帰る前に
翌朝。
朝食の席で、私は聞いた。
「今日、帰るの?」
「ええ」
母は紅茶を飲みながら、あっさり頷いた。
「午後には出るつもりよ」
「急ね」
「昨日、突然来た私に言われたくないでしょうけれど」
「本当よ」
「でしょうね」
母が笑う。
お父様は静かにパンを切っている。
お兄様は隣で卵を食べていた。
「何だよ」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
「何を?」
「お前だけもう一泊しろって」
「言ってない!」
「じゃあ帰る」
「どうぞ!」
「薄情な妹だな」
「昨日突然来て一泊した兄に言われたくないわ!」
「お母様」
エステルが、少しだけ残念そうにこちらを見る。
「皆様、もうお帰りになるのですか?」
「そうみたいね」
「お祖父様も?」
「ああ」
お父様が頷く。
「お祖母様も?」
「ええ。また来るわ」
「カイル伯父様も?」
「私は――」
「帰る」
私が先に答えた。
「何でお前が決めるんだよ」
「帰ると言ったでしょう」
「言ったけど」
「では帰って」
「お母様」
エステルが、じっと私を見る。
「何?」
「寂しいのですか?」
「違います」
即答した。
「そうですか」
「そうよ」
「では、カイル伯父様がお帰りになっても平気なのですね」
「平気」
「じゃあ、もう一泊しても平気だな」
「何でそうなるの!?」
お兄様が笑った。
朝からうるさい。
昨日からずっとだけど。
◇
昼前。
帰り支度が始まった。
といっても、私がすることはほとんどない。
客室の荷物は使用人たちが整え、馬車の確認も終わっている。
私は玄関広間で、エステルと一緒に見送りの準備をしていた。
「お祖父様」
「何だ」
「今度、本当にお馬に乗ってくださいませ」
「ああ」
「約束ですわ」
「分かった」
エステルが満足そうに頷く。
お父様も、ほんの少しだけ目元を和らげた。
その横で母はセリーヌと何か話している。
「ですから、この子が無理をしていたら――」
「お母様」
「何?」
「帰る直前まで何を頼んでいるの?」
「何も」
「今、完全に私の監視を頼んでいたでしょう」
「監視ではないわ。見守りよ」
「言い換えただけ!」
「ご安心くださいませ」
セリーヌが一礼する。
「奥様が寝不足の際は、適切にご報告いたします」
「誰に!?」
「必要な方へ」
「範囲が広い!」
「母上」
お兄様が肩を揺らしている。
「笑ってないで止めて!」
「無理だよ」
「即答しないで!」
その時だった。
屋敷の外から、馬の蹄の音が聞こえた。
一頭。
速い。
玄関先で止まる。
ほどなくして、使用人が足早に入ってきた。
「アルセリオン侯爵家より、カイル様へ急ぎの報せでございます」
空気が変わった。
ほんの一瞬で。
「私に?」
お兄様の声も変わった。
さっきまで私をからかっていた人と、同じ声なのに。
温度だけが違う。
「はい。街道を通行中の一行について、判断を仰ぎたいとのことです」
「分かった。ここで聞く」
使者が一礼し、封書を差し出した。
お兄様は封を切る。
数行。
目を走らせる。
「レオニス」
「何だ」
「この先の北街道、昨日の雨で崩れた場所はあるか?」
「大きな崩落は聞いていません。だが山側はぬかるんでいるはずです」
「そうか」
お兄様は使者へ向き直った。
「荷は何台だ」
「六台です。うち一台の車輪が破損し、後続も止まっております」
「負傷者は?」
「ございません」
「積荷は急ぎか?」
「二日遅れると、先方の市に間に合わない可能性がございます」
「御者は何人?」
「八名です」
「護衛は」
「四名」
「近くの宿場までどれくらいだ」
「半刻ほど」
質問が速い。
でも急いでいるようには見えない。
必要なことだけを、順番に聞いていく。
私は黙っていた。
エステルも。
いつの間にか、母も口を閉じている。
「壊れた一台は捨て置くな。荷を残りへ分ける。無理に積むなよ。載せきれない分は宿場へ預けて、別便を手配する」
「はい」
「御者の判断で夜まで走らせるな。遅れるなら遅れろ」
使者が顔を上げた。
「ですが、市への到着が――」
「荷を間に合わせるために人と馬を潰す方が損だ」
お兄様は淡々と言った。
「先方にはこちらから詫びを入れる。必要なら違約分もアルセリオンで持つ。現場に無理をさせるな」
「かしこまりました」
「車輪の修理代もこちらで。原因が整備不足なら後で調べる。今は動かせる荷だけ動かせ」
「はい!」
使者が深く頭を下げる。
「それから」
お兄様が少しだけ考える。
「帰路は北街道を避けろ。遠回りでも南を使え。レオニス、この領内で南側に馬を替えられる場所は?」
「二か所ある。場所を書かせる」
「助かる」
レオニスが使用人へ指示を出す。
お兄様はその間に、机を借りて短い書状を書いた。
迷いがない。
最後に署名を入れ、封をする。
「これを先方へ。こっちは現場の責任者に」
「承知いたしました」
「急げ。ただし馬を潰すな」
「はい!」
使者が去っていく。
玄関扉が閉じた。
静かになった。
「…………」
エステルが、お兄様を見ている。
ものすごく見ている。
「何だ?」
お兄様が気づいた。
「カイル伯父様」
「うん?」
「格好いいですわ」
「…………」
お兄様が止まった。
あ。
弱いところに入った。
「そうか?」
声が少しだけ上ずった。
「はい。とても」
「まあ、仕事だからな」
さりげなく髪を整える。
分かりやすい。
「お兄様」
「何だ」
「顔」
「何が?」
「嬉しそう」
「別に」
「カイル」
母が微笑む。
「頬が緩んでいるわよ」
「母上まで言わなくていいでしょう!」
完璧な次期侯爵は、ものの数秒でいなくなった。
◇
「でも」
エステルが言った。
「どうして、荷物より先に人のことを聞いたのですか?」
場所を居間へ移してからだった。
お兄様は帰りの書類を確認している。
「ん?」
「最初に、怪我をした人がいないかと聞かれました」
「ああ」
お兄様は少し考えた。
「怪我人がいるなら、話が変わるからだよ」
「話が?」
「荷をどう運ぶかより、先に人を運ばなきゃならない」
「なるほど」
「それだけ」
エステルは頷いた。
それ以上は聞かなかった。
お兄様も、それ以上は言わなかった。
私は横で紅茶を飲む。
少しだけ、懐かしかった。
昔。
まだ私がアルセリオンの娘だった頃。
家の使用人が怪我をした時も。
予定していた荷が届かなかった時も。
誰かが揉め事を持ち込んできた時も。
お兄様は、こうだった。
家ではうるさい。
私に余計な口を出す。
母に押される。
父に「考えろ」と言われて、考えすぎる。
なのに。
外から何かが飛び込んでくると。
ちゃんと立つ。
「お母様」
「何?」
「にやにやしていますわ」
「してないわよ」
「してる」
お兄様まで言う。
「してません」
「昔から、私が褒められるとそういう顔するんだよな」
「しません」
「するよ」
「カイル」
お父様が言った。
「何です、父上」
「良かった」
「…………」
お兄様が黙る。
私も黙る。
母だけが、いつものように微笑んでいる。
「はい」
お兄様が答えた。
今のは。
たぶん。
ちゃんと判断した。
人を優先した。
損失まで自分で引き受けると決めた。
それでいい。
そういう意味だ。
たぶん。
「お母様」
エステルが小声で聞いてきた。
「お祖父様の『良かった』は、何が良かったのです?」
「……いっぱいよ」
「いっぱい?」
「ええ」
お兄様がこちらを見る。
「分かるのか?」
「だいたい」
「母上ほどじゃないだろ」
「それは無理」
母が楽しそうに笑った。
◇
昼を少し回った頃。
今度こそ、本当に帰る時間になった。
玄関前に馬車が並ぶ。
お父様がレオニスと短く言葉を交わしている。
母はエステルを抱きしめていた。
「また会いましょうね」
「はい、お祖母様」
「次に会う時は、もう少し背が伸びているかしら」
「きっと伸びていますわ」
「楽しみね」
お父様の番になる。
「お祖父様」
「何だ」
「お馬」
「ああ」
「約束です」
「忘れない」
エステルが笑う。
そして。
「カイル伯父様」
「おう」
「またお仕事をしているところを見せてくださいませ」
「…………」
お兄様の顔が、分かりやすく緩んだ。
「いつでも見せてやる」
「格好つけないの」
「お前は黙ってろ」
「さっきまで『仕事だからな』って言ってた人が?」
「ミレーヌ」
「何?」
「最後くらい兄を立てろ」
「嫌」
「即答かよ」
エステルが笑う。
レオニスも口元を緩めた。
「義兄上」
「何だ」
「忘れ物は」
「ない」
「本当に?」
「子供じゃないぞ」
「昨日、手袋を客室に忘れていた」
「……あれは」
「今朝、セリーヌが見つけた」
「レオニス」
「何だ」
「そういうのは黙って送り出せ」
「事実だ」
「お前、外では本当に感じ悪いくらい完璧なのにな」
「義兄上に言われたくない」
「私は外でも完璧だよ」
「お兄様」
「何だ」
「それ、自分で言うと台無しよ」
「うるさい」
母が馬車へ乗る。
お父様も続く。
最後にお兄様が足をかけて。
ふと、こちらを振り返った。
「ミレーヌ」
「何?」
「無理するなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「帰って!」
「はいはい」
笑って手を振る。
馬車が動き出す。
エステルが大きく手を振った。
「お祖父様! お祖母様! カイル伯父様! また!」
窓から母が手を振る。
兄も顔を出す。
お父様は――。
たぶん。
手を上げた。
小さすぎて分かりにくい。
馬車が門を抜ける。
見えなくなるまで、エステルは手を振っていた。
◇
「静かになりましたわね」
屋敷へ戻る途中。
エステルが言った。
「そうね」
昨日までが嘘みたいだ。
いや。
昨日から一日しか経ってないけど。
「お母様」
「何?」
「カイル伯父様は、本当に格好いい方なのですね」
「そうね」
素直に答えた。
エステルが少し驚いた顔をする。
「否定なさらないのですか?」
「しないわよ」
「いつも喧嘩しているのに?」
「それとこれは別」
兄は兄だ。
鬱陶しい。
口うるさい。
余計なことまで覚えている。
すぐ私を子供扱いする。
でも。
「格好いい時は、ちゃんと格好いいわ」
「では、お母様はカイル伯父様がお好きなのですね」
「…………」
昨日も似たようなことを聞かれた気がする。
「家族だからね」
「はい」
「ただし、本人には言わないで」
「何故です?」
「調子に乗るから」
「分かりました」
エステルが真剣に頷いた。
よし。
娘との秘密が一つ増えた。
「奥様」
少し後ろを歩いていたセリーヌが言った。
「何?」
「先ほど、カイル様がお帰りの際に」
「うん」
「『ミレーヌが私のことを褒めるようなことがあれば、手紙で知らせてくれ』と」
「セリーヌ!!」
エステルが吹き出した。
レオニスが空を見た。
私は。
遠ざかった馬車の方角を睨んだ。
「絶対に送らないで!」
「承知いたしました」
「今の間は何!?」
静かになったはずの屋敷は。
結局、その日も。
あまり静かではなかった。




