雨のあと
雨が降った。
朝から、きれいに。
窓硝子を細い筋が何本も流れている。
「奥様」
「分かってるわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「ネラさんのところでしょう」
「はい」
「行きたい」
「でしょうね」
セリーヌは止めなかった。
代わりに、椅子の背へ外套を掛ける。
「馬車は用意しております」
「早い」
「奥様が窓を三度ご覧になった時点で」
「そんなに?」
「四度目でした」
「増えた」
新しい中継所の水はけ。
前の雨で水の流れを見て、浅い排水を試すことにした。
大きく石を敷き詰めるのではなく、まずは戻せる方法から。
そして今日は、その次の雨だ。
結果を見る日。
「お母様」
振り向くと、エステルがいた。
「お出かけですか?」
「ええ。前に話した中継所を見てくるわ」
「雨なのに?」
「雨だからよ」
「なるほど」
納得が早い。
「わたくしも行ってはいけませんか?」
「今日は泥だらけになるわよ」
「靴は洗えます」
「そういう問題では……」
ない。
とは言い切れない。
最近、この子は自分の靴を洗う。
そして私は、それを止めなくなった。
「現場の邪魔をしないこと」
「はい」
「勝手に歩き回らないこと」
「はい」
「滑りそうな場所には近づかない」
「はい」
「それから――」
「奥様」
「何?」
「四つ目に入ります」
「数えないで」
「エステル様は三つとも覚えておられます」
「わたくし、言えますわ」
「言わなくていいの」
何故か負けた気がする。
◇
中継所の庭は、やっぱり泥だった。
ただし。
「前とは違いますね」
馬車から降りる前に、エステルが言った。
「分かる?」
「水が溜まっているところが少ないです」
その通りだった。
雨脚は前回と大きく変わらない。
けれど庭の中央にできていた大きな水溜まりが、今日はない。
浅く掘った溝を、水が細く流れている。
「ミレーヌ様!」
屋根の下からネラが手を上げた。
以前、領内の荷の流れを見直した時に知り合った女性だ。二十年、荷と道と、それを動かす人たちを見てきた。
数字だけでは見えないところを見る。
私は、彼女のそういうところを信用している。
「よくこの雨の中を」
「この雨だから来たのよ」
「そう言うと思いました」
笑われた。
横からセリーヌが傘を差し出してくれる。
「エステル様も?」
「見学ですわ」
「それは頼もしい」
ネラはしゃがみ、地面を指した。
「ここです。前はこの辺りまで水が広がっていました」
「今は溝に入ってる」
「ええ。ただ、全部ではありません」
少し先。
厩の入口近くに、ぬかるみが残っている。
「馬が通ると、そこだけ崩れるんです」
「溝を増やす?」
「それも考えましたが」
ネラが首を振る。
「増やしすぎると、今度は車輪が引っかかる」
なるほど。
私は帳面を出した。
『石を増やしすぎると、車輪が引っかかる』
これは書いておく。
一つ直したら終わり、ではない。
それも帳面に書こうとして、手が止まった。
「お母様」
「何?」
「見るのでしょう?」
手が止まる。
「……そうだったわ」
今は帳面ではなく、先に現場を見る。
知っている人と。
答えを急がない。
私は帳面を戻した。
セリーヌが何も言わない。
その無言が少し腹立つ。
「今、褒めた?」
「心の中で」
「聞こえないわ」
「では、後ほど」
後ほど何を。
ネラが笑いを堪えている。
「歩けますか?」
「こちらなら。板を置いてあります」
私たちは厩の脇へ回った。
雨水は溝を通り、庭の外へ流れている。
ただ、馬が何度も踏んだ場所だけ、水と土が混ざって柔らかくなっていた。
そこへ一頭、荷馬が引かれてくる。
「見ていてください」
ネラが言う。
馬が歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩目で、蹄が少し沈んだ。
大きくはない。
でも、確かに。
「ここですね」
「はい」
御者が馬を止める。
「荷が重い時は、もう少し沈みます。馬が嫌がって横へ逃げると、今度は車輪の線とぶつかる」
「昨日、一台だけ危なかったです」
厩番が加わった。
「転んだ?」
エステルが聞く。
「いいえ、お嬢様。そこまでは。ただ、馬が足を取られました」
「怖かったでしょうね」
「ええ。馬も人も」
エステルがぬかるみを見る。
少し眉を寄せた。
「ここだけ硬くするのは?」
「私もそう思いました」
答えたのは、前にも来ていた道直しの職人だった。
「ただ、硬くしすぎると境目で割れます」
「では、少しだけ?」
「その“少し”が難しいんです」
エステルが黙る。
私は口を挟まない。
分からないことを、分かるふりはしない。
でも。
見ていると。
少しずつ。
何が分からないのかは、分かってくる。
「水を逃がす場所と、馬が踏む場所が同じなのが問題なのね」
「そうです」
ネラが頷いた。
「だから、溝だけの問題じゃない」
「ええ」
私は庭を見渡した。
御者が通る。
馬が通る。
荷車が通る。
人が横切る。
同じ地面を使っているのに、欲しいものが違う。
水は低いところへ行きたい。
馬は沈みたくない。
車輪は段差を嫌う。
人は濡れたくない。
「面倒ね」
「でしょう?」
ネラが笑った。
「でも、前よりは良くなっています」
「そうね」
それが大事だ。
完璧ではない。
でも、昨日より困る人が減っている。
「お母様」
「何?」
「あそこ」
エステルが指した。
軒先。
雨樋から落ちた水が、一か所だけ強く地面を叩いている。
そのすぐ先が、例のぬかるみだ。
「……あれ?」
ネラも見る。
「前から?」
「雨樋は前からです。ただ……」
厩番が近づく。
「この前、樋の向きを少し変えました」
「何故?」
「壁に水が跳ねていたので。腐りが出ると困るから、外へ」
全員が黙った。
水は外へ。
その外が。
馬の通り道。
「ああ」
職人が頭を掻いた。
「これもか」
「これも?」
エステルが聞く。
「一つ直すと、別のところに出るんですよ」
壁を守った。
その水が地面を悪くした。
溝を掘った。
水溜まりは減った。
でも馬の通る場所はまだ弱い。
何というか。
世界。
連鎖しすぎ。
「樋の水だけ別へ流せます?」
「できます。ただ、今の溝へそのまま入れると雨の強い日は溢れるかもしれない」
「では?」
「受けを作って、流れを弱くしてから入れるのがいいでしょうね」
職人が地面を見ながら言う。
「木で仮に作れます。駄目なら外せる」
「それで試しましょう」
ネラが答えた。
早い。
でも、前とは違う。
何となく決めたのではなく、見て、原因を一つ見つけて、戻せる方法を選んだ。
私はようやく帳面を開いた。
「今度はよろしいかと」
セリーヌが言う。
「許可制なの?」
「まさか」
書く。
『雨樋の水。仮の受け。次の雨で確認。』
それだけ。
前なら。
もっと書いた。
原因。
対策。
想定。
別案。
危険。
たぶん三ページ。
今日は三行。
十分だ。
◇
帰る頃には、雨が少し弱くなっていた。
エステルの靴は泥だらけだ。
私の靴も。
セリーヌだけ、何故か比較的きれい。
「何で?」
「歩く場所を選んでおりますので」
「私も選んだわ」
「奥様は途中から地面しか見ておられませんでした」
「……」
反論できない。
馬車に乗る前、エステルが振り返った。
「お母様」
「何?」
「あれは、成功ですか?」
中継所。
排水のことだろう。
「途中ね」
「失敗ではなく?」
「前より良くなったところはあるもの。だから失敗ではないと思う」
「でも、まだ直すところがある」
「そうね」
エステルは少し考えた。
「では、途中ですわね」
「ええ」
それで会話は終わった。
教訓にはしない。
私も、何か立派なことを言う気はない。
ただ、途中。
それでいい。
馬車が動き出す。
窓の外で、浅い溝を雨水が流れていた。
◇
屋敷へ戻ると。
玄関に。
レオニスがいた。
「ただいま」
「お帰り」
「珍しいわね。迎え?」
「そうだ」
素直。
怖い。
「何?」
「何が」
「その顔」
「普通だ」
「普通じゃない」
視線が。
下へ。
私の靴。
エステルの靴。
泥。
「……」
「現場だから」
「聞いている」
「転んでないわよ」
「それも聞いている」
「じゃあ何」
「エステル」
「はい、お父様」
「寒くないか」
「大丈夫ですわ」
「濡れていないか」
「少しだけ」
「着替えろ」
「はい」
エステルは素直に侍女と奥へ行った。
私も行こうとする。
「ミレーヌ」
「何?」
「お前もだ」
「分かってるわよ」
「それから」
「まだあるの?」
「次から私も行く」
「何で!?」
「現場を見る」
「仕事は?」
「調整する」
「そこまでしなくていいわ」
「今日、エステルを連れて行った」
「本人が行きたいって」
「なら次は私も行きたい」
「子どもみたいな理屈!」
レオニスが黙る。
否定しない。
「……石蹴りの次は現場まで?」
「何の話だ」
「何でもない」
セリーヌが外套を受け取る。
「旦那様」
「何だ」
「長靴をご用意いたしましょうか」
「頼む」
「行くの!?」
本気だ。
この人。
エステルが絡むと。
本当に。
私は頭を抱えた。
◇
その夜。
湯を使い、着替えて、夕食も終わった。
帳面を開く。
今日の三行。
『雨樋の水。仮の受け。次の雨で確認。』
その下に、何か書こうとして。
やめた。
今日はもういい。
帳面を閉じる。
机の端には、別のページに挟んだ紙が少しだけ見えている。
『シオン・フェルディア 十一歳』
その名前を見ても。
今日は、開かなかった。
中継所のことを考えていたから。
エステルと雨の中を歩いたから。
レオニスが長靴を用意すると言い出したから。
たぶん、それでいい。
思い出せないものを一日中追いかけなくても、目の前では別のことが起きている。
私は蝋燭を消そうとして。
ふと。
止まった。
雨。
道。
馬。
フェルディア。
北東部。
境の道。
何か。
ほんの一瞬。
頭の奥で、言葉が重なった。
画面。
文字。
選択肢。
誰かの名前。
でも、掴む前に消えた。
「……今の、何?」
声に出した。
返事はない。
当然だ。
もう一度思い出そうとする。
出てこない。
無理に追えば、また何日も同じところを回る気がした。
だから、やめる。
蝋燭を消した。
暗くなった部屋で、雨の音だけが残る。
まだ。
分からない。
でも。
今度は。
名前だけではなかった。




