画面の中の声
女の子の声。
それだけが、昨夜から頭の片隅に残っている。
顔も、名前も、何を叫んでいたのかも分からない。
橋の向こうに誰かがいて、その誰かを助けようとしていた。
たぶん。
そこまでしか思い出せない。
「お母様」
「何?」
「卵」
「卵?」
「先ほどから、ずっと同じところを切っています」
「……」
皿を見る。
確かに、もう十分小さい。
「食べるわ」
「はい」
エステルが心配そうに私を見る。
まずい。
子どもに心配されてる。
「寝不足か?」
レオニスが聞く。
「今日は寝たわよ」
「では考え事だな」
「少しだけ」
「卵について?」
「違う」
セリーヌが新しい紅茶を置いた。
「奥様。本日は午前中、何もご予定はございません」
「そうだった?」
「はい」
「じゃあ調べ――」
「何もご予定はございません」
「二回言った」
「はい」
「お母様」
エステルが真顔になる。
「何?」
「お祖母様みたいです」
「やめて」
効く。
ものすごく。
マーリンお母様の、二度目。
あれは断れない。
「分かったわ。午前中は何もしない」
「素晴らしい」
「褒め方が大げさ」
「稀有な出来事ですので」
「セリーヌ」
エステルが笑う。
レオニスも。
私は卵を食べた。
今度は普通に。
◇
何もしない。
難しい。
庭を歩く。
花を見る。
椅子に座る。
紅茶を飲む。
五分。
長い。
「……」
ふと、記憶が巡る。
前世の私は、休日なら昼まで寝られた。
漫画を読んで、ゲームをして、お菓子を食べて、気づいたら夕方。
あの才能。
どこへ行った。
「お母様」
エステルが来た。
「お勉強は?」
「終わりました」
「早いわね」
「今日は午前だけです」
「そうだったわね」
隣に座る。
「何もしないのですか?」
「そう命じられたの」
「セリーヌに?」
「そう」
「お母様なのに?」
「我が家では時々あるのよ」
エステルは納得した。
しないで。
「では、わたくしも何もしません」
「いいの?」
「はい」
二人で座る。
風。
鳥。
庭師の鋏の音。
遠くで馬のいななき。
静かだ。
エステルが足を揺らす。
私はその横顔を見る。
九歳。
まだ小さい。
この子が学園へ行く頃、ゲームが始まる。
ゲームの主人公が現れる。
どんな子だっただろう。
顔は、まだぼやけている。
けれど。
教室。
制服。
画面の下に出る、名前。
そこまで浮かんだところで。
胸の奥で、何かが引っかかった。
名前。
今まで、どうして出てこなかったのか分からないくらい。
唐突に。
リリア。
リリア・メレット。
ゲームの主人公だった少女の名前。
……そうだ。
その名前だった。
顔も、出来事も、まだ霧の向こうにある。
それでも名前だけは、今、はっきり戻ってきた。
私は隣のエステルを見る。
まだ九歳。
この子は、まだリリアを知らない。
リリアも、この子を知らない。
それでいい。
今は。
アレクがいる。
そして。
シオンは。
その時、十三か十四。
学年は違う。
同じ学園にいる可能性はある。
いや。
待って。
シオン。
学園。
胸の奥が動いた。
「お母様?」
「……何でもない」
追わない。
今は。
「何か考えていますわ」
「分かる?」
「眉間」
「そんなに出る?」
「少し」
エステルの指が、私の眉間に触れた。
「ここ」
「やめて」
「皺はありません」
「よかった」
笑う。
エステルも笑う。
その瞬間。
何故か、記憶が来た。
学園。
廊下。
窓から差し込む光。
制服。
銀髪。
「……あ」
シオン。
いた。
ゲームの中に。
学園に。
画面の端に立つ、少し年上の少年。
攻略対象として見ていた顔ではない。
だから、覚えていなかった。
でも、何度か出ていた。
誰かと話していた。
誰かの側にいた。
「お母様?」
「ごめん」
私は立ち上がりそうになって、止まった。
午前中。
何もしない。
今すぐ帳面へ走ったら、セリーヌに負ける。
いや。
何と戦ってるの。
「エステル」
「はい」
「ちょっとだけ、覚えておきたいことができたの」
「書きます?」
「……書かない」
「大丈夫?」
「たぶん」
「忘れたら?」
「その時は、その程度だったと思う」
「お母様が?」
「何その顔」
「珍しいです」
「でしょうね」
自分でも思う。
でも今、エステルが隣にいる。
それを中断してまで、曖昧な記憶を追いかけなくていい。
「何かしましょうか」
「何もしないんじゃなかった?」
「何もしないのも、少し飽きました」
「早いわね」
「お母様もでしょう?」
「……はい」
似てる。
こういうところ。
「散歩しましょう」
「さっきまでしてたの」
「では、お菓子」
「それは賛成」
何もしない日ではないけれど。
こういうのもいい。
◇
午後。
解禁。
「セリーヌ」
「はい」
「午後よ」
「存じております」
「帳面」
「隠しておりません」
「本当に?」
「奥様ではございませんので」
「私も隠さないわよ」
「先月、普段の帳面とは別の帳面を、机の下に置いておられましたが」
「予備よ」
言い訳としては苦しかったか。
セリーヌはため息をつきながらも、それ以上は何も言わなかった。
書斎へ行く。
帳面を開く。
『シオン・フェルディア 十一歳』
その下に書く。
『学園にいた。上級生?』
疑問符は残す。
でも、学園にいたことはかなり確かだ。
制服。
銀髪。
廊下。
窓。
そして、誰かと話していた。
女の子。
昨日、橋の向こうで叫んでいた声。
同じ?
分からない。
私は目を閉じる。
学園の廊下。
画面。
会話欄。
シオンの名前。
相手の顔はぼやけている。
でも。
『シオン先輩』
あ。
先輩。
やっぱり主人公たちより上。
年齢差は合う。
次。
何か。
会話。
兄。
そう。
兄の話をしていた。
シオンには兄がいる。
現実でも。
エステルへの手紙にも出てきた。
今度、一緒に来るかもしれない。
名前。
何だった。
画面に。
出ていた?
「……アル」
違う。
「レイ……?」
違う。
出ない。
私はペンを置いた。
危ない。
記憶を作り始めている。
分からないところへ、知っている形を押し込もうとしている。
やめる。
『兄――ゲームにいたか不明。名前も不明。』
これだけ。
その時、扉が叩かれた。
「奥様」
「どうぞ」
「お客様です」
「誰?」
「アルセリオン伯子息でございます」
「……兄様?」
カイル。
何で。
「事前のお約束は?」
「ございません」
「また?」
「今回は先触れが先に届いております」
「何分前?」
「七分ほど」
「それ先触れって言う?」
「形式上は」
アルセリオン家。
そういうところ。
◇
「よお」
兄様は軽かった。
「よお、じゃないわよ」
「元気そうだな」
「昨日まで元気だったわ」
「じゃあ今日も元気だ」
「理屈が雑」
カイルは笑う。
以前、突然家族全員で来た時と同じ。
外では完璧に近い若き次期侯爵。
家族の前では。
これ。
「何しに来たの?」
「仕事」
「うちに?」
「レオニスに」
「じゃあ私に会いに来たんじゃないのね」
「何だ。寂しいのか?」
「帰って」
「今来た」
腹立つ。
でも、少し嬉しい。
「カイル伯父様!」
エステルが来る。
兄様の顔が変わる。
「エステル。元気だったか」
「はい」
「大きくなったな」
「前にお会いしてから、そんなに経っていませんわ」
「そうだったか?」
「はい」
「お母様も同じことを仰います」
「似た者兄妹だな」
「やめて」
エステルが笑う。
「伯父様、今度シオン様のお兄様がいらっしゃるかもしれません」
「シオン?」
「フェルディア子爵家の」
「ああ」
兄様が頷く。
その反応。
「知ってるの?」
「家はな」
「人は?」
「どっちだ」
「どっち?」
「兄か弟」
「……両方」
兄様が私を見る。
「珍しいな。お前が若い男に興味を持つなんて」
「言い方」
「レオニスに言おう」
「やめて」
「もう聞いている」
後ろ。
レオニス。
いつから。
「仕事の相手を玄関で捕まえるな」
カイルが言う。
「お前が玄関で喋っている」
「家族の挨拶だ」
「長い」
「妹との再会を邪魔するな」
「この前会っただろう」
「お前までエステルと同じことを言うのか」
何。
この人たち。
「お父様」
エステルが聞く。
「何だ」
「シオン様のお兄様をご存じですか?」
「名前と評判程度だ」
「伯父様は?」
「同じくらいだな」
私は、できるだけ普通に聞いた。
「名前は?」
二人が私を見る。
普通にならなかった。
「何よ」
「いや」
カイルが笑う。
「随分気になるんだな」
「ちょっと調べてるの」
「仕事?」
「違う」
「余計に怪しい」
「兄様」
レオニスが答えた。
「ユリウス・フェルディア」
「……ユリウス」
瞬間。
音が止まった気がした。
違う。
止まってない。
エステルも、兄様も、レオニスも、普通にいる。
でも頭の中。
画面。
文字。
『ユリウス』
知ってる。
この名前。
シオンより、はっきり。
知ってる。
「ミレーヌ」
レオニスの声。
「……ええ」
「座るか」
「大丈夫」
大丈夫。
たぶん。
「お母様?」
「ごめんなさい。ちょっと思い出したことがあって」
ゲームとは言わない。
誰にも。
「ユリウス様をご存じなのですか?」
エステルが聞く。
「名前を聞いたことがある気がしただけよ」
「どこで?」
「昔。たぶん」
嘘ではない。
昔。
前世。
「どんな人?」
私はカイルを見る。
「俺が知ってる範囲でいいなら、真面目。剣もできる。次男より社交に出てくるから顔は見たことがある」
「年は?」
「シオンより五つくらい上だったか」
「五つ」
「今なら十六前後だろう」
十六。
シオンより五つ上。
今はもう、学園を出ていてもおかしくない。
ゲームの中でシオンを見た廊下には、兄はいなかった。
代わりに。
言葉。
『兄上なら、北東へ戻りました』
シオンの声。
画面の向こうで、誰かが聞き返す。
『ユリウス様が?』
女の子。
そして。
雨。
橋。
『ユリウス様を追わないと』
あ。
私は近くの卓に手をついた。
「お母様」
「大丈夫よ」
エステルが近づく。
私は笑う。
ちゃんと。
「少し立ちくらみ」
「寝不足じゃないのか?」
カイルが言う。
「今日は寝たわよ」
「今日は?」
「兄様、仕事でしょう」
「追い出すな」
レオニスが私を見る。
何も聞かない。
でも、私が何かに気づいたことだけは分かっている。
私は小さく頷いた。
あとで。
話せるところまで整理してから。
◇
夜。
レオニスと二人になってから、私は帳面を開いた。
『ユリウス・フェルディア』
その名前を見せる。
「兄の名を聞いた時、何か思い出したんだな」
「ええ。断片だけだけど」
「話せる範囲でいい」
その言い方に少し救われる。
私は、言葉を選んだ。
「昔見た物語の場面みたいなものが、時々頭に浮かぶの。シオンは、その中で今より大きくなっていた」
「学園らしき場所にいた、と?」
「そう。誰かと話してた。その会話で、お兄さんが北東へ戻ったって言ってた気がする」
レオニスは黙って聞いている。
「そのあと、雨の中の道。橋。前に話した場面に繋がる。女の子がユリウスを追おうとしていた……と思う」
「女の子が誰かは」
「分からない」
そこは、本当に分からない。
「エステルの可能性は?」
「否定はできない。でも、そうだと決める材料もない」
言葉にすると。
少し落ち着く。
「他にも、心当たりはあるのか」
「……あるわ」
ゲームの主人公だった少女――リリア・メレット。
まだ今の世界では会っていない。
画面の中の彼女なら、あの場にいてもおかしくはない。
でも、それは私の中だけの候補だ。
今ここで名前を出しても、レオニスには説明できない。
「ただ、確かじゃないの」
「なら、確かになるまで決めなくていい」
「そうね」
私は帳面へ視線を落とす。
「ユリウスも、シオンも、昔見たその物語では中心にいた人じゃなかったと思う」
「それでも覚えている」
「うん。何度か出てきたから。誰かを助けたり、何かを知らせたり……そういう役目だったのかもしれない」
攻略対象。
主人公。
ライバル。
前世の私は、画面の真ん中ばかり見ていた。
好きだったエステルのことは必死に覚えているのに、その周りで動いていた人たちのことは驚くほど曖昧だ。
でも今は。
その曖昧だった人たちが、目の前で生きている。
シオンは負けず嫌いで。
石蹴りを練習して。
兄に剣で勝ちたがっている。
フェルディア子爵は道の資料を山ほど送ってくる。
そしてユリウスにも、きっと画面では見えなかった暮らしがある。
「私、見落としてたのかもしれない」
「何を」
「大事じゃないと思っていたところ」
レオニスは少し考えた。
「今は大事なのか」
「分からない」
「なら、調べればいい」
「……簡単に言うわね」
「お前はそのために、ここ数日ずっと地図を広げていたんだろう」
「そうだけど」
確かに。
「ただし」
「何?」
「今夜はもうやめろ」
「何で」
「卵の次は、夕食のスープに胡椒を二度入れた」
「……見てたの?」
「見ていた」
「言ってよ」
「飲んでから気づくかと思った」
「気づいたわよ。辛かったもの」
「ならいい」
「よくない」
笑う。
レオニスも少し笑った。
帳面を閉じる。
ユリウス・フェルディア。
シオン・フェルディア。
橋。
雨。
女の子の声。
まだ全部は繋がらない。
でも。
昨日より、はっきりしている。
画面の中で叫んでいた少女は、橋の向こうにいる誰かを助けようとしていた。
その誰かの名前を。
私はもう知っている。
ユリウス。
次に思い出すべきなのは、何が彼に起きたのか。
そして。
あの少女が、誰だったのか。




