手を見せて
アレクが来た。
予定どおりの訪問である。
今日は忘れていない。
大丈夫。
私は、ちゃんと覚えていた。
「奥様。昨日、三度確認なさいましたので」
「言わなくていいのよ、セリーヌ」
「今朝も二度」
「それも言わなくていいの」
「ですので、今回は完璧でございます」
「褒めてる?」
「結果だけを見れば」
見ないで。
過程を。
お願いだから。
玄関広間では、エステルがすでに待っていた。
淡い色の昼用ドレスに、きちんと結われた髪。けれど足元だけは、以前より少し動きやすそうな靴を選んでいる。
最近、この子は庭で走る。
石も蹴る。
そして、泥をつける。
公爵令嬢としてどうなのかと問われれば、たぶん色々あるのだろう。
でも私は、わりと好きだ。
扉が開き、金色の髪が見えた。
「こんにちは、エステル」
「ようこそいらっしゃいました、アレク」
きれいな挨拶。
九歳同士なのに、ちゃんとしている。
私が九歳の頃なんて――。
どっちの九歳も思い出したくない。
やめよう。
過去の私に流れ弾が飛ぶ。
「ミレーヌ様も、お招きありがとうございます」
「いいえ。よくいらっしゃいました、アレク」
私にも礼をして、それからアレクはエステルへ向き直った。
「この前の続き、考えてきたんだ」
「曲の名前ですか?」
「うん。三つほど」
「三つも?」
「決めきれなくて」
少し困ったように笑う。
あの誕生日に、アレクがエステルのために作った曲。
名前はまだない。
エステルが一人で決めるのでも、アレクが一人で決めるのでもなく、一緒に考えることになった。
いい。
とてもいい。
私はここで、何も言わない。
「では、お茶の時に聞かせてくださいませ」
「もちろん」
よし。
若い二人に任せよう。
私は優雅に微笑み、一歩下がった。
「その前に、アレク」
「何?」
「手を見せてくださいませ」
「…………え?」
止まった。
アレクが。
私も。
セリーヌも。
たぶん後ろにいた侍女も。
「手です」
「て?」
「はい」
エステルが、右手を差し出した。
「見せてくださいませ」
「…………」
アレクの耳が。
赤くなった。
待って。
エステル。
説明。
説明を先に。
昨日、言ったよね?
「エステル」
「はい、お母様」
「理由」
「理由?」
「手を見たい理由」
「ああ」
ああ、じゃない。
「剣のお稽古をしているのでしょう?」
「う、うん」
「でしたら、手に硬くなっているところがあるのではないかと思いまして」
「……あ」
アレクの顔から、少しだけ力が抜けた。
でも耳は赤い。
何を想像したの。
いや。
聞かない。
九歳。
そこは聞かない。
「シオン様の手にあったのです」
「シオン?」
アレクが瞬きをした。
「先日、こちらへいらしたフェルディア子爵家のご子息です。剣を三年習っているそうで、ここが硬くなっていました」
エステルは自分の右手を開き、指の付け根あたりを左手で示した。
「カイル伯父様にもあります。ですから、アレクにもあるのかと思って」
「……そういうことか」
「はい。見せてくださいませ」
「うん」
今度は素直に、アレクが手を出した。
エステルが覗き込む。
近い。
顔が。
近い。
アレクの耳がまた赤くなる。
エステルは気づかない。
「ありますわ」
「あるね」
「シオン様より少し薄いです」
「その人は、どのくらい剣を?」
「三年だそうです」
「僕は二年くらいだから、その差かな」
「なるほど」
エステルが納得したように頷いた。
そして。
「触っても?」
「えっ」
「硬さが違うのか気になります」
「…………いい、けど」
アレク。
頑張れ。
王子様。
ものすごく頑張れ。
エステルの指先が、アレクの手のひらに触れた。
「本当です。少し違いますわ」
「そ、そう?」
「はい。シオン様の方が――」
「エステル」
思わず呼んだ。
「はい?」
「比較は、そのくらいでいいんじゃないかしら」
「まだカイル伯父様とも比べていません」
「伯父様まで並べなくていいの」
何の品評会なの。
手のひら硬度選手権?
セリーヌが横を向いた。
肩が。
少し。
揺れている。
「セリーヌ」
「何も」
「まだ何も言ってないわ」
「失礼いたしました」
絶対笑ってる。
アレクは自分の手を見て、それからエステルを見た。
「シオンって、剣が上手なの?」
「まだ見ていません。お兄様には一度も勝てないそうです」
「お兄さんが強いのかな」
「そうかもしれません。でも、三年負け続けても、まだ勝ちたいそうです」
「……へえ」
アレクの声が、少し変わった。
嫌そうではない。
むしろ、興味を持ったような。
「十一歳なんだよね?」
「ご存じなのですか?」
「さっき、フェルディア子爵家って聞いたから。第二子に、僕たちより二つ上の男の子がいるって、先生から聞いたことがある」
「そうなのですね」
王子教育。
すごい。
九歳で貴族家の子どもの年齢まで覚えるのか。
私なら三人目くらいで寝る。
「今度、会ってみたいな」
「でしたら、次にいらした時に」
「また来るの?」
「約束しました」
「約束?」
「石蹴りで、次は負けないと」
アレクが黙った。
ほんの少し。
「……石蹴り?」
「はい」
「シオンと?」
「はい」
「二人で?」
「お母様たちも見ていました」
「そうなんだ」
何だろう。
今の。
ちょっとだけ。
声が低かったような。
気のせい?
エステルはまったく気にしていない。
「アレクも勝負します?」
「する」
「では三人で」
「いや」
早い。
「まず僕とエステルで」
「もちろんですわ」
エステルの目が輝く。
アレクも笑った。
あ。
これ。
いつものやつだ。
負けたくない二人。
「今日もやりますか?」
「やろう」
「お茶の前に?」
「少しくらいなら」
「では、行きましょう」
二人が歩き出す。
「お待ちなさい」
声をかけたのは私ではない。
レオニスだった。
いつの間に。
「お父様」
「レオニス様」
「石蹴りをするなら、先に靴を替えろ」
「あ」
「それから準備運動だ」
「はい」
「アレク殿下も」
「はい」
何。
その。
石蹴り指導者みたいな立ち位置。
「レオニス」
「何だ」
「仕事は?」
「午前分は終えた」
「そう」
「午後の開始まで時間がある」
「そう」
「見届けるだけだ」
「そう」
絶対やる。
この人。
絶対参加する。
セリーヌが小さく息を吐いた。
「旦那様の靴もご用意いたします」
「何故だ」
「必要かと」
「見届けるだけだ」
「承知いたしました」
承知してない顔だった。
◇
十分後。
「もう一度だ」
「お父様、先ほどもそう仰いました」
「今のは石が悪い」
「その石を選んだのはお父様です」
「…………」
やっぱりやってる。
しかも負けてる。
エステルに。
「一勝ですね」
「まだ一勝だ」
「一勝は一勝ですわ」
「もう一度」
「望むところです」
何で、この親子は石蹴りになると、こんなに本気なのだろう。
屋根付きの練習場所に、乾いた音が響く。
石が床を滑り、線の手前で止まった。
「お父様、近いです」
「見れば分かる」
「では次はわたくしですわね」
「待て。アレク殿下が先だ」
「僕は後でも」
「いや。順番は守る」
「お父様がもう一度と仰ったのでは?」
「それとこれは別だ」
大人げない。
公爵。
大人げない。
アレクが笑いを堪えている。
こういう時のレオニスは、王宮で見る彼とは別人に見える。
たぶん、それでいい。
いや、外では絶対に見せないでほしいけれど。
「では、僕が」
アレクが線の前に立った。
足を引く。
蹴る。
石は真っ直ぐ進んで、かなりいい位置で止まった。
「上手くなりましたわね」
「この前、帰ってから少し練習したんだ」
「練習したのですか?」
「うん」
「お一人で?」
「護衛の人に付き合ってもらって」
「ずるいですわ」
「何で?」
「わたくしはお父様としか練習していません」
「十分強い相手じゃない?」
「最近、お父様は石を選びすぎるのです」
「エステル」
「本当でしょう?」
「道具を吟味するのは当然だ」
「石蹴りで?」
アレクがとうとう吹き出した。
レオニスが黙る。
私は横を向いた。
セリーヌも横を向いた。
夫婦ではないのに、こういう時だけ息が合う。
「お母様」
「何?」
「笑っています?」
「いいえ」
「こちらを向いてくださいませ」
「今、空がきれいだから」
「屋根がありますわ」
「…………」
逃げ道がなかった。
◇
結局。
石蹴りは、お茶の時間を二十分押した。
主な原因はレオニスである。
「見届けるだけ、と仰っていましたね」
「見届けた」
「参加しておられましたが」
「必要な範囲でな」
「四回」
「数えていたのか」
「仕事ですので」
何の仕事。
セリーヌ。
何の。
いや、いい。
聞くと負ける気がする。
テラスに移り、ようやく本来のお茶会になった。
アレクが持ってきた三つの題名候補を、エステルが紙に書き並べている。
『春の庭』
『九つの灯』
『君と歩く日』
私は紅茶を飲んだ。
何も言わない。
何も。
言わない。
「お母様」
「何?」
「どれがいいと思います?」
「聞くの?」
「参考までに」
「参考までね」
困る。
三つ目。
三つ目が。
ものすごく。
強い。
何がとは言わない。
でも強い。
「私は……どれも素敵だと思うわ」
「逃げましたね」
「逃げてないわ」
「お父様は?」
「『九つの灯』だ」
「即答ですね」
「九歳の祝いに作った曲なら、意味が明確だ」
「なるほど」
「アレクは?」
「僕?」
アレクが少し考えた。
「最初は『君と歩く日』がいいと思ってた」
「では、それでよいのでは?」
「でも、エステルと決めるって言ったから」
さらっと。
言う。
この子。
さらっと。
エステルは紙を見つめたまま、少しだけ頬を赤くした。
気づいてる?
今回は。
気づいてるよね?
「わたくしは……」
エステルが口を開きかけた時だった。
風が吹いた。
紙が一枚、ふわりと持ち上がる。
「あ」
アレクとエステルが同時に手を伸ばした。
指が触れた。
二人とも止まった。
紙だけが、テーブルの端に引っかかって止まる。
「…………」
「…………」
私は紅茶を飲んだ。
レオニスも紅茶を飲んだ。
セリーヌは、何故か遠くを見た。
「……取れましたわ」
「うん」
「ありがとうございます」
「うん」
さっき。
手のひら。
普通に触ってたよね?
何で今。
そっちは駄目なの。
九歳。
難しい。
いや。
分かるような。
分からないような。
「エステル」
「はい」
「題名は急がなくてもいいんじゃないか?」
「お父様?」
「曲は逃げない」
「そうですね」
レオニスが静かに言った。
「今、決めきれないなら、もう少し弾いて、もう少し聴いて、それから決めればいい」
エステルがアレクを見る。
「どうします?」
「僕は、それがいいと思う」
「では、そうしましょう」
紙が畳まれる。
三つの候補は、どれも消えなかった。
決まらなかったことが、今日は何だか悪くない。
私はそう思った。
◇
アレクが帰る前。
玄関で、エステルが思い出したように声を上げた。
「そうですわ。アレク」
「何?」
「シオン様から手紙が来たのです」
「手紙?」
「はい。王都のお屋敷にいらっしゃるそうです。次に会うまでに石蹴りを練習すると」
「……へえ」
「わたくしも返事を書きました」
「そうなんだ」
「アレクにも今度、紹介しますわ」
「うん」
笑っている。
普通に。
でも。
ほんの少しだけ、間があった。
「その時は、僕も負けないから」
「石蹴りで?」
「それも」
「それも?」
「剣はまだ、たぶんシオンの方が強いだろうけど」
「では、剣でも勝ちたいのですか?」
「会ってから決める」
アレクはそう言って、少し笑った。
その答えが、私は妙に好きだった。
知らない相手を、勝手に決めない。
会って。
話して。
それから決める。
私は最近、同じようなことばかり考えている気がする。
でも、これはたぶん説教にするような話ではない。
ただ。
そうした方がいい時がある。
それだけだ。
「またね、エステル」
「はい。また」
馬車が門を出ていく。
エステルは見えなくなるまで手を振っていた。
その横顔を見ながら、私はふと思う。
アレク。
シオン。
二つの名前。
片方は、知っている。
知りすぎるくらい知っている。
もう片方は、知っているはずなのに思い出せない。
だからといって、この二人を頭の中で勝手に線で結ぶのは違う。
今のところ、共通しているのはエステルと石蹴りくらいだ。
……石蹴り。
何で。
そこなの。
「お母様?」
「何でもないわ」
「またですか?」
「今回は本当に何でもないの」
「怪しいですわ」
「石蹴りについて考えていただけよ」
「でしたら、もう一勝負なさいます?」
「しない」
「即答ですね」
「さっき負けたから」
「お母様は二回しかなさっていません」
「十分よ」
「お父様は四回しました」
「お父様を基準にしないで」
後ろで、レオニスが咳払いをした。
聞こえていたらしい。
「四回ではない」
「え?」
「五回だ」
「増えた!?」
いつ。
「エステルとアレク殿下が曲名を考えている間に一度」
「一人で!?」
「確認だ」
「何の!?」
「石の」
「だから何の!?」
エステルが笑った。
セリーヌも、今度は隠さず笑った。
レオニスだけが真顔である。
私は額に手を当てた。
こういう時。
ゲームの記憶なんて。
本当に。
何の役にも立たない。
でも。
まあ。
今日はそれでいい。




