通れない道
雨が降った。
朝から。
しっかり。
窓を打つ音で目が覚めるくらい。
「……」
嫌な目覚め。
いや。
雨に罪はない。
分かっている。
でも。
雨。
北東。
橋。
ユリウス。
繋げるな。
まだ。
「起きているな」
隣から声。
「起きたわ」
「顔が働いている」
「どういう顔よ」
「考えている顔だ」
「寝起きなのに?」
「だから分かりやすい」
レオニスが起き上がる。
「今日の予定は?」
「午前に帳簿。午後はエステルの先生と話が少し」
「外出は」
「ない」
「なら安心だな」
「何が?」
「雨でお前がどこかへ確認に行く心配がない」
「行かないわよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「ミレーヌ」
「行かない」
二回言った。
自分で。
嫌な技術が身についてきた。
◇
朝食。
「今日はお庭に出られませんわね」
エステルが窓を見る。
「そうね」
「石蹴りも」
「室内でやったら怒るわよ」
「やりません」
「今、一瞬考えたでしょう」
「考えていません」
「エステル」
「少しだけ」
正直。
「廊下なら」
「あなた」
私が言う前に、レオニス。
「何だ」
「乗らないで」
「確認しただけだ」
「どこの廊下なら行けるか考えた顔だった」
「顔で分かるのか」
「夫婦だから」
「便利だな」
「便利じゃない」
セリーヌがパンを置く。
「東廊下は禁止でございます」
「何も言ってない」
「念のためです」
「西なら?」
「旦那様」
「冗談だ」
「お父様」
エステルが小声で言う。
「あとで地図を見ましょう」
「エステル」
「冗談ですわ」
似てる。
父娘。
絶対。
私は紅茶を飲む。
雨音。
強い。
昨日まで乾いていた庭が、もう暗い色になっている。
「フェルディア領も降ってるかしら」
言ってから。
しまった。
レオニスが私を見る。
セリーヌも。
エステルだけが普通に答えた。
「北東ですものね。こちらより強いでしょうか」
「どうかしら」
「シオン様、今日は剣のお稽古でしょさうか」
「雨なら屋内じゃない?」
「お兄様も?」
「たぶん」
普通。
普通の会話。
それでいい。
「手紙を書こうかしら」
エステルが言う。
「今?」
「雨の日は何をしているのか聞きたいです」
「いいんじゃない」
「では午後に」
私は頷いた。
あの家には。
今、シオンがいる。
ユリウスがいる。
たぶん。
それだけ。
◇
午前。
帳簿。
一行。
雨。
二行。
橋。
三行。
ユリウス。
「だめ」
声に出た。
「何がです?」
セリーヌ。
「何でもない」
「帳簿が?」
「私が」
「では休憩を」
「まだ始めたばかりよ」
「奥様は今、数字を三度同じ行で数え直されました」
「見てたの?」
「仕事ですので」
「怖い」
私はペンを置く。
「フェルディア領の天気って、ここから分かる?」
「正確には」
「そうよね」
「使いを?」
「出さない」
「まだ何も申しておりません」
「出さないから」
「はい」
セリーヌが少しだけ笑った。
「奥様」
「何?」
「雨は、今日初めて降ったわけではございません」
「分かってる」
「フェルディアの方々も、今日初めて雨を見たわけではございません」
「それも分かってる」
「では」
「分かってるのと気になるのは別なの」
セリーヌが頷く。
「そうでございましたか」
「納得した?」
「いいえ」
「してないんだ」
でも。
少し楽になった。
私は立つ。
「お茶」
「はい」
「薄めで」
「珍しいですね」
「頭がもう濃いから」
「意味は分かりませんが承知いたしました」
◇
昼前。
雨はさらに強くなった。
窓の向こうが白い。
その時。
屋敷の玄関が少し騒がしくなった。
馬。
誰か来た。
私は立った。
「奥様」
セリーヌが先に扉を見る。
「分かってる。走らない」
「何も申しておりません」
「顔が言ってた」
廊下へ。
玄関には濡れた外套の男。
グランヴェル家の伝令。
レオニスの執務室へ通される。
私も。
行かない。
行かない。
「奥様」
「何?」
「旦那様がお呼びです」
「行く」
呼ばれた。
合法。
何が。
◇
執務室。
レオニスが一枚の紙を持っていた。
「北東から?」
「正確には王都の街道管理所経由だ」
「何かあった?」
「まだ何も」
まだ。
その言葉に、少しだけ力が抜ける。
「フェルディア領の一部で雨量が増えた。旧北東街道は予防的に閉鎖したそうだ」
「閉鎖」
「ああ」
「橋は?」
「木橋周辺を含めて通行止め。石橋側も見回りを増やす」
「ユリウスは?」
「ミレーヌ」
「……ごめん」
早い。
飛びすぎた。
「その報告には人の名前まではない」
「そうよね」
「ただし、フェルディア家が正式に閉鎖を出している。今のところ事故の報告はない」
「うん」
事故はない。
今は。
「どうしてこちらに?」
「こちらの商隊で北東へ抜ける予定のものがあるからだ。道を変えろという通知だ」
「なるほど」
仕事。
普通の連絡。
領地をまたぐ道なら、当然来る。
「閉鎖は珍しいの?」
「木橋周辺は雨量次第である。旧道全体まで止めるのは毎年ではないが、異常でもない」
「そう」
異常ではない。
私はその言葉を頭に置く。
異常ではない。
異常では。
ない。
その瞬間。
画面。
黒い文字。
『旧北東街道が封鎖されました』
息が止まった。
「ミレーヌ」
レオニスの声が遠い。
画面。
文字。
背景。
学園。
誰かが走ってくる。
『北東が通れないって、本当ですか?』
女の子。
誰。
分からない。
別の声。
『今朝からです。川が増水していて――』
そして。
『ユリウス様は?』
胸が鳴る。
『もう向かわれたそうです』
そこから。
昨日までの断片。
『ユリウス様を追わないと』
雨。
橋。
銀髪。
剣。
『――ここから先は、通せません』
私は机に手をついた。
「座れ」
「大丈夫」
「座れ」
二回。
強い。
座る。
レオニスが水を渡す。
飲む。
「何を思い出した」
「……昔見た場面」
「北東の道が閉じる」
「ええ」
レオニスは何も急かさない。
「それから」
「誰かが、ユリウスの居場所を聞く」
「誰か」
「女の子。顔は分からない」
「その女の子が追う」
「たぶん」
たぶん。
そこはまだ。
「ユリウスはどこに」
「もう北東へ向かったって」
言った瞬間。
嫌な形になる。
私は首を振る。
「でも、これは未来の話かもしれない。何年後かも分からない。今日とは限らない」
「そうだ」
「道が閉じること自体も珍しくない」
「そうだ」
「だから今日、同じことが起きるとは」
「限らない」
レオニスが続ける。
「むしろ今の時点では、起きていない」
「……うん」
分かっている。
でも。
言葉になったことで。
少し整理される。
「今できることは?」
レオニスが聞く。
「商隊の道を変える」
「もう指示した」
「フェルディア側の閉鎖を尊重する」
「ああ」
「それ以上は」
「今はない」
今は。
ない。
「ユリウスの安否確認は?」
「公爵家から、ただ雨が降ったから子爵家の嫡男の所在を確認するのは不自然だ」
「そうよね」
「ただし」
レオニスが書類を一枚取る。
「街道閉鎖への礼と、こちらの商隊が迂回する旨は送る。その中で、現地の状況を尋ねるのは自然だ」
「……ありがとう」
「礼を言われることではない。必要な連絡だ」
「うん」
この人。
本当に。
こういう時。
私の変な断片を、変だと切り捨てない。
でも、信じ込みもしない。
今ある現実の中に置き直してくれる。
「ミレーヌ」
「何?」
「今日はもう帳簿を閉じろ」
「そこまで?」
「お前は今から数字の五を全部橋に見立てる」
「見立てないわよ」
「本当に?」
「……今日はやめる」
負けた。
◇
午後。
エステルが手紙を書いていた。
机に向かって。
真剣。
「シオン様へ」
声に出してる。
「今日は朝から雨です。こちらでもかなり強く降っています。そちらはいかがですか」
普通。
「石蹴りはできませんので、室内で何か別の勝負を考えています」
何を。
「お父様は廊下ならできるかもしれないと仰いましたが、セリーヌに止められました」
書くんだ。
「エステル」
「何ですか?」
「そこ書くの?」
「はい」
「お父様の名誉は」
「事実ですわ」
「そうね」
レオニス。
ごめん。
私は向かいに座る。
「シオン様のお兄様にも、よろしくお伝えください」
ペンが止まる。
「……お母様」
「何?」
「何と書けばいいでしょう」
「普通でいいんじゃない?」
「普通?」
「先日は楽しかったです、とか」
「では」
さらさら。
「先日は石蹴りで四回も遊んでくださり、ありがとうございました」
「回数いる?」
「大事です」
「そう」
ユリウス。
読むのか。
ちょっと見たい。
「お母様も何か書きます?」
「私?」
「はい」
「いや、私は」
「ユリウス様に」
「何でユリウス限定なの」
「気にしていらっしゃるでしょう?」
ぐ。
九歳。
強い。
「そんな顔してた?」
「はい」
「どんな」
「眉間」
「また」
触る。
皺は。
ない。
たぶん。
「心配なの」
「ユリウス様が?」
「雨の後に道を見に行くって言ってたでしょう」
「お仕事ですものね」
「そう」
エステルは少し考えた。
「では、無理をなさらないでください、と書きます?」
「それはこの前、私が直接言った」
「では二回目です」
「お祖母様じゃないんだから」
「二回言うと効くのでしょう?」
「誰が教えたの」
「お母様です」
「私?」
知らないところで。
教育が。
変な方向に。
「でも」
エステルが笑う。
「心配しているなら、伝えた方がいいですわ」
「……そうね」
私は便箋の端に。
ほんの一行。
『雨の多い季節ですので、どうか皆様お気をつけて。』
名前は書かない。
誰にでも当てはまる。
それでいい。
今は。
◇
夕方。
雨は弱くなった。
レオニスのところへ返事が届いたのは、日が落ちる少し前だった。
早い。
近い連絡所から鳩を使ったらしい。
「フェルディア子爵から」
レオニスが言う。
私は立ったまま。
「読んでいい?」
「そのために呼んだ」
紙。
短い。
街道閉鎖は予定どおり。
事故なし。
木橋周辺の見回りは完了。
明朝まで閉鎖継続。
そして。
『長男ユリウスが午前の見回りより帰邸しております。次男シオンともども変わりなく――』
息を吐いた。
長く。
「……よかった」
「ああ」
「分かってる。今日とは限らなかった」
「それでも安心するのは別の話だ」
「うん」
私は椅子に座る。
力が抜けた。
「ユリウス、行ってたのね」
「朝の見回りにはな」
「雨の中」
「仕事だからだろう」
「十六歳なのに」
「領地の家に生まれた者は、少しずつ覚える」
「あなたも?」
「俺はもう少し年上だった」
「何をしたの?」
「川が増えた時に、堤防の見回りについて行った」
「危ないじゃない」
「父に言え」
「今から?」
「やめてくれ」
少し笑う。
でも。
紙をもう一度見る。
ユリウスは今日。
雨の中。
北東の道へ行った。
何も起きなかった。
無事に帰った。
未来の断片と。
同じ形の一部があっても。
同じ結果になるわけじゃない。
当たり前。
それを。
今日、少しだけ実感した。
「レオニス」
「何だ」
「私、たぶん怖がりすぎてた」
「そうかもしれない」
「否定して」
「嘘は嫌いだ」
「そうだった」
でも。
怖がるな、とも言わない。
「ただ」
レオニスが続ける。
「怖がったから、道を調べた」
「うん」
「調べたから、今日の閉鎖がどういうものか分かった」
「……うん」
「なら全部が無駄ではない」
それでいい。
たぶん。
「次は?」
「何が」
「思い出したことを記録するんだろう」
「する」
「今夜?」
「する」
「短く」
「分かってる」
「本当に?」
「三行」
「五行まで許す」
「増えた」
「譲歩だ」
「ありがとう」
意味が分からない。
◇
夜。
帳面。
『旧北東街道が封鎖される場面。』
『女の子がユリウスの居場所を確認。彼はすでに北東へ向かった。』
『その後、追う。雨。橋。シオン。』
ここまで。
四行。
許可内。
その下。
書く。
『今日も同じように道は閉じたが、何も起きなかった。』
五行。
ちょうど。
私はペンを置く。
これ。
大事。
未来の記憶に似ている。
でも。
違う日。
違う雨。
違う出来事。
似た形を見つけたからといって、全部を同じにしてはいけない。
むしろ。
同じような日が何度もあるからこそ。
その中の一度に。
何かが起きる。
雨は珍しくない。
道が閉じることも、あり得る。
ユリウスが見回りに行くことも。
日常。
その日常のどこかに。
まだ私が思い出していない何かが入る。
事故。
誰か。
選択。
原因。
分からない。
だから。
今は、決めない。
窓の外。
雨はほとんど止んでいる。
雲の切れ目。
月。
私は帳面を閉じた。
今日。
道は通れなくなった。
でも。
誰も、失わなかった。




