もう一度、会えたなら
再来週。
エステルは、ちゃんと覚えていた。
「お母様」
「何?」
「今日は街へ行く日です」
「……覚えてたのね」
「約束しました」
「約束した?」
「しました」
「いつ?」
「馬車の中で」
「私、『また街へ来ましょう』とは言ったけど、再来週とは」
「わたくしが再来週と言いました」
「それは約束ではなく提案では?」
「お母様は否定なさいませんでした」
「…………」
強い。
九歳児の交渉術が強い。
朝食の向かい側で、レオニスが新聞を下げた。
「行ってくればいい」
「簡単に言うわね」
「予定は?」
「午後までは空いてる」
「なら問題ない」
エステルが嬉しそうに父を見る。
「お父様、ありがとうございます」
「ああ」
そして私へ向き直る。
「では、お母様」
「はいはい。行きましょう」
「奥様」
背後からセリーヌの声がした。
「何?」
「すでに馬車は用意しております」
「何で!?」
「お嬢様から昨日、伺いましたので」
「エステル!」
「念のためです」
「何の念!?」
レオニスが新聞を上げた。
口元。
ちょっと笑ってる。
「あなたも知ってたでしょう」
「知らない」
「今、目を逸らした」
「新聞を読んでいる」
「新聞で顔を隠さないで!」
◇
市の日ではない街は、少しだけ静かだった。
それでも商業区には人がいる。
店先で声を張る商人。
荷を運ぶ人。
買い物籠を持つ人。
エステルは馬車を降りるなり、辺りを見回した。
「いませんね」
「まだ何も探してないでしょう」
「ネリーです」
「分かってるわよ」
前に会った場所。
パン屋。
店の横の長椅子。
誰もいない。
エステルが少しだけ肩を落とした。
「会えるとは限らないって言ったでしょう」
「はい」
「今日は市の日でもないし」
「はい」
「だから」
「分かっています」
返事はする。
でも。
分かりやすい。
「とりあえず、歩きましょう」
「はい」
私たちは通りを進んだ。
今日は視察ではない。
完全に私用。
だから、私も少し気が楽だった。
「お母様、あれは何です?」
「櫛」
「木でできています」
「そうね」
「こちらは?」
「石鹸」
「色が違います」
「香りが違うんじゃない?」
「見ても?」
「どうぞ」
前に来た時より。
エステルは店を見る。
品物を見る。
そして。
人を見る。
誰かを探しながら。
「ネリー!」
突然、エステルが叫んだ。
いた。
通りの向こう。
母親と一緒に籠を持って歩いている。
ネリーも気づいた。
「エステル!」
手を振る。
走ろうとして。
止まった。
道の手前で。
ちゃんと。
左右を見る。
それから渡ってきた。
「偉い」
私が思わず言うと、ネリーが胸を張った。
「もう飛び出さないもん」
「うん。偉い」
「お母さんにすっごく怒られた」
「それも覚えておいて」
「うん」
後から来た母親が、私に気づいて慌てて頭を下げる。
「公爵夫人」
「こんにちは」
「先日は、本当に」
「今日は転んでませんから大丈夫です」
「お母様!」
エステルが笑う。
ネリーも笑った。
母親は少しだけ困った顔をしてから、笑った。
◇
「今日はパン、落とさないよ」
ネリーが言った。
「持っていないでしょう」
「今から買うの」
「では、一緒に行きましょう」
「うん!」
自然。
あまりにも自然に二人が歩き出す。
私はネリーの母親と顔を見合わせた。
「……よろしいのでしょうか」
「たぶん、止めても行きます」
「うちの子はそうですけど」
「うちもです」
言って、二人で少し笑った。
「申し遅れました」
女性が頭を下げる。
「ハンナと申します」
「ミレーヌです」
「それは存じております!」
あ。
そうだった。
「すみません。こういう時、何て名乗ればいいのかしら」
「私に聞かれましても……」
ハンナが困る。
私も困る。
一歩後ろにいたセリーヌを見る。
「セリーヌ」
「はい」
「助けて」
「公爵夫人でよろしいかと」
「それだと今の会話が終わるじゃない」
「終わらせるものでは?」
「もう少し何かあるでしょう」
ハンナが口元を押さえた。
「……公爵夫人も、困ることがあるのですね」
「いっぱいあります」
「奥様」
セリーヌが静かに割り込む。
「何?」
「自信を持って仰ることではございません」
「今日ちょっと厳しくない?」
前では、エステルとネリーがパンを選んでいる。
「これがおいしいよ」
「前と同じですわ」
「これ好き」
「では、わたくしも」
「でもこっちもおいしい」
「二つ?」
「お腹に入るなら」
「入ります」
「お嬢様」
セリーヌの声が飛んだ。
エステルが振り返る。
「何です?」
「昼食前でございます」
「…………」
止まった。
「一つにします」
「よろしいかと」
ネリーがエステルへ顔を寄せた。
「あの人、怖い?」
「怖くありません」
「ほんと?」
「たまに怖いです」
「お嬢様」
背後から声。
エステルが跳ねた。
「聞こえていましたの!?」
セリーヌは答えなかった。
◇
二人がパンを食べ終えると。
「遊ぼう」
ネリーが言った。
「遊ぶ?」
「うん」
「何を?」
「石蹴り」
「いしけり?」
知らない。
エステルの顔に書いてある。
「知らないの?」
「知りません」
「教えてあげる」
ネリーは得意そうに言った。
店の裏手。
人通りの少ない小さな空き地。
地面に線を引く。
石を置く。
「ここから蹴るの」
「はい」
「線から出たら負け」
「なるほど」
エステルの目が変わった。
あ。
負けず嫌い。
起動。
「まず私ね」
ネリーが石を蹴る。
一つ。
二つ。
器用。
「こう」
「分かりました」
エステルの番。
蹴る。
強い。
石が線を飛び越えた。
「…………」
「出た」
「出ましたね」
「負け」
「まだ一回です」
「うん」
「もう一度」
「いいよ」
蹴る。
今度は弱すぎる。
「…………」
「そこじゃない」
「分かっています!」
もう一度。
もう一度。
もう一度。
私は少し離れたところで見ていた。
「お嬢様、完全に本気でございますね」
隣へ来たセリーヌが言う。
「うん」
「相手は年下でございます」
「うん」
「初めての遊びでございます」
「うん」
「加減というものを」
「無理じゃない?」
「左様でございますね」
ハンナが不安そうに二人を見る。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
「でも、お嬢様が」
「負けるとああなるんです」
「……負けても?」
「はい」
「公爵家のお嬢様でも?」
「そこは関係ないみたいです」
「やった!」
エステルの声。
石を狙った場所へ止めていた。
「できましたわ!」
「できた!」
ネリーも喜ぶ。
何で相手まで。
「もう一度です!」
「うん!」
ああ。
しばらく終わらない。
◇
終わった頃には。
エステルの靴は、少し土で汚れていた。
頬も赤い。
髪も、ほんの少しだけ乱れている。
「楽しかったですわ」
「またやろう」
「次は負けません」
「今日も最後は勝ったじゃん」
「最初に負けました」
「最初は知らなかったから」
「でも負けです」
「変なの」
ネリーが笑う。
エステルも笑う。
「お嬢様」
セリーヌが布を出した。
「お靴を」
「はい」
エステルが足を出す。
その時。
ネリーが不思議そうに見た。
「自分で拭かないの?」
「え?」
エステルが止まる。
セリーヌも止まる。
私は黙った。
「ネリー」
ハンナが娘を止めようとする。
「何?」
「余計なことを」
「でも私、自分で拭くよ」
「わたくしも拭けます」
エステルが言った。
セリーヌを見る。
「貸してください」
「お嬢様」
「できます」
「存じております」
「では」
「ですが」
エステルが手を出す。
セリーヌは、少しだけ私を見た。
私?
判断を振られた。
公爵令嬢。
使用人。
身分。
作法。
でも。
靴。
自分で拭く。
……別にいいんじゃない?
いや。
こういう軽さでいいのか。
分からない。
「奥様」
セリーヌが私を見る。
「……今日は、いいんじゃない?」
「本日だけでございますか?」
「そこ突っ込む?」
「確認でございます」
「必要な時は自分でやれる方がいいでしょう」
「承知いたしました」
布を渡す。
エステルが自分の靴を拭く。
「ここ」
「どこ?」
「横。泥ついてる」
「ここ?」
「もっと下」
「見えません」
「足上げすぎ」
ネリーがしゃがんで指差す。
「ここ!」
「あ。本当です」
エステルが拭く。
「取れました」
「うん」
それだけ。
本当に、それだけだった。
エステルは自分の靴を拭いて。
ネリーは見ていて。
終わった。
「お母様」
エステルがこちらを見る。
「できました」
「うん」
「思ったより簡単でした」
「そうね」
私は笑う。
セリーヌが小さく息を吐いた。
「何?」
「いいえ」
「何か言いたそう」
「奥様がお嬢様以上に緊張なさっておりましたので」
「してない」
「なさっておりました」
「靴拭くだけよ?」
「はい」
「じゃあ何で私が緊張するのよ」
「私に聞かれましても」
ハンナが。
また。
口元を押さえて笑っていた。
◇
「エステル」
帰る時間。
ネリーが呼んだ。
「何です?」
「次、いつ来る?」
「…………」
エステルが私を見る。
来た。
「お母様」
「まだ決めてません」
「何も言っていません」
「先に答えたの」
「では、いつ決めます?」
「帰ってから」
「本当ですか?」
「予定を見てから」
「約束?」
「……予定を見る約束」
「分かりました」
そこは譲った。
偉い。
「ネリー」
「何?」
「また来ます」
「うん」
「それまで、石蹴りを練習しておいてくださいませ」
「何で?」
「わたくしも練習します」
「どこで?」
「家で」
「家に地面あるの?」
「あります」
「すごい!」
そこ?
「次は勝負です」
「今日も勝負だったじゃん」
「次もです」
「いいよ」
二人が笑う。
「じゃあね、エステル」
「はい。また」
ネリーとハンナが歩いていく。
今度は。
エステルは追わなかった。
手を振る。
ネリーも振る。
角を曲がるまで。
◇
馬車が動き出す。
「お母様」
「何?」
「お願いがあります」
「何?」
「庭の端に、線を引いてもいいですか?」
「石蹴り?」
「はい」
「芝生はやめて」
「では、どこなら?」
「……訓練場の端?」
「旦那様に怒られます」
向かいのセリーヌが即座に言った。
「レオニスなら大丈夫じゃない?」
「旦那様ではなく、騎士の皆様でございます」
「ああ」
確かに。
公爵令嬢が突然訓練場の端で石蹴りを始める。
邪魔だ。
「じゃあ、空いてるところ探しましょう」
「はい!」
エステルが嬉しそうに頷く。
「それから」
「まだあるの?」
「靴を拭く布も欲しいです」
「それはセリーヌに」
「自分用です」
「自分用?」
「はい」
エステルが自分の靴を見る。
「次は、最初から自分で拭きます」
セリーヌが瞬きをした。
「お嬢様」
「何です?」
「私の仕事が減ります」
「嫌ですか?」
「……いいえ」
ほんの少し。
間があった。
「少々、寂しゅうございます」
「セリーヌ?」
エステルが驚く。
私も驚いた。
セリーヌが。
そういうこと言うんだ。
「では、半分拭きます?」
「何故半分なのでございますか」
「右をわたくし。左をセリーヌ」
「左右で汚れ方が違います」
「では、交代で」
「お嬢様」
「はい?」
「ご自分でなさってくださいませ」
「分かりました」
早い。
「セリーヌ」
「何でしょう」
「今の、ちょっとかわいかった」
「何のお話でしょう」
「寂しいって」
「申し上げておりません」
「言ったわよ」
「奥様」
「何?」
「忘れてくださいませ」
「嫌」
「忘れてくださいませ」
「二回言った」
「お母様」
エステルが小声で私を呼ぶ。
「何?」
「二回言ったら、どうなるのです?」
「……誰が言うかによるわね」
「そうなのですか?」
「そうなの」
母を思い出した。
同じ言葉。
二回。
圧。
私はちょっと笑った。
◇
屋敷へ戻ると。
レオニスが玄関広間にいた。
「お帰りなさいませ、お父様」
「ああ。楽しかったか」
「はい!」
エステルが自分の靴を見る。
それから父へ顔を上げた。
「お父様」
「何だ」
「石蹴りを知っていますか?」
「知っている」
「本当ですか!?」
エステルの声が跳ねた。
「やったことは?」
「ある」
「いつ?」
「子供の頃だ」
「できます?」
「たぶんな」
「では、勝負してくださいませ」
「…………」
レオニスが止まった。
「今?」
「今です」
「エステル、帰ってきたばかりでしょう」
「少しだけです」
エステルが父の袖をつまむ。
「お父様。一回だけ」
「……一回だぞ」
「はい!」
負けた。
分かりやすく。
「セリーヌ」
「はい」
「場所、どこがいい?」
「裏庭の石敷きの一角でしたら」
「決まりね」
「ミレーヌ」
レオニスが私を呼ぶ。
「何?」
「お前も来い」
「何で?」
「見ていろ」
「何を?」
「勝つところを」
「…………」
私はレオニスを見る。
レオニスも私を見る。
「本気?」
「何がだ」
「九歳相手よ?」
「勝負だろう」
「お父様!」
エステルの目が輝いた。
駄目だ。
こっちも。
負けず嫌いだった。
◇
結果。
「もう一回です!」
「一回と言った」
「今のは練習です!」
「勝負と言っただろう」
「お父様!」
「駄目だ」
「もう一回!」
「駄目だ」
レオニスが。
勝った。
本当に。
普通に。
容赦なく。
「レオニス」
「何だ」
「大人げない」
「勝負だ」
「九歳よ?」
「だから何だ」
「旦那様」
セリーヌが呼ぶ。
「何だ」
「大変よろしい笑顔でございます」
「…………」
レオニスの顔が止まった。
エステルが父を覗き込む。
「お父様」
「何だ」
「嬉しいのですか?」
「違う」
「では、もう一回」
「それとこれは別だ」
「お父様!」
私は笑った。
ネリー。
あなたが教えた遊び。
思ったより。
うちで大変なことになってるわよ。




