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王子様も間違える


 両親とカイルお兄様が帰ってから、三日。


 グランヴェル家は、ようやくいつもの静けさを取り戻していた。


 朝食の席でレオニスが新聞を読み。

 エステルがパンにジャムを塗り。

 私は今日の予定を頭の中で並べ。

 セリーヌが、いつもの顔で紅茶を注ぐ。


 平和。


 実に平和。


「奥様」

「何?」

「本日、アレクシス殿下がお見えになります」

「ぶっ」


 紅茶が変なところに入った。


「お母様!?」


 エステルが驚いて顔を上げる。


「だ、大丈夫。大丈夫よ」


 咳き込みながら、私はセリーヌを見る。


「今、何て?」

「アレクシス殿下がお見えになります」

「聞き間違いじゃなかった」

「昨日、先触れがございました」

「聞いてない」

「旦那様にはお伝えしております」

「レオニス!」


 新聞がゆっくり下がる。


「何だ」

「何で言わなかったの!?」

「言った」

「いつ?」

「昨夜」

「昨夜?」

「お前が帳面を見ながら『分かったわ』と」

「…………」


 記憶を探す。


 昨夜。


 レオニスが何か言った。

 私は帳面を見ていた。

 たしか、街道沿いの宿場について書き直していて。


『明日、アレクシス殿下が来るそうだ』

『分かったわ』


 言った。


 言ってる!


「何で私、分かったの!?」

「私に聞くな」

「奥様は時折、返事だけは大変よろしゅうございます」

「セリーヌ、それ褒めてないわよね」

「はい」


 エステルは、そんな私たちを見ながらパンを置いた。


「アレクが来るのですか?」

「そうみたいね」

「何をしに?」

「殿下からは、お嬢様と過ごしたいと」

「わたくしと?」


 エステルが瞬きをする。


 私は。


 ぴたりと止まった。


 ――来たわね、破滅フラグ。


 いや待って。


 違うかもしれない。


 ただ婚約者に会いに来るだけ。

 八歳。

 健全。

 普通。


 でも。


 ゲームの中では、この二人の関係はどうだった?


 幼い頃の細かいイベントなんて、ほとんど覚えていない。


 覚えているのは。

 成長した二人。

 すれ違って。

 言葉が足りなくなって。

 エステルが必死になればなるほど、アレクシスの心が離れていったこと。


 ……駄目。


 朝から勝手に未来まで飛ばない。


「お母様?」

「何?」

「顔が怖いです」

「ごめんなさい」


 エステルが首を傾げる。


「アレクが来るのは、いけないことですの?」

「まさか」


 私は笑った。


「楽しんできなさい」

「はい!」


 いい返事。


 よし。


 今日は何もしない。


 余計なことはしない。


 子供同士で普通に遊んでもらう。


 私は舞台裏。


 舞台裏。


「セリーヌ」

「はい」

「殿下がお帰りになるまで、私が余計なことをしそうになったら止めて」

「承知いたしました」

「即答ね」

「慣れておりますので」


     ◇


 昼前。


 王家の紋章をつけた馬車が、グランヴェル家の玄関前に止まった。


 アレクシスは、以前より少しだけ背が伸びていた。


 金色の髪。

 青い瞳。

 きちんと整えられた服。


 八歳なのに、立っているだけで王子様に見える。


 王子様なんだけど。


「本日は急な訪問をお許しいただき、ありがとうございます。グランヴェル公爵、公爵夫人」


 きれいに頭を下げる。


「ようこそお越しくださいました、殿下」


 私も公爵夫人の顔で応じる。


 レオニスも短く挨拶を返した。


 そして。


「エステル」


 アレクシスが、少しだけ表情を緩める。


「アレク」


 エステルも笑った。


 うん。


 普通。


 とても普通。


 いい。


「今日は、何をなさいますの?」

「特には決めていない」

「決めていない?」

「ああ」


 エステルが驚いた。


 私もちょっと驚いた。


 アレクシスが予定を決めていない。


 あの、何でも事前に決めておきそうなアレクシスが。


「会いに来ただけだから」


 さらっと言った。


「…………」


 エステルが止まる。


 私も止まる。


 レオニスの眉が、ほんの少し動いた。


 セリーヌだけが平常運転。


「そうですの」

「ああ」

「では、庭へ行きましょう」

「分かった」


 エステルは歩き出す。


 少しだけ速い。


 耳が。


 赤い。


 待って。


 何それ。


 かわいい。


 ものすごくかわいい。


「ミレーヌ」

「何?」

「顔」

「何が?」

「緩んでいる」

「緩んでないわよ」

「奥様」

「セリーヌまで?」

「大変緩んでおります」

「そんなに!?」


 エステルが振り返った。


「お母様?」

「何でもないわ! 楽しんできて!」


 娘が怪訝そうな顔をして。


 アレクシスと一緒に庭へ向かう。


 私はその背中を見送った。


「……会いに来ただけ」

「聞こえていた」

「八歳であれ言える?」

「殿下だからな」

「王子様ってすごい」

「お前は何を感心しているんだ」


 レオニスが呆れている。


「あなた、今ちょっと嫌そうな顔したでしょう」

「していない」

「した」

「していない」

「お嬢様が大きくなられた時が楽しみでございます」

「セリーヌ」

「はい」

「何の話だ」

「何も」


 レオニスがセリーヌを見る。


 セリーヌは微笑んだ。


 珍しい。


     ◇


 午後。


 私は仕事をしていた。


 本当に。


 ちゃんと。


 娘と婚約者の様子を見に行ったりしていない。


 一度も。


「奥様」

「何?」

「窓から庭を見るのは、見に行ったうちに入らないと?」

「外に出てないもの」

「なるほど」

「納得してないでしょう」

「はい」


 窓の向こうでは、エステルとアレクシスが庭の端にある小さな東屋で話している。


 何を話しているかは聞こえない。


 それでいい。


 聞かない。


 盗み聞きはしない。


 母親だから。


 公爵夫人だから。


 大人だから。


「……望遠鏡とかない?」

「ございません」

「即答」

「ご用意もいたしません」

「まだ頼んでない」

「先回りでございます」

「優秀ね」

「ありがとうございます」


 褒めてない。


 その時。


 庭からエステルの声がした。


「お母様!」


「はい!」


 立ち上がった。


 セリーヌが見る。


「呼ばれたから!」

「何も申し上げておりません」

「顔が言ってる!」


 庭へ出る。


 東屋の前でエステルが手を振っていた。


「どうしたの?」

「アレクが、楽器を持ってきているそうです」

「楽器?」

「ヴァイオリンです」


 アレクシスが少しだけ気まずそうな顔をしている。


 その後ろに控えていた従者が、細長いケースを持っていた。


「殿下、ヴァイオリンを?」

「習っています」

「そうなのですね」


 知らなかった。


 いや。


 待って。


 ヴァイオリン。


 何か。


 記憶の端に引っかかる。


 アレクシス。

 エステル。

 ヴァイオリン。


 画面の中。

 音楽。

 何か大事な――


「お母様?」

「え?」


 エステルがこちらを見ている。


「また怖い顔です」

「ごめんなさい」


 違う。


 今は思い出さなくていい。


 目の前にいるのは八歳の子供たちだ。


「聴かせてくださるの?」

「……そのつもりではなかったのですが」


 アレクシスが珍しく言葉を濁した。


「持ってきたのに?」

「練習する時間を空けるなと言われているので」

「では、ここで練習なさればよろしいですわ」

「エステル」

「はい?」

「練習だぞ」

「分かっています」

「人に聴かせるものでは」

「わたくしが聴きたいのです」


 アレクシスが黙った。


 強い。


 エステル。

 こういう時、本当に強い。


「……分かった」


 負けた。


 従者からケースを受け取る。


 アレクシスが蓋を開けた。


 中からヴァイオリンを取り出す。


 構えた姿は、やっぱり絵になる。


 金色の髪。

 整った横顔。

 細い弓を持つ手。


 八歳なのに。


 王子様。


 すごい。


 エステルもじっと見ている。


 アレクシスが息を整えた。


 弓が動く。


 最初の音。


 きれい。


 次。


 きれい。


 その次。


 ――ぎ。


「…………」


 今。


 変な音した。


 アレクシスの眉が動く。


 でも止まらない。


 続ける。


 数小節。


 ――きゅ。


「…………」


 また。


 エステルが瞬きをした。


 私は。


 口を閉じた。


 笑わない。


 絶対に笑わない。


 だって練習中だもの。


 アレクシスは真剣だ。


 曲は続く。


 途中までは、とてもきれいだった。


 でも。


 難しいところに入ると。


 ――ぎぃ。


「…………」


 駄目。


 音が。


 すごく正直。


 アレクシスの顔が、どんどん険しくなっていく。


 最後まで弾いた。


 弓が止まる。


 沈黙。


「…………」

「…………」

「…………」


 誰から話す?


 私?


 エステル?


 従者?


 アレクシス本人?


「もう一度」


 アレクシスが言った。


 早い。


「アレク」

「今のは失敗した」

「分かりました」

「だからもう一度」

「はい」


 エステルが普通に頷いた。


 アレクシスがもう一度構える。


 始まる。


 きれい。


 今度はさっきより安定している。


 そして。


 例の場所。


 ――ぎ。


「…………」


 アレクシスが止まった。


 完全に止まった。


「もう一度」

「アレク」

「何だ」

「そこが苦手なのですか?」

「…………」


 直球。


「……そうだ」

「では、そこだけ練習すればよろしいのでは?」

「している」

「何回くらい?」

「分からない」

「そんなに?」

「……そんなにだ」


 エステルが立ち上がった。


 アレクシスの横へ行く。


「もう一度お願いします」

「最初から?」

「苦手なところだけです」

「…………」

「わたくし、聴きます」

「何故?」

「さっきより綺麗になったら分かります」

「分かるのか?」

「たぶん」


 たぶんなんだ。


 アレクシスも同じことを思ったらしい。


 少しだけ口元が動いた。


「分かった」


 弾く。


 ――ぎ。


「さっきと同じです」

「……そうか」


 弾く。


 ――ぎぃ。


「今の方が変です」

「分かっている」


 弾く。


 ――きゅ。


「今のは少し綺麗でした」

「本当か?」

「はい」


 また。


 今度は。


 すっ、と音が通った。


「…………」


 エステルの目が大きくなる。


「今です!」

「今?」

「はい! 今のは綺麗でした!」

「……そうか」


 アレクシスが、もう一度弾く。


 今度は少しだけ揺れた。


「あ」

「今のは違います」

「分かっている」


 また。


 また。


 何度も。


 私は少し離れたところから見ていた。


 いつの間にか、口元が緩んでいた。


 完璧な王子様。


 何でもできる子。


 そう見えていた。


 たぶん、エステルにも。


 でも。


 変な音も出る。


 失敗もする。


 悔しそうな顔もする。


 それでも、もう一度弾く。


 その隣で。


 エステルは飽きずに聴いている。


「今のは?」

「少し綺麗です」

「少し?」

「少しです」

「さっきより?」

「さっきよりは」

「……もう一度」

「はい」


 いいな。


 こういうの。


 何でもない。


 ゲームのイベントでもない。


 たぶん。


 ただの午後。


「奥様」


 いつの間にか、セリーヌが隣にいた。


「何?」

「お仕事は?」

「…………」

「お仕事は?」

「今、すごくいいところなの」

「左様でございますか」

「あと少し」

「先ほどもそう仰っておりました」

「いつからいたの?」

「殿下が三度目に失敗なさった頃から」

「結構前!」


     ◇


 夕方。


 アレクシスが帰る時間になった。


「今日はありがとう、エステル」

「こちらこそ」


 玄関前。


 アレクシスは来た時より少しだけ疲れて見えた。


 ヴァイオリンの練習を、結局かなり続けたからだ。


「次までには、もっと上手く弾けるようにする」

「どうしてです?」

「どうして?」


 アレクシスが少し驚く。


「今日、失敗したから」

「でも、最後は最初より綺麗でした」

「まだ足りない」

「そうですか?」


 エステルは首を傾げた。


「わたくしは、今日のも好きでした」

「…………」


 アレクシスが止まった。


「変な音もしましたけれど」

「エステル」

「でも、最後は綺麗になりました」

「……そうか」

「はい」


 アレクシスは、少し考えた。


「次は、最初から最後まで綺麗に弾く」

「楽しみにしています」

「ああ」


 馬車へ向かう。


 途中で。


 アレクシスが振り返った。


「エステル」

「はい?」

「また来てもいいか?」

「もちろんですわ」


 即答。


 アレクシスが笑った。


 今度こそ馬車へ乗る。


 扉が閉じた。


 走り出す。


 エステルが手を振る。


 私も隣で見送った。


 馬車が門を出る。


 見えなくなる。


「…………」


 エステルがまだ門の方を見ている。


「楽しかった?」

「はい」


 少し間があって。


「アレクも、失敗するのですね」

「するでしょうね」

「王子様なのに?」

「王子様でも」


 エステルは考える。


「お父様も蝶を捕まえられませんでしたし」

「そこに繋がるの?」

「カイル伯父様も手袋を忘れました」

「そうね」

「お母様も、昨日言われたことを忘れます」

「待って。私まで入るの?」

「セリーヌは?」

「お嬢様」


 後ろから声。


 いた。


「私も失敗いたします」

「本当ですか?」

「はい」

「何を?」

「それは秘密でございます」

「ずるいですわ」

「大人には秘密が必要でございますので」


 エステルが頬を膨らませる。


 私は笑った。


 その時。


「ただいま」


 レオニスが玄関から出てきた。


 午後の用事を終えたらしい。


「殿下は?」

「今帰ったところ」

「そうか」


 エステルが父を見る。


「お父様」

「何だ」

「お父様も失敗しますか?」

「する」

「何を?」

「…………」


 レオニスが私を見る。


 何でこっちを見るの。


「お母様に聞け」

「何で!?」


 エステルの目が輝いた。


「お母様」

「ないわよ」

「まだ何も聞いていません」

「お父様の失敗談なんてない」

「ミレーヌ」


レオニスの声が飛んできた。


「何?」

「先月、私が書斎の鍵を――」

「あった!」

「言うな」

「あるじゃない!」

「忘れろ」

「何でよ!」


エステルがパッとこちらを向いた。


「お母様、教えてくださいませ!」

「エステル」

「はい?」

「夕食まで時間があるわ」

「はい!」

「ミレーヌ」

「何?」

「やめろ」

「どうしようかな」

「やめろ」

「二回言った」

「お母様!」

「分かった、分かったから引っ張らないで!」


 エステルに腕を引かれ、屋敷へ戻る。


 後ろからレオニスがついてくる。


「ミレーヌ」

「何?」

「本当にやめろ」

「そんなに?」

「そんなにだ」

「余計気になる!」

「お母様、早く!」

「はいはい」


 セリーヌが扉を開ける。


 その顔が。


 ほんの少しだけ笑っていた。


 たぶん。


 今夜の食卓は。


 少しだけ。


 レオニスに厳しい。



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