知らない子
誕生日から、しばらく経った。
アレクシスが贈ってくれた曲には、まだ名前がない。
エステルは本人に聞くと言っていたけれど、次に会うまで待つらしい。
私としては。
とても。
とても気になる。
「お母様」
「何?」
「また考えていますね」
「何を?」
「曲の名前です」
「考えてないわよ」
「では、何を?」
「…………」
「お母様?」
「今日の予定」
「今、間がありました」
「予定を思い出してたの」
「そうですか」
娘の視線が疑わしい。
九歳になってから、さらに鋭くなった気がする。
「奥様」
玄関広間でセリーヌが待っていた。
「馬車の用意が整っております」
「ありがとう」
「本日は商業区の視察でございましたね」
「ええ」
今日はエステルも一緒だ。
街へ出る。
公爵家の娘として、領内の人々がどう暮らしているのかを見る。
……というのが表向き。
本当は。
半分くらいは買い物である。
「お母様」
「何?」
「今日はお勉強なのですか? お買い物なのですか?」
「両方」
「どちらが多いです?」
「……半分ずつ」
「今、また間がありました」
「エステル」
「はい?」
「最近、細かくない?」
「お母様が分かりやすいのです」
「誰に似たのかしら」
「奥様では」
「セリーヌ」
味方がいない。
◇
商業区は賑やかだった。
馬車を大通りの手前で降りる。
護衛はついている。
でも、必要以上に目立たないよう人数は絞った。
エステルが周囲を見回す。
「人が多いですわ」
「今日は市の日だからね」
「市?」
「いつもより店が増える日」
「毎日ではないのですか?」
「ええ」
露店が並ぶ。
野菜。
果物。
布。
木工品。
焼き菓子。
香辛料の匂い。
焼いた肉の匂い。
人の声。
エステルは忙しそうに右を見て、左を見る。
「お母様、あれは?」
「籠」
「その隣です」
「干した果物」
「食べられますの?」
「もちろん」
「甘い?」
「ものによるわね」
「買っても?」
「視察は?」
「半分はお買い物なのでしょう?」
「覚えてた」
強い。
「一つだけよ」
「はい!」
店へ向かおうとした時だった。
「危ない!」
声。
すぐ横。
小さな子供が、人の間から飛び出してきた。
荷車。
御者が手綱を引く。
馬が嘶く。
私は反射的にエステルの肩を引いた。
護衛が前へ出る。
子供は。
転んだ。
荷車は、その少し手前で止まった。
「馬鹿野郎! 飛び出すな!」
御者が怒鳴る。
「ご、ごめんなさい!」
女の子だった。
エステルより少し幼い。
七歳か。
八歳か。
茶色の髪。
簡素な服。
膝を擦りむいている。
でも。
女の子は自分の膝より先に、道の向こうを見た。
「パン!」
転がっている。
紙に包まれた、小さなパン。
どうやら、それを追いかけて飛び出したらしい。
「お前なあ!」
御者がまだ怒っている。
怒るのも分かる。
本当に危なかった。
でも。
「怪我は?」
私は女の子の前にしゃがんだ。
「え?」
「膝。見せて」
女の子が固まる。
私の服を見た。
護衛を見た。
エステルを見た。
顔色が変わる。
「あ……」
まずい。
怖がらせた。
「大丈夫。怒らないから」
そう言うと。
女の子は、恐る恐る膝を見せた。
擦り傷。
血は少し。
深くはない。
「セリーヌ」
「はい」
すぐに布と水が出てくる。
何で持ってるの。
いや。
セリーヌだからか。
「少し沁みますよ」
セリーヌが傷を洗う。
「いたっ」
「我慢してくださいませ」
「はい……」
エステルが隣にしゃがんだ。
「痛い?」
「……ちょっと」
「でも、泣いていませんのね」
「泣かないもん」
「強いですわ」
「…………」
女の子がエステルを見る。
「お姉ちゃん、誰?」
「わたくし?」
エステルが一瞬止まった。
護衛も。
セリーヌも。
私は。
ちょっと面白くなった。
「エステルです」
「エステル?」
「はい」
「きれいな服」
「ありがとうございます」
ちゃんと答えた。
「あなたのお名前は?」
「……ネリー」
「ネリー」
「うん」
エステルが笑う。
「よろしく、ネリー」
「よろしく?」
ネリーが首を傾げる。
その時。
「ネリー!」
女性が走ってきた。
顔を真っ青にして。
「何してるの!」
「お母さん」
「また勝手に――」
そこまで言って。
女性が止まった。
私たちを見る。
もっと青くなった。
「こ、公爵夫人……?」
あ。
知ってる人だった。
いや。
私が知らないだけで、向こうは知っている。
こういうこと。
ある。
「申し訳ございません!」
女性が勢いよく頭を下げた。
「娘が何か――」
「何もされていません」
「ですが」
「少し転んだだけです。荷車にもぶつかっていません」
「……本当に?」
「はい」
女性がネリーを抱き寄せる。
「何度言ったら分かるの! 道に飛び出したら駄目でしょう!」
「だってパンが」
「パンよりあんたの方が大事なの!」
ネリーが黙る。
私は。
少しだけ。
胸の奥が動いた。
その言い方。
いいな。
すごく。
「ごめんなさい……」
ネリーが小さく言った。
女性は息を吐く。
娘の頭を撫でた。
「分かればいいよ」
エステルが、二人を見ている。
じっと。
「お母様」
「何?」
「パンは?」
「え?」
そうだった。
道に落ちたパン。
荷車には踏まれていない。
でも。
泥がついている。
「これは、もう食べない方がいいわね」
「…………」
ネリーの顔が曇る。
女性も困った顔をした。
「いいんです。今日は諦めます」
「でも」
「お嬢様」
女性がエステルに頭を下げる。
「お気遣いありがとうございます」
「……はい」
エステルは頷いた。
でも。
納得していない顔。
分かりやすい。
「お母様」
「何?」
「先ほどのお店で、干した果物を買うのでしたね」
「そうね」
「パンも売っていますか?」
「たぶん」
「では」
エステルがネリーを見る。
「一緒に買いに行きません?」
「え?」
「パン」
「でも」
「わたくしもお腹が空きました」
「エステル、さっき朝食を」
「少し空きました」
「そう」
なるほど。
そういうことにするのね。
「奥様」
セリーヌが小さく呼ぶ。
「何?」
「お顔が」
「今日はいいでしょう」
「まだ何も申し上げておりません」
「最近このやり取り多くない?」
「奥様が同じお顔をなさいますので」
◇
パン屋の前。
「これ!」
ネリーが指差した。
小さな丸いパン。
「さっきのと同じ?」
「うん」
「では、これを」
「待って」
ネリーの母親が止める。
「いただけません」
「でも」
「お嬢様」
エステルが困る。
私は口を挟まなかった。
どうするかな。
「……では」
エステルが考える。
「わたくしが買います」
「それでは同じです」
「わたくしが食べます」
「え?」
「二つ買います。一つはわたくし。一つはネリー」
「お嬢様」
「一緒に食べるのです」
ネリーが目を輝かせる。
「一緒?」
「はい」
「ここで?」
「ここで」
母親が私を見る。
私は。
肩をすくめた。
「私も少しお腹が空きました」
「奥様は先ほど朝食を」
「セリーヌ」
「はい」
「今は黙って」
「承知いたしました」
結局。
パンを四つ買った。
エステル。
ネリー。
私。
セリーヌ。
「何故、私まで」
「一人だけ食べないのも変でしょう」
「護衛の皆様は?」
「…………」
増えた。
パンが。
すごく。
「お母様」
「何?」
「全員で食べればよろしいのでは?」
「そうね」
さらに増えた。
店主が喜んだ。
よかった。
たぶん。
店の横にある長椅子。
エステルとネリーが並んで座る。
服も。
靴も。
髪の整え方も。
何もかも違う。
でも。
パンを食べている姿は。
普通の子供だった。
「おいしい?」
「うん!」
ネリーが大きく頷く。
「エステルは?」
「おいしいですわ」
「よかった」
「ねえ」
ネリーがエステルを見る。
「何です?」
「エステルって、お金持ち?」
「…………」
エステルが私を見る。
私に振らないで。
「たぶん」
「たぶん?」
「お父様がお金を管理していますので」
「そうなの?」
「はい」
間違ってはいない。
「おうち、大きい?」
「大きいです」
「何人住んでる?」
「ええと……」
エステルが数え始めた。
途中で。
止まった。
「分かりません」
「自分の家なのに?」
「はい」
ネリーが笑った。
エステルも。
少し遅れて笑った。
「ネリーのおうちは?」
「ちっちゃい」
「何人?」
「四人!」
「すぐ分かるのですね」
「だって四人だもん」
「なるほど」
何だ。
この会話。
面白い。
「お姉ちゃん、学校行ってる?」
「学校?」
「うん」
「先生は家に来ます」
「家に学校が来るの?」
「……先生が来ます」
「すごい!」
エステルが困っている。
説明が難しいらしい。
「ネリーは?」
「まだ。兄ちゃんは行ってる」
「お兄様がいるのですね」
「うん。うるさい」
「分かります」
「エステルにもいるの?」
「伯父様なら」
「おじさん?」
「はい」
「うるさい?」
「…………」
エステルが私を見る。
「とても」
「エステル!?」
思わず声が出た。
「お母様が言っていました」
「言ったけど!」
「やっぱりうるさいんだ」
「でも、格好いいです」
「どっち?」
「両方です」
「変なの」
「そうなのです」
エステルが笑う。
私は。
頭を抱えたくなった。
カイルお兄様。
ごめん。
知らないところで、知らない子にまで「うるさい伯父様」として伝わった。
でも。
本人には言わない。
絶対。
◇
帰りの馬車。
エステルは窓の外を見ていた。
街が遠ざかる。
「楽しかった?」
「はい」
少し間。
「ネリーは、わたくしが誰か知りませんでした」
「そうね」
「最初、お姉ちゃんと言いました」
「言ってたわね」
「初めてです」
そうか。
エステルにとって。
出会った相手が自分を公爵令嬢として見ないこと。
それ自体が。
珍しい。
「嫌だった?」
「いいえ」
すぐに答えた。
「少し、変でした」
「変?」
「はい。でも」
エステルがこちらを見る。
「楽でした」
私は黙った。
エステルはまた窓へ向く。
「わたくしが失敗しても、ネリーは気にしなさそうです」
「何の失敗?」
「家に何人住んでいるか、分かりませんでした」
「それ?」
「はい」
「私も正確には分からないわよ」
「お母様も?」
「使用人の入れ替わりもあるし」
「では、失敗ではない?」
「知らなかっただけね」
エステルが考える。
「知らないことは、いっぱいありますわね」
「あるわよ」
「ネリーも?」
「もちろん」
「お母様も?」
「いっぱい」
「お父様も?」
「ある」
「セリーヌも?」
「ございます」
向かいに座っていたセリーヌが答えた。
エステルが目を丸くする。
「本当に?」
「はい」
「例えば?」
「秘密でございます」
「またですか」
「大人には秘密が必要でございますので」
「便利な言葉ですわ」
「便利でございます」
エステルが笑う。
馬車が揺れる。
私は窓の外を見る。
知らない子。
ゲームには。
たぶん。
出てこない。
名前も。
顔も。
知らない。
でも。
この世界にはいる。
パンを落として。
道へ飛び出して。
母親に叱られて。
エステルと一緒に笑う子が。
私は前世で。
この世界を画面越しに見ていた。
そこに映るものを。
世界の全部みたいに。
思っていた。
でも。
違う。
当たり前だけど。
違う。
「お母様」
「何?」
「またネリーに会えますか?」
「どうかしら」
「会いたいです」
「そう」
私は少し考えた。
「じゃあ、また街へ来ましょう」
「本当ですか?」
「ええ」
「いつ?」
「まだ決めてない」
「来週?」
「早い」
「では再来週」
「エステル」
「はい?」
「会えるかどうかは分からないのよ」
「分かっています」
エステルは頷く。
「でも、来なければ会えません」
あ。
そうね。
「……そうね」
「はい」
それだけ。
エステルは満足したらしい。
また窓の外を見る。
私は。
膝の上に置いた鞄を見る。
中には帳面がある。
開こうとして。
やめた。
「奥様」
セリーヌがこちらを見る。
「何?」
「今、帳面を開こうとなさいましたね」
「開いてない」
「はい」
「偉いでしょう」
「普通でございます」
「褒めてくれてもよくない?」
「何をお書きになるおつもりでした?」
「…………」
ネリー。
と。
書こうとした。
でも。
「やめた」
「左様でございますか」
「うん」
今は。
まだ。
ただ。
エステルが街で知り合った。
知らない子。
それでいい。
◇
その夜。
「今日、どうだった?」
夕食の席でレオニスが聞いた。
エステルが顔を上げる。
「ネリーという子と、お友達になりました」
「そうか」
レオニスが頷く。
「街の子です」
「そうか」
「パンを一緒に食べました」
「そうか」
「お父様」
「何だ」
「もう少し驚かないのですか?」
「驚いている」
「どこが?」
「ここだ」
レオニスが自分の胸を指した。
「見えませんわ」
「そうだな」
エステルが困った顔で私を見る。
私は首を振った。
お母様にも分かりません。
「それから」
エステルが続ける。
「カイル伯父様がうるさいという話もしました」
「ぶっ」
私が噎せた。
レオニスが止まる。
セリーヌの手も。
ほんの少し。
止まった。
「エステル」
「はい?」
「何でそれを話したの?」
「ネリーのお兄様もうるさいそうですので」
「だからって!」
「伯父様も格好いいとは言いました」
「そこじゃない!」
レオニスが口元を押さえた。
「あなた、笑ってるでしょう」
「笑っていない」
「顔を隠してる!」
「咳だ」
「絶対違う!」
エステルが首を傾げる。
「お母様」
「何?」
「カイル伯父様には秘密なのですよね」
「絶対に秘密」
「分かりました」
「エステル」
レオニスが娘を呼んだ。
さっきまで笑いを堪えていた顔が、少しだけ真面目になる。
「何です?」
「秘密は、本人の前で『秘密です』と言うな」
「何故?」
「ばれる」
「なるほど」
エステルが真剣に頷いた。
「勉強になります」
「そこを教育しないで!」
セリーヌが。
とうとう。
小さく笑った。
私は。
レオニスを睨んだ。
今日。
娘が知ったことは。
たぶん。
それじゃない。




