橋の向こう
石蹴りをした翌日。
足が痛い。
「お母様、昨日は二回しか蹴っていませんわ」
「回数の問題じゃないの」
「では?」
「年齢」
「お母様はお若いです」
「ありがとう。今のところは素直に受け取っておくわ」
朝食の席。
エステルは元気だ。
レオニスも元気だ。
何で。
あの人、私よりやってたでしょう。
「レオニス」
「何だ」
「足、平気?」
「平気だ」
「本当に?」
「ああ」
「昨日何回やった?」
「七回」
「増えてる!」
前は五回だった。
「上達には反復が必要だ」
「何の上達を目指してるの」
「エステルに負けない程度には」
「お父様、昨日はわたくしが四勝です」
「今日は負けない」
「望むところですわ」
「朝から始めないで」
セリーヌがパンを置く。
「本日は旦那様も奥様も、お仕事がおありです」
「分かっている」
「分かってるわ」
「エステル様もお勉強です」
「はい」
一番素直。
九歳。
強い。
私は紅茶を飲みながら、昨日閉じた地図を思い出した。
旧北東街道。
雨季の迂回路。
橋。
今朝も、そこから先は出てこない。
でも。
今日は昨日より、焦っていなかった。
まだ起きていないこと。
まず、今分かることを調べる。
それでいい。
「お母様」
「何?」
「また地図のお顔です」
「地図のお顔って何」
「こうです」
エステルが眉間に少し皺を寄せる。
「そんな顔してる?」
「はい」
「似ております」
セリーヌまで。
「レオニス」
「似ている」
「味方がいない」
エステルが笑った。
◇
昼前。
フェルディア子爵から届いた資料を、もう一度広げる。
旧北東街道。
主要路ではない。
雨季に新道の一部が使えなくなった時の迂回路。
山沿いを通り、途中で川を二度渡る。
橋は二つ。
一つは石橋。
一つは木橋。
私はそこに印を付けた。
「二択」
昨日よりは減った。
でも。
どっち。
記憶の中の橋は暗かった。
雨。
夜。
泥。
画面の端に欄干らしきもの。
石だった気もする。
木だった気もする。
「役に立たない」
自分の記憶に言う。
返事はない。
当然。
資料をめくる。
補修記録。
石橋は古いが頑丈。
木橋は二年前に一部架け替え。
雨季の増水時、木橋側の道はぬかるみやすい。
「こっち?」
木橋。
でも。
それだけで決めるのは危ない。
雨と泥があるから。
記憶に寄せているだけかもしれない。
私はペンを置いた。
「ネラさんなら、どう見るかしら」
道。
荷。
馬。
実際に使う人。
資料だけでは見えない。
会いに行こう。
◇
「旧北東街道ですか?」
ネラは少し驚いた。
新しい中継所。
今日は晴れている。
先日の仮の雨水受けは、次の雨を待っているところだ。
「ええ。少し気になって」
「また随分と遠いところを」
「仕事というより、勉強」
「ミレーヌ様の勉強は、たまに怖いんですよね」
「何で?」
「気づいたら仕事になるので」
「今日はしないわよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「ほら」
笑われた。
セリーヌも笑っている。
味方。
どこ。
「旧北東街道なら、私は二度だけ通ったことがあります」
「本当?」
「十年くらい前ですが」
「十分よ」
地図を広げる。
「この二つの橋、覚えてる?」
「石橋と木橋ですね」
ネラは指で道を辿った。
「こっちの石橋は、橋そのものより手前の坂が厄介です。雨だと車輪が滑る」
「木橋は?」
「川が増えると怖い。ただ、橋より周りの地面ですね。水を含むと馬が嫌がる」
「泥」
「ええ」
胸が少し動く。
でも、まだ。
「夜に通ることは?」
「できれば避けます」
「何故?」
「暗いからです」
当たり前。
「それだけ?」
「それだけで十分危ないですよ」
そうだ。
ゲームの事件だから危険なのではない。
夜の山道。
雨。
増水した川。
馬車。
普通に危ない。
「襲われるような場所?」
「盗賊ですか?」
「例えば」
「昔はあったと聞きます。ただ、今は滅多に」
今。
その言葉が引っかかる。
「昔って?」
「私が荷運びを始める前です。街道の整備が進む前は、山側に逃げ込む連中がいたとか」
「今は?」
「見回りもありますし、フェルディア家がかなり厳しく管理しているはずです」
フェルディア。
また。
「シオン様のお家ですね」
セリーヌが言う。
「そうです。あそこは道にうるさいですよ」
道にうるさい。
何だか褒め言葉に聞こえる。
「どうして?」
「領地の位置でしょうね。北東へ行く荷も人も通る。道が止まれば、自分のところだけの問題じゃない」
ネラが地図の上を指で叩く。
「ここが詰まると、こっちへ回る。こっちも駄目なら、さらに南へ。道は一本だけ見ても分からないんです」
私は頷く。
中継所と同じ。
一つ直すと。
別の場所へ流れる。
人も。
荷も。
水も。
「ありがとうございます」
「これで?」
「ええ」
「仕事には?」
「しない」
「本当に?」
「今日は」
ネラが笑った。
「では、今日は信じます」
◇
帰りの馬車。
私は地図を膝に置いた。
木橋。
泥。
夜。
昔は盗賊。
今は治安が良い。
記憶の中のシオンは、今より大きかった。
なら。
数年後。
その時。
何が起きる?
治安が悪化する?
誰かが狙われる?
偶然?
計画?
駄目。
また先へ行っている。
「奥様」
「何?」
「眉間」
「……」
セリーヌに指を当てられた。
「皺になります」
「もうある?」
「まだ」
「よかった」
「ですが、このままですと」
「やめる」
地図を畳む。
「セリーヌ」
「はい」
「もし、何年か先に危ないことが起きるかもしれないって分かったら、どうする?」
「内容によります」
「内容が分からない」
「では、何もできませんね」
「即答」
「何をなさるのです?」
「それが分からないから聞いてるの」
「でしたら、今できる普通のことをなさればよろしいのでは」
普通のこと。
「道を直すとか?」
「必要なら」
「見回りを増やすとか?」
「必要なら」
「橋を架け替えるとか?」
「必要なら」
「全部必要か分からない」
「でしたら、全部まだです」
強い。
「奥様は、まだ起きてもいない雨に傘を差そうとなさっています」
「……」
「傘は、雨が降ってからでも間に合うことがございます」
「間に合わない時もあるわ」
「ございます」
否定しない。
「だからこそ、空を見るのでしょう?」
私は窓の外を見る。
晴れている。
青空。
雲。
雨はない。
「……そうね」
今は。
空を見る。
それでいい。
◇
屋敷へ戻ると。
エステルが玄関まで来た。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「今日は泥がありません」
「晴れてたからね」
「お父様の長靴は?」
「今日は出番なし」
「残念ですわ」
「何で」
レオニスの長靴に何を期待してるの。
「シオン様からお手紙が来ています」
「エステルに?」
「はい」
嬉しそう。
「読んでも?」
「もちろん。あなた宛てでしょう」
エステルはその場で開けようとして。
止まった。
「お部屋で読みます」
「どうしたの?」
「前に、お母様が人のお手紙は勝手に見ないものだと」
「ええ」
「ですから、わたくしも一人で読んでから、お話ししたいところだけお話しします」
あ。
ちゃんと。
覚えてる。
「そうね」
「はい」
エステルは階段を上がっていく。
私はその背中を見送った。
「奥様」
「何?」
「今度は別のお顔です」
「何の?」
「嬉しいお顔」
「……そう?」
たぶん。
そう。
◇
夕食前。
「お母様!」
エステルが来た。
「どうしたの?」
「シオン様、石蹴りでお兄様に勝ったそうです!」
「そこ!?」
手紙。
最初に共有したいの。
そこ。
「一回だけですけれど」
「お兄様もやってるの?」
「シオン様が教えたそうです」
「広がってる……」
フェルディア領に。
石蹴りが。
「それから、今度こちらへ来る時には、お兄様も一緒かもしれないと」
「お兄様」
「はい。お会いしてみたいです」
シオンの兄。
私は一瞬だけ。
記憶を探した。
名前。
出てこない。
やめる。
今は。
「楽しみね」
「はい!」
エステルは笑う。
「あと、橋のお話がありました」
「橋?」
心臓が跳ねた。
「何て?」
「領地の近くに、古い橋があって――」
エステルが手紙を見直す。
「雨の後は近づかないように、とお父様に言われたそうです。シオン様は小さい頃、一度こっそり見に行って、ものすごく叱られたと」
「どの橋?」
「え?」
声が。
強くなった。
エステルが驚く。
「ごめん。ちょっと気になって」
「名前は……書いてありません」
私は息を整える。
「そう」
「お母様、橋がお好きなのですか?」
「……最近ちょっとね」
「変わっていますわね」
「石蹴り中心の九歳に言われたくないわ」
「石蹴りは面白いです」
「橋も面白いの」
「本当に?」
「今のは勢い」
エステルが笑った。
よかった。
普通に戻った。
でも。
古い橋。
雨の後は近づくな。
シオン。
また一つ。
重なる。
◇
夜。
帳面。
『旧北東街道』
『雨季の迂回路』
『橋?』
その下に。
『シオンの手紙――領地近くの古い橋。雨の後は近づかないよう父から注意。』
書く。
それから。
地図を見る。
二つの橋。
石橋。
木橋。
どちらが古い?
資料を探す。
石橋。
『築造年代不明。少なくとも六十年以上前から使用。』
木橋。
『二年前、一部架け替え。基礎は旧来のものを利用。』
どっちも古い。
「そう簡単にはいかないわよね」
呟く。
でも。
今までの断片は。
少しずつ。
一つの場所へ寄っている。
北東。
旧街道。
雨。
橋。
シオン。
そして。
襲撃。
私はその最後の言葉を見る。
疑問符。
まだ消せない。
でも。
消したくもない。
何かある。
たぶん。
ただ。
それがエステルの破滅に繋がるのか。
アレクに繋がるのか。
シオン自身の何かなのか。
それとも。
まったく別なのか。
分からない。
私は椅子にもたれた。
目を閉じる。
雨。
剣。
橋。
『――ここから先は、通せません』
その台詞の向こう。
誰かがいる。
顔は見えない。
でも。
声。
もう一つ。
あった気がする。
女の子。
いや。
少女。
何かを。
叫んでいる。
私は目を開けた。
「……誰?」
答えはない。
でも。
今度は。
橋の向こうに。
誰かがいた。




