兄が来る
ユリウス・フェルディア。
名前が分かった。
だからといって、何が起きるのかまで分かったわけではない。
むしろ困ったことに。
名前が分かったせいで、気になる。
ものすごく気になる。
「奥様」
「何?」
「封筒が逆です」
「……」
見る。
逆だった。
「読めないと思った」
「でしょうね」
セリーヌが淡々と封筒を直す。
「考え事ですか」
「少し」
「少し」
「何で繰り返すの」
「確認です」
「マーリンお母様の技術を覚えないで」
「有効ですので」
怖い。
我が家の使用人が進化している。
封筒はフェルディア子爵家からだった。
差出人は子爵。
内容は簡潔。
先日シオンから話のあった訪問について、兄ユリウスが同行しても差し支えないか。
日取り。
滞在予定。
形式的な挨拶。
そして最後に。
『長男にも、グランヴェル家の皆様へご挨拶申し上げる良い機会かと存じます』
「……来る」
「はい」
「ユリウスが来る」
「そのようですね」
「うちに」
「はい」
「何でそんなに普通なの」
「お客様ですので」
「そうなんだけど」
普通。
そう。
普通なのだ。
フェルディア家の次男とエステルが知り合った。
手紙を交わしている。
次の訪問に兄が同行する。
何一つおかしくない。
なのに私の頭の中には、雨と橋と、まだ顔の見えない少女の声がある。
ユリウス様を追わないと。
だから。
普通の十六歳を見に来る。
それだけ。
「お返事は?」
「もちろん歓迎すると」
「承知いたしました」
セリーヌが一礼する。
「あ」
「はい」
「特別な準備はしなくていいから」
「通常のお客様として?」
「そう。普通に」
「承知いたしました」
「……本当に普通にね」
「三度目でございます」
「何が」
「普通、が」
「数えなくていい」
◇
「兄上が来ます」
数日後。
先に到着したシオンは、いつもより少しだけ嬉しそうだった。
少しだけ。
たぶん本人は隠している。
「一緒ではないのですか?」
エステルが聞く。
「父上から頼まれた荷を確認してから来るそうです。僕だけ先に行けと言われました」
「では、あとから?」
「はい」
エステルは庭を見る。
例の石蹴り用の場所。
もう完全に例の場所になっている。
「お兄様も石蹴りをなさいます?」
「たぶん」
「お強い?」
「一度、僕が勝ちました」
「一度?」
「……一度です」
そこ強調するんだ。
「剣では?」
「まだ一度も」
シオンの声が少し変わる。
悔しい。
分かりやすい。
「では石蹴りでは勝っているのですね」
「一度です」
「勝ちは勝ちですわ」
「……そうですね」
ちょっと嬉しそう。
エステル。
強い。
「お母様」
「何?」
「今日は参加なさいます?」
「見学で」
「前もそう仰っていました」
「今日は本当に見学」
「お父様は?」
「仕事」
「残念です」
残念なんだ。
レオニス、喜ぶだろうな。
いや、仕事抜けてくるかもしれない。
言わないでおこう。
「アレク様は?」
シオンが聞く。
「今日は王宮ですわ」
「そうですか」
「次は三人で勝負しましょう」
「はい」
自然だ。
もう。
シオンがここにいることも。
エステルが彼を友人として迎えることも。
アレクの名前が会話に出ることも。
私の知らなかったところで、子どもたちの世界が少しずつ広がっている。
いいこと。
すごくいいこと。
だからこそ。
私は余計なものを持ち込みたくない。
未来の断片。
まだ起きていない雨。
知らない橋。
目の前のシオンは、ただ兄を待っている十一歳だ。
「来ましたわ!」
エステルが門の方を見る。
馬車。
フェルディア家の紋章。
私は立ち上がった。
普通に。
普通に迎える。
十六歳の少年。
それだけ。
馬車が止まる。
扉が開く。
先に降りた従者のあと。
銀色の髪。
シオンより少し濃い。
背は高い。
少年と青年の境目。
細身だけれど、立ち方に隙がない。
剣を使う人の姿勢。
その顔を見た瞬間。
私は。
何も思い出さなかった。
「……」
え。
本当に。
何も。
雨も。
橋も。
画面も。
来ない。
ユリウスは私たちの前まで歩いてくると、きれいに礼をした。
「ユリウス・フェルディアと申します。本日は弟ともども、お招きいただきありがとうございます」
落ち着いた声。
真面目。
カイル兄様の評判どおり。
「ミレーヌ・グランヴェルです。ようこそいらっしゃいました」
「お会いでき光栄です、公爵夫人」
「こちらが娘のエステル」
「エステル・グランヴェルです。シオン様にはいつも楽しいお手紙をいただいております」
「……楽しい手紙?」
ユリウスが弟を見る。
シオンが目を逸らした。
「何を書いている」
「普通のことです」
「石を蹴った話は?」
「書きました」
「私に勝った話は?」
「……書きました」
「一度だけだろう」
「勝ちは勝ちです」
エステルと同じこと言った。
私は吹きそうになった。
ユリウスがこちらを見る。
「失礼しました」
「いえ」
真面目だ。
でも。
弟には普通に兄だ。
「兄上」
「何だ」
「エステル嬢も、勝ちは勝ちだと」
「味方を得たな」
「はい」
「では次は剣で勝て」
「それは今やっています」
「三年やって一度も勝てないのに?」
「……いつか勝ちます」
「そうか」
ユリウスが少し笑った。
あ。
この顔。
シオンに似てる。
当たり前だけど。
「お兄様」
エステルが目を輝かせる。
「石蹴り、なさいます?」
「私ですか?」
「はい」
「……シオン」
「僕は何も言っていません」
「お前が始めたんだろう」
「僕ではありません」
「わたくしです」
エステルが胸を張る。
「なるほど」
ユリウスが少し考える。
「では、一度だけ」
「一度?」
シオンが言う。
「一度だ」
「僕に負けても?」
「負けない」
「……」
兄弟。
ちゃんと兄弟だ。
何だろう。
安心した。
◇
一度だけ。
そう言ったユリウスは。
四回やった。
「兄上」
「何だ」
「四回です」
「分かっている」
「一度では?」
「確認が必要だった」
「何の」
「地面の状態だ」
「三回も?」
「黙れ」
負けず嫌い。
この家。
全員これなの?
エステルが楽しそうに笑っている。
ユリウスは四回目で、ようやく石をかなり遠くまで運んだ。
「お上手ですわ!」
「ありがとうございます」
「初めてとは思えません」
「弟よりは」
「兄上」
「事実だ」
「僕は最初からもっと行きました」
「そうだったか?」
「行きました」
「覚えていない」
「……」
シオン。
頑張れ。
「楽しそうだな」
来た。
レオニス。
「仕事は?」
私は聞く。
「終わらせた」
「早くない?」
「終わらせた」
「二回言った」
「重要だからな」
絶対急いだ。
「グランヴェル公爵」
ユリウスが姿勢を正す。
「ユリウス・フェルディアです」
「レオニス・グランヴェルだ。堅くならなくていい。今日は娘の客でもある」
「ありがとうございます」
レオニスが石を見る。
「やったのか」
「はい」
「何回」
「四回です」
「初めてで?」
「はい」
「そうか」
嫌な顔。
分かる。
この人。
対抗心。
「あなた」
「何だ」
「やらないわよね」
「何を」
「石蹴り」
「客人がやっているのに、主人が何もしないのも失礼だろう」
「その理屈初めて聞いた」
「今考えた」
「正直ね」
ユリウスが少し困っている。
シオンは慣れている。
エステルは嬉しそう。
「お父様、この前は七回勝負しましたわね」
「今日は八回だ」
「回数を重ねても一回は一回です」
「誰に教わった」
「シオン様です」
「違います」
シオンが即座に否定した。
速い。
ユリウスが弟を見る。
「随分馴染んだな」
「……はい」
シオンが少しだけ照れた。
その横で、レオニスが石を蹴る。
飛ぶ。
「あ」
エステル。
「お」
ユリウス。
「……」
シオン。
かなり行った。
レオニスが得意そうに戻ってくる。
「どうだ」
「大人げない」
「何が」
「顔」
「普通だ」
「普通の顔でそんなに嬉しそうにならないわよ」
ユリウスが。
笑った。
今度ははっきり。
「すみません」
「何で謝るの?」
「公爵家で、このような……」
「このような?」
「いえ」
言いにくそう。
「変でしょう?」
「ミレーヌ」
「何よ」
「客人に聞くな」
「でも変でしょう?」
「……少しだけ」
ユリウスが答えた。
正直。
好き。
「大丈夫です。私も最初はそう思いました」
シオンが言う。
「今は?」
「楽しいです」
「そうか」
ユリウスが弟を見る。
ほんの一瞬。
優しい顔。
また。
何も思い出さない。
でも。
今度は、それでいいと思えた。
この人は。
記憶を開ける鍵じゃない。
少なくとも、今は。
ユリウス・フェルディア。
十六歳。
真面目。
剣ができる。
弟に少し厳しい。
負けず嫌い。
石蹴りを一度と言って四回やる。
それでいい。
◇
夕方。
客間でお茶を飲みながら、レオニスがユリウスに聞いた。
「北東は今年、雨が多いそうだな」
「はい。例年より少し」
「道は?」
「父が気にしています。新道は問題ありませんが、川の水位が上がると一部の迂回路を使う者が出ますので」
「旧道か」
「はい」
私はカップを持ったまま、黙って聞く。
普通の話。
レオニスは領地を預かる公爵として聞いている。
ユリウスは子爵家の長男として答えている。
「古い橋はまだ使えるのか?」
「石橋は。木橋の方は、父が雨の後は近づかせません」
「シオンから聞いたわ」
エステルが言う。
「昔、行って叱られたのでしょう?」
「……書いたのか」
ユリウスが弟を見る。
「書きました」
「何でも書くな」
「エステル嬢なら問題ありません」
「そういう問題ではない」
エステルが笑う。
「そんなに危険なのですか?」
「雨の後は、橋そのものより周りが危ないんです」
ユリウスが答える。
「地面が崩れやすい。川も普段より速い。馬車ならなおさらです」
「では、使わなければよいのでは?」
「基本は使いません。ただ」
ユリウスが少し考える。
「新道が通れない時や、急ぐ者は使いたがります」
「止められないの?」
「領内の者には知らせています。見回りもします。でも道ですから、全部を閉じるのは難しい」
道だから。
全部を閉じるのは難しい。
ネラも似たことを言っていた。
道は繋がっている。
一つが駄目なら、人は別の道へ流れる。
「兄上も見回りに行きます」
シオンが言った。
「お前」
「何ですか」
「余計なことを」
「本当でしょう」
「そうですが」
「ユリウス様が?」
エステルが聞く。
「はい。父上か兄上が」
「シオンは?」
「まだ行かせません」
ユリウスが即答した。
「僕も行けます」
「行かせない」
「十一です」
「十一だからだ」
「三年剣をやっています」
「道が崩れた時、剣で何をする」
「……」
正論。
強い。
「でも」
シオンが言う。
「いつかは行きます」
「その時は連れていく」
「いつですか」
「俺が決める」
「父上では?」
「父上も決める」
「二人で?」
「お前はそこを気にするな」
エステルが笑う。
私も笑いかけて。
止まった。
ユリウス。
北東。
見回り。
雨の後。
橋。
――ユリウス様を追わないと。
胸の奥。
小さく。
何かが合った。
全部ではない。
まだ。
でも。
ユリウスが北東へ戻る理由。
少なくとも一つは、今ここにある。
領地の道を見るため。
それなら。
ゲームの中でシオンが言った。
『兄上なら、北東へ戻りました』
あれは。
特別な事件があったから戻ったとは限らない。
仕事。
日常。
いつもの役目。
その先で。
何かが起きた。
私はカップを置いた。
決めつけない。
順番。
今分かったことだけ。
「ミレーヌ?」
レオニス。
「何でもないわ」
今は。
ここで止める。
◇
帰り際。
ユリウスが私に頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。弟さんにはエステルがいつもお世話になっています」
「いえ。シオンの方こそ」
少し離れたところで、エステルとシオンが次の石蹴りの約束をしている。
「楽しそうね」
「はい」
ユリウスが弟を見る。
「家では、あまり同年代と遊ぶ機会がありませんので」
「そうなの?」
「領地では私や騎士たちといることが多いんです。年の近い者もいますが、あいつは少し……」
「大人びてる?」
「そう見せたがります」
兄。
分かってる。
「十一歳ですから」
「ええ」
私は笑った。
「十一歳ですね」
「はい」
前に私は。
十二か十三、なんならもう少し上だと思った。
シオンを、記憶の中の誰かに寄せて見ようとしていた。
でも今は。
十一歳。
兄に勝ちたい弟。
友達に手紙を書く子。
それでいい。
「ユリウス様」
「はい」
「北東の道。見回りにはよく?」
「雨の多い時期は増えます」
「危ないでしょう」
「仕事ですから」
迷いがない。
「無理はしないでくださいね」
「……ありがとうございます」
ユリウスは少し不思議そうな顔をして、それから笑った。
「母にも同じことを言われます」
「でしょうね」
十六歳。
まだ。
この子も、子どもだ。
馬車が出る。
シオンが窓から手を振る。
エステルが振り返す。
ユリウスも一度だけ頭を下げた。
見えなくなる。
「お母様」
「何?」
「ユリウス様、いい方でしたわ」
「そうね」
「シオン様のお兄様ですもの」
「それは理由になる?」
「なります」
エステルの中では、なるらしい。
「次はアレクも一緒だといいですわ」
「四人になるわね」
「お父様も入ります」
「五人」
「お母様も」
「見学」
「六人です」
「聞いて」
エステルが笑って屋敷へ戻っていく。
私は、もう見えない馬車の方を一度だけ見た。
今日。
新しい記憶は戻らなかった。
代わりに。
知らなかったことを知った。
ユリウスは、雨の後の北東へ行く。
それは特別な行動ではない。
彼の日常の中にある。
なら。
あの雨の日も。
事件は最初から事件として始まったんじゃないのかもしれない。
いつもの仕事。
いつもの道。
いつもの帰郷。
そこへ。
何かが入り込んだ。
私は帳面を開かない。
まだ書かなくても覚えている。
ユリウス・フェルディア。
十六歳。
雨の後の道を見に行く。
そして。
橋の向こうで、誰かが彼を追おうとしていた。
今度は。
名前だけではなく。
その人の日常を、少し知った。




