まだ。知らない。
手紙が来た。
今度は、私宛てに。
「フェルディア子爵家からでございます」
セリーヌが封を確認し、私へ差し出す。
「……私に?」
「はい」
少しだけ嫌な予感がした。
悪い意味ではない。
ただ、最近この名前を見ると、頭の奥がむずむずする。
シオン・フェルディア。
十一歳。
エステルより二つ上。
剣を三年。
石蹴りは初心者。
知っていることは、それくらい。
なのに名前だけは、前世の記憶のどこかに引っかかっている。
それが何なのか、まだ出てこない。
封を開く。
中身は短かった。
フェルディア子爵本人からだった。
先日の急な立ち寄りへの礼と、息子が世話になったことへの感謝。
それから。
『近く王都へ戻る折、正式にご挨拶に伺えれば幸いに存じます』
正式に。
ご挨拶。
そこまで読むと、私は思わず帳面を見た。
いや。
見なくていい。
今すぐ何かが起きる文面ではない。
ただの礼儀。
普通の貴族同士の挨拶。
分かってる。
分かっているけれど。
「奥様」
「何?」
「帳面を開くほどのことではないかと」
「まだ開いてないわ」
「手はかかっております」
「置くわ」
置いた。
素直に。
「えらいでしょう」
「はい。大変」
「間があったわね」
「感動で」
「嘘」
セリーヌが微笑む。
この人、最近ほんとうに遠慮がない。
いや、前からか。
そこへ、廊下から軽い足音がした。
「お母様」
エステルが顔を出す。
「お手紙ですか?」
「ええ。フェルディア子爵家から」
「シオン様のお父様?」
「そうよ」
「何て?」
私は手紙を渡した。
エステルが読む。
「ご挨拶に?」
「そうみたい」
「では、またシオン様もいらっしゃるかもしれませんね」
「そうね」
嬉しそう。
分かりやすい。
「楽しみ?」
「はい」
即答だった。
「剣のお話を聞きたいですし」
「石蹴りも?」
「もちろんですわ」
そっちが主では。
と思ったけれど、言わない。
「アレクにも紹介したいです」
「そうだったわね」
「三人なら、順番を決めないといけません」
「何の?」
「石蹴りの」
「やっぱりそこなの」
エステルは真顔だ。
私は笑った。
この子にとって、シオンは今のところそれでいいのだ。
少し年上で、剣が好きで、負けず嫌いで、また会いたい相手。
それ以上を勝手に付け足しているのは、私だけ。
前世の記憶があるから。
ゲームを知っているから。
いや。
知っているはずだから。
そこがいちばん厄介だ。
◇
午後。
レオニスの執務室を訪ねた。
「入れ」
声に従って中へ入る。
机の上には書類が三つの山に分かれている。
相変わらず、見ただけで帰りたくなる量だ。
「珍しいな」
「何が?」
「自分から来るのが」
「私だって来るわよ」
「仕事の話なら、たいてい先に紙が来る」
「……今日は紙より先に私が来たの」
「それは珍しい」
微妙に負けた気がする。
「フェルディア子爵家から手紙が来たわ」
「ああ」
「知ってるの?」
「先方から私にも届いている」
「先に言って」
「今言った」
そういうところ。
私は椅子に座る。
「近く来るみたいね」
「王都の用が済めば、帰領の途中で寄るつもりらしい」
「シオンも?」
「おそらく」
レオニスは書類を一枚めくった。
「何か気になるのか」
「……名前が」
「またか」
「またって何」
「この数日、何度か聞いた」
「そんなに?」
「三度」
「数えないで」
恥ずかしい。
「何を知りたい」
「分からないから困ってるの」
「では、何を聞けばいい」
「それも分からない」
「難題だな」
ごもっとも。
私は少し黙る。
「シオンについて、何か変わった話は?」
「変わった?」
「家の事情とか、王家との関わりとか、評判とか」
「特にない」
即答。
「本当に?」
「少なくとも、私が把握している範囲では」
「それが逆に怖い」
「何故だ」
「何もないのに名前だけ覚えてるから」
「……なるほど」
レオニスが少しだけ考える。
私が前世について、全部を話しているわけではない。
でも、昔から時々こういうことがあるのは知っている。
理由の説明がつかない警戒。
断片的な既視感。
そして私が、それを無視できないことも。
「覚えていることは?」
「名前」
「それだけか」
「たぶん」
「顔は」
「今の顔を見たら、知ってる気はした」
「服装は」
「分からない」
「場所は」
「分からない」
「誰と一緒だった」
「……分からない」
ひどい。
自分で答えていて落ち込む。
「使えない記憶ね」
「そうは思わない」
「え?」
「危険だと決めつけていない」
「それは……」
「以前のお前なら、名前を覚えている時点で何かに結びつけた可能性がある」
痛い。
否定できない。
「今は、分からないものを分からないまま置いている」
「褒めてる?」
「かなり」
「それはそれで怖い」
「何故だ」
この人に真顔で褒められると、何か裏がある気がする。
たぶんない。
たぶん。
「なら、来た時に普通に会えばいい」
「普通に」
「シオン本人にも、父親にも」
「探る感じにならない?」
「ならないように話せ」
「簡単に言うわね」
「お前ならできる」
「期待が重い」
「無理なら私もいる」
「……それは助かる」
レオニスは頷いた。
それ以上は聞かない。
こういう時、この人は本当に待つ。
私が話せるところまで。
そこは、ありがたい。
少し怖いけれど。
「ところで」
「何?」
「エステルは」
「元気よ」
「そうではない」
「何」
「シオンと親しいのか」
「……」
来た。
父親。
「この前会っただけよ」
「手紙をやり取りしていると聞いた」
「一通ずつね」
「また会う約束もしたと」
「石蹴りで」
「石蹴りで」
確認するな。
「二歳上か」
「そうね」
「剣も習っている」
「そうね」
「…………」
「何」
「いや」
分かりやすい。
ものすごく。
「レオニス」
「何だ」
「九歳よ」
「知っている」
「シオンは十一歳」
「知っている」
「何を心配してるの」
「別に」
「別にの顔じゃないわよ」
黙った。
図星。
「アレクの時もそうだったけど」
「アレク殿下は婚約者だ」
「だから余計に?」
「……」
この人。
本当に。
娘のことになると。
「レオニス」
「何だ」
「エステルが友達を増やすたびにそれやるの?」
「やらない」
「今やってる」
「確認だ」
「何の」
「相手の」
「十一歳の子よ」
「年齢は関係ない」
「あるわよ」
思わず笑う。
レオニスは不満そうだ。
「シオンは普通の子だったわ」
「お前が言うと不安になる」
「どういう意味」
「名前を覚えていると言っている」
「それとこれとは別」
「なら、私も別に確認しているだけだ」
「だから何を確認してるの」
返事はない。
負けたくないのは、どうやらエステルだけではない。
◇
数日後。
フェルディア子爵家の馬車が来た。
今回は雨ではない。
空はよく晴れている。
門前も乾いている。
正面玄関で迎えると、まず降りてきたのは四十代半ばほどの男性だった。
背は高くない。
体つきは細め。
けれど姿勢がよく、立っただけで妙に安定感がある。
「急な立ち寄りにもかかわらず、先日は息子が大変お世話になりました」
フェルディア子爵。
声は静かだった。
シオンと少し似ている。
「こちらこそ。エステルも楽しかったようです」
「それなら何よりです」
その後ろから。
「ご無沙汰しております」
シオンが降りてきた。
ご無沙汰。
三週間も経ってない。
十一歳。
丁寧。
「ようこそ、シオン」
「ありがとうございます、ミレーヌ様」
銀の髪。
今日は日差しの下ではっきり見える。
前に見た時より、少しだけ柔らかい印象だ。
たぶん天気のせい。
いや。
前回は雨だったから。
だから暗く見えたのだ。
うん。
そういうことにしておこう。
「シオン様!」
エステルが階段を降りてくる。
走ってはいない。
でも速い。
「エステル様」
「石蹴りは練習されました?」
「挨拶より先にそれですか」
「ご挨拶は今しました」
「……確かに」
シオンが笑う。
前より自然だ。
「練習しました」
「本当に?」
「石がなかなか見つからなくて」
「では今日は選んで差し上げます」
「それは助かります」
「でも良い石は譲りません」
「そこは譲ってください」
「嫌ですわ」
早い。
仲良くなるのが。
「エステル」
「はい?」
「お客様よ」
「あ」
今さら。
「失礼いたしました」
「いえ」
子爵が笑った。
「息子が手紙に書いていた通りですね」
「何と?」
「石蹴りが強い、と」
「当然ですわ」
胸を張るな。
でも可愛い。
子爵はそんなエステルを見て、目を細めた。
「シオンが同年代に近い子の話をするのは珍しいのです」
「そうなのですか?」
「領地では兄と一緒にいることが多くて。年の近い相手と遊ぶ機会があまりない」
へえ。
私はシオンを見る。
本人は少し困った顔だ。
「父上」
「事実だろう」
「そうですが」
「嫌か?」
「……少し恥ずかしいです」
「ならやめよう」
あっさり。
似ている。
この親子。
「お父様も来ます?」
「何にだ」
「石蹴りに」
「エステル」
「だめですか?」
「まずお茶」
「はい」
最近、この家で石蹴りの優先順位が高すぎる。
◇
お茶の席では、主にレオニスとフェルディア子爵が話した。
街道。
馬。
北東部の冬。
橋の補修。
穀物の輸送。
普通の話。
いや、貴族としては普通。
私には半分くらい仕事の話にしか聞こえない。
隣でシオンとエステルは、小声で話している。
「剣のお稽古は毎日ですか?」
「領地ではほぼ毎日です」
「王都では?」
「今は兄と一緒なので、同じように」
「昨日は?」
「負けました」
「また?」
「またです」
悔しそう。
でも笑っている。
「何本取られました?」
「三本」
「一本も?」
「取れませんでした」
「それは悔しいですわね」
「はい」
エステルが真剣に頷く。
何故か同情が深い。
負けず嫌い同士。
通じるものがあるのだろう。
「でも、前よりは長く持ちました」
「では進歩ですわ」
「兄にも同じことを言われました」
「なら次は一本です」
「そうしたいです」
私は紅茶を飲む。
普通だ。
やっぱり。
どう見ても。
普通の十一歳の男の子。
少し落ち着いていて。
少し真面目で。
負けず嫌い。
それだけ。
なのに。
名前。
どうして。
「ミレーヌ?」
レオニスに呼ばれた。
「え?」
「聞いているか」
「もちろん」
「今、何の話をしていた」
「橋」
「三つ前だ」
「……ごめんなさい」
子爵が小さく笑う。
「何か気になることでも?」
「いえ。少し考え事を」
「うちの息子が何か?」
「え」
鋭い。
「先ほどから、何度か見ておられましたので」
まずい。
見すぎた。
「失礼しました。前に一度お会いしただけなのに、とても落ち着いているなと思って」
「それはよく言われます」
子爵はあっさり頷いた。
「子どもの頃から、あまり騒がない性質で」
「父上」
「嫌か?」
「今日は多いです」
「そうか」
やめた。
ほんとうに。
この親子、変なところで似てる。
「ただ」
子爵が少しだけ考える。
「静かなだけで、頑固です」
「頑固?」
「はい」
シオンが目を伏せた。
「剣も、兄に負け続けているのにやめません」
「やめる理由がありません」
「こういうところです」
なるほど。
「三年、一度も勝てなくても?」
私が聞く。
「はい」
「嫌にならない?」
「なります」
即答だった。
私は少し驚いた。
「嫌になります。負けるたびに」
「それでも続けるの?」
「勝ちたいので」
簡単な答え。
でも。
あ。
何か。
今。
引っかかった。
記憶ではない。
言葉。
いや。
感覚。
画面の向こう。
誰かが。
「どうしました?」
シオンがこちらを見る。
「……何でもないわ」
出てこない。
でも、さっきより近い。
何かが。
ほんの少し。
私はそれを追いかけそうになって、やめた。
今は。
目の前に本人がいる。
記憶の中の誰かより。
こっちを見た方がいい。
「シオン」
「はい」
「勝てたら、どうするの?」
「兄にですか?」
「ええ」
「……考えていません」
そう言って、少し笑った。
「まず一度、勝ちたいだけなので」
私は頷く。
それでいい。
たぶん。
◇
結局。
お茶の後。
石蹴りになった。
当然のように。
「今回は負けません」
「この前も同じことを言っていましたわ」
「今日は練習してきました」
「望むところです」
シオンとエステルが並ぶ。
少し離れて、フェルディア子爵が見ている。
「これが?」
「石蹴りです」
レオニスが答える。
「なるほど」
「単純だが、奥が深い」
「そうなのですか」
「石選びが重要だ」
「お父様」
「何だ」
「始めますわよ」
「ああ」
レオニス。
説明する側になってる。
完全に。
「殿下はいらっしゃらないのですね」
シオンが言った。
「今日はご予定がありますの」
「そうですか」
「次は三人で」
「楽しみです」
その言葉に、私は少しだけ耳を澄ませた。
何もない。
普通。
笑っている。
「では、私から」
シオンが石を置く。
蹴る。
前より上手い。
まっすぐ。
距離もある。
「上達しましたわね」
「練習しましたので」
「でも、まだです」
エステルが蹴る。
もっと近い。
「……」
「一勝ですわ」
「もう一度」
「もちろん」
二人とも楽しそうだ。
フェルディア子爵が、ほんの少し目を丸くしていた。
「シオンが」
「はい?」
「こんな顔をするのは久しぶりです」
声が低い。
誰にも聞かせるつもりではなかったのかもしれない。
「領地では?」
「兄にはよく食ってかかります。ただ、同年代に近い相手には、あまり」
「そうなのですね」
私は二人を見る。
エステルが勝つ。
シオンが悔しがる。
またやる。
今度はシオンが勝つ。
エステルが目を見開く。
「やりました」
「……もう一度ですわ」
「はい」
今度は逆。
いつも通り。
負けたら次。
勝っても次。
終わらない。
子どもって。
強い。
「奥様」
セリーヌが隣に立つ。
「帳面は?」
「今日は持ってきてないわ」
「大変よろしいかと」
「褒めてる?」
「心から」
「珍しい」
「失礼ですね」
私は笑った。
でも本当に、今日は書かなくていい気がした。
シオン・フェルディア。
十一歳。
名前は知っている。
でも。
まだ、知らない。
なら。
今は、それでいい。
石が乾いた音を立てて滑る。
「あっ」
「止まりましたわ!」
「線の上です」
「上ならこちらです」
「本当に?」
「判定はわたくしです」
「それはずるいです」
「ではお母様」
「私!?」
二人が同時に振り向いた。
困る。
ものすごく。
「……線に触れてるから、引き分けで」
「引き分け」
「引き分けですわね」
納得した。
簡単。
それでまた、次の石を選び始める。
私はその姿を見ていた。
知っている名前。
知らない子。
その間を。
今はまだ。
無理に埋めなくていい。




