思い出したくなかった名前
朝食の席で。
「お母様、今日の午後、アレクがいらっしゃいますわ」
エステルが言った。
「ええ、覚えてるわ」
「本当ですか?」
「本当よ」
「昨日、セリーヌに聞いていました」
「確認しただけよ」
「一昨日も聞いていました」
「確認は大事でしょう?」
「三日前にも」
「……」
何故。
娘が。
そんなに把握しているの。
「奥様が毎回、私に同じことをお尋ねになりますので」
セリーヌが紅茶を置く。
「告げ口」
「事実の共有でございます」
「エステルと共有しなくていいの」
「では旦那様だけに」
「もっと嫌」
向かいでレオニスが新聞から目を上げた。
「私は聞いていない」
「今、聞いたでしょう」
「そうだな」
味方がいない。
エステルは楽しそうにパンをちぎっている。
「今日はシオン様も来られるのでしょう?」
「ええ。フェルディア子爵がレオニスに用があるそうだから、一緒に」
「でしたら三人ですわね」
「石蹴り?」
「もちろんです」
即答。
そこへアレクまで加わる。
九歳。
九歳。
十一歳。
全員、負けず嫌い。
嫌な予感しかしない。
「お父様も?」
「私は仕事だ」
「残念ですわ」
「……終われば見る」
「参加ではなく?」
「見るだけだ」
「セリーヌ」
「長靴ではなく、今日はいつもの靴でよろしいかと」
「何の話だ」
私は紅茶を飲んだ。
今日も平和だ。
たぶん。
◇
昼前。
書斎で昨日の帳面を開いた。
『雨樋の水。仮の受け。次の雨で確認。』
三行。
我ながら短い。
でも、必要なことは分かる。
そのページを閉じようとして、手が止まった。
昨夜。
雨。
道。
馬。
フェルディア。
北東部。
それらが一瞬だけ、前世の記憶の何かと重なった。
結局、何だったのかは分からない。
今朝になっても同じだ。
ただ。
昨日までとは少し違う。
名前だけではない。
何かの場面がある。
画面の中に。
シオン・フェルディアという名前と一緒に。
私は目を閉じた。
追わない。
無理に思い出そうとしない。
そう決めたばかりだ。
なのに。
『北東部』
頭の中で、その言葉だけが妙に残る。
「……北東部」
声に出してみる。
何も起きない。
「馬」
何も。
「道」
何も。
「雨」
何も。
「剣」
何も。
何をしてるの、私。
「攻略――」
口が動きかけて。
閉じた。
危ない。
一人だから別にいいけれど、癖になると外でも出る。
やめよう。
私は帳面を閉じた。
ちょうどその時、扉が叩かれた。
「奥様。アレクシス殿下がお着きです」
「早いわね」
「予定より少々」
「行くわ」
立ち上がる。
今日見るのは、記憶ではない。
目の前の子どもたちだ。
◇
「こんにちは、エステル」
「ようこそ、アレク」
玄関広間。
アレクはいつものように礼儀正しく、でもエステルを見ると少しだけ顔が柔らかくなった。
「今日はシオンも来るんだよね?」
「はい」
「何時頃?」
「もうすぐだと思いますわ」
「そう」
平静。
普通。
でも。
「楽しみ?」
エステルが聞く。
「うん。どんな人か気になってたから」
「剣がお上手です」
「見たの?」
「まだです」
「じゃあ分からないじゃない」
「手が硬かったです」
「それだけで?」
「三年です」
「僕は二年」
「存じています」
「……今日は僕の手は見なくていいからね」
「もう見ましたもの」
「そうだけど」
アレクの耳が少し赤くなる。
覚えてる。
ちゃんと。
エステルは気づいていない。
たぶん。
そこへ馬車の音がした。
「いらっしゃいましたわ」
エステルが窓へ寄る。
アレクも、その横へ。
私は少し後ろから二人を見る。
門を通るフェルディア家の馬車。
降りてくる子爵。
そして銀髪の少年。
「シオン様!」
エステルが玄関へ向かう。
アレクも続いた。
私は。
一瞬だけ。
胸の奥がざわついた。
何故。
今。
昨日より。
近い。
◇
「シオン様。こちら、アレクです」
「初めまして。シオン・フェルディアです」
「アレクシス・ヴァレンティア。よろしく」
十一歳の子爵家次男と、九歳の王子。
シオンは一瞬だけ姿勢を正した。
当然だ。
相手は王族。
でもアレクが先に手を出した。
「今日は石蹴りするんだよね?」
「……はい」
「なら、そこでは殿下って呼ばなくていいよ」
「え」
「エステルもアレクって呼ぶから」
「アレク」
「はい」
「勝手に決めてよろしいのですか?」
「僕がいいって言ってる」
「……では、アレク様」
「様もなくていい」
「それは少し難しいです」
「じゃあ、今はそれで」
アレクが笑う。
シオンも少し笑った。
いい。
普通。
とても普通。
「では、アレク様」
「うん」
「石蹴りは?」
「この前から練習してる」
「僕もです」
「エステルに勝った?」
「一度だけ」
「僕は何度か」
「アレク」
エステルの声が低くなる。
「何?」
「回数を数えていらっしゃるの?」
「だいたい」
「わたくしも数えていますわ」
「知ってる」
始まった。
もう。
「お茶は?」
私が聞く。
「後で」
三人。
揃った。
何その団結。
「先に少しだけですわ、お母様」
「少しだけ」
アレクが言う。
「少しです」
シオンまで。
嫌な予感。
「二十分」
「三十分」
「エステル」
「では二十五分」
「交渉しないの」
結局。
二十五分になった。
何故。
◇
屋根付きの練習場所で。
三人は真剣だった。
本当に。
何で。
石蹴りで。
「最初は誰です?」
「年上からでいいんじゃない?」
「では僕ですか」
「待ってくださいませ」
エステルが手を上げる。
「何?」
「この場所では、わたくしが一番長く練習しています」
「年齢じゃなくて経験順?」
「そうですわ」
「それならエステルだね」
「異論ありません」
シオンも頷いた。
何の競技規則。
私は椅子に座った。
セリーヌが隣で茶を注ぐ。
「奥様」
「何?」
「楽しそうですね」
「誰が?」
「奥様が」
「そう?」
「はい」
否定しようとして。
やめた。
楽しい。
普通に。
エステルが蹴る。
アレクが蹴る。
シオンが蹴る。
勝った。
負けた。
もう一度。
悔しい。
次は。
その繰り返し。
ゲームの中で。
この三人が一緒に石を蹴る場面なんて。
たぶん、ない。
いや。
絶対ない。
そもそも石蹴りなんて要素があった覚えがない。
なのに。
今。
目の前にある。
「シオン様、今のは足が強すぎます」
「分かりました」
「エステルも前、同じことしてたよ」
「今はしていません」
「僕に教わったから?」
「お父様です」
「そっちか」
「旦那様は石選びに関してだけは一家言ございますので」
セリーヌが言う。
「だけは?」
私は聞く。
「石蹴りに関して、でございます」
「言い直しても危ないわよ」
三人が笑った。
その時だった。
「フェルディア」
後ろから声がした。
レオニス。
仕事は。
「はい、レオニス様」
シオンが振り返る。
「剣をやるそうだな」
「はい」
「誰に習っている」
「領地の騎士と、兄です」
「型は?」
「北方式を基礎に」
「北方式?」
アレクが反応した。
「僕は王都式です」
「少し違うと思います」
「どこが?」
「構えが――」
シオンが足を動かす。
右足。
左足。
腰を落とす。
剣は持っていない。
でも。
その形。
私は。
知っている。
いや。
見たことがある。
画面。
立ち絵ではない。
イベント。
夜。
雨。
剣。
銀色。
誰か。
誰かを。
「奥様?」
セリーヌの声が遠い。
シオンが、架空の剣を振る。
その動きと。
記憶の中の一枚絵が。
重なる。
雨の中。
倒れた馬車。
泥。
銀髪の少年。
剣。
文字。
『フェルディア』
違う。
もっと。
その前に。
『北東街道』
そう。
北東。
街道。
事件。
イベント。
そして。
「……護衛」
声が出た。
「お母様?」
エステルが振り返る。
「え?」
しまった。
「護衛がどうかなさいました?」
「……何でもないわ。昔、似た構えの護衛を見た気がして」
苦しい。
でも。
誰も追及しなかった。
レオニスだけが私を見る。
気づいた。
たぶん。
でも何も言わない。
「続けて」
レオニスがシオンに言う。
「はい」
私は座ったまま、手を握った。
思い出した。
全部ではない。
でも。
シオン・フェルディア。
攻略対象ではない。
たぶん。
少なくとも。
恋愛の中心にいた名前ではない。
彼は。
誰かの護衛。
いや。
違う。
護衛になる。
後に。
誰の。
そこが。
出てこない。
そして北東街道。
雨。
襲撃。
何かが起きる。
何か。
大きな。
私は息を整えた。
今すぐ帳面。
書きたい。
でも。
ここで開いたら。
エステルが見る。
シオンも。
アレクも。
やめる。
覚えていられる。
たぶん。
お願い。
私の脳。
今日は働いて。
◇
「ミレーヌ」
子どもたちがお茶へ移ったあと。
レオニスに呼び止められた。
「何?」
「思い出したのか」
「……少し」
「話せるか」
「まだ整理できてない」
「分かった」
それだけ。
行こうとする。
「待って」
「何だ」
「聞かないの?」
「今、整理できていないと言っただろう」
「そうだけど」
「なら、整理できてから聞く」
やっぱり。
待つ。
この人は。
「ありがとう」
「礼を言われることか?」
「たぶん」
レオニスは少しだけ眉を上げた。
「一つだけ」
「何?」
「危険か」
「……分からない」
「シオンが?」
「違う」
これは。
言える。
「シオン本人が危険だとは、今のところ思ってない」
「ならいい」
「いいの?」
「今はな」
レオニスは子どもたちの方を見る。
エステルが何か言って。
アレクが反論して。
シオンが笑っている。
「少なくとも、あれを今すぐ止める理由はない」
「……そうね」
私も見る。
そう。
ない。
記憶が戻ったからといって。
この時間を。
壊す理由にはならない。
◇
夜。
ようやく一人になった。
帳面を開く。
『シオン・フェルディア 十一歳』
小さな丸。
その下。
ペンを置く。
『北東街道』
『雨』
『襲撃?』
『護衛――後に?』
四つ。
疑問符ばかり。
でも。
昨日までよりは多い。
そして一番下。
『攻略対象ではない?』
書いて。
すぐ線を引いた。
違う。
そこを決めるのは早い。
記憶が曖昧なのに、断定したら同じことになる。
私は新しく書く。
『ゲームに関係する人物である可能性は高い。役割は不明。』
これなら。
今、分かっている範囲。
それから。
もう一つ。
どうしても気になる。
雨の中の一枚絵。
倒れた馬車。
剣を持つシオン。
あれは。
誰を守っていた?
主人公?
アレク?
別の誰か?
エステル?
胸が跳ねた。
違う。
分からない。
分からないのに。
そこへ行くな。
私はペンを置く。
目を閉じる。
画面の中。
雨。
剣。
泥。
馬車。
そして。
声。
『――ここから先は、通せません』
誰の台詞。
シオン?
たぶん。
その後。
何が。
あった。
出てこない。
「もう……」
頭を抱える。
あと少しなのに。
近づいたら逃げる。
前世の記憶。
本当に。
攻略本としては。
使えない。
でも。
今度は笑えなかった。
北東街道。
雨。
襲撃。
護衛。
どれも。
穏やかな言葉ではない。
私は帳面を閉じた。
まだ。
破滅フラグとは呼ばない。
シオンが何者だったのかも。
その事件が誰に関わるのかも。
何一つ、確定していない。
ただ。
名前だけだったものに。
初めて。
輪郭がついた。
それだけで。
胸の奥が。
少し。
冷たくなった。




