきっと。


 何事もなく朝が来る。


 そして。


 その晴れの日も。


 誰かにとっては。


 普通の日常になる。


          ◇


 翌朝。


 書斎。


 机の上には、開いていない帳面。


 私はその横へ、一枚の紙を置いた。


 あの日届いた、フェルディア子爵からの報告。


 その下に。


 シオンの手紙。


 さらに。


 エステルの返事。


 並べる。


 ゲームの記憶ではない。


 今の世界で増えたもの。


 人と人のやり取り。


 笑ったこと。


 約束したこと。


 叱られたこと。


 私はペンを取る。


 帳面ではない。


 別の紙。


 そこへ一行だけ書いた。


『未来を知る前に、今を知る。』


 それを見て。


 少し考える。


「……大げさね」


 自分で笑った。


 紙を半分に折る。


 机の引き出しへ。


 帳面の隣ではない。


 別の場所。


 未来の記録と。


 今の記録は。


 まだ。


 混ぜないことにした。



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