まだ起きていないこと
眠れなかった。
正確には、眠った。でも、三度起きた。
一度目は雨の音がした気がして、二度目は馬車の車輪が聞こえた気がした。
三度目は。
『――ここから先は、通せません』
夢の中で、誰かがそう言った。
目を開ける。暗い天井。雨は降っていない。馬車もいない。
隣ではレオニスが寝ている。
私は静かに息を吐いた。
最悪。
前世の記憶。断片だけ寄越して寝不足にするの、やめてくれない?
全部出すか、全部忘れるか。どっちかにして。
「……ミレーヌ」
「起こした?」
「三度目だ」
「起きてたの?」
「二度目から」
ごめん。
「何か思い出したのか」
「昨日の続き。たぶん」
「話すか」
「朝にする」
「分かった」
それだけ言って、レオニスは目を閉じた。
私も閉じる。
五分後。
「ミレーヌ」
「何」
「寝る気はあるか」
「あるわよ」
「目が開いている」
「暗いのに何で分かるの」
「さっきから瞬きの音がする」
「嘘」
「嘘だ」
「レオニス」
笑った。少しだけ。
そのあと、ようやく眠れた。
◇
朝。
眠い。
「お母様、目の下が少し」
「言わないで」
「はい」
エステルが素直に引いた。優しい。
「奥様、紅茶を濃くいたしましょうか」
「お願い」
「二杯までで」
「何で制限されるの」
「三杯目から仕事を増やされる傾向がございます」
「そんな統計取ってるの?」
「経験則です」
怖い。
我が家の侍女、私より私を知っている。
朝食を終えると、レオニスが立ち上がった。
「執務室へ来るか」
「ええ」
「お父様、お仕事ですか?」
「少し話をする」
「お母様と?」
「ああ」
エステルが私を見る。
「難しいお話?」
「たぶん」
「では、終わったら石蹴りしましょう」
「何故そうなるの」
「気分転換です」
「誰に教わったの、その言葉」
「セリーヌです」
「セリーヌ」
「有効かと」
有効だけど、何か違う。
◇
レオニスの執務室。
扉が閉まる。
私は昨夜の帳面を机に置いた。
『北東街道』
『雨』
『襲撃?』
『護衛――後に?』
レオニスが読む。
「これが思い出したことか」
「今のところ」
「襲撃は確かか」
「確かじゃない。だから疑問符」
「時期は」
「分からない」
「場所は北東街道」
「たぶん」
「誰が襲われる」
「分からない」
「誰が襲う」
「分からない」
「目的は」
「分からない」
「……」
言わないで。顔で。
「役に立たないでしょう」
「情報が少ない」
「優しい言い方をありがとう」
私は椅子の背にもたれた。
「覚えているのは、一枚の絵みたいなもの。雨の夜。倒れた馬車。泥。剣を持った銀髪の男の子」
「シオンか」
「たぶん。今より少し大きい気がする」
「何歳くらいだ」
「分からない。十五? 十六? もっと上かも」
曖昧。
本当に。
「それから『ここから先は、通せません』って台詞」
「誰に言っている」
「分からない」
「誰を守っている」
「それも分からない」
レオニスが帳面を見る。
「では、今起きるとは限らない」
「そうなのよ」
そこ。
大事。
今のシオンは十一歳。記憶の中の彼は、少なくとも今より大きい。
なら、今日明日の話ではない可能性が高い。
「それなのに、昨日からずっと考えてる」
「知っている」
「見てた?」
「見ていなくても分かる」
「そんなに?」
「夕食で塩を二度取った」
「それだけで?」
「一度目にかけたことを忘れていた」
「……しょっぱかった」
「そうだろうな」
恥ずかしい。
「ミレーヌ」
「何?」
「まだ起きていない」
「……ええ」
「起きるかどうかも分からない」
「ええ」
「なら、今できることだけ決めろ」
簡単に言う。
でも、たぶんそれしかない。
「北東街道について調べる」
「それはできる」
「フェルディア領周辺の治安」
「できる」
「過去の襲撃事件」
「できる」
「雨の日の馬車事故」
「範囲が広すぎる」
「ですよね」
レオニスが紙を一枚取った。
「まず街道の位置と、誰が使うかだ」
「誰が使うか」
「王都と北東部を結ぶ道なら、商人だけではない。役人、軍、貴族、領民。道によって違う」
「……そうね」
道には、使う人がいる。
前に帳面へ書いた言葉を思い出す。
「シオンの家が街道管理に関わっているなら、彼がそこにいた理由も単純かもしれない」
「単純?」
「自領の道だからだ」
「あ」
そうか。
ゲームのイベントだから、そこにいる。
ではない。
フェルディア家の人間だから、そこにいる。その可能性。
私はまた、ゲームの側からだけ見ようとしていた。
「とにかく、調べる。でも、シオン本人を警戒対象にはしない」
「賛成だ」
「エステルにも何も言わない」
「何を言うつもりだった」
「言わないわよ」
「ならいい」
疑われてる。
「ただし、何か具体的に危険が見えたら」
「その時は動く」
「ええ」
今は、それだけ決めればいい。
◇
調べ始めると、すぐに分かったことがある。
北東街道。
一本ではなかった。
「……多い」
地図の上には、王都から北東へ延びる幹線と、そこから枝分かれする道。領地を繋ぐ道。軍が使う道。古い道。新しい道。
「どれよ」
思わず声が出た。
「奥様」
セリーヌが茶を置く。
「何」
「楽しそうですね」
「どこが」
「いつものお顔に戻られました」
「これが?」
「分からないものを前にして、文句を仰りながら調べている時のお顔です」
「褒めてないでしょう」
「半分ほど」
半分。
「これ全部、北東街道って呼ぶことある?」
「私に聞かれましても」
「そうよね」
知っている人。
誰。
レオニスは仕事。ネラは道と荷に詳しい。
そして。
フェルディア子爵。
本人。
私はペンを止めた。
聞けばいい。
でも、何て?
『将来、雨の日に襲撃される予定あります?』
駄目。
完全に駄目。
「普通にお尋ねになればよろしいのでは?」
セリーヌが言う。
「心読んだ?」
「お顔に」
「何て書いてあった?」
「『何と聞けば怪しまれないか』と」
「怖い」
この人。
「街道について教えてほしい、と仰ればよろしいかと」
「それだけ?」
「それ以外に何が」
「……ないわね」
ない。
普通に、知りたいから聞く。
それでいい。
◇
フェルディア子爵への手紙は、意外なほど短くなった。
北東部の街道について勉強したい。領地で管理している道と、その利用について教えてもらえないか。
それだけ。
送って三日。
返事が来た。
厚い。
「……厚いわね」
「厚いですね」
セリーヌも見る。
開ける。
地図。説明書。補足。過去五年の補修記録。季節ごとの通行量。馬の休憩所。冬季の迂回路。
「多い」
「お望みでしたので」
「望んだけど」
嬉しい。
すごく。
でも多い。
添えられた手紙には、丁寧な字でこうあった。
『ご関心をお持ちいただき光栄です。必要であれば追加資料もございます』
「まだあるの?」
「奥様」
「何」
「嬉しそうです」
「……ちょっと」
認める。
こういう資料、好き。
前世では絶対こんなもの読まなかったのに。
人生。
分からない。
地図を広げる。
フェルディア領。北東。山。川。街道。
いくつかの線。
その中で、一つ。
目が止まった。
『旧北東街道』
古い道。
現在は主要路ではない。
でも、雨季に新道の一部が増水で使えない時、迂回路として使われる。
雨。
道。
胸が少しだけ速くなる。
「セリーヌ」
「はい」
「これ」
「旧北東街道?」
「何か……」
来る。
記憶。
いや、来そう。
目を閉じる。
雨。馬車。泥。銀髪。剣。
そして。
橋。
「橋」
声が出た。
「橋、ですか?」
「橋があった」
画面の奥。暗い。小さな橋。
石だったか、木だったかは分からない。
でも、水。
川。
増水。
地図を指で追う。
川を渡る場所。
一つ。
二つ。
三つ。
どれかは分からない。
それでも、前よりずっと近い。
「奥様」
セリーヌの声。
私は息を吐く。
「大丈夫」
「はい」
「今は、大丈夫」
帳面を開く。
『旧北東街道』
『雨季の迂回路』
『橋?』
そこで止める。
断定しない。
まだ。
◇
「お母様、何をご覧になっているのです?」
夕方、エステルが書斎へ来た。
「地図よ」
「どこの?」
「フェルディア領のあたり」
「シオン様の?」
「そう」
エステルが横へ来る。
「広いですわね」
「そうね」
「ここが領地?」
「ええ」
「王都は?」
「こっち」
「遠い」
指で道を辿る。
「シオン様は、ここを馬車で?」
「たぶんね」
「何日かかるのです?」
「道や天気にもよるけど、数日はかかるみたい」
「石蹴りの練習ができますわね」
「馬車の中で?」
「休憩の時に」
「本当に石蹴り中心ね」
エステルが笑う。
「いつか行ってみたいです」
「フェルディア領?」
「はい。シオン様が、領地には良い石がたくさんあると」
「それ褒め言葉なの?」
「石蹴りには」
そう。
普通の、子どもの話。
でも地図の上には、旧北東街道。雨季の迂回路。橋。
私はその文字を見る。
エステルは知らない。
知らなくていい。
まだ。
「お母様?」
「何?」
「また難しいお顔です」
「そう?」
「はい」
エステルが私の手を取った。
「石蹴りします?」
「……それ万能だと思ってない?」
「かなり」
笑ってしまった。
「少しだけよ」
「はい」
地図を畳む。帳面も閉じる。
まだ起きていないことを、今から怖がり続けることはできない。
でも、忘れることももうできない。
だから覚えておく。調べる。
それから、目の前の時間もちゃんと生きる。
「お母様、早く」
「今行くわ」
エステルの後を追う。
廊下の向こうから。
「今日は私もやる」
レオニスの声がした。
「仕事は!?」
「終えた」
「早い!」
エステルが笑う。
私は頭を抱える。
それでも、胸の奥に残っていた冷たさは、ほんの少しだけ薄くなった。




